【3】 忌み人と禁書 1
その部屋は荘厳な光が支配していた。どれほどの広さなのか、光が邪魔をして果てがわからない。四方のどこを見回しても壁が見えない。
香炉からは絶えずふくよかな香りが隅々にまで広がっている。
ステンドグラスが色鮮やかに香りよい空気を染める。
この様を人は、柔らかな慈愛に満ち溢れた素晴らしき芸術というのかもしれない。
神の御許に許されたような神々しさよと、泣くのかもしれない。
だが、子どもには地下牢と大差ないように思えた。あたりに充満する香りも、鼻が曲がるような肥溜めの匂いに等しい。
神の威光も芸術の妙さも、子どもの心をちらとも動かせなかった。
絶望の淵を覗いて来たかのように沈んだ瞳にはわずかな光も見出せない。その瞳を覗き込む者があったならば、きっと深い憂いに心を食い破られるだろう。そう思わせるほどに、そこに潜む闇は深かった。
その子どもは、後ろ手に縛られたうえに大人二人から両肩を押さえつけられていた。
背後にまわったもう一人が、慎重に子どもの暗い瞳を布で覆う。
さらに猿轡を噛まされ、見ることも話すこともできなくなってしまった。
これでは耳しか自由にならない。
子どもを、何故ここまで厳重に拘束するのだろう。大人が数人がかりで年端も行かない子どもを取り囲む様子は、異常を通り越し、むしろ滑稽ですらあった。
そんな状況でも、その子どもは必死に両足を踏ん張って立っていた。昂然と顔を上げて、見えない眼で何かを睨みつけるように。
ふいに強く肩を押される。それでも何とか立っていようと頑張ったが、無理やり跪かされてしまった。後頭部を押さえつけられて、額が冷たく固い床にぶつかる。
無駄だとは思いながらも何とか自由になろうともがいていると、前方の高い位置から声が降ってきた。
「――よ、忌まわしき力に魅入られた者よ」
冷徹なその声は音自体が力を含んで、唯一自由になる耳を切り刻むかのようだ。
思わず上げたうめき声は、噛まされた布に吸収されて自分の耳にも届かない。
凍りつくかのような冷たさに性別すらわかりかねるようだったが、子どもにはそれが女のものであるとわかった。
いや、声の主を、知っていた。
「そなたを今、解放しよう。そなたは名を封ずることを代償に、今後一切、忌まわしき力に煩わされることはない……――」
「やめてっ!」
可愛らしい声が割り込んできた。
口上を遮られた女が、何事か言っているようだが子どもにはわからない。ただ自分を押さえつけていたいくつもの手がなくなり、目隠しと猿轡、そして手の拘束も外された。
解放されて、安堵の息を吐く。
「大丈夫?」
訊ねてきたのは見知った顔だった。
子どもよりもいくらか年上に見える少女が、泣きそうな顔で子どもを見ている。大きな空色の瞳が心配そうに揺れていた。
うなずいて礼を言おうとしたときだ。
「娘が名を呼ぶでない!」
頭上から耳をつんざくような声がした。
仰ぎ見ても光の靄が邪魔して輪郭すらはっきりしない。だが、どうやら動転しているらしい。
姿なき声が、娘を呼ぶ。
「姫、こちらへ来なさい」
「いやよ」
「姫」
「いや!どうしてわたくしのお友達にひどいことなさるの?」
この年頃の少女が母親に抗議することはとても恐ろしいことに違いない。震える声で、それでも精一杯抗議する。
だが、母は娘の非難など全く頓着しないようだ。先ほどの取り乱しようはなんだったのか、これ以上ないほど平坦に指示を出す。
「たれぞ、姫を連れてゆけ。そこな子どもを取り押さえよ」
どこに人が隠れていたのか、ばらばらと二人を取り囲む。
姫は捕まれそうになった手を思い切り振り回して逃げ惑う。子どもの背中に回り込んで叫んだ。
「いやだったら!こんなひどいことなさるお母様なんか嫌いよ!」
ここで、子どもが初めて口を利いた。
「母親のことをそんなふうに言っちゃ駄目だよ。エ……」
「名を呼ぶでないと言うたはずだ!」
「うるさい、女王。邪魔するな。――それとも、あんたのことも名で呼ぼうか?」
軽い鈴の音のように愛らしい声だ。だが、紡がれた言葉に潜む力は尋常ではない。底冷えするような凄みは、子供が出してよいものではなかった。
「ひっ!やめい!」
姿を見せない女王はあられもない悲鳴を上げるも、それを恥じたのか、取り繕うように声高に命令する。
「早う取り押さえよ!」
それを受けてじりっと近寄ってくる数人の男を、子どもはしかし、物憂げに見やっただけだ。
「……面倒くさいな」
うんざりと呟く。
暗い瞳がここで初めて不穏に輝く。
正面から子どもを捕まえようとした男と眼を合わせる。その瞬間、その男は魅入られたように動けなくなった。
暗く光る瞳に吸い寄せられるように眼が離せなくなる。
砂のような音を立てて体から力が抜ける。自由にならない身体に恐怖して、全身から汗が噴き出した。
男が恐慌状態に陥り、悲鳴を上げそうになったとき、子どもがふっと笑った。
「華胥の国で遊んでおいで」
そっと、いとおしむように。
たったそれだけのことでその男はコトリと倒れた。そして動かなくなる。あまりにもあっけなく崩れ落ちてしまった仲間に、他の男たちは色めき立った。
「油断するな!」
「小僧、何をした!」
口々に叫ぶ男たちを、子どもは見渡す。
「心配しなくていいよ。ただ眠っただけだから。それとも――……永遠に眠りたい?」
囁くようなその音は芳しいほどで、駆けつけた男たちは一瞬うなずきそうになる。
だがその瞬間、彼らはみな、死神の鎌が己の首にあてられるのを確かに見た。
ひんやりと冷たい刃物の質感を感じた。
てんでの方向に飛び退る。だが鎌は首にあてられたままだ。どう足掻こうと逃げられない。
自分たちの背後には、何もいないのに。
「あまり動かない方がいい。手元が、狂わないとも限らないから」
その言葉に男たちがたじろぐ。
「何をしておる!」
女王の檄も、今度ばかりは効果はなかった。男たちは子どもから距離をとったまま動けない。
彼らを眼だけで牽制しながら、子どもは自分の後ろに隠れたままの姫に向かってささやく。
「戻ったら?今なら罰も受けないはずだ」
「いやよ!逃がしてあげるって決めたんだから!」
駄々をこねるような言い方に、子どもは子どもらしからぬ笑みを浮かべた。
「……我儘なお姫様だ」
そして呟いた言葉も子ども離れしていた。
苦笑して、面倒くさそうに硬直している男たちに意識をやる。
「あんたたち、邪魔だな。……華胥の国に行きなよ」
ばたばたと男たちが倒れる。
これでこの空間で立っているのは、子どもと姫、そして靄の向こうの女王のみだ。
子どもはやっと静かになったとばかりに、女王に向かって問う。
「ここでたとえ逃げても、俺を捕まえるまで止めないんだろう?」
「捕らえるのではない。自由にするのだ。そなたの無意味で忌まわしい力を封じて」
「上手い言い方だ。だけど、俺は俺の力を無意味とも忌まわしいとも感じていないし、不自由も感じていない。それに、力を封じなければ得られない自由なら、そんなものいらない」
「歯向かう気かえ?」
じわりと言う女王に、子どもは鼻を鳴らす。
「そして俺を悪者にするのか。ご立派だな。――手前勝手な理論を振りかざして俺を騙そうとするのはよせ。……俺が怖いのだと、素直にそう言えばいい」
「――……弁の立ちすぎる子どもは嫌いだよ」
「気が合うな。俺も、口先で丸め込もうとする大人は嫌いだよ」
靄の向こうで怒りに震えているのが、声を聞かなくともわかる。
尋常でなくなってきた気配に、姫が不安そうに子どもの服を掴む。
「ねえ、今のうちに逃げようよ」
「無理だよ、どうせ逃げられない」
「どうして?森に逃げれば……!」
「だから無理なんだ。女王は森長を引き込んだ」
子どもの声が激情を押し殺すように深く沈む。
「俺をここに連れてきたのは森長なんだ。あの人も、俺の名を封じることに賛成している」
「そんな……。じゃあ、どこにも逃げられないの?」
大粒の涙が空色の瞳からこぼれる。
「もう……遊べないの?――と?……そんなの駄目よ。いやよ、お母様!」
見えない母に向かって叫ぶ。
だが返事はなかった。
しゃくり上げながら泣き崩れてしまった姫を、子どもは悲しそうに見ていた。
しばらくそうしていたが、やがて不敵な笑みを女王に向けた
「女王カタリーナ=グロリエ」
子どもは声に重い憂いを乗せ、女王の名を呼ぶ。気配のみの相手は答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。
「あんた、女王の器じゃないよ。さっさと引退したほうがいい」
「――……すぐにその力、封じてあげよう」
押し殺した声に、子どもはあっさりとうなずく。
「いいさ、逃げられないことを知っているからゆっくり封じればいい」
「ほ、殊勝なこと」
さらに続けようとした言葉を子どもが遮る。
「ただ、俺の忠告だけは忘れない方がいい」
「忠告じゃと?」
「そうとも。――女王カタリーナ。俺が名前を呼ぶだけで、あんたはほら、動けなくなる。でも、エルゼはそうじゃない。あんたの娘は憂いに捕まらない。――その違いが何を意味すると思う?」
「…………」
「エルゼ、聞きなよ。近く、カタリーナはあの象牙色の書物から見放されるよ」
びくんとエルゼの肩が揺れた。
涙でぐしゃぐしゃになってもなお可愛い顔をあげて子どもの名を呼ぶ。
「そ、それ、――本当?お母様、女王陛下じゃなくなるの……?」
姫の顔が恐怖に歪む。
「このままなら」
「……何故、汝にそのようなことがわかる」
「それすらわからなくなっていることがすでに、女王としての限界を示しているんだよ。後何年持つか、楽しみだ。――それとも賭けるか?」
くつくつと笑い。
そして、嘆息をこぼす。
子供はひっそりと瞼を閉じた。
「――さあ、俺の名を封じるんだろう?それともさっきみたいに大勢の人間に取り押さえられて、眼も口も封じられなければ何もできないのか?」
嘲るようなその言葉に、とうとう女王は怒りを爆発させた。
「人を小馬鹿にするのもいい加減にせい!忌み人となってから、今日この日の暴言、深く悔やむがよい!」
「いや!やめて、お母様!」
エルゼが悲鳴を上げる。
それでももう、子どもは眼を開かなかった。少女の悲鳴ももう届かない。
女王が発する呪いのような言葉は身を刻むようだったが、それでも身じろぎひとつしなかった。




