第五話 見えないクモの巣(後編)
オレが13のときのことだ。
その日、オレは年が二つほど上の相手と訓練を行った。勝負としては、珍しくオレのほうが押されていた。
上には上がいるなぁ、と思ってオレが降参しようとしたその瞬間――、
「鋼魔空断剣っ!」
ガキィンッ!
オレの剣が宙に叩き上げられ、落下時に半ばから叩き折られた。
そして――悪夢のような光景を目の当たりにしたのだった。
叩き折られ、宙を舞った剣先は、相手の左胸に深々と突き刺さっていた。
オレはそのとき、知ったのだ。あるいは子供の感じた、単なる錯覚だったかもしれないけれど。それでも確かな実感として。
戦場に流れる血の匂いと、そして、人を殺すことの恐ろしさを、オレは、確かに知ったのだ。
そして、その日からオレは徐々に、徐々にだけれど、でも確実に、この国の在り方に疑問を感じるようになっていったのだ――。
それでも、このときはまだよかった。この国を――家族や親友の住むこの国を守りたいとは思えていたから。もっとも、この国にはそれ以外に守るべきものがあるとは思えなかったけれど。
でも、選択肢が存在しなかったこのときはまだよかった。いずれ、オレの意思なんて関係なく、『ガルス帝国将軍の息子』として戦わなければならないと決まっていたのだから。
このとき、クラフェルによって選択肢が――分岐点が示されてしまったことが、いま思えば、一番の不幸だったのかもしれない。あるいは、その選択肢はいずれ別の誰かによって突きつけられるものだったのかもしれないけれど、それでも――
「それで、お主はどうしたい?」
隣に座ったまま、クラフェルが問うてくる。それに答えるオレの言葉は、あまりにもつたなかった。
「……わからない。わからないけど、でも、アスロックだけは守ってやりたいって、思う。親友だから。オレを――もっともちゃんと理解してくれるヤツだって、思うから。――それにアイツはあの日、こういってくれた。『気には病むな。けど、ひとりの人間の未来への可能性と、その命を奪ったことだけは忘れるな』って。その言葉がなかったら、オレはきっと狂ってたと、思うから……」
「じゃが、誰かを守るためには戦わねばならん。お主は戦えるのか? 戦おうと思えるのか?」
「それも、わからない……。わかっているのは、オレは本心では争いが嫌いで、誰も傷つけたくなんかないってことだけだ。そう考えてみれば、戦おうなんて、思えないのかもしれない」
段々と、自分がなにを言っているのかわからなくなってくる。クラフェルとの会話はいつもどこか禅問答を思わせるものがあったが、この日は特にそれが酷かった。
結論の出ない問いかけ。オレがしているのはきっとそれなのだろう。戦いたくない、けれど守りたい。その願いは決して両立しない。どちらかを諦める必要がある。けれど、オレはどっちも諦めたくない。じゃあどうすればいい、と果てのない問いが回った。
しばしの沈黙のあと、クラフェルが口を開く。
「選択肢はふたつある」
「――え?」
「戦うか、逃げるか。この地におれば――この国の王のことじゃ。じきにまた戦が起ころう。お主は自分の意思に関係なく、それに巻き込まれることになる」
それは、そうだ。というか、オレには元から選択肢なんて存在しない。しない……はずだった。
「それが嫌なら、選択肢はひとつしかなくなる。それは――」
「逃げること、か? 『将軍の息子』という立場から。いずれ戦争が起こる、この国から」
オレのような小僧が国を出て、ひとりで生きていく? 悪い冗談だった。そんなこと、できるはずがない。クラフェルはオレのそんな考えを見透かしたように続けてくる。
「不可能、と思うじゃろうな。しかし、しかるべきコミュニティに属しておれば、決してそんなことはないぞ」
「しかるべきコミュニティ?」
オレはそのとき、クラフェルから『モンスターを討伐し、それで賞金を得て生計を立てているコミュニティ』があると聞かされた。それがどこにあるのかも、だ。人間相手はゴメンだが、モンスター相手ならオレはほとんど抵抗ない。いや、この価値観はおそらく、この世界の人間共通のものだろう。まあ、もちろん一部の例外はいるだろうが。
だが、オレはクラフェルにそのコミュニティに誘われても、すぐにはうなずけなかった。この国を離れることの不安は確かにある。でもオレがうなずけなかったのはそれが一番の理由ではなくて。
「結局、戦うことにはなるんだよな。モンスター相手とはいえ……」
嘆息交じりに呟くオレ。クラフェルはそれを無視するように腰を上げ、最後にこう結んだ。
「ともあれ、あとはお主が決めることじゃ」
それから数日後の夜、オレはガルス・シティを出た。アスロックのことはもちろん気にかかったが、それ以上に戦争に巻き込まれる可能性は少しでも潰しておきたかったし、それにはクラフェルに紹介してもらったコミュニティに属するのが、当時のオレには一番だと思えた。つまり、情けない話だが、自分のことだけで精一杯だったのだ。当時のオレは。まあ、いまもそうだけれど。
ふと上を見上げると、すべてを呑み込むような闇空があった。
――オレは、闇空を見上げるたびに思いだす。己の負い目を。守りたいと思った家族や親友を守ることができずに――むしろ、『守る』という言葉に押し潰されそうになり、その言葉から――いや、すべてから逃げたのだ、ということを。
そうだ。オレはこのとき、目と心に焼きつけたんだ。この、闇空を――。
「――っ!?」
強烈な殺気を感じ、瞬時に覚醒する。いや、まだ眠気は少しばかり残っているから半覚醒か。――しかし、いまのは一体……?
慌てて周囲を見やると、やはり感じる殺気。そして隣には厳しい顔つきのサーラがいた。
オレは急いで状況を思い出す。……そうだ。宿場町に着く前に陽が落ちたものだから、この岩場で野宿をすることにしたんだった。寝るときオレが見張りを買って出たのだが、どうやら眠り込んでしまったらしい。
「ファルカス、気づいてる――?」
「ああ、モンスター、だろうな」
殺気を感じる岩陰のほうに視線を向けたまま、サーラに応じる。……しかし、起きた瞬間に感じた殺気はもっと強烈なものだったような……。寝ぼけてたからそう感じただけか? それとも――
そこまで思考を進めて、しかしオレは首を振り、思考を切り替える。とりあえずこの殺気から敵の位置と強さを正確に把握しておかなければ。
気配からして、それほど強いモンスターではない。数は――二~三匹。ちょっと眠気が残っているから、少し苦戦するかもしれないが。
オレは早速呪文を唱え始めた。サーラも後ろでなんらかの呪文を詠唱し始める。
「光明球!」
まずは光の球を宙に放るオレ。明かりがないと戦いづらいことこのうえないからだ。
生み出された光の球は虚空に静止し、辺りを照らす。
さて、次は……
次は……
……………………。
マズい。眠気が残っているせいで判断力が足りていない……。
「体内和浄!」
サーラの声が辺りに響いた。同時にオレの頭もすっきりする。
この術、毒やマヒを中和したり、呪いを解いたりするものなのだけれど、なるほど、こんな使い道もあったのか。
感心していると、岩陰から三匹のモンスターが姿を現した。<光明球>の光に驚いて出てきたのだろう。二足歩行をする豚のモンスター、エビルオークだ。
怪力自慢のモンスターである。一匹はいきなり大岩を持ち上げ、こちらに狙いをつけて……って、やばい!
オレならかわせるだろうが、サーラが岩の下敷きになるかもしれない。オレのエアブレードじゃ岩を真っ二つになどできないし、接近しても岩を投げてくる前にエビルオークを一撃で倒すなんてまず無理だ。――そうだ、あの術なら。
オレは呪文を唱えつつ、一匹目のエビルオークと間合いを詰めるべく地を蹴った。間合いに入ってもエビルオークは攻撃してこない。両手で大岩を持ち上げているのだから当然だ。
そしてオレはその大岩に左の掌を押しつけ、呪力を解き放った。
「冥魔破砕掌!」
破砕音と共に大岩が砕け散る!
オレは次の呪文を唱えつつ――
「――なっ!?」
思わず声をあげて立ち止まるオレ。もちろん呪文は中断してしまっている。
背後から、殺気を感じたのだ。しかもそれは――サーラのもの。
「…………」
正直、驚いた。術で援護してくれるつもりなのだろうが、ここまで強い『気』を出せるヤツだとは、思ってもいなかった。なにしろこれはエビルオークに向けているものなのだ。オレが感じているのはその余波にすぎない。
それですらこれほどのものなのだから、サーラは魔術の使い手としてはおそらく、超一流の実力を持っていることになる。……護衛なんて、やっぱり必要なかったんだな、彼女。
しかし呪文を唱え終えるまでには、まだしばしの時間を要するだろう。そのフォローはオレがちゃんとやらないとな。
改めて呪文の詠唱をしつつ、次のエビルオークに向かう。しかし、こっちはなかなか手強い。両の腕を鋭く振り回してくるものだから、うかつに懐に入れない。オレを吹っ飛ばそうと拳を振るってくるところを狙い、抜いた剣で攻めているのだが、決定的なダメージが与えられないのだ。
ちなみに一匹目のエビルオークは大岩が砕けたショックで動けずにいる。
――と、オレの呪文が完成した! よし、これで――、
そのとき、最後の一匹が呪文詠唱中のサーラに向かって動いた!
――くそっ!
心の中で舌打ちして、オレはそいつに唱え終えた術を放った。
「火炎弾!」
赤みをおびた光球がサーラに向かったエビルオークを直撃する!
接触すると同時に光球は爆発を起こした。しかし、これで一撃とはいかない。威力強化版の<爆炎弾>なら一撃で倒せるんだろうが、いかんせんオレにその術は使えない。
だが怯ませるのと意識をこちらに向けるのならいまので充分。
焦れたのか、二匹目のエビルオークが一息の間に間合いを詰め、オレに拳を――しかし、オレはこの瞬間を待っていた。向こうから間合いを詰めてくる、そのときを。すなわち、相手の懐に入れないのなら、相手からこっちの懐に入ってもらえばいい!
刹那の隙を突こうとしたそのとき、オレの生み出した<光明球>の光球が消えた。だがオレはそれに動じず、
「揺柳刃っ!」
エビルオークの拳をかわし、その流れに乗ってヤツの腹を横に薙ぐ!
そして次の瞬間。サーラが呪文の詠唱を終えたのだろう。背後から感じていた『気』が更に高まった。まだオレにもその余波が感じられるところをみるに、波動として撃ちだすタイプの術ではないらしい。なら一体、どんな術を……?
――サーラが呪力を開放する。
「岩石降来!」
――<岩石降来>。その名の通り岩を降らせる術である。それも、たくさん。……って、ちょっと待った!
「うわわっ!」
右に左にとサイドステップし、降り来る大岩を次々とかわすオレ。……あ、いまエビルオークが一匹、岩に潰された。
……いやいや、ちょっと悠長にはしていられないな、この状況。オレは気を練り、エアブレードを握る手に力を込めて上段に振り上げる。そして、
「鋼魔空断剣っ!」
『あの事故』を起こした、オレにとって忌むべき技だ。まあ、あのときはオレが使ったわけじゃないけれど。それでも、オレは『あの事故』を忘れないためにも、この技を修得した。力をもって叩き斬る、素早さをウリにしているオレからしてみれば苦手なタイプの技ではあるのだけれど、それでも。
ともあれオレはその技で、直撃コースの大岩を真っ二つに断ち割る。身体への反動が大きいのであまり乱用は出来ないが、一応再び気を練り始めるオレ。
そして――、十数個の大岩がすべて落ちきったときには、オレたちを襲ってきたエビルオークたちは一匹残らず大岩に潰されていた。合掌。……っていうか、
「おいこらサーラ! オレが巻き添え食ったらどうするつもりだったんだよ!」
思わずサーラに食ってかかる。いや、当然の反応だろう、コレは。
どこか意外そうにしていたサーラは、慌てて取り繕うような乾いた笑いを洩らす。
「――あ、あはは……」
「『あはは……』じゃないっ!!」
「……あ、でもほら、モンスターは倒せたんだし、結果オーライだよ」
「過程のほうもちゃんと考えてくれ! お願いだから!」
「……う、うん。――あ、でもさ、怪我してもわたしが治せるから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないっ!!」
「うっ……。ごめんなさい」
謝られてしまってはこれ以上怒鳴るわけにもいかない。オレはひとつ嘆息して、
「いいか。呪文はちゃんと考えて使え。ただ威力の高い術を使えればいいってものじゃないんだから」
強い呪文をむやみやたらに使えば勝てるというのなら、この戦いは一瞬で終わっていた。なんせオレの使える術のストックには、魔王の力を借りたものさえあるのだから。
「うん、わかったよ」
本当にわかったんだろうか、コイツは。……怪しい。非常に怪しい。
「――そうだ。ひとつ訊いておきたいんだが」
それはオレにとって、すごく大事なことだった。オレの存在意義に関わること、といってもいいくらいのことだ。
「うん? なに?」
「お前、いまの戦いで意図的にオレを囮に使ったのか? それとも、たまたま偶然そうなっただけなのか?」
「――えっと……?」
問われていることの本質がわからない、といった感じで小首を傾げるサーラ。オレは曖昧にはせずに重ねて尋ねる。
「だから、お前はオレを利用していまの戦いに勝利しようと思ったのか? それとも――」
「えっと……、わたしが呪文を唱えているあいだ、ファルカスがモンスターの足止めをしてくれるだろう、とは思ってたけど……」
「――やっぱり、そうか」
やっぱりオレは利用されていただけだったか……。
サーラは少し沈んだオレに怪訝な表情を向けてきた。
「……? えっと、じゃあファルカス、おやすみ」
「ああ。……って、眠れるのか?」
戦闘の直後だというのに眠れるなんて、なんて場慣れした、図太い神経をしているんだ、などと思っていると、サーラはやおら呪文を唱え始めた。
そして、ころんっ、と寝転がると、
「催眠呪法」
すやすやとサーラは寝息を立て始めた。
……なるほど、<催眠呪法>か。
本来なら敵にかける術なんだけどな……。
オレも少しはうとうとしてもいいのだが、しかし、そうする気にはなれなかった。さっきのような夢を見たくないから、というのもあるが、それ以上に。
「それにしても、結局、あの殺気はなんだったんだ……?」
オレが起きるきっかけになった『強烈な殺気』のことだ。間違ってもエビルオーク程度のモンスターに出せるようなものじゃなかった。それは断言できる。
あの殺気のことが、オレはどうも引っかかって仕方なかった。