App.ブルターニュ
ブリトン人のブルターニュへの移住は、記録上は4世紀末から始まっていた。初期のそれは小規模で、新たなキリスト教の布教者たちによって導かれたという。
移住の規模は5世紀中頃になって大規模になるが、それはサクソン人のブリテン島移住時期と重なっていた。しかし移住者はアングロサクソンの定住の進む東部や南部出身ではなく、明らかに南東部や南ウェールズの出身である。
彼らは放棄されていたガロ・ローマのヴィラへ新たに定住する。その規模は10-25万人程度で、100万人を越えていたかもしれないブルターニュの住民よりもずっと少なかった。定住は北西部沿岸──将来的に三王国の成立する地域に集中していて、南東部の方では比較的多くなかったようだ。
ガリアは元々カエサルによって征服されたケルト人の土地だった。制圧直後には反乱はあったものの、それ以降、軍団の力が皇帝を上回る3世紀に入るまで、また地主がコロヌス制に基づいて小作人たちの土地への縛り付けを強化する3世紀中頃までは平穏だった。
260年、重税に苦しんでいた小作人たちは、ガリア人貴族からなる大土地所有者に対して反乱を起こす。そして小作農たちが異民族を味方に引き入れると、ローマ帝国からはポストゥムスが派遣された。彼はガリア帝国を築いて独立。アウレリアヌス帝によって273年に崩壊するまで異民族の流入を防ぎ続けた。
270年代には古い大土地所有者層の移行が見られる。ガリアを離れた土地所有者は一部を除いて戻ってこなかった。古いガリア貴族の伝統は失われ、イタリアから来た貴族によって町にはバジリカや公共建造物が建てられるようになる。
続いて284年、ロワールの農民反乱に対して戦っていたカラウシウスは、マクシミアヌス帝の命令で、海賊──フランク人やサクソン人と記述される──討伐に派遣される。だが、カラウシウスはブリテン島に送られていた第20軍団に持ち上げられて皇帝僭称者となった。
彼の支配領域は、ブリテン島だけでなく北ガリアにまで及んだ。296年に反乱は鎮圧される。ブリトン人の最初の流入はもしかしたらこの時期に見られた。
ディオクレティアヌス帝の時代、かつてポストゥムスが自らの防衛のために築こうとしていた北ガリアの沿岸要塞は、農民反乱や海賊対策のための要塞として再構築された。要塞はベルガエからアルモリカ(ブルターニュ)に至るまで各地に建造され、守備隊にはフランク・サリ族の傭兵が配置される。
都市は内乱のために衰退しつつも、交易可能な程度に維持される。市壁が建てられるようになり、鉄器時代のヒルフォートの一部は利用され始めた。
4世紀中頃からフランス北部でフランク人の定住は進んだが、それ以外のヴィラでは必要とされていた大土地所有の再生が加速する。そして北東部におけるサクソン海賊による小規模な襲撃よりも、再発を繰り返す農民反乱がガリアを衰退させていた。
帝位を求めるブリテンの僭称皇帝たちは、4世紀中頃から5世紀初頭にかけてブリテン守備隊を率いてガリアにやってきた。マグヌス・マクシムスはガリア人とブリトン人からなる軍団を率いてライン下流域に上陸したが、イタリアのアクイレイアで、ゲルマン人軍団を率いるテオドシウス1世に敗れて死んだ。またコンスタンティヌス3世はブーローニュに上陸し、ガリアで西ゴート族と戦った。
5世紀のガリアには、大規模なゲルマン人──西ゴート族、ブルグント族、アレマンニ族の流入があった。15-40万人程度とされる彼らの移住は、従来のガリアのケルト人人口600-700万人より遥かに少ないものであり、さほど破壊的でない彼らの移住において、社会と文化の多くはブリテン島以上にローマ時代のものが引き継がれる。
ガリア東部の大土地所有者は合意の下に自身の土地や奴隷の半分をブルグンド族に引渡して、彼らの殆どはガリア南部へと移り住んだ(418年)。そしてスペインに定住地を得ていた西ゴート族の南ガリア進出に際しても(460年頃)、元の地主たちを駆逐することが無かった。またすでに定住していた北ガリアのフランク人は彼らの社会制度を維持しつつ、ローマの文化を導入していた。
5世紀のアルモリカはゲルマン民族の移住に関わらず荒廃していた。ゾシムスはアルモリカの行政機構が410年に駆逐されたと書く。長い農民反乱は5世紀初頭のアルモリカで発生していて、無政府状態は10年近く続いた。
437年、アエティウスはアルモリカにおいて先のものとは別の農民反乱を鎮圧する。この勝利に続いてブリテン島のブリトン人はアエティウスへ手紙を送り、そのときより大規模な入植を果たした。農民反乱のために生じていた多くの耕作放棄地と地主の不在は、彼らの移住のために有利に働いただろう。
そしてここにブルターニュが生まれる。
アルモリカがブルターニュという名で呼ばれるようになるのは6世紀後半からだが、ブリテン島との長い関係は青銅器時代にまで遡る。考古学的証拠によって証明された両地域間の古く長い交易は、ローマ帝国の崩壊を経ても存在し続けた。
ブリトン人の故郷ブリテン島南東部との交流において彼らの輸出品であるワインは北フランスであるにも拘らず生産される。ワインは帝政ローマ初期にはその生産が始まっていて、この移住期間にもエールに移行するようなことは無かった。そしてローマ時代に小麦からライ麦に移行していた穀物生産は持続した。まだ蕎麦は無い。
ガリアの陶器生産は3世紀の危機のときに失われたが、その代わりにガリツィアや東地中海からの陶器輸入は5世紀中頃から再開される。ガリツィアはスエヴィ王国の領域だったが、その傘下としてのブリトン人の定住地はブルターニュより少し遅れて現れる。
他にも青銅器時代の錫鉱山はローマ帝政初期と変わらぬ技術によって採掘が続けられ、沿岸部全域での塩の生産も継続した。
アルモリカの住民は4世紀頃には内陸の高地付近やブルターニュ南部や東部に定住していた。彼らの存在によってブリトン方言とガロ・ロマン方言は混合し、従来の文化は継承される。そして交易も彼らの住む町が維持されていたために可能であり、貨幣鋳造も内陸部にある町で行われる。とはいえ5世紀において町がむしろ拡張する傾向を示したのは、ブリトン人が訪れたことが大きいだろうか。
ローマ時代からの文化的継続性を示すブルターニュにおいて、ブリテン島との関連を示すのは地名、そしてキリスト教である。初期の王国ドムノニアはデボンから、コルヌアイユはコーンウォールの名から採られた。移住者たちの故郷だったために。
カトリックの布教者がブリテン島南東部とブルターニュ、アイルランドを行き来することは頻繁に有った。また教会はブリトン人の流入と同時期にブルターニュ近隣の都市レンヌ、ナント、ヴァンヌにおいて建てられ始める。レンヌ司教アテニウスは460年代の評議会に名が記録され、ナント司教、ヴァンヌ司教も5世紀中に現れた。
新たな定住は、大土地所有者による支配を再び作り上げる。
ブルターニュの領主はもしかしたら早くに現れた。明らかにガロ・ローマ人ではなく、ブリトン人を君主として。4世紀には現れていた伝説上の王を無視するとしても。
イングランドとブルターニュとの交易は少なくとも6世紀まで継続する。労働力のための奴隷は輸入され、両地域においてローマンブリテン社会の残照は共有された。
つまり旅立った者も完全に故郷を放棄したわけではなく、互いの連絡はあった。ローマ政府の関与も無く、その後ろ盾を必要としないような有力商人が育っていない当時、長距離間の商取引を主導するのはブリテンにおいて僭主であり、それ故にブルターニュ側にも君主と看做される者は居たかもしれない。
451年の戦いにおいて、ブリトン人は他の多くの異民族と共にアエティウスの勝利に寄与した。ブリトン人がアエティウス自身にブリテン島救援を求めてからほんの5年ばかりしか経っていないし、ブリテン島の軍隊は未だサクソン傭兵に頼っていたのだから、彼らはブルターニュの人々だっただろう。つまり大規模な入植が始まりつつある頃、彼らはローマ帝国に味方する。代表者の存在は不明だが。
そして454年の戦いとアエティウスの死によって西ヨーロッパでのゲルマン人の覇権が達成され、フランク族の大土地所有者と結託したローマ帝国の将軍アギディウスがガリア北部を占めたとき、彼らの領域とは領域を接していたにも拘らず、両者の間に戦争が起きることは無かった。
しかし協力的な関係ははっきりとは見えない。記述に有る友好関係はむしろローマ本国との間に有った。
ヨルダネスの記述によれば、470年頃、ブリトン人の王リオタムスは、アンテミウス帝の要請を受けて、12000人の武装したブリトン人を率いて西ゴート族の王エウリックと戦い、撃退された。
彼らがブリテン島から来たのか、それともブルターニュから来たのかは明白でない。どちらにせよ彼らは船団を率いて海からやってきた。そして伝統的な錫の輸送ルートだったロアール川を遡上してフランス中部のブールジュを攻略するも、その南西にあるブール・ド・レオルで敗北し、ローマ帝国と同盟関係にあるブルグンド族の定住するリヨンへと逃れた。ブルグンド族の定住地はよく彼らに荒らされたという。
ブルグント族の定住地から地中海に出られるため、彼らが故郷に戻ってくる経路は有った。彼らがここから故郷──ブリテン島かブルターニュに戻ったという推定は、南東フランスに彼らの定住地の証拠が無かったために正当化される。
リオタムスは時折アンブロシウスと同一人物であるように看做されるが、通説では彼が大陸に進出した僭主もしくは、ブルターニュに定住する領主として扱われる。
ガリア貴族シドニウスは、460年代にブリトン人たちが奴隷を誘い込んでいるという下級役人の訴えを友人リオタムスへの手紙に書く。これは労働力を必要とする大土地所有者のいる当時のブルターニュであるから意味のあることで、それ故にリオタムスはブルターニュの大土地所有者に対して越権的な力を持っていたと推定された。
また6世紀後半にトゥールのグレゴリウスが記述したブルターニュ人によるガリア西部での組織的掠奪は、フランク王国によるブルターニュ侵略の根拠として書かれた。
ここでブリテン島東部の王国とブルターニュの三王国の名称上の関係性と継続的な交易の存在は二つを結びつけるが、両側の政治的な同一性は見当たらなかった。
特にフランク王国との関係については、ブリテン島の情勢とは無関係に進展していく。
フランク・サリ族は5世紀初期には北ガリアのトリーアに拠点を置き、フランク・リプアリ族はマース川よりも東に定住し、両部族は必要に応じてローマ帝国の傭兵として活動していた。彼らは海面上昇の影響で、5世紀中頃に定住地を南に広げる。そしてフランク・サリ族の傭兵たちは北ガリアの将軍アエティウスの下に置かれ、西進してきたフン族と戦った。
アエティウスの死後、イタリア辺りで色々あってわりと揉めて、とにかく書くのが面倒臭いが、ローマの将軍エギディウスがローマを出奔し、フランク・サリ族の定住地に出奔する。コンスタンティノープル帰りのフランク人キルデリックの薦めによって。フランク・サリ族の軍権はエギディウスが握っていて、北ガリアは共同統治された。彼らは463年、ヴァンダルと同盟した西ゴート族のガリア北上をロワール流域のオルレアンで撃退している。
469年、エギディウスの死とサクソンの襲撃という事態を受けて、軍権はアンジェのローマ貴族パウルス伯に与えられる。共同統治の間に莫大な財産を蓄えてフランク最大の土地所有者になって王号の与えられていたキルデリックでも、エギディウスの息子シアグリウスでもなく。
471年、シアグリウスは、キルデリックの保護下においてソワソンに拠点を置いた。それから暫くしてパウルス伯から軍権を引き継いだ──或いは奪い取ったキルデリックは、アラン族の進出を撃退している。
西ゴート族はその間、ローマ人を排除した統治機構を構築し始めていた。西ゴートの領域に飲み込まれたアキテーヌの諸管区は解体され、またアリウス派の彼らはカトリックの弾圧を始める。そして彼らは西ローマ帝国の軍勢を撃退してプロヴァンスを獲得した後、ロワール川を越えて北上した。
481年、キルデリックは死に、息子のクロヴィスがフランクの王を継いだ。そして484年、西ゴートの王エウリックが死んでアラリック2世が継いだのを契機に、
フランク族はソワソン管区に対して攻撃を仕掛けた。このときソワソン管区は西ゴートの傀儡となっていた。
2年間続いた戦いの結果、シアグリウスは西ゴート王国に逃亡し、ソワソン管区はフランク族の手に落ちる。ソワソンはフランク王国の首都に定められ、この時点でフランク王国はブルターニュと国境を接した。
490年、ブリトン人はロワール流域でフランク族と戦った。そしてブリトン人はクローヴィスに敗北する。ソワソン管区がフランク人の手の内に有るため、彼らはブルターニュから陸路を使って戦うことは出来ただろう。明らかなのはブリトン人側が侵攻したということである。
多分領地を荒らしに来たブリトン人を追い払ったのだろうが、ブリトン人の襲撃は組織的なものだから、必然的に協定は結ばれただろう。
このとき領域の戦いが激化することや国境線を変更するようなことは少なくとも半世紀以上発生しなかった。530年代のフランク王国とブルグンド族との交戦中には、ロアール上流のオルレアンにブリトン人の軍団が派遣される。彼らは明らかに川を遡上してフランクの守備隊として配置されていた。
この間にブルターニュの諸王国は成立し、その独立は長い間保たれた。
ブリテン島からの移民は6世紀後半まで続き、互いの通商もその頃に収束する。このときフランク王国とブルターニュ諸王国の間で戦争が発生していて、移住には多分適さなかった。




