04.ベイドン丘の包囲
ギルダスの記述を信頼する限り、ベイドン丘の戦いが発生したのは彼の生まれた485年前後。ブリトン人側の指揮官アンブロシウス・アウレリアーヌスについては、彼自身が気取らない性格の高潔な男で、彼の両親を含む高貴なローマ貴族が皆殺された後で生き残った最後のローマ貴族だったと書く。
しかし彼の名が大抵勝利のために作られる石碑の碑文という形で残っていないことは、彼が血統的な面を除けば、さほどローマ的でなかったことを示すかもしれない。勿論、性格を理由にしても良いが。
繰り返し聖書を引用するギルダスにとって見れば、彼が黎明期にあるキリスト教の擁護者として存在していて──少なくとも彼が厳しく批判するディオクレティアヌス帝のような弾圧を行わなかったとして──、良き貴族のように映ったのかもしれない。
ベーダの教会史はベイドン丘の戦いにおいて神の助けをより強調する。しかしアンブロシウスは祖先から信仰を引き継いだわけではない。考古学的証拠はブリテンのローマ市民の中でキリスト教が流行した事実と共に、5世紀末期まで地元民に伝播しなかったことを示す。後期ローマンブリテンで流行ったペラギウス派が429年のゲルマニウスの訪問によって異端扱いされたために、ブリテンのキリスト教は衰退し、異教が台頭したのは確かだった。
新たなキリスト教の信仰を齎した大陸やアイルランドからの来訪者の手によって、カイルウェントなど一部の町の中では後期ローマンブリテンの石造りの教会は再利用もしくは継続的に利用されていたが。
ギルダスはブリテンの聖職者や五人の僭主の腐敗を訴える。多分ギルダス自身見知っていただろうアンブロシウスの子孫についても、祖父にあった高潔さが失われていたと書く。
アンブロシウスがどういった高潔さを持っていたのか。
それは例えば五人の僭主たちの堕落の性質に反するものと見ることは出来る。彼ら僭主のキリスト教的な価値観に合致しない非道徳的な振る舞いは、妻を追い出し、その姉妹と私通し、そして同族の子供を殺した。これはブリトン人の一般的な家族制度というよりも王族内での権力闘争の類型だろう。だから僭主たちと対照的な存在としてアンブロシウスを見るならば、アーサー王のしたような不義は無かった。
対するサクソン人の指揮官が誰だったかは設定することが出来ない。だが、セドリックではないにせよ彼はサクソン人である。そして幾つかあるスウィンドン付近の定住地の族長の中から公選された代表者であり、もしかしたら4世紀頃、ピクト人の襲撃に関連してこの地域に必要とされて各地に配された傭兵団の二代目か三代目の子孫だったかもしれない。
通説を頼れば、サクソン人はハンプシャー南岸サウサンプトンの入り江から上陸し、街道を無視して素早く定住地を北に伸ばしていった。
アングロサクソン年代記にはヒルフォートを舞台にした戦いが幾つか記録される。508年に南岸の上陸地で、519年にはソールズベリー南で、527年にはさらに西部でセルディックがブリトン人に勝利したという。しかし次第に西方に進出していくこの記述は、ウェセックスの領域を示すためのものであり、初期アングロサクソン時代においてその証拠はなかった。また年代記の記述においてベイドン丘の戦いは無視されているし、実際のワイト島への初期定住はジュート人の手による。
異説は5世紀中頃エセックスに定住したサクソン人が、テムズ川を遡上してスウィンドンに辿り着いたと説明する。エセックスにおいてロンドン周辺に定住の証拠は存在するが、彼らの進出は見たところチルターン丘陵に差し掛かった所で停止する。
スウィンドンは後期ローマンブリテンにおいて、シルチェスターからバースに繋がるローマ街道上である。そしてちょうどこの辺りにはローマ軍団の駐屯地だったバーバリー城やサイレンセスターがあり、前者については当時はこの地域に幾つもあるヒルフォートの一つだった。セドリックが556年に勝利を得たと推測されている城で、それ以降のウェセックスの領域拡大に影響したというが、5世紀の定住自体はヒルフォートや駐屯地の存在にも関わらず、戦いの記録なしに行われる。
近隣の町々はローマ軍団の駐屯地の補給地という価値を失ったために経済的衰退の兆候を見せつつも継続していた。
金銭的或いはその他の事情によって発生した小規模な衝突は、時々歴史書に記録される程度の規模になっただろう。
アングロサクソンの戦士たちの一般的な数は、物資と人的資源の供給の規模から考えられた手持ちの資料の推定では一つの定住地につきたったの100人。封建制度でもなければ貨幣も無い世界で、武器や嗜好品の類が彼らの勤労の対価となる。
ローマ軍団を養っていたヴィラの農地がその必要性を失ってアングロサクソンの定住地に移行したとき、農地は大陸のゲルマン人集落と違い、ローマ時代のヴィラの農地区画がそのまま継承された。ローマ時代の農耕地はアングロサクソンの自由民の手にすることになり、共同体内の自由民(戦士階級に等しい)がそれぞれに必要量を生産するために、効率性は落ちる。また外縁の牧草地は維持され、森林部分が増加したようで、前者はそこが農耕地と違って共同体の共有地であり続けたために保たれ、後者には余剰生産の不要による必要耕作範囲の減少というよりも木材確保の意図があった。
しかし供給や補給の不足は、生産量の低下が主要な原因ではない。
問題は多分物資の輸送にある。アングロサクソンに一般的な川沿いの集落は出来る限り水運を利用していただろうが、交易町を所有していなかったから物資の集積や大規模な取引が出来なかった。
糧食は個別に農地から持ってこられた。そして大軍の動員があったとしても長期的な軍隊の維持は全く出来なかっただろう。
ブリトン人の兵士の数の推定は、どのヒルフォートを採用するかによって異なる。最初の章で提案した全てのヒルフォートは、アングロサクソンの定住の示されるウィルトシャー州スウィンドン周辺地域に存在するが、例えばそのうちで最も大規模なバッドベリーヒルフォートは標高160-170m(周辺の平地は80-100m)、約110m×110mの面積4ヘクタール。南西が緩やかな傾斜となっている丘陵に築かれていて、堀は見えない。バーバリー城は標高260m(周辺190-200m)で、広さは同じく4ヘクタール程度。リディントンヒルフォートは標高260-270m(周辺は180-200m)、面積は3ヘクタールほど。堀があり、南西から丘の尾根が伸びる。そしてソールズベリーのオールドサラムヒルフォートは、標高110m(周辺60-70m)、堀があり、1ヘクタール程度の狭さである。
このうちバーバリー城とオールドサラムヒルフォートにはポストローマ時代の占有に関する考古学的証拠は無かった。その他の例は州北部の場合は3-4ヘクタール前後、また南部には時折より広いものがあるがこちらはポストローマ時代の定住の証拠はない。となると、推定される地域におけるヒルフォートの守備隊は大体400人くらいになるだろうか。
こちらの補給物資は丘の上で包囲される側である以上、補充が利かなかったが、ヒルフォートの中にある倉庫群に蓄えられていたのだろう。飲み水は井戸か、ヒルフォート底部のすぐ近くを流れる小川によって確保されたようだ。
ギルダスはベイドン丘の「戦い」を「包囲」と書く。
ヒルフォートの戦いを攻城戦と看做すとしても、アングロサクソンの攻城兵器の証拠は見つからなかった。山城だったからという解釈は、日本の事情と重ね合わせることで平易な説明になる。条件は完全に一致するわけではないが。丘陵を越えるとか街道を無視するような定住傾向や、増加した森林、イングランド中央部の比較的勾配のある地形は、提案を補強するだろうか。あるいは人手や技術の不足が複雑な攻城兵器の使用を不可能にした。
木柵やテントのある陣営、そして堀を渡る木造の橋は築かれたかもしれない。
アングロサクソン人の典型的な編隊である丸盾を前面に構えた横隊によって投げ槍を防ぎつつヒルフォートまで迫ると、多分彼ら自身の槍を投げたり、スリングショットで牽制したり、城門を破城槌で抉じ開けようとしたり、手斧を使って斜面をよじ登ろうとしただろう。
対するブリトン人は、鉄器時代のヒルフォートを利用していたのだからそれと同様に鉄器時代──例えばガリア戦記に記述されるような防衛方法を採用したかもしれない。とはいえ夕暮れや夜明けに砦から出てきて敵陣を急襲するその戦法は、特に珍しいわけでもない。また多数で孤立した少数を取り囲むやり方は、馬を持たないサクソン人相手には多分とても有効だった。
継続性や必要性によってローマ時代から受け継がれた手投げ式投石器や小型の石弓が用いられた僅かな証拠はあった。しかし大型のものはローマ軍団の撤退と共に見えなくなる。
追撃に使えるかもしれない馬はブリトン人の側には有ったが、この地域のアングロサクソン人が定住地から完全に駆逐された様子は無い。
戦いはブリトンとアングロサクソンとの平和的或いは威圧的な講和によって終わった。
イングランド東部で流行った火葬と異なり、サクソン人の戦士の死者は殆どが土葬にされた。この傾向はハンプシャーやエセックス、ケントでも見られるが、ブリトン人の影響によって変化したと扱われる。彼らの墓に棺は使われず、槍や盾の副葬品が置かれた。時折発見される傷のある頭蓋骨には治療の痕跡があり、それは負傷者が見捨てられなかった可能性を示す。
またごく一部だけは火葬にされていた。古い制度を維持したがる高い社会階級の男性が火葬に処されたとよく言われるが、十分な証拠は無い。
ベイドン丘の包囲においてアンブロシウスはサクソン人に勝利した。
ベーダはベイドンの戦いの勝利をブリトン人の最初の勝利と書いた──ゲルマニウスの時代より先んじて行われたものとして。しかしギルダスは最後の勝利と書く。少なくとも6世紀に生きていたギルダスにとっては最後の勝利で間違いなかっただろう。
そしてこれを機にサクソン人の定住は、スウィンドン周辺の拡大からテムズ中流域への進出に移る。しかしスウィンドン周辺の定住自体も継続した。つまり勝利は決定的なものとはいえなかった。
アングロサクソンの定住形態は6世紀中頃から変化し始めた。
税制によって自由民が定住地の土地に結び付けられる。彼らは6世紀末期になるとブリトン人の町に定住を始め、複数の氏族集団からなる連合の首長を王として立ち上げた。冶金などの産業は、恐らく保護を目当てにして川沿いの定住地から町に移動し、物資集積場の誕生と共に商業が成立する。王の権威と、そして彼自身が承認した宗教的権威の下に、税金や罰金を規定する最初の法典は作り出され、貨幣経済は導入された。そして家父長制の氏族集団の中で格差社会は生み出され、固定された階層社会たる封建制度への緩やかな移行を始める。既に存在していた奴隷階級の他に、大量の小作農と彼らの地主が現れ出した。
そして時々決定的勝利と看做されるデオルハムの戦いよりも、彼らの都市占領によってブリトン人によるウェールズとコーンウォールの交易は弱体化されたかもしれない。
アングロサクソンの武装は少しずつ変わっていった。
柄を含めて70cm程度の片刃の剣は6世紀の戦士階級によって使われるようになる。盾は突起部が円錐状に変化して取っ手が鉄製になり、槍の穂先は倍近い40cmほどになった。盾の守りに依存していたために防具は大して発展しなかったが、高い地位の者に限ればリングメイルを装備することもあった。
ブリトン人の勝利は、ブリトン人にあまり良い変化を与えなかった。アンブロシウスの子孫を含む権力者の顕著な腐敗と堕落はギルダスの示す所で、勝利以来続いた半世紀の平和は、アングロサクソン年代記に拠れば552年、セルディックの息子シンリック率いるアングロサクソン人によるオールドサラムの攻略によって終わったが、それに続くバーバリ城の占領と共に、その証拠は無い。争いはもしかしたらギルダスが彼らを非難する程度に頻発し、そしてブリトン人は勝利を得られなかった。




