霧中の先
高速回転する緑色の影が、身を屈めたレオンの脇を掠めて、近くの柱に突き刺さる。
斧、或いは鎌のような形状をしているそれは、もはや疑いようもなくモンスターだ。斧のような形をしているのは、正確には尾の部分だけで、大部分は亀の形状に酷似していた。大きさでは言えば、亀の中でも、比較的小さな部類に入る。
刺さった尾を捩るようにして引き抜こうとするモンスターは無視して、レオンは再び駆けだした。背中に庇っているステラの手を引きながら、である。
普通ならそこまでしなくても、ステラは自分で走る事が出来るからいいのだが、今は状況が別だ。さっきの突撃モンスターが、少なくとも5体以上、周囲の池に潜んでいるのだ。あんな物がステラに命中したら、鎧のない彼女はまず助からない。さらに、迎え撃つにしても、この場所は条件が悪過ぎた。身を隠す場所が少な過ぎるし、池が広過ぎて攻撃の的が絞れない。モンスター側からすれば、こちらはいい的に見えて仕方ないだろう。
そういうわけで、一旦退却という方針に異論の余地はない。ただし、高速の相手にはステラの分が悪過ぎるため、こうして庇いながらの撤退となっているのだった。言ってみれば、盾みたいなものである。
ステラは杖を、レオンはランタンを持って、元来た扉へと走った。ソフィはその足元を軽快についてくる。モンスターが水面から飛来してくる度に、主にその音を警報代わりに、レオンがステラの背中を押さえて身を屈めるのだが、モンスターの突撃は速い代わりに真っ直ぐしか飛んでこないので、避けるのはそれほど難しくなかった。
「あの!」
再び駆けだしてすぐに、後ろのステラが半ば叫ぶようにして声をかけてくる。
当然ながら、振り返る余裕はないので、レオンは前を向いたまま答えた。
「何!?」
「その、モンスターが飛んできた後・・・刺さってる時なら、少し時間を稼いで貰えれば、魔法で仕留められますけど」
出来る時に数を減らした方がいい。ステラの言い分はもっともだったが、レオンは即座に答えた。
「いや、駄目なんだ!ステラ、魔法の準備中に動けないから」
「それは、そうですけど・・・」
そこでまた弾けるような水音が聞こえたので、レオンはステラ引っ張るようにしながら身を屈めた。緑色の影がレオンの頭があった位置を掠めていくのを確認してから、レオンは再び走り出す。ステラはそこで多少迷ったようだったが、レオンが強引に腕を引っ張ると、大人しく従ってくれた。
「狙う方にしたら、動いてない的はかなり当てやすい。足を止めたら、多分、あの速度は避けられないよ」
「あ・・・なるほど」
投擲や弓を多用するレオンの言葉だけに、多少は説得力があったらしい。ステラはそれっきり反論しなかった。魔法も遠隔攻撃と言えばそうなのだが、狙いのつけ方はアスリートのそれとはかなり違うようだ。
その後も何度か緑の刃に襲われはしたものの、それをなんとかやり過ごした後、レオンとステラ、それにソフィは、元来た扉へと駆け込んだ。
それを確認した後、レオンは重い金属製の扉を急いで閉めて、そしてその場を離れる。
すぐさまステラに目配せすると、彼女は肩で息をしていたものの、すぐに頷いた。
しかし、レオンはその光景を見て、軽く微笑んでから息を吐いた。
「うん・・・少し休んでから行こうか。僕もまだちょっと息が苦しいし」
どうやらそこで反発しようとしたらしいという事が、ステラの表情の動きから見て取れた。要するに、私なら平気です、と言おうとしたのだろう。しかし、自分でも呼吸が収まっていないのは分かったらしく、最終的には諦めたように微笑んだ。
「・・・向こうも、こちらまで攻め行ってくるつもりはないみたいですね」
「そうだね。そういうところは徹底してる」
「というより、あまりイレギュラーな行動は出来ないんじゃないですか?」
その問いに、レオンは少し考えさせられた。
「うーん・・・そうか。そう言われたら、そうかもね。ずっと、モンスターは意外に冷静なんだと思ってたんだけど」
何故かステラは、慌てたように両手を軽く振った。
「あ、いえ・・・それはただの、私の印象ですから。何の根拠もないんです」
「それはそうかもしれないけど、でも、ジーニアスの印象だから、意外に当たってるかもしれないし」
そこでじっとステラはこちらを見据えた。
「でも、レオンさんの意見を信じましょう」
「え?・・・いや、でも」
「そちらの方が安全ですよ。私の意見は、モンスターを見くびってます」
どういう意味だろうかと思ったが、少し考えてみるとその意味が分かった。確かに、決められた行動しか出来ないと思うよりは、冷静な判断をしていると思っていた方が、安全側の予測だと言える。仮に逆だと、モンスターが冷静な対処を見せた時に、意表を突かれる事になってしまうからだ。
「そうか・・・なるほど」
その言葉と頷く動作だけが、レオンの示した反応だったのだが、それだけでステラは嬉しそうに微笑んでみせた。こちらの考えが読まれているのだろうかと、そう思う機会がここ最近顕著に増えているような気がするのだが、今がまさにそうだ。
こちらがステラの言葉を理解したのだと、ステラは読みとっている。
自分でさえも、本当に理解出来ているのか分からないのに。
この洞察力が、ステラの成長の証のひとつ。
自分や他人を真摯に見つめて、受け止めて、悩んだ末に身につけた能力。
そして、この笑顔もそうだ。
本当に自然に笑うようになった。明るくて優しいユースアイの笑顔の中にも、少なからず、彼女の高貴な血筋を忍ばせた、ほんの少し抑えの利いた上品な微笑み方。女の子としてももちろんだが、彼女のここまでの経緯を知っている人間としては、もっと純粋な意味で、綺麗だな、いい笑顔だなと思わずにはいられなかった。
もちろん、それは嬉しい事だ。
ただ、じゃあ自分はどうなのかと考えてしまうのも、また確かではある。
戦闘は上手になっても、他は成長していない。
きっと、笑顔もずっと変わらないままだ。
そういった、大きな幸福と若干の憂鬱がない交ぜになった感情を、レオンは小さく息を吐く事で誤魔化した。正確には、そういった処理があったのは、その後に空気を吸い込む動作の時だったのだろう。そういった感情は、そうそう簡単に捨てられるものではないのだから。
しかし、今は戦闘中だ。
一度レオンは閉めた扉を見た。開く気配はおろか、何かがぶつかるような音もしない。しかし当然ながら、開けても安全という意味ではない。状況から考えれば、むしろ、危険は約束されていると言ってもいい。
だが、レオン達にしてみれば、約束された危険というのは、それほど怖くはない。
何があるのか分からないのと比べれば、危険度に天地の開きがある。
はっきり言って、今は恐怖心がほとんどない。
扉の向こう側。
十分対処出来る。
その確信が、レオンの中には確かにあったし、ステラの中にもあっただろう。
だからこそ、こちらに一度逃げ帰ってきてから、2人は再突入に関して一度も議論していないのだ。そんな決まりきった事、改めて確認し合う必要はないのである。
「そろそろ、いいかな?」
ステラの顔を見ながら確認する。
彼女は小さく頷いた。当然ながら、もう笑顔ではない。
「あの、ひとつだけ・・・」
「無理はしないで下さい?」
向こうの発言を先取りしたつもりだったのだが、ステラは口元を軽く上げただけで、当然とばかりに言い返した。
「それは当たり前です」
「・・・そうだよね。じゃあ、他に何かあるの?」
「はい。さっきのモンスターなんですけど、水中から飛んできてましたよね?それで、柱に突き刺さった後、斧みたいな尻尾を引き抜いて、また水中に戻ってました」
「そうだけど・・・」
そこでステラは扉の方を一瞥した。
「今考えてみると、ちょっと不自然じゃないですか?私達、身を隠す場所が少ないから、ここまで戻ってきたわけです。それなのに、モンスターは必ず柱に命中してるんですよ。まるで、そういう軌道を狙ってるみたいに」
「・・・なるほど」
その洞察には、レオンも唸った。
確かに、向こうの部屋は柱が少なくて、かなり見通しのいい場所だった。それなのに、その数少ない柱に毎度毎度突き刺さっているのは、偶然だとしたら不自然だと言わざるを得ない。そもそも、そういった障害物のない場所の方が、向こうは攻撃しやすいはずなのだ。
あの亀型モンスターが、そういった不自然な攻撃をしないといけない理由が、何かあるはずである。
その理由について、レオンの頭にはいくつか思い浮かぶものがあった。例えば、亀型の外見の通り、陸上での移動が極端に遅いという可能性が考えられる。柱に命中し損ねて、滑空して帰る事が出来なくなった場合、緩慢に歩いて水中に戻るしかないのだとしたら、それはそれで間抜けな話だが、辻褄が合わないわけではない。攻撃方法が突撃一辺倒なだけに、あまり器用なタイプにも見えないとは言える。
しかし、そう決めつけるのは、安直だと言わざるを得ない。
それに、ステラが真に言いたいのは、そういう事ではないのだ。
レオンはステラに頷いてみせる。
「・・・ありがとう。それでもしかしたら、楽になるかもしれない」
やや緊張気味ながら、ステラもぎこちなく微笑んだ。自分の予測が間違っていたらどうしようと、責任感の強い彼女は思っているのだろう。
その不安を払拭するために、レオンが出来る事はひとつだけ。
生き残ってみせる事だけだ。
近くの床にランタンを置いてから、レオンは告げる。
「じゃあ、今度こそ」
「はい。余裕があれば援護しますから」
「無理はしない事」
「お互い様です」
慣れた調子の会話が終わるや否や。
無造作にレオンは扉に近づき、そして、すぐさま蹴破るように開け放った。
先程逃げ帰った部屋に、もう一度足を踏み入れる。
ただ、レオンはそれほど速く走らなかった。改めて部屋の様子を観察するためと、ステラの仮説を確かめるためだ。それでも、あまりゆっくりだと、モンスターに簡単に狙いをつけられてしまう。この辺りの兼ね合いは、ほとんどレオンの勘が頼りだった。
そのまま数メートル、真っ直ぐに直進する。視線の先には、扉から最寄りの大きな柱がそびえ立っている。
水面から何かが見ているような気配は感じたが、攻撃はない。
こうなると、ステラの言い分も真実味を帯びてくる。
向こうの事情も、理由も、そんな事は特定出来るはずもない。しかし、要は、ある程度柱の近くでないと、向こうは攻撃してこないのだ。
それを信じ切るわけにはいかない。
ただし、利用しない手はない。
最初の柱まであと数メートルというところで、レオンは突如駆けだした。
今日初めてここを通った時は、向こうは攻撃してこなかった。それは恐らく、こちらを奥まで誘い込むためだろう。ダンジョンでのモンスターの作戦としては、それは一般的な手法だ。
今回はどうか。
その答えが出たのは、意外に早かった。
厳かとも言えるこの場所の静寂を、爆発するような水音が破った。
予想通り。
というわけにはいかなかった。
あの小型の亀にしては、水音が大き過ぎるのだ。
音がした方角へ目を向ける。
そこから地を駆けて突進してくるのは、ある意味嫌な思い出のある、いつかの熊型モンスターだった。
「レオンさ・・・!」
後方からステラの叫ぶ声が聞こえたが、左手を挙げてそれを制した。
大丈夫。
声にはしないが、伝わったはずだ。
今回は、完全な不意打ちではない。
それに、同じ相手に二度敗北するわけにはいかない。
ところが、レオンが立ち止まって、右手をロングソードの柄に持っていった時だった。
聞き覚えのある小さな水音が、今度は背後から聞こえた。
不思議と慌てる事はなかった。
自分でも、まさにこのタイミングを選ぶだろう。そう思えるくらい、忌々しいまでのいい連携だった。
とりあえず、身を屈める以外ない。
身体が勝手にそう考えて、そして実際にそう動いた直後、頭の上を鋭利な質量が掠めていき、すぐ近くの壁に突き刺さった。
その時には、熊型の鉤爪が目の前にある。
この体勢では、避けようがない。
しかし。
自分でも驚くほど冷静に、レオンは右手の剣を鉤爪に合わせた。
当然、パワーで完全に負けている。
人間の手首では支えきれずに、ロングソードは弾け飛んでいく。
そして、レオンの身体も。
後方に転がるようにしながら、地面の上を引きずられるレオンだったが、どこか不思議な感覚がしていた。
焦りが全くない。
なんとなくだが、その理由は理解していた。要するに、一度同じ状況に遭っているからなのだろう。あの鉤爪にどれくらいの威力があるものなのか、自分の身体が知っている。だから、吹き飛んだ剣がある程度威力を吸収してくれたため、後方の池までは飛ばずに済むと、そういう安心感があった。
そうと分かれば、こちらのもの。
ある程度転がったところで、レオンは左手で地面を突いて、その反動で立ち上がった。
熊型の容赦ない追撃が、すぐ目の前に来ている。
しかし、助走が足りないためだろう。前ほどの勢いはない。
それもほぼ予想済みだった。今度は左手をショートソードの柄に持っていき、右手はすぐさまダガーを投擲した。
モンスターはそれを左の鉤爪で弾く。
だが、それでさらに勢いは弱まっていた。その僅かな余裕を利用して、もう一本のダガーを右手で握り、レオンは自分から間合いを詰めた。
ほぼ反射的な行動だろう。右の鉤爪で前を薙払ってくる。
その間合いをあっさり見切ったレオンは、左足を一歩引くだけでそれをかわした。
隙だらけだ。
それでも念のため、もう一度間合いに入って、モンスターの動きを見極める。しかし、突進のパワーさえなければ、ほとんど怖いところはない。それこそアレンに比べたら、子供のようなものだった。
業を煮やしたモンスターがこちらに飛びかかってきたところで、レオンは止めを刺す。
両爪の間の空間に足を差し込むようにして、モンスターの頭、つまり、大きな一つ目の正面に立った。
こうなると、まさに動かない的でしかない。
ほぼ無造作に突きだした左手の剣が、その中心を深々と貫いた。
力を失い、消えていくモンスターの身体。
しかし、立ちのぼる紫の煙を確認しながらも、レオンはまだ安心していなかった。というか、ここで安心する冒険者はいないのだ。
まだモンスターは残っている。
近接戦の最中に突撃を試みるのは、熊型の方がレオンより大きいだけに、亀型にしてみればあまり気が進まないところだろうとは思っていた。しかし、その熊型が破れた以上、その瞬間に襲われる可能性は大いにある。
倒してからの数秒間が、レオンにはとんでもなく重く感じられた。
この瞬間だけは、本当にどうしようもない。
熊型に吹き飛ばされた関係で、池が近過ぎるのだ。
早く伏せなければ。
それは分かっていたのだが、身体の反応が呆れるくらい緩慢だった。
体勢の問題。要するに、ここまで身体が予測出来ていなかったのである。
遅い。
間に合わない。
そう思った、その瞬間。
前よりもかなり近くで、水面の弾ける音が聞こえる。
まずいなと、どこか遠くで呟いている自分の声が聞こえた。
狙いが頭か、首かは分からない。背中だったら、もしかしたら、鎧のお陰で助かるかもしれないなと、本当に他人事のように、一瞬考えた。
いずれにしても、すぐに身体のどこかに千切れるような痛みが走るに違いない。
ところが。
そうはならなかった。
その代わりに聞こえてきたのは、瓶が割れた時のような炸裂音。すぐ背後だったため、驚きと同時に、その音風で身体に圧力を感じたほどだった。
それから僅かに遅れて、足元に破片が飛び散る音と、付近の柱に刃物が刺さる衝突音。
そして、声が聞こえた。
「レオンさん!」
誰の声かは、もちろん分かった。
すぐにそちらを見る。
純光源の範囲内なので、彼女の姿はすぐに見つかった。どういうわけか、20メートル程度先の、割と近くに立っている。
思考がまさに光速で閃く。
状況が一瞬で把握出来た。
つまり、彼女が魔法で守ってくれたのだ。氷壁を瞬間的に空間に作り出すのは、いくら彼女でも至難の業だが、ルーンにストックしていた魔法を利用して、その手順を省略したのだろう。
しかし、それが問題なのではない。
彼女が立っている位置が問題だ。
問題過ぎる。
ジーニアスが無防備にも、この部屋の中に立っている。
柱の傍に。
身体が勝手に駆けだしていた。
状況を再び把握する。
必要な情報は少ない。
自分がステラの位置に着くまで、ほんの数秒だろう。
ただし、モンスターの攻撃の方がそれよりも速い。
間に合わない。
先程の緩慢さが嘘のように、レオンの身体は俊敏で、そして、感覚がいつになく鋭敏化されていた。
自分なら、自分がモンスターなら、この瞬間を狙う。
仲間が倒された瞬間。仲間の攻撃が防がれた瞬間。
その瞬間こそ、一番隙が大きいのだ。
レオンは走る。
ステラまで、あと少し。
彼女の驚いている顔がよく見えた。
その時。
左奥の方角、その水面が膨れ上がるのが、レオンには酷くゆっくりと見えた。
そして、そのモンスターが一瞬後にもたらす惨劇の映像も、レオンの思考は残酷にシュミレートしていた。
あの攻撃がステラに命中したら。
頭でも、首でも、背中でも。
そんな事は。
それだけは、絶対に。
いつの間にか、レオンの左手はダガーを握っていた。
緑の影が水面から飛び出してくる。
もう、ステラには間に合わない。
ならば。
モンスターを撃ち落とす。
無茶も甚だしいという意見が大半だったが、レオンの表層意識がそれを黙らせた。
その時には、ダガーは左手から離れていた。
軌道が見える。
緑の、モンスターの軌道と、交われ!
願った。
願うしかなかった。
その直後に、レオンの感覚は元に戻った。
そして。
気がついた時には、四肢をついたレオンの下に、仰向けで横たわったステラの姿があった。
その白い魔導衣が赤く染まっている。そんな想像が一瞬頭を過ぎったものの、すぐに両目が捉えた現実が、その悪夢を僅かに和らげてくれた。
それでも、何度も何度も、ステラの服の色を、その下の地面の色を確かめた。
息が荒い。
自分が全身に汗をかいている事に気づくまで、レオンはしばらく時間が必要だった。
「あの・・・」
その怖ず怖ずとした声の主は、もちろんステラだった。仰向けのまま両手を胸の前で組んで、何やら緊張した面もちをしている。
でも、生きている。
大きな溜息が出た。生涯で一番大きな息だったかもしれない。
ようやくそこで、レオンは自分達が無防備な事に気付く。
しかし、それよりももっと重大な事があった。
軽く周囲を確認してから、レオンはステラの上から身体をどけて、その横に仰向けで寝転がった。
しばらく天井を見る。もちろん、何も書いてはいない。
隣のステラも、しばらく何も言わなかった。
モンスターがもういないとは決して言えないのだが、その危険を差し置いてでも、レオンはそうしていたかったのだ。
それがどうしてなのか、しばらくしてから答えが出た。
自分は怒っているのだ。
「どうして・・・」
その後の言葉は、喉の奥に消えてしまった。
一度に告げるには、言いたい事が多過ぎる。
そこでまた、やや間があってから、今度はステラが口を開いた。抑えられた小さな声だった。
「・・・だって、その、レオンさんが危ないと思ったので」
「確かに助かったけど・・・でも、ステラ、本当に分かってるのかな。あとちょっとで、取り返しのつかない事になってたんだよ」
「それは、レオンさんだって、そうです」
一度呼吸を整えてから、レオンは極力ステラを見ないようにしながら、努めて冷静に告げた。
「ステラ・・・ダンジョンの中にいる以上、どうしたって、危険はゼロには出来ない。ちょっとした誤算があって、怪我をするのは仕方ないと諦めるしかない。そして、だからこそ、鎧を着ている僕が前に出てるんだよ。万が一があっても、僕の方が軽傷で済む可能性が高い。僕はそのための訓練をして、ステラが後ろにいると思っているから戦える」
「・・・はい」
その返事が殊勝な響きを帯びていたので、レオンは意識して語気を弱めた。
「それなのに、そのステラが前に出てきて、あげく、なんていうか・・・あんな状況になったなんて、もう、本当に、信じられないよね」
「はい。本当にすみませんでした」
レオンはステラの方に顔を向けた。
彼女はもうこちらを見ていて、そして何故か笑顔だった。
「・・・反省してるの?」
「もちろんしてます。もう絶対に、同じ失敗はしません」
「じゃあどうして、そんなに嬉しそうな・・・」
「そんな事はいいんです」
そう言ってステラは、耐えきれずに吹き出してから、悪戯っぽく微笑んだ。
「それよりも、レオンさん、私に言う事があるんじゃないですか?」
「え?・・・あ、うん」
確かにその通りだった。どうしてステラの機嫌がいいのかは分からないが、しかし、言わなければならないのは間違いない。
どういう顔をしたらいいのか、それで少し悩んだが、結局レオンは、中途半端に微笑んで告げる事にした。少しくらいは、自分が怒っている事を示しておきたかったのだ。
「ありがとう、ステラ」
満面の笑みで、彼女はこう返事をした。
「ちょっと表情があれですけど・・・でも、はい。どういたしまして」
若干不安になったので、レオンは軽く目を細めて尋ねる。
「・・・本当に反省してる?」
「してますよ。レオンさんも、また助けてくれて、本当にありがとうございます」
「あ・・・うん」
笑顔が眩しすぎたので、結局レオンはそれ以上、何も言い返せなかった。
そのまま視線を逸らすように、また天井を向く。
モンスターはあれで全部だったのか。それとも、床に寝そべられては、狙いがつけられないのか。
いずれにしても、襲ってくる気配はない。
その静寂に半ば甘えるようにしながら、レオンは先程の感覚を思い出していた。今思うと、夏祭りの時、ステラが人質にとられた時の感覚に似ていた。
あれは、彼女だからこそ、つまり、大事な人の危機だからこそ、呼び起こされる感覚なのだろうか。いわゆる必死という名前の、純粋な感情なのか。
自分にも、そういうものがあったらしい。
あの感覚は、それほど嫌ではない。きっとあれが、夢中という名の感覚だったのだ。
ただし、あんな状況に遭遇するのは、二度と御免だ。
僅かでもダガーの軌道がずれていたら、きっとステラの命はなかった。
それに、もうひとつ別の感情もあった。
彼女の為に戦う。
その言葉は綺麗なようで、レオンにとっては、どこか違和感のあるものだった。まるで、戦う理由をステラに依存しているような、ステラにもたれ掛かっているような、そんな印象が否めない。
それは何か、違う。
もちろんステラの事は大切だし、危険があれば何を置いても守りたいとは思う。しかし、彼女は一般人というわけではないのだ。仮にステラが普通の町人だったら、彼女を守る為に戦うというのもいいけれど、でも、実際は同じ冒険者を志す仲間なのである。お互いを助け合うのは当然の事であって、しかし、それに依存してはいけない。
他の誰のものでもない、もっと自立した戦う理由が必要なのだ。そうでなければ、頼もしい大人にも、立派な冒険者にもなれない。ステラの仲間としても、彼女に依存しきりでは、きっと重荷になってしまうだけだ。
まだ、探さないと。
レオンは一度目を閉じて、そしてゆっくりと開く。その動作で、意識を切り替えるのだ。ダンジョンを進む為の意識へと。
周囲の気配を探る。やはり何も感じないが、しかし、油断は禁物だ。
「・・・そろそろ行こうか」
その言葉を待ち構えていたのか、ステラの返事は早かった。
「そうですね。もう十分休みました」
「えっと・・・そうか。また一度撤退して、出直さないとね」
「はい」
ステラの反論はなかった。反省したと言った手前、多少遠慮しているのかもしれない。
また、いろいろな意味で再出発だ。
少しずつ、少しずつ。
それでも、レオン達は確実に出口に近づいていく。
ファースト・アイも。そして、冒険者としての目標も。