朱と淵
ファースト・アイ攻略再開の初日は、最初の下り階段を見つけたところで休む事になった。以前は1層目の攻略すらままならなかった事も思えば、順調過ぎる結果だと言える。
その翌日は2層目からスタートしたのだが、思いの外すぐに下り階段が見つかって、正直拍子抜けしたほどだった。運が良かったと言えばそうなのだが、先に進めるに越した事はないので、ありがたくレオン達は3層目に踏み入る事にする。
だが、比較的順調だったのはここまでだった。
3層目を何部屋か進んだところで、レオンはある事に気付いていた。
「ちょっと、湿っぽいですよね」
背後からの声に振り返ってみると、ステラが周囲を見渡しているところだった。柔らかいブロンドが首の動きに従って揺れる。手には杖とランタン、肩にはソフィという、いつもの状態だ。
一旦立ち止まってから、レオンは答えた。
「・・・湿っぽいというより、完全に水場って感じだけど」
「はい。まあ・・・」
ステラも立ち止まる。特に冗談を言ったわけではなかったのだが、控えめに微笑んでくれた。
2層目でも薄々感づいてはいたのだが、3層目は明らかに水場になっているところが多い。今歩いている部屋も中央は陸地になっているからいいのだが、両サイドに大きな池があるから、とりあえず歩けない。とりあえずというのは、底が見えないという意味である。どれくらいの深さがあるのかは潜ってみないと分からないのだが、そこまでやってみる気にはなれなかった。
そういった変化もあって、元々洞窟然としていたこのダンジョンだが、さらにその印象が深くなっている。青い燐光混じりの床や地面、巨大な柱が乱立したデコボコした地形は相変わらずだが、時折水場まで見られるようになったので、どこからかシカやリスが出てきそうな、そんな錯覚を覚えるほどだ。
しかしながら、当然そんな可愛らしい生命体は潜んでおらず、もっぱら奇襲してくるのは、異形な姿をしたモンスターなのだが。
こういった場所で戦闘をするのは、やはり有利とは言えない。レオンもステラも、水の中では満足に戦う事が出来ないから、常に落とされないように注意を払わなければならない。これまではこういった部屋を避けて戦ってきたのだが、この先水場だらけになってしまったらそれも難しくなる。仕方ないと言えば仕方ないが、無視し難い問題ではあった。
ここで、レオンはふと疑問が浮かんだ。
「あ、もしかして、湿度が高いと、ジーニアスは疲れやすかったりする?」
こういった事は聞かなければ分からない。それに、ステラは遠慮して言わない事が多々あるので、レオンは真剣な眼差しを強調してみせた。
だが、ステラは微笑んでみせた。ひとまず、不自然な表情には見えなかった。
「いえ、これくらいなら大した事はないです。例えば、息をするのも大変なくらい大雨だったりとか、普通の人が倒れるくらい暑かったりとかだと問題ですけど。でも、結局、ジーニアスでもそうでなくても、それは同じですから」
少し考えて、レオンは小さく頷く。
「まあ・・・そうか」
「とにかく大変なのは人混みなんです。それでも、慣れればある程度は大丈夫ですけど・・・私の場合、故郷では夏がとにかく暑いし、蒸して過ごし難いところでしたから、むしろ湿気には多少慣れがあるかもしれません」
「なるほど・・・」
そう言われると、レオンも標高が高くて緑の多い場所で育ったから、ある程度湿気に強いかもしれない。ただ、暑いのにはきっと弱いだろう。人が倒れる程の暑さというものが、未だに未知の領域と言えるくらいなのだから。
再びステラは周囲を見渡した。
「でも、あまり有利な場所じゃないですよね。ニコルさんの、その・・・それも、使いにくいんじゃないですか?」
「あ、うん・・・ある程度は湿度に強いように工夫してくれているけど、でも、そうだね。ここまで水場だらけになるとは思わなかったから、ちょっと誤算だったかな」
そこでステラは、こちらをじっと上目遣いで見つめてきた。
「それに、もし池に落ちたら、レオンさんは大丈夫なんですか?」
一番それが心配なんですよと、顔に書いてある気がした。
レオンは苦笑しながら自分の頭に手をやる。
「そればかりは、落ちてみないと分からないというか・・・」
今まで事ある毎に泳ぎについて話題になっていたのだが、まさかここまで重要になるとは思わなかったので、レオンは全く訓練していない。そもそも、16年間生きてきて一度も泳いだ事のない人物の方が珍しいのかもしれないが。
ところが、この返答がよくなかったらしい。ステラの瞳の光が一際力を増した気がした。目を逸らしたいような、逸らせないような。ある意味理不尽な効力を持つ青い瞳だ。
「そんな事言って・・・絶対に無理しないで下さい。泳げない人が落ちたりしたら、本当に、冗談じゃ済まないんですからね」
「まだ、泳げないかどうかは分からないんだけど・・・」
「冗談じゃ済まないんです」
「いや、だから・・・」
「冗談じゃ済まないんです」
「・・・うん、分かった」
彼女の剣幕に勝てそうもなかったので、レオンには大人しく頷く以外の選択肢はなかった。
何か仕事をやりきったかのように小さく息を吐くステラに、今度はレオンが尋ねる。
「そういえば・・・そう言うステラは泳げるの?」
やや遠慮がちながらも、ステラは小さく頷く。
「はい。一応・・・でも、前にも言いましたけど、あまり上手ではないんです」
「そっか・・・あ、じゃあ、ステラだって、落ちたら危ないって事?」
また先程の眼力が戻ってくる。
「だからって無理しないで下さい。私はなんとかなりますから」
「・・・分かった」
また先程のにらめっこをするのは、やはり避けたかった。
さすがに同じ部屋に寝泊まりしているだけあって、最近のステラはベティに似てきたような気がする今日この頃だった。少なくとも、精神的に逞しくなってきた気がするのは、きっと気のせいではない。ただ、ステラは常日頃から、ベティのような強い女性になりたいとも言っているから、何かしら努力している可能性もある。
そして、その事に関して、もちろんレオンも悪い気はしない。最初の頃の引け目がちだったステラと比べれば、はっきりと意見してくれるようになって嬉しいくらいだ。
「何か変な事言いました?」
そのステラの声で、レオンは自分の表情が綻んでいるのに気付いた。
目の前には、ステラのきょとんとした表情。
表情を変えないまま、レオンは返事をしようとした。何でもないよと口にするだけの事。
だが、それは急遽キャンセルされる。
要因は3つ。
静寂そのものだったダンジョン内に、突如両側から、大きな水音が響いてきた事。
ステラの肩からソフィが飛び降りた事。
そして、あまりにも馴染み深い、身体を駆け巡った危機感。
モンスター。
レオンの感覚は、一瞬で戦闘時の鋭敏さに達していた。
ステラの驚いた表情がよく分かる。完全に予想外という顔。自分のジーニアスの感覚で、潜んでいたモンスターに気づけなかった事に驚きを隠せなかったのだろう。
少し、マズい。
そう感じながら、レオンは両サイドに一瞥ずつ視線を送る。
どちらからも、熊に酷似したモンスターがこちらに突進してきている。サイズは一般的な親熊並程だ。前に見た事のある、全身が鱗で覆われたタイプのモンスターだ。要するに、泳ぎに適した姿なのだろう。
あのサイズの熊の突進を受けたらひとたまりもない。
特に、鎧のないステラは怪我で済まない。
ここでレオンの心中に、焦りが大きく顔を見せた。
完全に不意打ちされているステラは、恐らく対処が間に合わない。そもそも、今から魔法を準備しても遅い。
状況を把握する。
今は灯りがある。ランタンと純光棒。ただし、ステラにランタンを守る余裕はない。
場所は比較的平坦。近くに巨大な柱がひとつある。位置はステラの方が近い。
モンスターとの距離はどちらも30メートル程度。
突進の速度からすれば、接近まで1秒あるかないか。
これだけの事を、レオンの頭は一秒未満で掴み取った。そして、それらを無理矢理思考の中にねじ込んで、行動を決断する。
まずレオンがしたのは、ステラの肩を思い切り突き飛ばす事。
柱の陰に倒れてくれればいいと思ったが、そこまで確認する余裕はない。そうなったものと勝手に思い込んで、ステラが陰になれない方、つまり、ステラから見て柱の反対側から襲ってくるモンスターの方へ、レオンは一歩踏み出した。
動けたのはこの一歩だけ。
右の剣の柄に触れるのは、なんとか間に合う。
その時には既に、モンスターの鉤爪が目の前にあった。
両方の前足。その軌道を予測する。
このままだと、片方が左肩に、片方が右胸に当たるだろう。
その隙間に入り込むように、レオンは体勢を半身にする。
鉤爪がレオンの両側を通過していく。
本来なら、ここでカウンターするべきではある。
だが、もう剣を抜く暇がない。
レオンは体勢を低くして、モンスターの脇腹の下を潜り抜けるように身体を投げ出した。
熊型の堅牢そうな体表が頬を掠めていく。
すれ違うようにして突進をなんとか避けたレオンは、地面を転がって、膝を突いた体勢で止まる。視界には普段通りのダンジョン風景が映るのみ。
休む暇はない。
そして、ここで振り返って状況を確認する余裕がない事は分かっていた。もう一体の追撃がすぐ背後まで差し迫っている可能性が高い。
この体勢では、それを満足に避ける事も難しい。
ここで、一瞬の逡巡。
決断も一瞬。
何も出来ないよりはいい。
左手は既に腰の粘着弾を掴んでいた。それをもぎ取りながら、先程すれ違ったモンスターめがけて、振り向きざまに投げる。
はっきり言って、場所は適当だった。あの勢いなら、大体あの辺りにいるだろうと、勘を頼りに投げたのだ。
少なくとも、足止めはしないとステラが危ない。
そして、振り返ったレオンの目には、だいたい自分の予想通りの場所に四肢を突いているモンスターの姿があった。
しかし、着弾までをその目で確認する事は出来なかった。
視界の大部分を占めていたのは、やはり予想通りこちらへと飛びかかってきていた、熊型モンスターの大きな鉤爪。
もう避けるなんて段階ではない。
狙いは、左胸と首辺りか。
首はさすがにひとたまりもない。
本当に僅かだが、レオンは身をよじった。
直後。
両の鎖骨が弾け飛んだような感覚。
しかし、すぐにそれは錯覚だと気付いた。
本当に弾け飛んだのは、身体の方。
視界が回る。
見えない力で地面を引きずらているようだった。
そして。
宙に投げ出されたような浮遊感が僅かに訪れた後、聞こえたのは華々しいまでの音。
次に、身体にまとわりついて、そして浸透するような独特の感覚。
さらに遅れてやってきたのは、呼吸困難と、それに伴う焦りだった。
落ちた。
それ以外、何も考えられない。
光源は水に濡れて消えてしまったのだろう。ほぼ真っ暗と言ってもいい状態に加えて、左右どころか、地面がないので、どちらが下かも分からない状態だった。
ただ、僅かに明るい方角がある。
そちらに向けて、レオンは必死に進んだ。もっとも、どうやって進めばいいのかはよく分からない。とにかく闇雲に手足を動かして、明るい方向へと進むように願った。進み具合はさっぱりだったので、気持ちだけで進んでいる印象だ。
それでも、なんとか揺れる水面が見えてくる。
そこから顔を出したレオンは、とにもかくにも、呼吸した。
こんなにも空気は美味しいのかと、改めて感動したくらいだった。
しかし、それも一瞬の事。
遠いランタンの灯りを背にこちらへと駆け寄ってくる、モンスターの大きな一つ目が視界の中に飛び込んでくる。
目が合ったとレオンが認識するや否や。
熊型モンスターは突進の勢いのまま地面を蹴って、矢のように飛びかかってきた。
思考は走った。
だが、いっそ呆れるくらい、レオンには出来る事がなかった。
相手の爪を避けるように頭を動かして、息を止める。
これが精一杯。
モンスターの着水と共に、猛烈な水しぶきがやってくる。
それを目眩ましにするようにして、モンスターの鉤爪が再び、レオンの両肩辺りを捉える。
鈍い痛みの後に、大木が倒れてきたかのような重量感。
一気に水中へと引きずり込まれる。
また何も見えない。
ただ、今度はしっかり息を止めていたので、レオンは前ほど慌てなかった。それに、目の前にモンスターがいるのも分かっている。どこから襲われるか分からないよりも、断然いい。
それでも、ここで喉笛にでも噛みつかれたら終わりだ。
レオンは左手に短剣を掴み、顔の前にかざす。水中なので、うんざりする程緩慢な動作だったが、それはお互い様のはずだ。
そして、右にはロングソードを握った。
ところが、その時。
不意にやってきた背中の硬質な感触に押しつけられる格好になる。
壁だ。
それに合わせたかのように、モンスターの気配が突如膨らんだ気がした。
咄嗟にレオンは剣を持った右手をかざす。
それでも、その上から、モンスターの鉤爪が攻撃してくる。
手首に痛みと衝撃。
思わず顔をしかめるレオンだったが、まだ攻撃は終わらなかった。
二度、三度。
単調ながらも執拗な攻撃。
痛みもそうだが、受ける度に息が苦しくなるのが分かった。右腕が動かなくなるよりも前に、息が続かなくなりそうだ。
これは、本当にダメかもしれない。
その印象を裏付けるように、かすかに鉄の匂いが鼻を掠める。血が出ているのかどうかは、暗くて見えないが、どちらにしても後がないのは確かだった。
モンスターの攻撃はまだ続く。
隙を突こうにも、水中でそんなに速い動きは出来ない。
本当に、マズい。
右腕はもう感覚があまりない。剣をまだ握っているのかどうかさえ自信がなかった。
呼吸も苦しい。
何も考えられなくなりそうだった。
ステラは無事だろうか。もう1体には、ちゃんと粘着弾が当たっただろうか。もし当たっていれば、後は魔法で倒せるはずだ。
それなら、いいか。
その言葉がスイッチだったのか。
レオンの身体と心が、不意に楽になる。
もう、いい。
この1体も、不意を打たれさえしなければ、ステラは対処出来るはずだ。陸にはまだランタンの灯りが残っていた。決して条件は悪くない。
大丈夫だ。
自信さえ持てば、ステラなら、きっと・・・
レオンは水の中に意識を手放そうとする。
だが、その時だった。
突然水が震えた。
そう感じたのも束の間。
暗黒の水の中、モンスターの影からそれは確かに垣間見えた。
青白い光点。
それを見た瞬間、消えそうだった意識があっという間に身体に戻ってくる。それどころか、戦闘時の鋭敏さを取り戻していた。
何が起きたのか、彼女が何をしているのか、瞬時に理解出来た。
どうして、そんな無茶を。
だが、レオンは何よりもまず、モンスターの気配を把握する事に努めた。自分を無視してステラの方に向かうような事があったら、何としてもそれを阻止しなければならない。
だが幸いにも、モンスターはレオンを殴る事に夢中のようだった。もしかしたら、血の匂いに興奮しているのかもしれない。
そうこうしているうちに、光点は水中を鮮やかに動き回る。やはり、以前の物よりも断然速くなっているし、軌跡によって書かれるサインも複雑に見える。
そして遂に、それが光を放って消えた時、モンスターの身体に変化が起きた。
ぎこちなくなっていく動き。その周囲を次第に覆っていくのは、暗闇を僅かに歪ませる透明な結晶、つまり氷なのだろう。
その前兆の後、モンスターは動きを止めた。そして、左前足を振り上げた体勢のまま水中に沈んでいったが、それもほんの数秒の事で、すぐに溶けていくように存在感を失っていった。
終わった。
終わる時は、本当に一瞬だ。
そう直感すると、レオンの意識がまたも途切れそうになる。
だが、そのレオンの左手を掴む感触があった。
ぼやけた視界に、青い瞳が映ったような気がした。そんな物が見える程明るくはないはずなのだが、でも、事実としては間違っていない。
その手が優しく引き上げてくれる。
灯りがある方へ。空気がある方へ。
何だか天に召されるみたいだなとレオンは思った。新しい人生への旅立ちだろうか。
しかし、もちろんそんな訳はなかった。
もっと苦しくて、でも優しい、今の人生がまだ続く。
水面に顔を出したレオンとステラは、何も言わず一目散に岸を目指した。そして、陸に上がってすぐさま座り込む。2人とも完全に息が切れていて、何も話せない有様だった。
しばらくして、ようやく周囲を観察する余裕が出来たレオンは、いろいろな事に気付いた。とりあえず、ステラは隣にいる。ソフィも、遠くにあるランタンの傍に座っているようだった。つまり、みんな無事だ。ステラはしっかりと杖を持っているが、レオンのロングソードはやはりもうなかった。しかし、命があったのだから、それくらいは安いものだと言える。
「助かった・・・ありがとう」
微笑みながら、レオンはステラにお礼を口にした。
ところが、すぐにはステラの返事がなかった。灯りが遠い上、逆光になっているので、表情は見えない。
「・・・ステラ?」
訝しんでレオンが声をかけると、ようやく返事があった。
「無理しましたね?」
その言葉の内容も意外だったが、しっかりとした口調の中に声の揺らぎを感じ取って、レオンは慌てた。
「あ、その・・・ゴメン」
結局、謝るしかない。
それに対するステラの反応は、なんとも言えない複雑なものだった。落ち着いているようにも見えるが、呼吸を荒げているようにも見える。怒っているのか泣いているのか、レオンには分からなかった。とにかく暗がりなので、目立った動きがないという事しか分からない。
やがて、ステラは大きな溜息を吐いたようだった。その呼吸も少し揺れている。やっぱり泣いているのだろうかと思って、レオンは心配になった。
それでも、次のステラの言葉はしっかりとした口調を取り戻していた。
「もう・・・いいです。私だって油断してましたから」
「油断って?」
「水中の気配は感じ取りにくいんです。いえ・・・実は、今初めて知りました。でも、よく考えてみれば当たり前の事なので、知識を応用出来なかった私の責任です」
その説明を聞いても、結局レオンにはどういう事なのか分からなかったが、要するにジーニアスの感覚の話なのは間違いないはずなので、なんとか納得した。
「そっか・・・あ、いや、でも、僕も油断してたわけだから、ステラの責任ってわけじゃないと思う。それに、結局ステラが助けてくれたわけだし」
「当たり前ですよ」
ステラの口調が強くなる。
「本当に・・・私のせいで、レオンさんに何かあったらどうしようって、気が気じゃなかったんです。それでも、もしかしたらレオンさんの邪魔になるかもしれないので、飛び込むかどうか悩んだんですけど、でも、戦っているにしては静か過ぎるし、あんなに息が続くわけがないし、そもそも、レオンさんは泳げないはずですし」
「そういえば・・・そうだけど」
泳いだ経験がない事を、レオンはすっかり忘れていた。息の止め方くらいはさすがに知っていたので、それが幸いしたとも言える。
またステラは息を吐く。今度は溜息というより、ホッとしたという印象がした。
「とにかく、間に合ってよかったです。本当に・・・」
「・・・うん。ゴメンね。ありがとう」
暗闇の中でも、ステラが微笑んだのが分かった。
「でも、無茶はしないで下さいね。今度したら、泣きますからね」
それは確かにレオンとしても避けたいところだ。ただ、ステラに余裕が戻ったのが分かって、レオンも微笑む事が出来た。
「分かった。本当にありがとう」
「いえ。私もありがとうございました。咄嗟にあれだけの事が出来るなんて、やっぱり凄いですね」
「え・・・そうかな?」
「そうです」
心の底から意外だと思って問い返したレオンと、当然とばかりに力強く頷いたステラ。
どういうわけか、その対比が可笑しくて、2人はしばらく声に出して笑った。
やがて2人は立ち上がると、探索を切り上げる為に、荷物を置いてある部屋まで戻る事になった。ステラはともかく、右腕が満足に動かないレオンがこれ以上探索するのは無理がある。それに、2人ともずぶ濡れなのだ。そちらに関しては、レオンは気持ち悪いだけで済むが、ステラは魔法的な感覚に影響が出るので、魔法が使いにくくなるらしい。それを考えると、ステラが池に飛び込んだのは、本当に賭だった。レオンにしてみれば、感謝してもしきれないと言える。
行儀よく灯りの番をしていたソフィの場所まで、2人は戻った。自由になる左手でランタンを持とうとしたレオンだったが、それをステラが制した。
「私が持ちます。レオンさんは怪我人ですから」
「それくらい、べつ、に・・・」
笑いながら返事をしていたレオンだったが、表情が一瞬で固まった。
何か脅威が残っていたというわけではない。いや、レオンにとっては、もしかしたら脅威かもしれないが。
レオンの視線を釘付けにしたもの。
それは、今まで暗闇で見えなかった、ステラそのものだった。
いつもの涼しげなブロンドのショートヘアが、今は額や耳に張り付いていて、いつもとは違った、活発というか中性的というか、どこかリディアを思わせる顔つきに見える。ただ、それはまだよかった。
問題は、服の方だった。
そちらをなんとなく視界に入れてしまったレオンは、一瞬で後悔した。元々、ステラの魔導衣は体のラインが分かり易い服だと言えるけれど、今はそれどころではない。
これ以上の事は考えたくなかった。考えたらきっと、何かしら身体に異変が起きて、ステラに迷惑をかける事は必死だし、何より、ステラ自身が気まずくて仕方なくなるだろう。
ただ、さすがにステラも気付いたようだった。こちらを見ながら首を傾げた後、視線を下に向けて、やっぱり固まった。そして、両腕を組んで胸を隠す。顔が朱いのは、きっとランタンの炎のせいだけではない。
「・・・次来る時は、着替えを持ってきますね」
「うん・・・」
なんとも小さい言葉のやりとりだった。
この時、本当に何の脈絡もない事だったが、レオンには思い至った事があった。それは、あれだけ好奇心旺盛なベティが、どうして泳ぎの訓練をしようと言い出さなかったのかという事だった。ベティに限らず、そういった提案をした人は誰もいなかった。
要するに、自分の身を気遣ってくれていたらしい。泳ぎの訓練をどんな格好でやるのかは知らないが、教えてくれる人や見学に来たベティ達の服装を想像するのは、レオンには酷だった。そして、訓練の最中に発作でも起きようものなら、危険極まりない。
ふとして気付かされた町の人々の思いやりに感謝しつつも、泳ぎよりも前に克服すべき難題がある事に気付いて、少し頭が痛くなったレオンだった。