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髪も梳いて顔も洗い、エプロンやワンピースもきちんと直した。身嗜みが整うと、心持ちがだいぶ違う。
小川の傍に座って、膝を抱えるアリス。帽子屋は少し距離をとりつつ腰を下ろすと、改めてアリスへと視線を向けた。
「少しは――気が晴れましたか?」
「うん、ありがとう。ねえ、私、何が足りないんだと思う? 私よりシェフの人でも何でも、どうにでもなったでしょう。どうして私だったのかしら?」
「気になりますか? 王のことが」
「それはもちろん……。最初は合格することや生活のことに一生懸命だったけど、こうも不合格が続けば気にもなるわ。私、何も知らないもの」
「本当に?」
帽子屋が聞き返すほどのことなのか。確認するような問い返しに、アリスは心の内で少し違和感を覚えるも掴み損ねてしまい、頷くだけに終わる。
「ええ、魔女と人間の間の子というのは有名な話だから、眠り病に特別なリンゴが必要なのも分からなくはないわ。お城でどういう話があったのか想像もつかないけど、ここで出された条件はいわゆる、試験みたいなものでしょう? 親が子供を心配するのは当たり前だし、そういう風に考えれば条件自体はあってもおかしくない内容だもの」
「親子ゆえの心配から来る条件、ですか。――当たらずとも遠からずといったところのようですが」
「帽子屋さん、何か言った?」
帽子屋が反復し、無意識に呟くもそれがアリスに聞こえていないようだ。
アリスに医学的な知識はない。城には国一番の医者も魔法使いもいる。そんな人たちが出した答えなら、そうなのだろうと納得するほかはない。
帽子屋は軽く頭を振った。
「いいえ。ただ、あなたにとって作ったお菓子を一番に食べてほしい人は誰だろうかとは思いますが」
「一番に食べてほしい人……」
「そうです、最初に菓子作りを覚えようと思ったのは何故ですか?」
沈黙が落ちれば、風が葉を揺らす音と小川の流れが変わらず聞こえる。
帽子屋の問いにふとある光景がアリスの脳裏に浮かんだ。一番、最初に作ったクッキーを食べてくれた男の子がいた。顔も名前も今では覚えていないけど。
「……昔ね、名前も覚えてないし場所もはっきりしないんだけど、男の子にクッキー作ってあげたことあるの。リンゴジャムを生地に混ぜたやつね。そういえばここ、男の子とよく会ってた場所と似てるわ」
アリスが十歳くらいのことだ。まだ郊外に別荘を持っていて、数少ないながら使用人がいた頃。避暑で訪れた別荘の近くの森で男の子に出会った。
「あの時も……確かウサギを追いかけたのかしら、私。ウサギを追いかけて、男の子を見つけて……あの子、リンゴを食べてたわ。それを見ていた私に気づいて、「食べる?」って言って差し出してくれたのが最初だったはず。それから何度かその森へ行くと、いつも居たの」
他愛のない話をした。ウサギを始め、この森と同じくバンビやリスもいた。不思議と心地良い空間だった記憶がある。
「そうだわ、クッキーあげたのも私が王都の屋敷へ帰らなきゃならない日だったの。とっても美味しそうに食べてくれて、美味しかった、また食べたいって言ってくれた。お礼にってペンダントをくれて、それから――」
この国で一番のお嫁さんにするから。
そんなことを言われた覚えがあるが、たかが子供の約束。口にするのも恥ずかしくて、アリスは口ごもってしまった。
しばらくアリスを見ていた帽子屋が首を傾げると、慌てたように取り繕う。
「とにかく! ありがとう。少し力が入りすぎてたってことよね」
ドレスの上からそのペンダントに触れる。三日月というには少し歪な飾りがついている。片割れがあって、それと合わせるとハートの形になるのだ。片割れもあの男の子が持っているはずだ。
アリスの話をじっと聞いていた帽子屋が、ようやく口を開く。
「……菓子も他の料理も、込めた心が伝わるものだと思います。たかがクッキーひとつですが、きちんと心を込めたなら伝わるものですよ」
「うん、もう一回やってみる」