手負いと共に
「全治2週間」
「・・・え?」
慣れた手つきで包帯を外しながら発せられたイザベラ医師の言葉に、レオンは思わず真顔で聞き返してしまった。
だが、そんなレオンを特に気にかける様子もなく、淡々とイザベラは意見を述べた。
「・・・のはずだったが、勉強熱心なパートナーに感謝するんだな。こういう時、医療知識のあるジーニアスがいるといないとでは、結構な違いが出る」
「それは分かってますけど・・・」
「分かっているなら、素直に返事しておきなさい」
「えっと・・・はい」
まだ聞きたい事があるレオンだったが、渋々頷く。
それでも、頭の中では先程の言葉が気になって仕方なかった。全治2週間という事は、またその期間休まなければならないのか。それほど時間に余裕があるわけでもないので、出来ればそんな事態は避けたい。
しかし、自業自得だと言われれば、反論のしようもなかった。
診療所のベッドの縁に腰掛けて、レオンは小さく溜息を吐いた。ここまで帰ってきてほっとしたのも束の間、思った以上に右腕は重傷だったらしい。
ファースト・アイの中でステラに魔法と併用した応急処置をして貰い、そこから荷物を手分けして運んでダンジョンから脱出し、左手だけでオールを漕いで、そしてやはり、左手だけで馬を駆って町まで帰ってきた。2人とも服を乾かす暇もなかったので、全身ずぶ濡れのままである。本当はそれくらいの時間をかけてゆっくり帰ってもよかったのだが、レオンの怪我の具合がはっきりと分からなかったので、一刻も早く診て貰った方がいいと、ステラが無理に付き合ってくれたのだ。
そのステラだが、今はこの病室にいない。2人の酷い有り様を見かねてイザベラが着替えを貸してくれたので、洗面所を借りている最中だった。従って、今はソフィもベッドの上で大人しくしている。レオンの着替えも、温かい飲み物も用意してくれていた。そこまでして貰うのも悪い気がしたが、湖から町まで馬を走らせた結果、身体が冷えていたのは確かだったので、ありがたい心遣いだと言える。
そして、今まさに右手の具合を診て貰っているところだった。レオンとステラの見立てでは、裂傷がいくつかあるが、鎧のお陰でそれほど酷くはない。ただ、打撲か骨折か曖昧なくらいには患部が痛むし、明らかに握力が弱まっている。
そういった経緯もあって、もしかしたら重傷かもしれないという懸念はあった。それだけに、先程のイザベラの言葉は、心の隅に止めを刺されたような印象が否めなかった。
「・・・だが、命があっただけで十分だ。よく頑張ったな」
「え?」
急にイザベラの口調が穏やかになったので、レオンは戸惑った。
イザベラはこちらを見ない。包帯を外しながら、患部に隙のない視線を送っている。それはいつも通りの彼女の相貌だ。
でも、どこか違う気がしないでもない。
いつもより優しいのだろうか。それとも、いつにも増して真剣なのだろうか。どこか怒っているようにも見える。
誰かに似ている。
その言葉が頭に浮かんだ時、レオンはふと気付いた。
この颯爽とした女医だって、母親なのだ。レオンの母親だとしてもおかしくはない年齢でもある。それに、血縁関係はないとしても、知り合いなのは間違いないし、やはり心配させてしまっているのだろう。
改めてそれに気付くと、レオンは言うべき言葉がなかなか見つからなかった。
結局、その後はしばらく会話のないの治療が続いた。とはいえ、とりあえず鎧と服を脱ぐ事が先決だった。いつまでも濡れたままではさすがに風邪をひく。どうやら旦那さんの物らしき、やや大きめのシャツとズボンに着替えてから改めて手当して貰い、その後毛布を羽織ってから、大きめのカップに入ったホットミルクを飲んだ。
レオンの対面の椅子に腰掛けながら、イザベラは長い息を吐く。そして、こちらを見ながらようやく言葉を発した。
「無茶をするのはほどほどにしなさい」
「・・・はい」
今度も素直に返事をすると、イザベラは少し微笑んだようだった。
「さっきは脅かしたが、そこまで重傷じゃない。ただ、せっかくだから、毎日ステラに魔法をかけて貰いなさい。それで多少は治りが早くなるし、魔法の練習にもなる」
「どれくらいでダンジョンに戻れますか?」
「3日」
「え・・・そんなものですか?」
全治2週間と言われた時もそれなりに驚いたが、まさか3日程度の怪我とも思わなかった。
イザベラは軽く頷く。
「怪我自体はそれほど酷くない。処置が良かったのもあるだろうな。右腕が動きにくいのは、どちらかというと精神的なものだ。要するに、身体が驚いている状態だと言える。水中で熊に襲われるなんて経験をすれば、そうなるのが普通だ」
確かに、普通はなかなか出来ない経験だと言えた。
「ショックの方が尾を引く可能性もあるが、恐らく心配ないだろう。明日か明後日には元通り動くようになるはずだ。ただ、怪我自体は3日で治るかもしれないが、他は私の領分じゃない。その後にアレンのところでリハビリするなり、ビギナーズ・アイに行ってみるなり、適宜必要だと思った準備を自分でしなさい」
「あ、はい・・・分かりました」
「後は、パートナーに感謝する事」
レオンは微笑む。
「はい。もちろん」
そう言ったところで、部屋の奥の方から足音が近づいてくる。ステラだろうと予想がついたので黙って待っていると、カーテンを開けて顔を覗かせたのは、やはり青い瞳の少女だった。
ただ、服装がいつもと違ったので、レオンは若干の違和感を感じた。僅かに紅色のついた淡いブラウスに、やはり淡いブラウンのズボン姿。一瞬、リディアだろうかと思ったが、よく考えてみれば、目の前にいるイザベラの格好によく似ている。不思議なもので、いつもよりも少しだけ理知的な雰囲気が感じられた。
「すみません、先生・・・服までお借りしてしまって」
言いながらステラはこちらに歩いてくるが、イザベラは軽く答えただけだった。
「気にしなくていい。もう私は着られないから、こんな機会にでも使わないと勿体ない」
「でも・・・」
「いいから。ステラもそこに座りなさい」
こうなると素直に従う以外にはない。ステラもそれは知っているので、大人しくレオンの隣に腰掛けた。それを見るや否や、ソフィがもったいぶったような足取りでベッドの上を歩き、やがてステラの膝の上に到着して、そこでゆっくりと丸くなった。ステラも当然とばかりに、慣れた手つきでその純白の毛並みを愛でるように撫でる。
そういった一連の動作をまじまじと見て、イザベラは何か言いかけたが、どうやらそれを一度取りやめたようだった。それからしばらく間を置いたところで、イザベラは不意にこちらを向いた。
「そのベッドに初めて世話になった日の事、覚えているか?」
質問自体はもちろん予想もしていなかった内容だったが、レオンはすぐに思い出せた。苦笑しながらレオンは答える。
「もちろん・・・どうやってビギナーズ・アイから帰ってきたのかは、未だによく分かりませんけど」
すぐにイザベラはステラの方を見る。
「ステラは覚えているか?」
聞かれたステラは、すぐにこちらを見てきた。恥ずかしいのか、不甲斐ないのか、そんな曖昧な表情だった。
「はい・・・あの時から、本当に守って貰ってばかりですね。今日もですけど」
今度は交互に視線を送りながら、イザベラは尋ねた。
「死との距離は自分の身体で感じ取れと言った。今も覚えているな?」
レオンとステラは同時に頷く。
するとイザベラは脇に置いてあったカップに口をつけた。もう誰も見ていなかった。
「それならいい」
その一言に、見習いの2人は何も答えなかった。
心配してくれている。そう言葉にするのは簡単でも、イザベラの気持ちはもっと複雑なもののように思えた。いつもサバサバしていて、そしてややドライに見えるイザベラは、やはり、多くの怪我や死と関わってきたから、こういう人になったのだろうか。それとも、ダンジョンから帰らない冒険者を待つうちに、こうならざるを得なかったのか。
きっと両方だろうと、レオンは思った。ただ、やはりそれも言葉だけの事なのかもしれない。想像して分かったような気にはなれても、本当のイザベラはもっと複雑で、そして大人らしく懐が深いはずだ。今のイザベラの、無表情であるともないとも言い切れない、そんな深みのある顔を見ては、そう思わざるを得ない。
頼もしいけれど、どこか寂しい。
前にハワードからも同じ印象を得た事があった。たまにだが、ガレットも同じような表情をしている事がある。
それが大人になるという事なのか。
レオンが求めているものなのだろうか。
大きめのカップに口をつけながら、レオンはただ、難しいなと思う。
なりたいからといって、なれるとも限らない。ましてや、歳を重ねれば得られるものでもきっとない。そしてもちろん、冒険者になったからといって、無条件で頼もしい大人になれるわけではない。
どうしたらいいのか。
そういった事を深刻な顔でレオンが考えていると、不意に部屋の奥が騒がしくなる。明らかに子供の声だった。
「む・・・帰ってきたな。すまないが、ちょっと見てくる」
椅子から立ち上がりながらイザベラがそう言ったので、レオンはすぐに言った。
「あ、僕達ももう帰ります」
イザベラの答えはやはり効率的なものだった。
「別に構わないが、どうせ酒場娘が嗅ぎつけてやってくるだろう。待っていた方が入れ違いにならなくていいと思うが」
「えっと、まあ・・・」
そう言われるとそうかもしれない。しかし、まさかこういった返し方をされるとは思わなかったので、レオンは返事に窮した。
ところが、ソフィを撫でながら黙っていたステラが、不意に気付いたように告げる。
「あ・・・来ますね」
「何が?」
部屋の奥を見ながら、ステラは控えめな口調でイザベラの質問に答えた。
「多分・・・リディアとブレットです」
小さく眉を動かしてから、イザベラが訝しげに尋ねる。
「ジーニアスの感覚というやつか。誰が来たとか、そんな事まで分かるのか?」
「いえ・・・私くらいだと、せいぜい人の体格が漠然と分かるくらいなので。ブレットは体つきが分かり易いんですけど、リディアは髪型でなんとなく」
「じゃあ、酒場娘かもしれないわけか」
そこでステラは少し微笑んだ。
「あ、いえ・・・ベティだったら、もっとブレットが警戒しているはずなので」
そんな会話をしているうちに、部屋の奥からドタバタという足音と子供が騒ぐ声がして、やがて仕切りのカーテンをめくって、イザベラとよく似た服装の少女が姿を現した。明るい髪と瞳が目を引く凛々しい印象の顔立ちは、間違いなくリディアだ。
ところが、どういうわけか彼女1人だけだった。
「どうも、先生。勝手にお邪魔してます」
軽く頭を下げるリディアに、イザベラは簡単に尋ねた。
「それはいいんだが、リディア1人か?」
変な質問だと思ったのか、やや戸惑った様子のリディアだったが、すぐに答えた。
「いえ・・・途中ブレットに捕まったから、ここまで仕方なく一緒に」
「そのブレットはどうした?」
「先生のお子さん達を送ってきたので・・・」
立ち上がっていたイザベラは、頷いてからリディアの方へ歩いていく。そのまますれ違って奥に向かおうとしたが、去り際に一度だけ振り返って、リディアに告げた。
「イスに座っていなさい。何か飲み物を持ってくる」
「あ、いえ。仕事中なので」
「少しくらい付き合うのも仕事だ」
有無を言わさぬ早さで切り返してから、イザベラは奥へと進んでいった。
しばらくの間、リディアはそちらとこちらを困ったように見比べていたが、何と言ったらいいのか謎だったので、結局レオンもステラも何も言えなかった。それでも、そのうち諦めたように息を吐いて、こちらに歩いてきた。
「2人とも、大丈夫?」
リディアはイスには座らずに、まずそう尋ねてきた。
「うん、まあ・・・」
レオンの返答に、立ったままでリディアは周囲を見渡した。
「鎧はそこにあるけど・・・剣は?」
「えっと・・・」
結局、ロングソードは回収しなかった。自分が取りに潜るのは無理があったし、仮にステラが行ったとして、仮に罠でもあったら目も当てられない。作ったそばから無くしてしまった事になるわけだから、報告するのは気が重かった。
ところが、答えあぐねたレオンの様子から、リディアは状況を察したようだった。
「剣はまた作ればいいから」
「いや、でも・・・」
「いいから」
はっきりと言い切ったリディアは、そこでイスに腰掛けた。レオンの正面にあるイスだが、斜めに向いて座ったので、どちらかというと、ステラと向かい合っている格好になる。
「2人が無事なら、それでいい」
小さいながらも、しっかりとした声だった。
そこでまた、見習いの2人は黙る。
こういう時、どう言えばいいのだろう。もう無理はしないからとか、もっと強くなるから大丈夫だと言えばいいのだろうか。ただ、例え何を言ったとしても、きっと重みのない言葉になってしまう。レオンもステラも、まだ見習いでしかない。
静かな空気。
いつの間にか、奥にいるはずの子供達もどこかに行ってしまったようだ。
「あ・・・」
そんな雰囲気の中、ステラが不意に声をあげる。
「どうしたの?」
尋ねるリディアに、やや言いにくそうにステラは告げた。
「えっと・・・来ました」
「先生?」
「いえ、多分・・・」
そう言っている頃には、足音がはっきりと聞こえ始める。
やがてカーテンの陰から姿を見せたのは、やや逞しくやや精悍で、そして満面の笑顔が眩し過ぎる青年だった。
「やあ。リディアもステラも、相変わらず綺麗だね。ステラは・・・今日は珍しい服装だけど、本当に、何でもよく似合うね」
女の子に対して出会い頭にそんな挨拶をする事は、レオンにとっては途轍もない難題なので、さすがブレットと妙な感想を抱いてしまった。
だが、どうやらそれに見合ったいい効果は得られなかったようだった。ぎこちなく苦笑するステラはともかく、リディアはにこりともしない。その冷たい表情そのままに、淡々と彼女は言い放った。
「帰ったら?もうすぐベティが来ると思うし」
その言葉がいつになく冷たかったので、レオンは少し驚く。そういえば、ここまで一緒に来たと言っていたから、その道中で何かあったのかもしれない。
しかし、さすがというべきか、ブレットの微笑みは揺るがなかった。
「今来たばかりだからね。すぐに帰るのはマナーに反するというものだよ。特に、少なからず親しくさせて貰っている以上は、礼を尽くすのが道理というものだ」
「親しくしているつもりはないけど」
「そうかもしれない。だけど、それでも僕にとっては十分だから、何の問題もない」
朗らかに言い切ったブレットをしばらく見据えた後、諦めたようにリディアは溜息を吐いた。ベティやデイジーがいればまた違うのだろうが、傍目にもお手上げという印象が強かった。
そのリアクションを許可ととったのか、ブレットは部屋の中央まで歩いてきて立ち止まる。レオンとステラが座っているベッドは部屋の端にあるから、微妙な距離を残した場所だった。
その場所からブレットは、意外にもこちらに話しかけてきた。
「怪我をしたようだが、具合はどうなんだ?」
先程と比べると、明らかに中途半端な笑顔だった。しかし、心配してくれているのは間違いなさそうなので、レオンは微笑んで答える。
「あ、うん・・・そんなに大した事はないって。ステラが治癒魔法を使ってくれたのも良かったみたいで」
改めてステラにお礼を言わなければならない。そう思ったレオンだったが、ブレットの言葉の方が数段速かった。一瞬で切り替わる笑顔を含めれば、まさに神速の動きと言える。
「さすがだね。ステラの加護と笑顔があれば、例えどんな脅威に相対したとしても、それに立ち向かう勇気となるだろう。少なくとも僕ならば、ステラが後ろにいると思っただけで、どんなモンスターを相手にしても戦える」
いったい何の話をしているのか。正直レオンには謎だったが、どうやらステラもそれに近い印象を抱いているらしい。こちらやリディアに困ったような視線を送っているので、恐らく間違いない。
どうしたものかとレオンが迷っているうちに、リディアがステラに質問した。先のブレットの言葉とは全く繋がりのない内容で、どうやら無視するつもりらしい。
「ラッセルから聞いたんだけど、ずぶ濡れになって歩いてたって」
「えっと・・・あ、うん」
リディアとブレットを交互に見ながら困ったようにしていたステラだったが、やがてリディアを見て頷いた。
しかし、リディアはブレットを気にかける様子もなく、話を先に進める。
「そのラッセルはガレットさんに用事があるって言ってたから、多分、ベティにも伝わっていると思う。だから、もうすぐここに来るはず。着替えも持ってきてくれると思う」
「そう・・・でも、先生が服を貸してくれたから、ベティには悪い事をしちゃったかも」
「ううん」
首を振るリディア。かすかに微笑んでいるように見える。
「心配だから。何もなくても飛んでくると思う。ベティはそういう人」
ステラも微笑む。
「うん・・・そうかも。リディアも、すぐに来てくれてありがとう」
「私は・・・仕事だから」
こちらとステラを交互に見ながらリディアは言った。しかしながら、照れたように頬を染めているので、説得力がなかった。
そこで、後方に控えているブレットが口を挟む。彼はニコニコしていた。
「やっぱり、ステラには人を惹きつける力があるね。僕の言った通りだ」
そちらを一瞥もせず、リディアは冷たく答える。
「そんなのじゃない。もちろん、ステラは綺麗だと思うけど、でも、そんなのは大した事じゃない」
「いや、僕が言っているのは・・・」
「私、最初はステラの事が好きじゃなかった」
突拍子もない事を脈絡もなくリディアが言い出したので、レオンもブレットも驚いた。
ただ、ステラだけは違った。
どこかで見たような、優しい笑みでリディアを見つめていた。
その笑顔を受けるリディアも、自然と表情を綻ばせる。
「最初の頃のステラは、とにかくオドオドしていて、頼りなくて、どうしてこんな子をベティが気にかけるんだろうって、そう思ってた。はっきり無理だって言って諦めさせてあげればいいのにって、ベティに言った事もあるくらいだから」
衝撃の事実を暴露されて押し黙るしかない男性陣だが、ステラは苦笑気味に言った。
「うん・・・少し前だけど、こっそりベティが教えてくれた事があるから」
リディアは小さく頷く。
「何も言わなくても、ベティやデイジーは分かってたと思う。私はステラの事が好きじゃなかった。それは多分、昔の私と似てたから。男の人が近づくだけで怯えてた自分とよく似てたから、そして、その惨めさをよく知ってたから、だから、どうしても好きになれなかった。そんな惨めなままで冒険者になりたいなんて無理に決まってる。どうせすぐに挫折して帰るに決まってると思ってた。でも・・・」
右手を伸ばして、リディアはステラの左手に触れる。
「本当は全然違った。過去の辛い事はもちろん、大きな身分を捨てる決断をして、それでも健気に頑張ってる。自分の弱さを認めながら、それでも諦めずに努力してる。昔の私は、ただ逃げる事しか出来なかったのに、ステラは全然違う。本当は、凄く強い人だった」
「そんな事ない。ベティとリディアとデイジーと、みんながいたから、今までなんとかやってこれただけ」
「それでも、普通だったら逃げ出す人もいる。仮に私が同じ立場だったら耐えられなかったと思う。途中で逃げ出したと思う」
ステラは優しくリディアの手を握った。
そして、静かに一言、囁くように告げた。
「逃げてないよ」
じっとステラの青い瞳を見つめるリディア。
そんなリディアにステラは言った。
「私ね、最初見た時から、リディアの事が好きだった」
レオンはステラの横顔を見る。
晴れ晴れとした笑顔というのだろうか。とても自然体の、全く陰のない表情。
素直に言えば、綺麗な笑顔だった。
「格好いい人だなって。真面目で真っ直ぐで、でも優しくて、そしてやっぱり強い人だって、そう思った。こういう人になりたいなって。ううん・・・こういう人がいるんだなって思った。夢の中のイブさんは憧れだけど遠い存在。ベティやデイジーだって、私に比べたらとても強い人。でも、こういう言い方は良くないけど、リディアみたいな普通の人でも、こんなに格好よく生きられるんだって、そう思ったの。だから、もしかしたら私でもなれるかもしれないって、弱い人間でも戦えるのかもしれないって、教えてくれたのはリディアだから」
手を握って見つめ合う少女2人。
その光景に目を奪われながらも、レオンは思った。
強く生きているんだ。
自分が無力だと知りながら、そう思い苦しみながらも、真面目に誠実に。
いや違う。
生きるという言葉自体が、きっとそういう意味なのだ。
弱い自分がいくら嫌いになったとしても、自分から逃げ出す事は出来ない。それこそ、自分から逃げるには死ぬしかないのだから。自分の弱さと付き合いながら、認識しながら、それを耐える苦しみこそが、生きる上での苦しみそのものという事なのか。
そういった事を嫌というほど思い知った時、イザベラやハワードのような表情ができるのだろうか。あれは、ずっと自分の無力さに苦しんできて、疲れ切った表情なのか。
凄い。
今までの16年間でさえも、自分の無力さが嫌になった経験は数え切れないほどある。その倍以上生きながらも、彼らは真面目に毎日を生きている。その間ずっと自分を投げ出さなかったのだから、その精神力は伊達ではない。
或いは、それを差し引いてもなお余りあるほどの喜びが、人の生にはあるという事なのかもしれない。
ただ、レオンは思った。
自分はどうなのだろう。
もしかしたら自分は逃げていないだろうか。逃げているから、大人になれない。惨めな自分から目を逸らしているから、弱いままなのか。
そうかもしれない。
少なくとも、その印象は拭えない。
ただ、それだけではないような気もするのも、また確かなのだが。
まだ何か手がかりが足りないのだろうか。
いかほどの時間が経ったのか、リディアは一度目を閉じて、そしてゆっくり開いてから、微笑みつつステラに告げる。
「・・・今は私もステラが好き。ベティやデイジーと同じくらい、私の大切な友達」
嬉しそうに、寂しそうに、ステラの表情が動く。
「ありがとう」
「ステラは?」
「え?」
珍しくリディアは悪戯っぽく笑った。ベティとデイジーの面影が感じられた。
やや戸惑ったようにしながらも、ステラはやがて笑顔で答える。
「私は最初からずっと好き。リディアもベティもデイジーも、みんな優しくて素敵な、私には勿体ないくらいの、大切な友達」
「勿体なくなんかない」
「うん・・・でも、ちょっと怖いから。こんなに急に仲良くなれていいのかなって。だから、もうちょっとだけ、勿体ないとか怖いくらいとか付けさせて」
「・・・そういうところは弱気過ぎるかも」
不満そうに呟くリディア。
しかし、数秒程して、突然2人は吹き出して笑い出す。何か可笑しい事があったようだった。
でも、幸せそうだ。
こういった幸せを見せてくれるのが、レオンにとっても一番嬉しい。仲間とはいえ、男であるレオンでは、なかなかステラを素直に笑わせる事は難しいだろうから。
「さて・・・僕はそろそろ失礼しようかな」
ニコニコしながらブレットが言った。
そちらにどこか冷たい視線を送るリディアだったが、ふと気付いたようにステラに尋ねた。
「そういえば、私が部屋に入ってきた時、先生がブレットの事を聞いてきたけど、どうして一緒に来たって分かったの?」
ここぞとばかりに、ブレットが答えた。
「それはもちろん、僕とリディアの仲だから、一緒にいるのが妥当だと・・・」
「私とブレットが一緒にいるのは、普通は考えにくいはずだけど」
ほとんど無視する形で、ブレットの発言を切り捨てたリディア。
そこで怖ず怖ずとステラは答えた。
「一応、フィオナさんの真似事くらいは出来るようになって・・・それで、玄関から入ってきた時に、だいたいの容姿から、リディアとブレットじゃないかなって、私が先生に言ったから」
これにはリディアも瞳を見開いた。
「本当?凄い」
「ううん。そんな・・・」
謙遜するステラに、やはりというべきか、すかさずブレットが言葉をかけた。
「いやいや。やはりステラは素晴らしい。才色兼備とはこの事だね」
その言葉の主に冷たく一瞥してから、リディアはステラに告げる。
「・・・ベティが今どの辺りにいるのか、教えてやって」
「あ、えっと・・・間に扉とかを挟むとその先は感じ取りにくくなるから、外の事はちょっと」
だが、まさにその時だった。
この部屋に直結している勝手口のドアの向こうから、僅かながら話し声が聞こえてきたのだ。片方は知らない老人のものだったが、もう片方は、まさにタイムリーな少女のものに違いなかった。
それに気付くや否や、ブレットの行動は早かった。
「では、失礼する」
その言葉が聞こえた頃には、既にブレットは仕切りのカーテンに手を掛けていた。
ところが、そこにはちょうどイザベラがいた。両手に新しいカップを持っている。どうやら、リディアとブレットの為に用意してくれたものらしい。
怪訝な顔をしたイザベラだったが、すぐにブレットに言った。
「なんだ、もう帰るのか?子供達が世話になったみたいだから、お茶くらい飲んでいきなさい」
危機的状況とはいえ、さすがのブレットは律儀にも笑顔を作った。
「いえ、せっかくですが・・・まだ他に用事もありますので」
「そうか?まあ、無理にとは言わないが」
「すみません。また後日に・・・」
そう言って通り抜けようとするブレットを、イザベラはまたも呼び止める。
「ああ、ちょっと、そちらはダメだ」
「はい?」
きょとんとするブレットに、イザベラはあくまで淡々と告げる。
「子供達が大騒ぎしたお陰で、今旦那が掃除中なんだ。悪いが、勝手口から出てくれるか」
この時確かに、ブレットの顔が固まった。
そしてどういうわけか、それからしばらく誰も喋らなかった。イザベラは状況が分からなかったから。レオンとステラも似たようなもの。リディアの場合、最初から口出しする気はなかったのだろう。そして、ブレットは明らかに、予想だにしない展開に状況を把握し直すのに時間を要しているようだった。
その気持ちは、レオンにも分からないでもない。冒険者なら、退路がいくつあるのかという情報は常に把握しておくものだ。そして、ふたつ以上ある場合、やはり無意識に安心する。一方から敵がやってきても、もう片方から逃げられるからだ。それ故に、いざという時にその退路が使えないとなると、動揺も大きい。
ただし、結局のところ、ブレットがそこまでベティを怖がる理由の方は、未だにはっきりとは分からないのだが
そんな思案をレオンが終わらせた頃、イザベラがブレットに声をかけていた。
「どうした。勝手口がそんなに嫌いか?」
もしかしたらジョークのつもりだったかもしれないが、今のブレットはとてもじゃないが笑えなかったのだろう。
「いや、あの・・・」
いつのなく歯切れの悪いブレットを見て、ますます眉をひそめるイザベラ。
その時、扉の外でうっすらと聞こえていた会話が終わったようだった。そして、次第に軽快な足音がはっきり聞こえてくる。
なんとも言えない表情で勝手口を見つめるブレットを確認して、イザベラはようやく状況を理解したようだった。ただ、理解したらしたで、呆れかえってしまったようだったが。
「なんだ・・・そんなくだらない事か」
「くだらないって・・・」
言い掛けるブレットに、イザベラは淡々と告げた。
「経緯はよく知らないが、いい機会だから、ここで倒してこい」
とんでもない事を言い出したとレオンは思ったが、どうやらブレットも同感だったらしい。
「た、倒せって・・・」
「無理じゃないだろう?相手は女の子で・・・まあ、一般人とは言えないかもしれないが、恐らく大丈夫だ」
「恐らくって・・・」
勝手口とイザベラを交互に見ながら狼狽するブレットに、イザベラは言い放った。
「なんと言っても、ここは診療所だ。怪我をしてもすぐに診てやれる。死なない限りは、だが」
最後の一言が不吉過ぎた。
そうこうしているうちに、勝手口がノックされる。物凄い形相で、ブレットはそちらを見つめていた。
その光景をベッドに座って見ていたレオンは、ふと思った。
ブレットには怖いものがある。
だけど、自分にはない。いや、ないように思える。
もし自分にだけないとしたら、やはり、前世との類似性を意識せずにはいられなかった。
だが、そんな事とは関係なく、この後ブレットには災難が降り注ぐ事になる。ただ、その災難というものは、見ているだけなら非常に鮮やかでアクロバティックなものだったし、その足技を出した後、彼女はその屈託のない笑顔でステラやリディアを明るい表情にしていた。もちろん、その太陽のような明るさは、レオンにだって区別はない。
だから、ブレットには悪いけれど、概ね楽しいひとときだった。生きて帰ってこれてよかったと、レオンはもちろん、ステラも思ったはずだ。
ここまでを含めて、久しぶりのファースト・アイが終了したと言える。
夏祭りや訓練など、いろいろな事があったけれど、大きな目で見れば、それらが全てプラスに働いたと言ってもいいのではないだろうか。少なくとも、まだ戦える、先が見えると思える。前よりもいろいろな面で成長出来たのは間違いない。
もちろん、まだまだ弱い面もあるけれど。
でも、それは当たり前だ。そうやって、弱さを引きずりながら歩いていくのだから。
その先にある、頼もしい大人へと至る扉。その形が僅かに見えてきた気がした、快晴の秋の日だった。