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夢色彩のカーバンクル  作者: 倉元裕紀
第5章 ファースト・アイ前編
51/114

鋼と少女達



「・・・よく出来てる」

 たっぷりと時間をかけて調べた後、リディアがその明るい瞳をこちらに向けて言った。

 彼女が両手で差し出したのは、青い小さなルーンが柄にはめ込まれている短剣。

「えっと、つまり、使っても大丈夫な物?」

 そのダガーを受け取りながら、レオンは聞いた。

 淡々とリディアは答える。

「それはシャーロットの分野。でも、ステラが何も言わないなら大丈夫だと思う」

「ステラ?」

「呪いも一応魔法だから、見る人が見れば分かる」

「あ、なるほど・・・」

 頷いてから、レオンはまじまじと短剣を見る。

 先日のファースト・アイで、謎の青い液体人型モンスターがくれた物である。いったいどういうつもりだったのか、今考えてみてもさっぱり見当が付かない。

 結局、彼女がモンスターだったのかどうかについても、レオンは断定出来ずにいる。ダンジョンの中で会った以上、モンスターと考えるのが妥当だったが、その割には殺意のようなものを感じなかった。今考えてみると、彼女にはいくらでも魔法を使うタイミングがあったはずで、ゴーレムの相手で手一杯だったレオンは、追撃があればひとたまりもなかった。ただ、彼女がこちらに攻撃してきたのは確かなので、その辺りが判断をややこしくしている要因である。

 レオンは判断つきかねていたが、一緒にいたステラの方は、モンスターだったと信じている様子だった。ただ、この短剣については、彼女は呪いのアイテムではないと判断している。ジーニアスの感覚から見てもそうだが、ソフィが何も言わないから大丈夫なはずらしい。お墨付きがあるのかないのか、よく分からない意見だった。

 だから念の為に、レオンは専門家に意見を聞きにきたのである。武器の事ならリディアだろうという事で、こじんまりとした鍛冶屋の小屋までやって来たレオンだったが、彼女の説明を聞いてみると、どうやら行くべきはシャーロットの魔法用品店だったらしい。

「それはそうと、使ってみた?」

 カウンター越しのリディアが尋ねる。いつものポニーテールに白いブラウス。かなり袖の短いデザインで、夏らしい涼しげな服装である。

「使うって、これを?」

 短剣を目で示しながら聞く。

 彼女はあっさり頷く。

「使ってみないと性能が分からないから」

「まあそうだけど・・・」

 全くその通りだが、呪いのアイテムかもしれないから、実はなるべく触れないようにしていたレオンだった。

「今使ってみたら?」

「・・・今?」

 聞き返したレオンだったが、リディアは無言でカウンターの下から大きな丸板を取り出す。木製の簡素な物だが、物騒な傷が尋常ではないほど刻み込まれている。

 そのまま彼女はイスから立ち上がり、部屋の奥にある金具にその板を引っかけた。ちょうど、鍛冶場へと続くドアのすぐ横である。

「どうぞ」

 そこから離れながらリディアが当たり前のように言った。

 どうやら、的にしろというつもりらしい。

「・・・ここから投げるの?」

「別にどこからでもいいけど。投げ易い位置なら」

 彼女らしい言葉だとレオンは思ったが、そういう問題ではない。

「いや・・・危ないと思うんだけど」

「レオンなら多分大丈夫」

 口ではそう言っていたが、リディアはかなり大袈裟に的から距離をとっていた。多分外れると思っていても不思議ではない。

 どうしたものかとレオンは思ったが、こういう店では割と普通の事なのかもしれない。少なくとも、的に刻まれた傷の数を見れば、同じように試し投げした人が大勢いるのは確実だった。

 いずれにしても、自分がしっかり命中させれば済む事だ。仕方なくレオンはダガーを右手で構える。何度か手首をスナップさせてみるが、リディアの言っていた通り、バランスは問題ないように思えた。

 だが、いざ投げようとした時だった。

「リディア!ちょっと・・・あれ、レオンもいたんだー」

 それほど驚くような大声というわけではなかった。入り口の扉と建物を襲った衝撃に比べればである。

 落としそうになったダガーを慌てて掴んでから、レオンは振り向いた。

 ブラウンのポニーテールと瞳の少女。つまり、ベティがいるというのは分かっていたが、その隣にはデイジーも一緒だった。ほぼ黒と言ってもいい程深みある髪と瞳。その落ち着きある容姿に見合った振る舞いで、淑やかに微笑んでいる。着ているワンピースも対照的で、ベティは淡いオレンジ、デイジーは濃い目の紺色。スカート丈もデイジーの方が長い。その対比によって、2人の印象が強調されている気がする。

 それはいいのだが、デイジーの視線はレオンの右手に釘付けだった。

「レオンさん、調子はいかがですか?」

 言葉の間だけはこちらを見て微笑んでいたものの、それ以外は完全に右手を見ているデイジーである。

「はい、まあ、お陰様で・・・」

「魔法の武器を新調されたんですね・・・」

 それなりに距離があるはずなのに、一瞬で見抜くとはさすがの観察眼である。そして、まるで引き寄せられるように、うっとりした表情でこちらに近付いてくる。

 隠せばよかったと思ったレオンだったが、既に遅かった。

 彼女と一緒に近付いてきたベティは、レオンの持つ短剣を見て、思い出したように聞いた。

「あー、それって、レオンが女の子モンスターに貢がせたっていう、あれ?」

 濡れ衣を着せられても困るので、レオンはきっぱりと言った。

「違います」

「でも、それ以外の説明は出来ないと思うんだけどなー。レオンもステラも曖昧な事しか言わないし。そうなると、もうこれは、口を噤むしかないような出来事があったとしか思えないんだけど」

 なんというか、ある意味筋が通った推論だった。下手に説得力があるから始末が悪い。

「曖昧な事しか言わないんじゃなくて、言えないんですよ。結局、なんでこうなったのか、僕もステラもよく分からないので・・・」

「そうかー。レオンも罪だねー。分からないうちにたぶらかしていくなんて」

 毎度の事だが、勝ち目のない戦いだった。向こうには余裕があり過ぎる。

 そこで思わぬところから声があがった。

「そうですか・・・さすがレオンさんですね」

 それは確かにデイジーの声だったのだが、おおよそ彼女の発言とも思えない内容だった。

 だが、どうやら無意識に相槌を打っているだけらしい。彼女の瞳はダガーしか見ていない。他の事はまさに眼中にないようだ。

 それで気が削がれたのか、ベティは肩をすくめる。

 いつの間にか近くに立っていたリディアが、こちらを見て言った。

「投げさせてあげたら?」

 言葉の内容は問題なく理解出来た。しかし、普通は女の子が喜ぶような事ではないので、少し目眩がしたレオンだった。

 それでも、一瞬だけデイジーの溢れんばかりの笑顔を見てしまっただけに、どうやら他の選択肢はなさそうである。普段の抑制された彼女の仕草を考えれば、どれくらい嬉しい事なのかは一目瞭然だった。

「じゃあ、デイジー、よかったら・・・」

 勢いよく顔をあげてこちらを見つめるデイジー。思わずたじろいだレオンだったが、それには構わず、彼女は両手を組んで感謝を示す。 

「そうですか?では、申し訳ないですけれど、お言葉に甘えて・・・」

「いや、えっと・・・とにかく、どうぞ」

 ダガーの柄を差し出すと、何か勲章でも授与されたのかという手付きで、慎重に、そして優雅にそれを手に取るデイジー。意外に絵になっているとレオンは思ったが、これが凶器でなければもっと似合っていただろう。

 そのまましばらく、宝物でも眺めるような表情を浮かべていた彼女だったが、不意に思い出したように、壁に掛けてある的を見た。

「懐かしいですね」

 デイジーが呟いた一言が気になって、レオンはリディアを見る。

 それだけで何が聞きたいのか分かったらしく、彼女はすぐに答えた。

「まだ私が修行中だった頃だけど、私が調整した短剣を、デイジーによく投げて貰っていた。あれはその時の的」

「・・・何でそんな事してたんです?」

「上手く調整出来たか確認するには、実際に投げて貰うのが一番だから」

 確かに、それはそうかもしれない。

 ただ、仮にそれが理想的な確認方法だとしても、短剣を投擲出来るような友人が普通はいないはずである。リディアの場合は、それがたまたま幼なじみにいたという事らしい。ある意味友情話なのだろう。そう思い込むしかない。

 それはそれとして、デイジーはしばらく手首をスナップさせて、短剣のバランスを確かめていた。レオンと全く同じ確認方法だが、それもそのはずで、投擲に関しては、ほぼ全てをデイジーから教わったと言っても過言ではない。今でも、純粋に腕前だけを比べた場合、デイジーの方が圧倒的に上手いだろう。腕力のあるレオンと同じ威力かそれ以上で投げられるのだから、技術の差は明白だ。

 その彼女の腕が、流れるように鮮やかな軌跡を描く。

 ほぼ無音の一閃。

 ダガーは飛ぶように速く、真っ直ぐ的に突き刺さった。

 だが、レオンは違和感を覚えた。 

 刺さった時の音が少し変だったのだ。木に刺さったような、比較的静かな音がしたのだが、それにしても音が大人し過ぎた気がする。

 さすが専門家というべきか、リディアもそれに気付いていた。それだけでなく、武器の特性も見抜いていた。

「リキッド・ウェポン」

「え?」

 レオンの視線を受けて、リディアはこちらを見る。

「刺さった部分をルーンの力で液状化する。だから、リキッド」

「へえ・・・」

 感心するレオン。魔法の武器も初めてなので、何もかもが新鮮である。

「このルーンは小さいから、ほんの少し刺さりやすいだけだと思う。それでも、今まで固くて刺さらなかったようなモンスターにも、場合によっては有効」

「そうか・・・そう考えると、結構凄いね」

 素直にそう思ったレオンだったが、リディアは淡々と言った。

「そうでもない。そもそも、これは投擲武器だから」

「え?」

「ルーンアイテムは身体に触れていないと機能しない。だから、投擲武器にルーンを付与する場合、身体から離れてもある程度効果が持続するように、特殊な加工が必要になる。そのせいで、投擲用の魔法の武器は普通の武器よりも効果が低い。その短剣はルーン自体がそもそも小さいから、はっきり言って気休めくらいの効果しかない」

「気休め・・・」

 なんともあんまりな表現だが、リディアが言うのならそうなのだろう。

 そこでベティが言った。

「確かに地味な効果だよねー。魔法の武器っていったら、普通は剣から火がでたり、ハンマーが眩しいくらい光ったりとか、そういう物じゃない?」

 レオンはリディアを見る。

「・・・そうなんですか?」

 ベティの話は極論のような気もしたが、リディアはやや考えてから頷く。

「まあ、そう。でも、一番一般的なのは、単に武器を振りやすくする効果。武器を重く作っておいても、ルーンの力で軽く扱えるようになる。そうすれば、武器の威力だけ上がるから」

「あ、なるほど」

 確かに、使い易さは変わらずに武器の威力だけ上がるなら、それが一番分かり易い。

 だが、ベティは可笑しそうに言った。

「それも地味だなー。もっと派手な方が威厳があっていいのにー」

 リディアは少し微笑んでベティを見る。

「中には、普通だとあり得ないような巨大な大剣やハンマーを使う人もいる。ルーンの力で補助しているから持てるんだけど、それはベティ好みかも」

「あ、そうだねー。自力で持てるならもっといいけど」

 無茶な要望だが、ある意味ベティらしい。レオンは少し笑ってしまった。

「その短剣、武器としては地味だけど、氷を斬るのとかには使えるかも。レオンが使わなくなったら、うちに払い下げて貰おうかな」

 魔法の武器で斬ったところで、氷はただの氷のはずだが、なんとなく高級感がある気がする。

 すると、リディアが頷きつつ言った。

「実際、お金持ちからはそういう注文が来る事がある。お抱えの料理人の為に魔法の包丁を作って欲しいとか、女性への贈り物に、暗闇でも光る護身用の短刀を作って欲しいとか」

「うわー。それも凄いなー」

 レオンも全く同感だった。一般家庭ではまず考えられない注文だろう。まさに、ステラの家のようなお金持ちがする注文に違いない。

 そこでデイジーが戻ってくる。いつの間にか、彼女は自分が投げたダガーを回収してきてくれていた。

「ありがとうございました。いい短剣ですけれど、少し手応えが違いますから、それだけは注意した方がいいかもしれません」

 玄人のアドバイスと共に返ってきた短剣を、レオンは苦笑しながら受け取る。

「すみません。わざわざありがとうございます」

 にっこりと微笑むデイジー。

「いえいえ。私の方こそ、貴重な体験をさせていただいてありがとうございました」

 魔法の武器は高級品だから、デイジーといえども珍しい経験だったのかもしれない。しかし、素直に喜んでいいものか、レオンには判断し辛かった。

 そこでベティが思い出したように言った。

「あ、そうだ。レオンはもう用事済んだ?」

「え?あ、はい」

 リディアの方を見ると、彼女も頷いて見せる。この魔法の短剣を見て貰おうと思ったのだが、本来ならシャーロットに聞くべき事だったらしいので、そもそもお門違いだったと言える。しかし、彼女は十分なアドバイスをくれたから、結果的には問題なかった。

 すると、ベティは意味ありげに微笑む。

「じゃあ悪いけど、これからちょっとリディアを借りていくから」

「あ、はい・・・」

 悪いも何も、レオンが断るような事ではない。

 そこでリディアも、何か気付いたようだった。

「もしかして、お祭りの話?」

「あ、そうなんですか?」

 つい声に出てしまったレオンに、ベティの笑顔が向けられる。

「ごめんねー。レオンだけはもう少しお預けだから」

「お預け?」

 よく分からない表現だったが、ベティの表情に凄みが増した気がして、レオンは反射的に後退した。

「どうしても着いてきたいって言うなら、うん、見上げた心意気だとは思うなー。もちろん、目的地に着くまでには乗り越えなければならない壁があるんだけど、この機会に挑戦してみる?」

「・・・いえ、遠慮しておきます」

 両の拳を打ち合わせるベティを見れば、その壁が具体的にどういうものなのかは、改めて聞くまでもない。

 いつもはこの後も気が抜けない会話が続く事が多いのだが、今日のベティは意外にもあっさりしていた。

「それはそれとして、のんびりしてると日が暮れるから急がないと。リディア・・・」

 呼ばれたリディアだが、既に奥のドアへと向かっていた。

「ちょっと待って。店番を兄さんに頼んでくるから」

「あ、そっか。急にゴメンねー」

「急じゃないから大丈夫。前から頼んであるから」

 微笑んでからそれだけ告げて、リディアは奥のドアを開けて出て行った。お兄さんが鍛冶場にいるのだろう。彼女の兄を、レオンは一度だけ見た事がある。

 それを見届けると、ベティは微笑みながらレオンに聞く。

「レオンはお祭りどうするの?」

「え?」

「誰かに仕事を手伝って欲しいとか頼まれてない?」

 それ以前の問題として、冒険者修行中である自分が、お祭りに出てもいいのだろうか。

 そんな心情を読みとったのか、ベティが軽く手を振りながら言う。

「一応言っておくけど、お祭りの間もダンジョンに行くとかはダメだからね。不謹慎とかそういう意味じゃなくて、ギルドも診療所も他のお店も、みんな忙しいんだから。冒険者の面倒なんて見てられないんだし」

「あ、なるほど・・・」

 そう言われると、確かにその通りだった。それに、仮に大怪我して帰ってきたら、祭りの雰囲気に水を差してしまうだろう。

「お祭りの間くらいは、息抜きされてはいかがですか?」

 デイジーが優しく言ったそばで、ベティが可笑しそうに告げる。

「それに、ステラはもう予定が入ってるから。それにソフィも。だから、ダンジョンに行きたいなら1人で行って貰わないと」

 いくらなんでも、それは無謀というものだろう。

 レオンは微笑む。

「そうですね。じゃあ、お祭りの間だけは・・・」

「うんうん。素直でよろしい」

 自分まで嬉しそうなベティだった。ステラの姉のような立場だから、彼女にも心おきなくお祭りを楽しんで欲しいのだろう。

 そこでふと、レオンは気付く。

「ステラはいいんですけど・・・ソフィまで予定があるんですか?」

 カーバンクルの予定とは何だろうか。まさか、ソフィの為にお祭りを案内してくれるわけもない。

 ベティの答えはシンプルだった。

「レオンのお守りかなー」

「・・・僕がソフィの面倒をみるんじゃなくて?」

「どちらでもいいんだよ。とりあえず、一緒にいてくれれば」

 よく分からない話だった。

 そこでリディアが戻ってくる。どういうわけか、彼女1人だった。

「あれ、ベンさんは?」

 奥のドアを見ながら聞くベティ。ベンさんというのが、どうやらリディアの兄の名前らしい。

 リディアは軽く頷く。

「大丈夫。今は手が放せないけど、すぐに来るって」

「そっかー。じゃあ、とにかく行こう」

 そのままゾロゾロと出て行く少女3人。 

「じゃあね、レオン」

「失礼しますね」

 軽く手を振るベティと、一度立ち止まってお辞儀するデイジー。どちらにも挨拶を返すレオンだが、デイジーのように改まって挨拶されると、こちらもいつもより丁寧になってしまう。

 最後尾がリディアだった。

「すぐに兄さんが来るから、玄関は開けたままにしておいて」

「あ、はい・・・」

 彼女はそれだけ言って出て行った。

 急に静かになった店内。

 リディアはああ言ったものの、なんとなく無人にするのは悪い気がした。すぐに彼女の兄が来るようだし、その程度の時間なら待ってもいいだろう。

 何気なく周囲を見渡す。

 商品を陳列しない主義であるこの店には、本当に何もない。だが、今は壁に傷だらけの的が掛かっているのと、それとカウンターの陰に隠れて、リディアが作った物らしき木製の剣が置いてある。実用品ではなく、ガレットに頼まれた祭りの飾りだろう。

 実を言うと、お祭りに出ると考えた事はなかった。

 不謹慎だと言うよりも、慣れてきたものを一度止めてしまうと、また改めて調子を取り戻すのが大変な気がしたからである。時間が無限にあるわけではない。1年というリミットがある以上は、あまり時間を無駄にしたくはない。

 しかし、ベティの言う通り、お祭りの間にダンジョンに行くのは無謀だろう。ギルドをはじめとする町の協力がなければ、ダンジョン探索は困難だ。それが見習いであれば尚更である。

 それに、休みなくずっと走り続けるというのは、よく考えれば無理がある話かもしれない。どうせどこかで休まなければならないなら、このお祭りはいい機会とも言える。

 そこでふと、レオンは気付いた。

 自分はユースアイの夏祭りについて何も知らない。

 気付いてみると、いつ始まるのかさえもよく知らない。どんな事をするのか、武術大会以外は全く知らないと言ってもいい。

 今度というか、今日宿場に帰ってすぐにでも聞いておかなければ。

 その時、カウンター奥のドアが開いた。

 リディアの父親なのか、それとも兄なのか、顔だけで瞬時に判断するのは難しいだろう。一目で見分けようと思ったら、失礼な話かもしれないが、髪があるかどうかを見ればいい。リディア程ではないが、比較的明るめな髪があるのが兄。全くないのが父親のジェフ。それ以外は、背が低いところも目が細くて顔にしわが多いところも、瓜二つと言ってもいい。親子というよりも、兄弟だと言われたら信じてしまいそうな程よく似ている。

 そして、今ドアから入ってきた人物は髪があるので、どうやらお兄さんのようだ。先程初めて聞いたが、名前はベンという事らしい。

 ベンはまず扉の横に掛かっている傷だらけの的を見て、そして次にこちらを見た。無言の空気にレオンが居たたまれなくなった頃に、黙ったままカウンターの方に近付いてくる。やはり鍛冶場から出てきたらしく、灰の匂いが漂ってくる。

 別にやましい事はしていないものの、レオンは少し気まずくなった。よく考えてみると、誰もいない店内に残っているのだから、その理由を聞かれても困る。

「えっと・・・と、とりあえず失礼しますね」

 咄嗟にいろいろ考えたものの、結局言えたのはそれだけだった。言ってからすぐに、何の説明にもなっていない事に気付いたが、もう遅い。

 ところが、意外にも返事があった。

「ありがとう」

「え?」

 口が動いたのは見えなかった。

 だが、レオンが驚いたのは彼の声色だった。低いが聞き取りやすい声。そして、なんと言うべきか、聞いていて心地いい声だった。子供の頃に一度だけ聞いた事がある、重厚な弦楽器の音色をレオンは連想した。

 彼は結局、それっきり何も言わなかった。

 仕方なく、レオンは鍛冶屋を後にする。

 それでも、凄く価値のあるものを聞かせて貰ったような、少し得した気分になったレオンだった。



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