【3】 忌み人と禁書 2
鋭い舌打ちが洩れる。
漆黒の瞳を暗く光らせながら、男はうめくように呟いた。
「思い出さなくてもいいものを……」
数時間前のエリザベトとの対面は、男にとっては思い出したくもない過去を思い出させていた。
(俺のときはあれだけ泣き喚いていたのに、あそこまで、冷徹になれるものなのか……?所詮はエルゼもグローリアの女王ということか……)
あっさりと隼人の名を封じると言った「女王」の姿に、男は動揺したのだ。
(五年前はまだ、女王になったばかりだったからな)
連鎖的に、戴冠式を挙げたばかりのエリザベトの姿を思い浮かべる。あのときはまだ儚げで、女王など務まるのかと、そう危ぶんだものだったが。
「たった五年で、随分女王らしくなったものだ」
隼人が男の留守中に訪ねてきたことを伝えようかと館を出たはいいが、再び忍び込んで女王に会うのも骨が折れる。急に嫌気が差してきた。
身体まで重くなる。
考えてみたら、過剰労働もいいところだ。
それでも、休んでいられない事態であることも事実なのだが……。
「忌み人か……名を封じられることが、ここまで拘束力のあるものだとはな…………」
突然、目の前に人が現れた。
お互いの鼻先がぶつかるのではないかと思われるほど近い。
男は反射的に身体を捻ってかわしたが、相手はバランスを崩してよろめいて転んでしまった。
本当に突然だった。男が歩いていたのは庭園の外れである。ぱらぱらと人の姿はあったが、男にぶつかるほど近くに人はいなかったはずだ。
男は真っ直ぐ前方を向いて歩いていて、その視界には人影など全く入っていなかったのだが。
確かに考えごとに集中していたが、周りが見えなくなるほどではなかったはずだ。
そう思いながら相手が立ち上がるのを助けようと手を差し出し、思わず苦笑する。
「またあなたか」
ぶつかりそうになった相手は、大賢者ヴァイゼ=ライヤだったのだ。
ライヤも驚いたように男を見、そして笑いかけてきた。
「何か御用でしょうか?」
つまり男は、大賢者の庭である『彷徨える庭』に、また入ってきてしまったのだ。
肩を竦める。
「残念ながら、今度も特に用はない」
不思議そうに首を傾げたライヤだが、その言葉の意味に思い当たってあっけに取られた。
「……また、ですか?」
「……そのようだ」
しばらくの間、お互いの顔を呆然と見ていたが、やがてライヤが小さく吹きだした。
「よっぽどこの庭から好かれているんですね」
「はた迷惑な話だ。王宮の庭園を歩くたびにこれでは、どこにも行けない」
「どこかへ向かう途中だったのですか?」
この言葉に、男は何故か顔をしかめた。
「いや、嫌になっていたところだから丁度良かったのかもしれない」
「……はあ」
ライヤには男が言っていることは良くわからなかったが、とりあえずうなずく。
「時間があるのでしたら、今度こそお茶にしませんか?すぐそこに私の庵がありますから」
「……そうだな、お邪魔しよう。あなたに尋ねたいこともあった」
「先ほどもそんなことを言っていましたね。――ダンカンに邪魔されましたけど」
そんなことを言いながら、二人は連れ立って歩き出した。
ライヤの言うように庵はすぐそこだった。
大賢者が住む場所としてはあまりにも小さく、そして粗末だった。
こぢんまりとした平屋建てで、外見から見ただけでははっきりしないが、部屋数もほとんどなさそうだ。
外壁には装飾の類は全くなく、雨風が凌げればそれでいいという、実用一辺倒であることがわかる。丈夫そうに見えることが唯一の救いだ。
庵の前に置かれた円卓と椅子も、手作りのような無骨さがある。
慎ましやかなその佇まいに男が密かに驚いていると、ライヤがその椅子を勧めてきた。自身も腰を下ろしながらくすりと笑う。
「びっくりしたでしょう?あんまりにも粗末で」
「……いや」
「お世辞はいりません。かくいう私も、初めてここを見たときは絶句したんですから。こんなところに住むのか!ってね」
大袈裟な仕草で両手を広げる。
「なるほど……「世捨て人はあばら屋で十分」か」
「ああ、そのとおりです。上手いですね」
両手を合わせたライヤだが、男は首を振った。
「俺の言葉ではない。――二代前の大賢者が書の中でそのように表現していたので」
ここで男は、あることを思い出した。
「そう、それも気になっていたのだ。ヴァイゼ=ライヤが書を著さないのは、何か意味が?」
ライヤは何故か苦笑して立ち上がると、庵の中へ消えていった。
茶器を一揃え持って戻ってきたライヤは、深く考え込んでいるようだった。庵の前を彩る小さな花々に眼をやりながら、やっと口を開いた。
「私が、本を書かないのは、この髭と同じなんです」
「大賢者になれなかった賢者の面々に遠慮しているということか?」
「いえ、遠慮しているつもりは……」
「では何故?」
「私には、ヴァイゼと呼ばれる資格は、本当はないんです」
不思議に静かな声だった。
風景に向けられたままの硬質な青銀の瞳にも、感情の波は見えない。
「――……俺が聞いていいことなのだろうか?」
躊躇していると言うよりはライヤを気遣っているような表現に、微かに笑みを浮かべる。男の方に向き直り、穏やかな表情でうなずいた。
「ええ。グローリアの方以外に、聞いてもらえたほうがうれしいので」
「――私がまだ、元老院にいた頃のことです。そのころの私は、知識を得ることに夢中でした。がむしゃらに勉強して、賢者の方々を捕まえてはところ構わず議論を持ちかけて……。賢者の末席に名を連ねたときは本当にうれしくてうれしくて……。それでも自分が大賢者になるなど、考えもしていませんでした」
「…………」
「何故なら……ヴァイゼを戴くはずの人物が、別にいたんです」
ライヤはぽつぽつと、決して焦らずに話し続ける。
男は思慮深い眼でライヤを見たまま、ひっそりとしていた。予想外のことに戸惑わなかったといえば嘘になるが、ライヤの言葉を遮る気はさらさらなかった。
「あなたも知っているでしょう?賢者ハンスを」
だから同意を求められればうなずき、先を促すために言葉を綴る。
「女王エリザベト――そのときはまだ王女だったが――の、婚約者だった人物だな」
「彼は当時十五人いた賢者の中で最も若く、最も優秀でした。百五十年の間空席だった大賢者の椅子に座るのは、彼しかいないと、私たちはいつも夢中になって話していました」
「確か二十歳前にはすでに、ハンスを大賢者に推す声が出始めたのだったな」
「そのとおりです。賢者ハンスは十五にして賢者と呼ばれるようになり、二年後には彼に敵う者はいなくなりました。それだけ若くして賢者となったのに全く偉ぶるところのない人で、とても人気がありましたよ。うるさ型の老人とも上手く付き合って……。私のことを何故か気に入ってくれましてね。親友だとまで言ってくれた……。誇りでしたよ」
「…………」
「賢者ハンスは、たった一言で真実を言い当ててしまうことができました。他の人たちが何万と言葉を重ねても、ハンスの一言には敵わなかった。彼が言った言葉以上にそれを的確に表現することはできないんです。それに先読みも得意で……。あなたは賢者の能力がどういったものか、知っていますか?」
「過去の出来事を知り、その知識から時間の流れを感じ取って、世界の行く末を見定めることができる能力だったかな。大賢者となると、それが予知能力と思えるほどに的確で正確になると聞くが」
ライヤの瞳に感嘆の色が浮かぶ。
「さすがですね。完璧です。――そう、彼の先読みの力は当時すでに素晴らしく、今の私でも敵うかどうか……。この『彷徨える庭』にもほぼ自由に入れるようになっていたようですし……。ですが…………」
ライヤは嘆息すると、冷めてしまった茶器の中身を交換する。
入れなおしたお茶を美味しそうに飲んで、少しだけ話の方向を変える。
「彼が王女様と婚約したときの驚きといったら……。普段は陰気なほどに静かな元老院の中が、蜂の巣をつついたような騒ぎでした」
「そうだろうな」
容易に想像できて、男も微笑する。
「美女と野獣もいいところだと、大騒ぎです。王女様であられた当時から、非常にお美しい方と評判でしたから。大賢者になることが決まり、美しい婚約者はでき、そのときが、間違いなく彼の最も輝いた時期でした」
「…………」
男はずっとライヤがなかなか言い出さない言葉を待っていたのだが、どうやらそれはライヤのほうも同じだったようだ。自分では言い出せない言葉を男が言ってくれるのを待っている。
そのことを正確に把握して、男は嘆息した。
「だが、彼は大賢者にも、美しい姫の夫にも、なれなかった」
「……そう、です。――……理由を知っていますか?」
「世間一般には、病死と」
「彼は風邪ひとつ引いたことのない人でしたよ」
特に感情の篭らない声でそう言う。深々と息を吐いた。
「彼は、大賢者になるために必要な最後にして最大の条件を、満たせなかったのです……」
ライヤは茶菓子を口に入れ、何杯目かになる茶を飲み干した。
「世界には多くの禁書がありますが、特に厳重に存在を隠された書が四冊あります。一般の人々はおろか、禁書に敏感な元老院の者たちでさえ、存在すら知らないという四書。――森長殿は持っているのでしょう?あかがね色の本を」
「……ああ。そして青の書は、大賢者が持つものだな」
「ええ。四書の中では最も穏やかな書ですから、他の三冊と比べて影が薄いのですが……。大賢者が保持しなければならない青の書は、今から八年前に百五十年の眠りから覚めました。……そしてそのとき、人を一人、殺したんです」
「……それが」
「賢者ハンスです」
空は素晴らしく晴れ渡っていたが、ライヤには曇天よりも暗く見えた。




