グレイ・スコール
ステラが寝込んだ日、レオンは結局一日中訓練していた。仲間が倒れたのに平然と過ごしていたようで、心が冷たいような気がしたものの、最終的にはベティの一言が決め手になった。
自分のせいでレオンまで訓練休んだら、その方がステラには辛いよ。
そう言われると、レオンには返す言葉がない。他にも、ステラが寝ているのはベティの部屋だから、入りたければそれ相応の実力を見せろと言われたのもあるし、ただの過労だとイザベラやフィオナが言ってくれたのもあるし、見舞いなら大勢くるだろうから、男が1人いても邪魔なだけだとガレットが冷静に告げたのもある。
そういうわけで、胸の奥に何かが引っかかっているような感じがしながらも、結局いつもの通りにレオンはアレンと一日中汗を流し、そして、やはりいつも通りに、身体中を生傷だらけにして帰ってきた。その頃にはステラもすっかり元気になっていて、逆にこちらの身体を心配されたくらいだった。
ただその日、なんとなく気になる事があった。
その日は快晴だった。肌を刺すような日射しが少しずつ力を衰えさせてきて、もうそろそろ秋本番だろうと感じさせる。山の木々も段々と落葉の準備を始めていて、冬に向けて動物達がしっかり腹ごしらえしているだろうなと、レオンはそんな事を考えていた。
そう考えていたのだが、同時に別の事も感じ取っていた。
それは違和感と言ってもいい。空は澄み切っているのに、肌にまとわりつく空気はどこか湿気を含んでいて、若干の不快感を与えてくる。そして、鳥や動物達が妙に静か。
天気と空気が一致しない。この妙なアンバランスさを感じた時、決まって次の朝にやってくるものがあった。
そういうわけで、その翌日。
まさにレオンの予想通り、朝から猛烈な風と雨がガレット酒場を襲っていた。
「こういう時って、屋根のありがたみが分かるよねえ」
酒場のカウンターにもたれ掛かったエマが、何度か頷きながら呟く。見た目は子供でも、旅人生活の長いエマだから、嵐の中を移動した経験が一度や二度はあるのかもしれない。
その隣でやはり背中をカウンターに預けているベティが、珍しく小声で言った。
「ホレス、ちょっと心配だな・・・」
レオンは読んでいた化学系の本から顔を上げて、思わずベティの横顔を見てしまった。いつもの笑顔ではなく、声の印象そのままの、どこか物憂げな表情。そのせいなのか、いつもは活発な印象を抱かせるポニーテールが、今日は何故かうなじの方に目に留まって、女性らしさが際だっていた。
その雰囲気に見入ってしまいそうになったレオンは、咄嗟に質問をして誤魔化した。
「あの、ホレスさんって、こういう日はいつもどうしてるんです?」
「誰だっけ?ホレスって」
あっけらかんとエマが口を挟んでくる。この少女は外見通り、本当に遠慮がない。人の懐に入るのが得意だと、自分で言っていた事もある。
「えっと、まあ、この辺りの自然をみてくれている狩人というか・・・」
「私のフィアンセ」
あっさりとベティがそう宣言した。カウンター奥でグラスを磨いていたガレットの殺気が一瞬吹き抜けてきた気がしたが、レオンは必死に気付かないふりをした。他にも、レオンの隣で魔法系の本を読んでいたステラが妙な反応を示したような気がしたものの、そちらを気にする余裕はなかった。
すると、さらにその隣の席に座っていたシャロンが、軽い口調で会話に参加してくる。
「ああ・・・夏祭りの最終日の時に連れてた、あの格好いい人?」
ベティは口元を上げて答えた。
「そうそう。でも、いつもああいう感じじゃないんだけどねー。ホレスの場合、あれはお洒落っていうよりも、ほとんど変装だったし」
「変装って、そんな大袈裟な。服もビシッと決まってたし、ベティともお似合いだったよ」
笑いながらシャロンはそう言った。しかしながら、普段のホレスを知らないから出来る反応なのは間違いない。仮に知っていれば、とにかく意外性抜群だったのは認めざるを得ないところだろう。
しかし、ベティは澄まし顔だった。
「それはそうなんだ。着れば何でも似合うんだよ」
そこでエマが口を挟む。
「で、結局そのホレスさん、狩人してるって事は、もしかしてこの嵐の中、外にいるわけ?」
酒場の出口の方、つまり、町の西側に視線をやりながら、ベティは答えた。
「まあねー・・・そんな無茶はしてないと思うけど」
「フィアンセなのにほっといていいの?まあ、この天気の中、迎えに行けっていうのも無理な話だけど」
「うーん・・・でも、行ったら行ったでロマンチックかもね」
「嵐でさえも阻めない、2人の愛、みたいな?」
「そうそう。やっぱり、障害が大きい方が燃えるよね」
「・・・本気で行く気じゃないよね?」
半ば唖然としながら尋ねるエマ。ベティならばやりかねないと思っているのかもしれない。いずれにしても、仮にベティがその気なら、きっと止められる人間はそう多くはない。
ところが、その止められる数少ない1人である父親が、低い声で淡々と告げた。
「そんな馬鹿な真似をしてる暇はねえんだ。黙って仕事しやがれ」
この時、ベティの雰囲気が変わったのが、レオンには分かった。
勿体つけたようにカウンター側へと振り返ったベティは、どう見ても好意的じゃない視線を父親に向けながら、不気味なくらい静かな口調で告げる。
「前々から思ってたんだけど、お父さん、ちょっとホレスに冷たくない?」
その声を聞くだけで肝が冷え切ったレオンだったが、さすがにガレットは平然と睨み返す。
「そんなつもりはねえがな。ただ、敢えて言うなら、わざわざ優しくするような理由はねえだろうが」
店の外とは対照的に、一瞬だけ店内に静寂が訪れる。
「そういう言い方ってある?仮にも、娘のフィアンセなんだけど」
「てめえが言ってるだけだろうが」
「フィアンセはそうでも、彼氏なのは間違いないんだから、それらしい態度ってものがあると思うんですけど」
「何が言いてえのか、さっぱり分からねえな」
その瞬間、ベティはカウンターに両手を叩きつけた。エマが目を丸くしているのが、レオンにはしっかりと確認出来た。
「だから、何で娘の彼氏に喧嘩売るのよ!家族ぐるみで上手くやっていこうとか、そういう気遣いはないわけ!?」
ガレットは右の拳を叩きつける。その余波はカウンターだけに収まらず、レオンがイスごと浮き上がったほどだった。
「まだそんな段階でもねえだろうが!だいたい、何で俺が馬鹿娘の男に愛想遣わねえといけねえんだ!」
「お父さんが愛想遣わなかったら、進む話も進まないでしょ!?普通で十分過ぎるくらい怖いんだから!」
「普段の俺に怖じ気付くような情けねえ男に、好感持てるわけねえだろうが!」
「それは普通の父親の台詞!」
「てめえこそ普通の娘じゃねえんだよ!今まで何人返り討ちにしたと思ってやがる!」
その後も父娘のコミュニケーションは続いたものの、さすがにレオンはもう慣れていたので、特に取り乱さずに本を読んでいた。それは他のお客やステラも同じだったようで、特に、ステラとは一瞬視線を交わして、苦笑しあったくらいだった。今日の彼女は上がライトイエロー、下が真っ白なワンピースを着ていて、その柔らかそうなスカートの上に溶け込むようにソフィが丸くなっている。ただ、その妖精もやはり慣れているらしく、気にする素振りは全くなかった。
しかしながら、ややあって、こちらの裾を掴む気配があったのでそちらを向くと、珍しくオロオロしているエマの姿があった。
彼女はベティの方を指さしながら、小声で尋ねてくる。
「あれ、どうしたらいいの?」
レオンは少し考えて答える。
「どうしようもないと思うけど・・・」
面食らったようにエマは軽く仰け反ったが、すぐに聞いてくる。
「そうかもしれないけど、誰かが止めないとまずいんじゃないの?」
「しばらくしたら勝手に止まるから、それを待つしか・・・」
「・・・今の天気みたいに?」
「あ、うん。そうかも」
軽く手を打つレオン。その表現には確かに納得だった。
その反応に呆れたように目を回すエマだったが、やがて気を取り直して言った。
「でも、お客さんが困らない?注文したくても、あの2人に声かけられないだろうし」
「気付いたら僕が聞いてくるから・・・」
するとエマは突然、笑いながらこちらの肩をバンバン叩いてくる。
「いやいや、それだったら私が聞いてくる。うん、いい機会だから、なるべく労働力として貢献しておかないとね。心証ってものもあるし」
「はあ・・・」
よく分からないので生返事を返すレオン。
「あれ、注文かな。じゃあ、私、ちょっと行ってくるねー」
エマはあっさりと手を挙げていたお客の方へと行ってしまう。小柄なだけに、身軽だが際だった動きだった。
ふとステラの方を見ると、そちらではシャロンとステラがこそこそと話をしている。シャロンもエマと同じようなリアクションをしたのかもしれない。きっとステラも、レオンと同じような説明をしているのだろう。
というわけで、今日は天気が悪過ぎて、訓練はもちろん、外出する事もままならない状態だった。
雨音はまるで破裂しているかのように激しく、風も建物を軋ませるくらい強い。この巨大な酒場ですらなんとか耐えているような、そんな途方もない力を感じさせる嵐だった。
そんな天候でも、冒険者達は普段通りのように見える。いつも通りにお酒を飲んで、いつも通りに思い思いの話題に花を咲かせているようだ。エマではないが、屋根がある場所にいられるのだから、それだけで十分という事なのかもしれない。
かく言うレオン達も、訓練に休みを強いられた以外は、至って普段通りだった。朝食時にはステラの体調についての話題があったものの、それもいつまでも保たないので、結局勉強をする以外にはなかった。レオンは、ニコルがどんなガジェットを用意してきても対応出来るように、とりあえず化学反応の復習を、ステラは魔法理論の勉強を再開している。シャロンはステラの勉強に時折アドバイスしているようで、それ以外は、細長いボトルに入ったお酒をちびちびと飲んでは、何か物思いに耽っているようだった。
ガレットとベティはもちろん仕事をしている。こういう日は人の出入りがほとんどないから、普通の雨の日よりは忙しくないという事だった。そして、エマは暇を持て余しての事なのか、それとも接客が好きだからなのかは分からないものの、何故か酒場の仕事を手伝っていた。実際、エマは陽気で愛想がいいので接客が物凄く上手い。ただ、絵を描くという話がどうなったのか気になったので聞いてみると、雨だと画材の調子が悪くなるし、気分がのらないし、それに、どうせなら屋外で描きたいので今日はパスという事だった。
外とは対照的に、穏やかな時間だと言える。
注文を受けたらしいエマが戻ってきた頃には、ガレットとベティの戦いにも一応の決着がみられたようだった。もっとも、それは勝敗というよりも、互いの健康を確かめ合ったという意味でしかない。2人とも満足げな表情をしているからだ。要するに、また数週間もすれば、同じような口論が始まるのだろう。
幾分機嫌が良さそうなガレットが、再びグラスを磨きながら、なんとなくといった様子で口を開く。
「この嵐はちょっとしたもんだな。まあ、ホレスの奴も酒蔵かどこかに逃げ込んでるだろうよ」
先程とは打って変わって、ホレスの心配をしてみる気になったようだった。もっとも、口論の後で態度が軟らかくなるのは、ガレットにはよくある事だった。
そして、やはりベティもそれが当たり前のように淡々と答える。
「まあねー。ホレスは西だと思うからまだいいけど・・・あ、そうか。もしレオンとステラがダンジョンだったら、結構心配したかもね」
レオンは本から顔を上げて、ベティを見た。
「え・・・あ、ファースト・アイが湖にあるからですか?」
「そうそう」
肯定の笑みを見せながら答えるベティ。
そこでガレットが淡々と告げる。
「そういえば言ってなかったかもしれねえが・・・この時期、ファースト・アイから出る時は、足元に気を付けろ」
「足元?」
ガレットは首の運動をしながら話を続ける。
「今日みたいな嵐が来ると、湖が増水して、ファースト・アイの入り口が沈んじまう事がある。そういう時は、下手に出ると流されちまうから、食料が無かろうが怪我をしてようがモンスターに追いつめられていようが、とにかく外には出るな。出口の階段を半分くらい上がったところで足元が水浸しだったら、出口は完全に水面の下だから、それで判断しろ」
しばらくレオンは頭を振り絞って考えてみたが、結局疑念は晴れなかったので、意を決して尋ねた。
「あの・・・」
「なんだ?」
「入り口が沈んでるのに、ダンジョンの中に残ってても、大丈夫なんですか?」
普通は中まで浸水してきそうなものだ。もっとも、仮に慌てて出たとしても、やはり増水の餌食になってしまうのだが。
しかしながら、ガレットの返事はこれ以上ないくらい素っ気なかった。
「さあな」
冷たいようだが、ダンジョンの性質などはまだ謎が多いから、ガレットでも分からないという事なのだろう。
そこでシャロンが口を挟んでくる。酔っているのか、ほんの少しだが頬が朱かった。
「仕組みはよく分からないけどね、要するに、同時に入らないとダンジョンでは合流出来ないって事なんだと言われているね。人だけじゃなくて、モンスターも、水や溶岩でもそうらしい。最初の導きの泉に足を踏み入れた時点で浸水してなければ、後でいくら浸水しても、その水とは合流しない。逆に、入る時に既に増水してたら、それこそ浸水中のダンジョンにチャレンジ出来るかもしれないね」
理屈の上では確かにそうかもしれないが、実際に決行した人はきっといないだろう。もしかしたらシャロン流の冗談なのだろうかと思わないでもなかったが、表情はふざけているようには見えないし、口調もしっかりとしている。酔ったら妙に無口や真面目になる人だって、いない事はないのだが。
淡々とガレットが言葉を付け足した。
「いずれにしても、そういう事だから外には出るな。それと、増水した後は大抵小舟が流されちまってるから、水が引いた後もすぐに帰れるかは分からねえ。病気やら怪我やらで切羽詰まってる時は、狼煙か何かを上げれば、漁をしてる奴らとか、町の誰かが気付く。泳いで渡れるならそれでもいいがな」
「泳いで・・・」
自分は泳げるだろうかとレオンは考える。本格的に泳いだ事がないので分からないのだが、機会を見つけて練習しておくべきかもしれない。
「レオンって泳げないんだっけ?」
そう聞いてきたのはベティだった。
首を傾げてレオンは答える。
「さあ・・・泳ぐのって難しいですか?」
予想外の返答だったのか、ベティは何度かブラウンの瞳を瞬かせる。
カウンターに寄りかかるようにしていたエマが、代わりに答えた。
「泳いでみないと分からないんじゃない?あ、でも、男の人の方が浮きにくいとか言うよね。筋肉が多いと沈むんだって」
「筋肉・・・」
なんとなくガレットを見てしまう。筋肉の固まりというか、筋肉製の鎧を着込んでいると言ってもいい。
幸いにも、話に興味がないのか、ガレットはこちらを一瞥もしなかった。
そこでシャロンがまた淡々と告げる。
「まあ、泳ぎがダメなら、ステラさんに道を作って貰えばいい。凍らせるだけだと安定した道にはならないだろうけどね」
「なるほど・・・」
今度は皆の視線がステラに集まった。
会話に気付かないほど勉強に熱中していたステラだったが、ややあってから、さすがに視線が気になったのか、きょとんとした顔で辺りを見渡す。
「・・・何か?」
一番に答えたのはベティだった。
「ステラなら氷の道が作れるんじゃないかって・・・それはそうと、ステラ、勉強し過ぎたらダメだからね」
「あ、うん。分かってる」
一瞬苦笑するステラ。そして、すぐに表情を戻して、ベティに尋ねる。
「氷の道って、具体的にどういう物?」
「ファースト・アイの話。ほら、今日みたいな嵐が来て増水したら、舟が流されて帰りが困るかもしれないって」
「ああ・・・」
何度か頷くステラ。
シャロンがそこで補足する。
「結構難しいとは思うけどね。特に規模が大きくなると」
「そうですね・・・幅が30センチくらいならなんとかなるかもしれないですけど」
それだと道というよりも、綱渡りに近いかもしれない。
「或いは氷の舟を作ってもいい。そちらの方が負担が少ない人もいるだろうね。収束型は威力が低い反面、そういった細かい応用が出来るからいいね」
「そういえば、シャロンさんはどちらですか?」
「一応拡散型だけど・・・私は攻撃魔法は使えないし、ほとんど相殺しかしないから、あまり意味はない」
「でも・・・」
まだジーニアス同士の話題が続きそうだなと、レオンが本に視線を戻そうとした時だった。
いつの間にかステラの背後にいたベティが、そこで突然後ろから抱きしめる。羽交い締めの状態と言ってもいい。
「え?ちょ、ちょっと・・・」
慌てるステラに、ベティは口元を上げて答えた。
「あれだけ勉強はほどほどにって言ったのにねー。口で言ってもダメなら、もう力づくしかないと思うな」
「あ、うん・・・ゴメン」
困ったようにしながらも、頷くステラ。元気とはいえ病み上がりには違いないので、ベティも神経質になっているようだ。
グラスを揺らしながら、シャロンが告げる。
「まあ、ジーニアスは無意識に体内の流れを管理しているから、知識が変わればすぐに身体に影響が出る。ただ、普通はそんなに大きな変化は出ないんだけどね。ステラさんの場合、元々の才能が大きいのもあるし、変化が急激だったのもある。気を付けるに越した事はない」
「そうそう。その通り」
抱きついたまま相槌を打つベティに、今度はエマが尋ねた。
「こういうのを聞くのもなんだけど、その急激な変化って、やっぱり私が吹いた笛が原因だったりするのかな?」
責任を感じているというよりは、単純に興味があるといった様子のエマだった。こちらはかなりあっけらかんとしている。
もっとも、ベティには分かりようもない事なので、代わりにシャロンが答える。
「どうかな・・・聞いてみない事には分からないけどね。なんだったら、今ここで聞かせてくれないか?」
「ダメダメ!大事になるから」
すぐさま止めたベティに、ステラも頷いた。
「ジーニアスだと、誰でも少しは気持ち悪くなると思いますよ」
「でも、聞けば何かしら得るものがあるんだろう?」
「私はそうでしたけど・・・それでも、せめてもっと人が少ない場所の方がいいと思います」
確かに、倒れる人が続出されても堪らない。ここは冒険者が集まっているのだから、ジーニアスだって大勢いるのだ。
すると、黙っていたガレットがエマを見据えながら言った。
「あまり下手に吹聴しねえ方がいいな。どこぞの婆さんに教わったんだろ?」
「はいはい。その通り」
なんとも軽い口調で答えるエマ。彼女もまた、ガレットの泣く子も黙る視線に耐性を持つ1人だったりする。
あくまでも冷静に、ガレットは言葉を続けた。
「今は後継者がいなくて絶滅寸前だがな、昔は戦争に魔笛を使ってた事もあるくらいだ。その代理になる技術があるって事になれば、手段を選ばずにものにしようって奴が出てくるのは目に見えてる。命が惜しかったら黙ってるんだな」
「・・・そんな大事?」
「新しい技術ってのは独占してこそ意味がある。そういう考え方が割と一般的なんだよ。万が一公になったら、最悪、どこぞのクズにとっつかまって、演奏法だけ吐かされてから口封じに始末されるって可能性もある」
エマは数度瞬きして、最後に何故か両手を軽く挙げた。
「・・・なんか、凄い餞別貰っちゃったなあ」
その呟きがエマの心境を端的に表現していた。
やはり淡々とガレットは告げる。
「最初に聞かせたのがステラ達で助かったな。どこぞの演奏会で吹いてみろ。今頃どこかに監禁されてるか、良くて一生逃避行だろうな」
「うわあ・・・」
何故かこちらを見てくるエマ。実際には、多分レオン越しにステラやベティを見ていたのだろうけれど。
レオンもそちらを見てみると、ベティがいつもの笑顔を見せていた。
「大丈夫大丈夫。エマの事は、変わった旅人が気持ち悪い演奏を聴かせてくれたって事で、代々伝えておくから」
困ったように頬を掻くエマ。
「それもちょっとあれだけど・・・まあ、怖い連中に追い回されるよりはいいか」
「あ・・・」
唐突なその声をあげたのはステラだった。
何故かこちらの顔をじっと見ているので、レオンは尋ねてみる。
「どうかした?」
抱きついているベティもカウンターに寄りかかるエマも訝しげな様子だった。ただし、シャロンとガレットはあくまで冷静に、酒を飲んだり仕事をしたりしている。
よって、3人の視線を浴びる事になったステラだったが、どういうわけか、口を開くのに時間がかかった。
そして、その結果出てきた質問は、予想だにしないものだった。
「あの・・・レオンさんは、何か怖いものとかありますか?」
「え?」
質問の意味はもちろん分かる。そして、どうやらエマの怖い連中という言葉から連想した質問らしいという事まで分かった。しかし、何故そんな事を聞くのかはさっぱり分からない。
いずれにしても、彼女の青い瞳は真剣だったので、レオンは真面目に考える事にする。
しかしながら、急に聞かれるとすぐには出てこないものだった。その気配を察してくれたらしく、ベティが口を挟む。
「そこにいる大男とか?」
本人を目の前にそんな事は言わないで欲しいと、レオンは切に願った。そして、ガレットから発せられたプレッシャーを必死で無視した。
すると、次に口を開いたのはシャロンだった。
「女性、とか・・・まあ、これは怖いとは違うか」
勝手に自己解決するシャロン。もしかしたら、あれで酔っているのかもしれないと、レオンはこの時初めて気付いた。
「ベティ、じゃないの?あ、でも、ブレットの怖がりように比べたら大した事ないか」
またも本人を目の前にして言ったのはエマである。もっとも、ガレットの時と比べれば、レオンはそれほど慌てなかった。
しかし、結局、特別怖いと言えるものは、すぐには思い付かなかった。
「うーん・・・ゴメン。すぐには思い付かないんだけど」
苦笑しながら告げたレオン。
ところが、何故かステラは微笑み返してはくれなかった。こちらの顔をじっと見つめたままである。
「ステラ?」
怪訝に思って声をかけたのは、至近距離にいるベティだった。
その声でようやく我に返ったらしく、ステラは少し遅れて微笑む。
「あ、すみません・・・変な事を聞いて」
「いや、それはいいんだけど・・・どうして?」
「いえ・・・気にしないで下さい」
そのままステラは勉強に戻ってしまう。
なんとなくレオンがベティの顔を見ると、向こうも不思議そうな顔でこちらを見ていた。どうやら、ベティですら知らない事らしい。
レオンはもう一度考えてみる。
何か怖いものがあるのか。不安という事なら、それは前世がない事かもしれない。皆にあるものが自分にはない。それは確かにコンプレックスになっていて、レオンがこの町にやってきた理由のひとつと言える。
しかし、恐怖とは違うような気がする。
自分にとって一番怖いものは何だろう。
思い当たらないのは確かだ。ただ、そこで思考を止めているような気がするのも確かだった。
何故だろう。
もしかして、自分はもう知っているからだろうか。
知っているが気付かないふりをしている。直視出来ないほど怖いものがあるのだろうか。
心が軋む、そんな音が聞こえたような気がした。
結局、それ以上は進めなかった。
ただその時、純白のカーバンクルの紅い瞳が、密かにレオンの横顔をじっと捉えていた。