03.アングロサクソンの定住
アングロサクソンがブリテン島にやってきたのは4世紀中頃。当初は沿岸を荒らすピクト人に対抗する傭兵として推定1万人程度の男たちが寄越されたという。
彼らの入植活動は、彼らが合意によってブリテンの要塞を占拠したものとは別に扱われるか、或いはそのものとはいえないものの5世紀初頭からの定住に大きく関係していた。
幾つかの入植神話は5世紀中-後期に数隻の船でやってきたと伝え、その先駆者ヘンギストとホルサがブリトンの僭主ウォルティゲルンとの合意によってケントに定住したのは449年のことになる。これを最初の定住というが、多分ブリテン島東部の支配関係の転換を意味するのだろう。
古い通説に拠れば、446年にピクト人の襲撃に悩まされたブリトン人が西ローマの将軍アエティウスに救援を求めるも無視され、ウォルティゲルンは仕方なくアングロサクソンの傭兵を招きいれた。ウォルティゲルンとヘンギストらは傭兵代金で揉めた結果455年と457年の二度に渡って戦い、ブリトンの僭主は地位を失った。
アングル人の原住地アンゲルン半島や、ジュート人の地ユトランド半島で何が起こったのか、はっきりとは判らない。
ただノーサンブリアに伝わるユトランド半島を舞台とした古英語の詩ベオウルフはデーン人の襲来を伝えているし、移住と同時代に当たるヨルダネスの歴史書にはデーン族がスウェデス族とへルール族を追放したという記述が残っている。
デンマーク人の事績ではアンブレ王の二人の息子のうちの一人アングルが移住したとか言うし、もしかしたらサガにも記述があるかもしれないが知らない。
考古学的にはデンマークの諸民族はローマとの間に交易があり、その影響を受けていた。勿論、陸上ではなく海上貿易である。3-4世紀におけるルーン文字の出現はローマ帝国の軍制の変化を示唆し、4世紀から始まる農地の衰退や沿岸防衛の強化は、デンマーク内だけでなくスカンディナヴィア半島沿岸部を含めた部族間抗争の発生や人口の減少を示している。
彼らの北ドイツ・フリジアへの入植活動はブリテン島に移住する少し前に行われていて、フィンズブルフの戦いは発生した。その定住者はフリースラント人として6世紀以降の北海における貿易活動の中心的存在となる。
また半島より南、ラインからエルベまでの北ドイツ沿岸がサクソン人の領域であり、どうやら彼らの衰退は先のものより少し遅れて5世紀中頃に生じたようだ。こちらはスラヴ人がオーデル川を渡ってエルベ対岸辺りまで進出した圧力とか、もしくは数種類の疫病の流行、あとは海面上昇等によって一応説明されてるが、多分これだけだと不十分だろうと思う。
ジュート人の移住先はイングランド南東部のケント、アングル人は東部から北部にかけて、サクソン人は南中央部。東部には他にノルウェーの部族も移住していた。彼らの定住の傾向の証拠はその後のそれぞれの地域における社会制度の特徴や出土した装飾品によって示される。例えばジュートの十字装飾ブローチや、アングルの袖ブレスレット、そしてサクソンのビーズネックレス。いずれも女性の墓に見られる。しかし考古学的史料は、それぞれに加えてローマンブリテンからの継続性を提示した。
アングロサクソン人の「侵入」を「移住」と評するようになったのは90年代頃からで、それは初期アングロサクソン文化におけるブリトン人の文化の強い影響を基軸にする。
ゲルマン人の伝統的な竪穴住居はローマンブリテンの木造住宅と混合したし、
小屋の付属する木造ホールはどちらにも見られた。彼らは地方においてブリトン人と混在するように居住し、衰退しつつあるブリトン人の町の近郊に滞在する。
彼らの集落はその大家族主義的な性質かまたはゲルマン的な伝統のため、大規模になることは無く、地方においては少なくとも7世紀まで発展の傾向は見られなかった。
5世紀初期の定住において、衰退したローマのヴィラへの再開墾者として彼らは居た。彼らの木工技術によって邸宅はホールに代わり、家屋も改良された。老朽化した住宅の改修か柱穴の再利用という形で。
初期アングロサクソン時代の中心的な穀物はバーレイ麦である。風車や水車ではなく女性──妻や使用人──の手によって碾き臼で粉にされ、捏ねて粒状にしたものにバターやミルクや野菜を加えて粥にしたり、パンにされた。他方、ライ麦は性質上粥に使うには適さないためパンのみである。パンは離乳後の子供の食べ物で、バターを塗られて食べられた。力のつく食べ物として見られていたという。
また三圃制確立前においてイングランドの作物は不十分で、彼らは畜産ではなく川・海産物に強く依存する。しかし揚げ物ではなくマリネとか塩漬けにされた。
そのほか長男には少ない肉類が優遇されて与えられていたかもしれない。しかし家畜は骨や皮まで余すところなく利用されたと見ることも出来る。穀物と違い、家畜は大陸からは持ってこられなかったようだ。取引か、窃盗か、或いは傭兵業の対価として現地で得られた。取引の可能性は、アングロサクソンの装飾品が町の領域で発見されたことから提案された。家畜の加工方法はローマンブリテンからの継続性を見せる。牛、羊、ヤギ、豚、鶏、そして極少数の馬が扱われた。
定住村落は氏族単位で築かれ、家父長制が施かれていた。また下層階級である不自由民の両親から売り飛ばされた子供が、戦士階級を含む自由民の奴隷として奉仕した。
男性の墓の副葬品において5割を越える比率で武器があることは、彼らの少なくとも半数が戦場で戦っていたことを示す。武器の製造は現地で行われた。特にイングランド東部の川沿いに冶金作業所の痕跡が残っている。しかしごく初期の冶金製品は女性用の装身具だったとされる。
民族的移行があったとしても、墓地におけるアングロサクソンの女性の装飾品の存在と、東イングランドに見られるX染色体の傾向は、武装集団だけがやってきていたという主張を否定する。女性の移住者は戦士たちと共に、あるいは彼らの後を追うようにして大陸からやってきた。原住地での男性不足が影響したのかは知らないが、少なくともその行動は、古代から近代まで様々な時代に行われたゲルマン人の殖民行動の類に洩れない。
両者の同化の否定を訴えるものも少なくない。とはいえラテン語を使うブリトン人と古英語を使うアングロサクソン人はいずれも支配階級か聖職者階級だろう。また遺伝子学は完全な民族的移行よりむしろブリテン中央部における彼らの交雑を提案する。
物質的な違いは顕著で、副葬品の存在は明示的だった。極初期にあった違いは、とても緩やかな流通による伝播に加えて地域ごとに異なる発展の傾向があっために、均一化はなかなかされなかった。その中でも水晶球の出土品はケントで発見されながらも諸地域では全く発見されなかった。
そして埋葬習慣は、両者が混在しながらも異なっていたことを示す。少なくともキリスト教の流布まで。あるいはアングロサクソンのキリスト教への移行において、大陸から来た何人もの著名な布教者よりもそのときブリトン人に広まっていた信仰が影響したとも言われる。
イングランド東部において町の近郊の住居は6世紀初頭に放棄され、アングロサクソンは町の中へと侵入した。破壊の痕跡はそれが平和的な移住でないかもしれないことを示していた。ただし6世紀中頃に大陸からやってきた疫病の影響は反例として提案されているが。
町の復興の傾向は6世紀末に見られるが、このときに町は新たな都市計画に基づき、アングロサクソンの町として彼らの木造住宅は現れ、そして彼らの王国の交易と産業の拠点として再構築されていた。特にケント地方は6世紀からフランク王国やスカンジナビアとの通商の中心地になる。新たな取引所の出現は多分ロンドンを衰退させた。勿論、貨幣はなく物々交換だった。
交易品には北海沿岸だけでなく、東地中海や北アフリカ産の陶器も見られ、少なくとも後者二つは高級品で富者の所有物だった。大陸間交易を請け負うのは遺伝子的に最も彼らに近似するフリースラント人で、そのために同族であると最近は扱われる。島内の地域における交易範囲はとても狭く、しかし氏族の族長の手によって管理された。
庶民の陶器は轆轤を使わずに、家庭内手工業つまり奴隷によって製造されていて、明らかに質は悪かった。骨細工の技術は高く、精巧な櫛が出土している。革皮製品もそれと同様、職人の手によるのものだという。他方、機織は女性の仕事だった。紡ぎ車は無いため手作業で紡がれ、織布には織り機を使った。
古い資料によれば、アングル人による共存とも映る東部の入植活動とは反対に、イングランド南岸に上陸したサクソン人がブリトン人との戦いを始めたという。これによってウェセックスのセルディックはアーサー王の敵対者として結びつけられた。
アングロサクソン年代記はセルディック率いる5隻の船の侵入を495年にしている。考古学的には彼らの定住はちょうど5世紀中頃に行われたとされ、彼らはその世紀の内に上陸地のハンプシャーから北に進出した。ブリトン人のヴィラが殆ど無かったハンプシャーからスウィンドン周辺の地域への進出は、多分必要に迫られたことで早期に行われた。
ノーフォークを起点にするアングル人の領域と、ハンプシャーを起点にするサクソン人の領域、そしてケントからテムズ流域に至るジュート人の領域は、ヴィラへと再定住する動きに加えて、川沿いの定住を上流に拡張していった結果に見える。つまり南部の場合もアングロサクソンの移住であることは変わらなかった。ローマの道は利用されたり、されなかったりとどうにも中途半端なようである。
そしてイングランド東部の諸都市やウィンチェスターがそうであったように、彼らは町に隣接して居住し、攻め込む意図は見られなかった。また異なる事例として、北部に向かう過程において渓谷の谷底での定住が幾つもある。そして近くの丘には彼らの戦士の共同墓地があった。山がちな地域での水利目当てと見てよいだろうか。
5世紀末期においてアングル人の西に向かう定住は、まだベイドン丘の推定地までは進出していなかった。彼らの定住の拡大及びサクソン人の領域との合流は6世紀中頃以降になるようだ。
しかし定住の傾向に関わらず、アングロサクソンの戦士階級は副葬品からして存在していたと見られている。
アングロサクソンの戦士階級は自由民で構成される。最初期の来訪者として数隻の船でやってきた100-300人ばかりの氏族集団及び不自由民は、一つの村落の単位だっただろう。つまり戦士階級と女性、そして不自由民と僅かな数の貴顕。不自由民はブリトン人から拉致または購入した奴隷かもしれない。もっと少ない集落もあっただろうが、より多くであることは多分無い。
歴史書は彼らが家父長制であるにも拘らず、集落に指導者が二人いたことを示唆している。二人は大抵親子か兄弟だった。片方が死ぬと、もう片方に近い血縁者が跡を引き継いだ。また資料には彼らが王(軍事的指導者)と宗教的指導者だったと説明するものもある。
彼ら傭兵の軍勢に騎兵の姿は無い。両刃の剣を持つ者は全体の一割未満で、弓は軍事的には殆ど用いられていなかった。戦士たちの主要な武器は刃幅の広い片手槍であり、サブウェポンとして20cm程の短刀を携帯していた。他にもハンドアックスがあったようだ。
剣は儀式用のものもあった。それは古くからゲルマン人の結婚式にも用いられていて、出土品の中には戦場で使う意図の有り得ない黄金の柄も発見されている。
ほか資料によれば、防具には中央アジアから伝わった仮面のような連結型ヘルメットや鱗鎧が用いられていた。円形の盾の副葬品はよく発見された。基本的には木造で、革が被せられていることは時々あった。取っ手は木製か骨製で、まだ鉄製にはなっていなかった。
アングロサクソン人とブリトン人の隣接する定住地で小規模な衝突は多くあっただろう。
定住地はイングランド全体で見てもスウィンドン一帯に集中していた。資料は5世紀の初期定住期から7世紀の中期定住期にかけて少なくとも10数個の定住地の痕跡を示す。諸氏族の集落はまだ統合してはいないが、彼らが結束したならばベイドン丘の戦い並みとはいえないものの、ある程度の戦力の多寡は演出できた。
その大規模な衝突が、どういった事情によって起こり得たのかは判らない。ただギルダスは争いの原因を傭兵代金の毎月の支払いの遅延が、彼らの報復を招いたと語る。
彼らは傭兵としてピクト人やスコット人(アイルランドから来た)と戦っていた筈だった。だからこそ沿岸及びハドリアヌスの要塞や町の近隣に駐在して、その保護をしているかもしれなかったが、ピクト人の証拠は見えてこない。
そしてギルダスが続けて記述する町の破壊と放火は認められなかった。彼らの戦場はヒルフォートで、短期的で小規模な争いは行われていただろう。




