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01.ローマ軍団の撤退AD407

 407年、当時の西ローマ皇帝ホノリウスによって、ローマ軍団はブリテン島からの撤兵を要請される。ちょうどヴァンダルほかの異民族がライン川を越えてガリアからイスパニアまで進出してきていたから、

これの撃退を意図したのだろう。

 しかしブリテン島のローマ軍団は命令に対して反旗を翻した。資料には貨幣の質の劣化、ついで402年に通貨鋳造が停止したことで兵士たちが経済的困窮に陥っていたためだとある。それから兵士たちは、かつてブリテン島のヨークで即位した大帝コンスタンティヌスと同名の人間に皇帝を名乗らせてガリアへと侵攻した。コンスタンティヌス3世のソリドゥス金貨が見つかっているから、貨幣鋳造は彼の手によって行われ、そのために軍人に支持されたと見る。

 ゾシムスの記録によれば、このときブリタニア総督だったコンスタンティヌスは先の僭帝グラティアヌスが没してから4ヵ月後に西ローマ皇帝を僭称し、部下の将軍ユスティニアヌスとネヴィオガステスにケルト軍団──恐らくローマのブリテン島守備隊を指す──を率いさせてイギリス海峡を渡ったのだという。

 しかし411年、二人の将軍はローマ軍司令官サルス率いるゴート族軍団との戦いに敗れて戦死し、コンスタンティヌス3世は捕虜になった。この後のゴート族との共謀や部下ゲロンティウス造反については別の話なので省く。


・・・

 ブリテン島のローマ的性質は、カエサルの侵攻以降緩やかに浸透していった。あるいはブリトン人の文化と融合していったとも主張されている。

 インフラ開発はフラウティウス朝の頃に促進され、都市が建設され始める。当初はコルチェスターに首都が置かれたが、ボウディッカの反乱によって町が破壊された後は軍港ロンディニウムに移った。


 大陸からの移住者は都市市民か軍人であり、当時のブリテン島の人口推定360万の一割程度を占める程度だった。

 都市には、大陸との貿易の玄関で政治機構の置かれた首都ロンディニウム、ローマ人の殖民都市コルチェスターやリンカーン、キウィタスによる共同体首都オールドバラやカンタベリがある。

 いずれの都市もローマ軍団の駐屯地或いはその付近に築かれた。

 殖民都市には神殿や公共施設、キリスト教会が建てられていて、ローマ軍団の親族や退役兵らが中心に居住する。その地域の産業はローマの技術に強く影響を受けていて、経済はローマ軍団の消費能力に依存していた。

 キウィタスは非ローマ人の共同体であり、ブリテンに有る都市の大半を占める。各部族毎にキウィタスが充てられていて、それぞれに首都を持っていた。

 他にはブリテン島唯一の自治都市(ムニキピウム)セントオールバンが有る。ムニキピウムも同様に非ローマ人の共同体であるが、キウィタスよりも扱いは上で、市民にはラテン市民権が与えられていた。この町に住むカトゥヴェラウニ族はローマと同盟関係を結んでいたという。

 ローマ市民権が与えられた後、諸分類は余り重要ではなくなる。同時にインフレのために都市の重要性が薄れていた。

 首都ロンディニウムの発展はテムズに橋が掛けられた頃から始まる。現在のロンドン橋だ。勿論、何度も掛け直されたが。首都移転の際には政治機構とともに技術者が移動して貿易のための港湾が整えられた。穀物輸出の基点としての、そして大陸から送られた軍隊の上陸地点としての重要な役割を持っていた。

 輸出品には穀物のほかに鉱物類が多い。大陸に輸出する錫のほかにも金銀銅が産出した。ブリテン島でもロンディニウムには貨幣鋳造所があって銀貨と銅貨が造られていたが、金貨はあまり見つかっていない。

 4世紀になると、経済的沈滞と徹底した増税がインフラを脅かし、劇場や公共浴場が打ち捨てられた。浴場は劣化が進んだために使われなくなり、劇場はゴミ捨て場として利用されるようになった。

 コルチェスターには戦車競技場が作られていてローマ系移民に親しまれたが、最近の発見なのでこちらの放棄がいつ頃かは判らない。

 そして首都のロンディニウムの港湾ですらその経済的衰退の影響を受けている。ただしキリスト教の教会は4世紀頃になって多く建てられたのだが。

 後期ローマ時代には地方或いは郊外の村落(ヴィラ)に重点が置かれる。村落には地主──それはローマ移民の例も、ブリトン人の例もある──が、いずれにしても彼らの支配下でローマ的農業が行われた。


 広範な農地で孤立的に行われるケルト式農業は牧畜を兼ねたもので、鉄器時代に見ることが出来る。そしてローマの農業は大規模集約農業で、奴隷労働力に重点を置く。

 豊かなブリトン人はロンデニウムにある奴隷市場で買い上げた奴隷や雇い入れた小作人を使って農業を行い、そうでもないブリトン人──大半のブリトン人は大陸と同様に大農地の近くで自作農を営む。

 主要な生産物は変わらずスペルト小麦と大麦だったが、副生産物は変化する。特に野菜類が充実した。

この地で新たに生産されたものにはラディッシュや西洋ネギ、人参などがある。

 同時期に技術発展があり、耕作具の鋤は土に垂直に入るように改良され、穀物の保管場所は地下貯蔵庫から屋外の乾燥貯蔵庫(高床式?)へと移された。

 また家畜では鶏とウサギが新たに現れた。資料によれば鶏は紀元前1世紀頃ブリテン島に移入されたとある。肉と卵だけでなく臓器も食されていたという。

 地中海が生み出したワインやオリーブ、アーティチョークにイチジクは、この寒冷地では生産に適さないので輸入に依存した。ワインはナルボネンシス(プロヴァンス地方)、オリーブはイスパニア、そしてイチジクとアーティチョークは北アフリカから、他には有名な魚醤も輸入されていた。

 新規の輸入品はローマ的な生活のための資材と看做される。しかしブリテン島で対応できるものは次第にブリテン島で製造するようになった。

 例えばローマのサモス式陶器の製造がブリテン島で開始されたのはローマ軍団の駐留後で、少なくとも4世紀頃まで彼らのために要塞付近で製造されていた。

 こうした陶器は、主にワインやオリーブ油の入れ物用である。

 カエサルの現れるよりも数世紀前からずっと輸入に依存していた工業製品は、職工集団の移住によって容易に導入される。彼らは都市の衰退以降、大地主の傘下で薄給労働に勤めた。工業における奴隷の利用は無いわけではないだろうが、この島では大抵農業と採掘に充てられていた。

 奴隷には職能を持つ者も居る。ブリタニア総督には官吏とともに多数の奴隷が配属されていた。ただブリテン島における職能奴隷の実態は判っていない。とはいえローマ帝国における一般例から外れないのであれば、書記官、所領や家計の管理人、或いはパン焼き職人として使われていたのだろう。典型的な彼らの扱われ方として、ブリテン島のある史跡には奴隷の繋がれていた牢獄が発見されている。

 ローマ時代に重要な消費者だったローマ軍団の兵士が大幅に人員削減された3世紀から、生産物の輸出が促進される。そして3世紀の危機のために農村が荒廃した大陸に向けて、農作物の輸出市場が作り上げられた。

 同時代のビンドーランダ・タブレットには羊毛や豆、蜂蜜がブリテンの輸出品に有ったと書かれている。ただしウィンチェスターやコルチェスターに建てられた軍服用の国営紡績工場を除いて、羊毛の生産は確認できない。繊維業はローマのときには家庭内手工業だったから作業所が無かったのだろうか。裁縫は地位に関わらず女性がする仕事であり、既に蚕を生産して糸巻きを機械で行っていた中国と比べて技術力は低かった。

 4世紀、税制改革は豊かになりつつある地主を脅かすことはなかった。不正は横行していて、富農はますます豊かになる。


 3世紀のローマ軍団削減は、セウェルス朝の遠征と防備の強化による北部の安定化と見ることも出来るし、当時大陸を襲った危機のために貨幣が輸入できず、兵士たちの賃金を支払い切れなかったためともいわれる。しかし見た感じでは、ブリテン島の軍団は過剰に多かったため、必要がある度に引き抜かれている様子だ。この過剰な多さは皇帝になる通過儀礼的な名目的遠征のためだったので、ローマ軍団に擁立された軍人皇帝たちの時代には必要なかったと見る。

 この頃、軍用に用いられていた道路が補修され、要塞が増設されたことが判っている。ある資料には減らされた軍団の兵士たちでは防備を十分に出来ないと論じられているのだが、ハドリアヌス城壁には彼らローマ軍団のほかに異民族の守備隊が配されている。

 また別の資料を見ると異民族部隊の出身地は、西はイスパニア、東はシリアにまで及ぶ。一応この頃にもゲルマン系部隊は居るが、4世紀後半にブリテン島にやってきたゲルマン系アレマンニ族の王率いる傭兵団とは立場が違う。兵士たちはそれぞれ出身地の神を信仰し、願掛けや感謝のために捧げ物をしていた。

 このブリテン島にキリスト教が布教されはじめるのは4世紀からだが、大衆化するのはずっと後の話だ。史跡からは一般的なローマの神々の他に、ペルシアから伝わったミトラス神の存在が認められる。

 また都市の防衛施設と共に沿岸防備の強化も始められた。

 この頃、ブリテンの都市の防壁にはカタパルトやバリスタを備えた円塔と城門が設けられたという。ガリアでも同時期に建てられているので大陸から波及したのだろう。

 ブリテン島東南部の長大な沿岸防塁サクソンショアの建造は3世紀の末から始まったのだが、ゾシムスの記録によればこのとき海賊の来寇が激しかったという。そしてまたこれに対応するようにガリア北部の沿岸に防塁が建て始められた。

 海賊の存在はかなり古くから見られる。初期の海賊はライン川流域に住むベルガエ族で、大陸とブリテン島の貿易にも携わっていた。鉄器時代にブリテン島東南部や南部へ入植した痕跡があり、ローマ時代にはウィンチェスターに彼らのキウィタス首都が置かれていた。つまり古典に倣って彼らがゲルマン系であると主張することは困難である。

 ブリテン島がローマ帝国の支配下に置かれて海上輸送が国家の統制の下に行われるようになると、特権的な輸送業者がこれを請け負った。だから初期のものは輸送特権を持つ業者に対する襲撃とし、サクソン人の入植とは看做さない。

 4世紀に入ると特権は弱まり、むしろ帝国によって穀物輸送を強いられるようになるのだが、ブリテン島にも当て嵌められるのかは判らない。資料ではロンディニウムを含む港湾都市が衰退していることから利益が上がらなくなっていたと推察されている。

 3世紀の末、ローマ帝国から海賊討伐に派遣されたカラウシウスもベルガエ族だった。しかしカラウシウスは離反し、ブリテン島に渡って帝位を僭称する。銘にインペラトル・アウグストゥスを付け加えた貨幣を鋳造して7年間ブリテン島を支配した。

 このような帝国に対する離反はブリテン島において度々繰り返される。そして僭称皇帝を支えたのはブリトン人でもローマ市民でもなくローマ軍団だった。



 4世紀、ディオクレティアヌス帝の下で充実した税収によりローマ軍団は再編された。総兵力はかつての30万から50万に増員され、属州の軍政は官僚組織から独立する。ブリテン島のローマ軍団も例外ではなく、このときリッチバラとヨークにそれぞれ配備されていた第二軍団と第六軍団も増員された。正確な規模は不明だが。

 それでも軍団の消費が都市を潤わせることはなかった。

 ローマ帝国末期は品物で税が支払われてたり、軍人の給料の一部が現物支給だったりするのだが、ブリテン島でも例外ではなく、そのため都市の経済規模縮小が免れ得なかった一方、直接穀物を供給する農村地主の繁栄が生み出される。

 税で養われているのは軍人だけでなく、コンスタンティヌス帝によって構築された厚い官僚制度も含まれる。官吏たちは、キウィタスの元老院がかき集めた税収を整理して軍人たちに分配する。

 こうして強化された軍団はピクト人の領土に進出してコンスタンティヌス帝の権威を高めた。


 そしてアンミアヌスの記録によれば364年、ピクト人が反攻に出たときが異民族による侵略の始まりだと定義される。というのもピクト人の反乱と同時期にスコット族とアッタコッティ族がアイリッシュ湾を渡ってブリテン島北西部に来寇し、デンマーク半島からはサクソン人がブリテン島東南部に入植し始めたためだ。

 スコット族はアイルランドに住んでいた民族で、アッタコッティ族の方は出自が判っていない。ブリテン島北西部、アイルランド、イングランド諸島のいずれかなどが主張されている。

 事件の要因については偶然の一致として捉えられたり、部族間の共謀、或いは帝国内の陰謀として扱われることも有る。しかしいずれにせよ異民族の侵入は有った。

 帝国からは反乱鎮圧のために将軍テオドシウスが派遣される。テオドシウス1世の父である彼は、兵士や将校と力を合わせ、待ち伏せ攻撃によって異民族の軍勢を撃退し、長城や要塞を修復し、ブリテン島を5つの属州に再編し、政争の中で殺された。

 そして名誉の復帰の象徴として東の皇帝にテオドシウス1世が即位した後、将軍テオドシウスの部下でイスパニア人のマグヌス・マクシムスがブリテン島で帝位を僭称する。ブリテン島の軍人たちは宗教的抑圧を進める西の皇帝グラティアヌス(前述のグラティアヌスとは別人)よりもマクシムスの方を支持し、大陸でローマ軍団と戦った。勿論、マクシムスの貨幣も見つかっている。


 395年、グラティアヌス帝は部下に殺され、そしてマグヌス・マクシムスはテオドシウス1世に殺された。それからの貨幣は西の皇帝ホノリウスの肖像に代わる。ただしこれはブリテン島で造られた物ではなくガリア製だった。

 鋳造所たるロンディニウムはこの頃、鋳造停止の命令を受けていた。恐らくマグヌス・マクシムスの貨幣を勝手に鋳造していたために。

 402年にスティリコがブリテン島の戦力を引き抜く。これはハドリアヌス長城の守備兵だったようだ。そして同年以降の貨幣は見つかっていない。もしあったとしても、ルーアンの鋳造所は406年に行われたゲルマン民族のライン川渡河によって機能しなくなっていただろう。


 406年にブリテン島でも大きな動揺があったのは確かだ。ローマ軍団は翌年立て続けに三人の僭主を擁立し、その最後がコンスタンティヌス3世だった。貨幣が12年ぶりにブリテン島で鋳造され、軍隊だけがブリテン島を去る。

 そして軍隊が不在になると、西ローマ帝国皇帝ホノリウスはキウィタスにその防衛を一任した。ロンディニウムや各管区の官僚たちはブリテン島に残っていて、多分彼らの投資によって都市の防備強化は進められた。それは彼らの住居がこの頃にも拡張していることから推測できる。

 そしてギルダスの記録によればローマ市民──つまり市民権を得たブリトン人は外寇との戦いに臨んで、幾つかの勝利を収めた。

 その一つとされるのがアーサー王伝説にも借用されたベイドン丘の戦いである。

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