氷と落差
先頭はレオン。その数歩後ろからステラ。その肩にソフィ。
一番前にいるレオンは、すぐ違和感に気付いた。
まず暗い。ビギナーズ・アイでは光源に困るような事はほとんどなかった。最初の階段も屋外よりは暗かったが、決して何も見えないというわけではなかった。しかし、ここは既に10メートル先が見えない程暗い。どうやら、最初の部屋にすら灯りがないようだ。
もうひとつの違和感は、階段が歩きにくい事だった。ファースト・アイのような人工的な構造物ではないのである。石レンガを積み上げて整然と作られたような場所ではなく、天然の洞窟に段差らしきものを加えただけのような、荒削りな階段なのだ。段の高さがまちまちだし、そもそも一段一段が好き勝手に傾いていてデコボコしている。天井は高くて触れられないものの、壁も似たような感じだった。
「ステラ。転ばないように気をつけて」
一旦止まって振り返ってから、小さな声で伝える。他の音は何もしないので、問題なく聞こえるだろう。
外からの光も随分弱々しくなってしまっていたが、ステラが微笑んでみせたのがかろうじて確認出来た。
「大丈夫です。私は杖があるので」
そういえばそうだった。こういう時にも意外と便利である。
「とりあえず灯りがいるね」
レオンは背負っていた荷物を下ろして、光源になる道具を探す。ほとんど中は見えないので手探りなのだが、何が入っているのかは大体把握してあった。
暗かったので火をつけるのに多少手こずったものの、なんとかランタンに火を灯す事に成功する。以前は松明を用意していたレオンだが、こちらの方が遠くまで照らせるし、燃料さえ補充すれば長持ちするという事で、この機会に買い換えた品である。
さすがに値が張るだけあって、松明とはひと味違う光量があった。レオン達の周囲だけが、まるで屋外のように明るくなる。
その灯りによって、改めてダンジョンの中が照らし出される。白地の中に少しだけ青い燐光を織り交ぜたような、見た事のないような色の岩壁。天井や階段も同じ材質で出来ているらしい。湖の中にいるという雰囲気がそれとなく伝わってきたが、思った程は湿度のようなものを感じなかった。
しばしそれを眺めていたレオンとステラだったが、すぐに我に返る。幻想的な光景だと言えない事もないが、ここに観光に来たわけではない。
ランタンを持って立ち上がろうとしたレオンに、ステラが声をかける。
「私が持ってた方がよくないですか?」
「あ、これ?」
軽くランタンを持ち上げるレオン。
「はい。何かあった時、レオンさんは両手が使えないと困りませんか?」
そう言われてみると、確かにその通りである。
「そうか・・・じゃあ、ステラが持っておいてくれる?」
頷くステラ。ランタンの灯りに照らされた彼女の顔は、どこか朱みがかって見えた。それなのに、その肩にいるソフィの身体は真っ白に見える。ステラも結構色白なのに、全然違う色を照らしているように見えて、レオンは少し違和感を感じた。カーバンクルの体毛の色というのは、他の物とは少し仕組みが違うのだろうか。
「分かりました。足下を照らすようにしたらいいですか?」
別の事に気をとられていたレオンは、返事をするのが少し遅れた。
「・・・あ、いや、なるべく地面と平行に。天井にも注意しないといけないから」
「どうかしました?」
少し首を傾けるステラ。レオンの反応が遅かった事を気にしたのだろう。
「いや、大丈夫。灯りだけど、戦闘の時は持ったままにしないで、床に置いてね。魔法を使う時の邪魔になると思うし、何かの弾みで落としても危ないから」
「あ、はい・・・」
ステラはまだ気になっている様子だったが、レオンはすぐに進行方向へ身体の向きを変える。彼女が心配するような大した事では全くない。今はダンジョンに集中しなければならない。
再びレオン達の歩みはスタートする。
灯りがあるとないとでは、やはり歩き易さが段違いである。モンスターや罠に注意しながら進んでも、ものの数分で最初の部屋にまでたどり着いた。
迎えてくれたのは、ソフィに翼が生えたような姿をしているカーバンクルの像。そのすぐ下にある泉も白亜の石材で出来ているようで、ダンジョンは変わっても、導きの泉だけは変化がないようだった。
その部屋は、あまり大きくなかった。レオンが泊まっている部屋程度の大きさかもしれない。ベッドを入れようものなら途端に窮屈になりそうな、こじんまりとした部屋である。ただ、その壁や床は青白い不思議な色をしているから、見栄えという意味ではレオンの部屋の完敗だった。
ほぼ真四角のこの部屋には、扉が3カ所あった。正面と左右の壁に1カ所ずつ。どれも人間1人用の大きさだが、左右の扉は木製なのに、正面の扉は金属製。しかも、その金属扉だけ、翼を大きく広げた鳥を模したような立派な装飾が施されており、鍵穴もついている。洞窟然としたこの場所にそぐわない、高級感溢れる扉だった。
レオンとステラは、とりあえず荷物を部屋の隅に置いた。そして、3カ所の扉をそれぞれ慎重に調べる。どの扉からも時折水滴が落ちるような音がしたものの、モンスターの気配はない。
一度荷物を置いた場所に戻って2人は相談する。とりあえず、鍵が掛かってない方から調べてみようという事で話がまとまった。鍵が掛かっているという事は、向こうからモンスターが出てくる可能性が低いはずである。それならば、鍵がない方から調べておいて、まずはこの部屋の安全を確保するのが先決だろう。
とりあえず、近かった左の扉から開ける事にする。
少しだけドアを開けて向こう側の覗くレオンだが、その光景に少なからず意表を突かれる。
最初は行き止まりだと思った。通路と呼ぶには短過ぎる程の奥行きしかなく、すぐに青白い壁があるように見えたのだ。
だが、よく見るとそれは違った。レオン達はドアを開けて、奥まで行って確認してみる。
ドアから数メートル程進んだところには、深さ5メートルはある縦穴があった。下を覗いてみると、下りた先にはまだ通路が続いているらしい。ちょうど通路が直角に折れ曲がっている状態である。
縦穴の広さは人が下りるのに十分な広さがあるものの、問題はその深さである。飛び降りようと思えば不可能ではない。しかし、一度下りたら上まで戻るのは大変そうだった。一応ロープ等は用意しているものの、奥からモンスターが押し寄せてきたり、罠があったりした場合、そんな物をよじ登るような余裕はないだろう。
「モンスターの気配はある?」
横で屈んでいるステラに聞いてみる。しかしながら、彼女のジーニアスとしての感覚を用いても、縦穴の先の通路までは気配が読めないかもしれない。
しばらく目を閉じるステラだが、やがてこちらを見て首を横に振った。
「・・・分かりません。すぐ近くにはいないと思いますけど、この通路、もっと奥まで続いているみたいです」
適当な物に火をつけて、下に放り込んでみるという手もあった。モンスターが待ち構えているなら、何かリアクションがあるかもしれないというわけである。しかし、そうまでしてこの通路を進みたいわけではなかった。どうせ進むなら、簡単に帰ってこられる通路の方がいい。レオン達は一旦引き返して、その向かいにあるもうひとつの木のドアを調べてみる事にした。
小さく開けた隙間から覗いてみるが、今度は普通の通路があった。真っ直ぐな直線通路が続いている。
しかし、ドアの隙間からこぼれる僅かな光だけでは、通路の奥までは照らせない。光が届かなかったその先を、物言わぬ闇が覆い尽くしている。その境界付近の壁に金属製のドアのような物が見えるのだが、今は開いた木の扉の陰になっているから、全貌は確認出来ない。
こちらも、少なくともステラが察知出来る範囲には、モンスターは潜んでいないようだった。
扉を完全に閉めてから、指針を話し合う。
「右の扉の方がいいとは思う」
5メートルもの段差がある通路は、出来るなら進みたくはない。
ステラも頷いたものの、まだ調べていない金属扉を一瞥した。
「あれは・・・どうしましょうか」
開けた方がいいのか、開けない方がいいのか、結構悩ましいところである。開けてこの部屋が安全になるのならいいのだが、逆にモンスターを招き入れる結果にならないとも限らない。
「うーん・・・」
腕を組むレオンを見て、ステラは聞いた。
「そもそも、あの鍵は開けられそうですか?」
「やってみないと分からないけど、普通の鍵なら時間をかければなんとか・・・」
上手い人は数秒で解錠する事も可能らしいが、レオンではさすが無理である。しかし、開けられる鍵の守備範囲で言うなら、大半のものがなんとかなる腕前はあるはずだった。これはレオンの印象ではなく、ニコルのお墨付きがあるからである。
「迷いますね。ソフィも何も言わないし・・・」
もちろん何も喋らないはずのソフィだが、ステラにはある程度カーバンクルの気持ちが分かるのかもしれない。しかし、今はレオンでも分かるくらいに、ステラの肩の上で退屈そうにしている。ダンジョン内だからといって、ソフィが緊張する事はないようだ。
それはそれとして、このまま迷っていても仕方がない。レオンは意を決して提案してみる。
「開けてみようか。モンスターがいたらいたで、曖昧なままにしておくよりもいいと思うし」
ステラの返事は案外早かった。
「そうですね。そうしましょう」
もしかしたら、彼女もそう思っていたのかもしれない。そう考えると、レオンも少し気が楽になった。
そういうわけで、レオンは金属扉の解錠作業に取りかかる。
これが結構難敵だった。初めて見るタイプの鍵だったというのもあるかもしれない。5分では開かなかっただろう。
その間、ステラは一言も喋らずに待っていてくれた。こちらの真剣な様子を見て、気を遣ってくれたのだろう。ただし、解錠が終わって振り返る頃には、ソフィはすっかり眠りこけていた。
余りにも気持ちよさそうに寝ていたので、起こすのも悪いような気がした。しかし、こちらの緊張感が伝わったのか、すぐに目を覚ました。睡眠時間は数分程度だっただろう。それで満足なのかどうか、もちろんレオンには分からない。
それはともかく、解錠された金属扉を、レオンはそっと開く。
向こう側はそのまま部屋になっていた。今レオン達がいる導きの泉よりも一回り大きい。
しばらく時間をかけて調べたものの、罠のようなものはなかった。そもそも、物が全くない部屋なのだ。その代わりというべきか、部屋の左奥には数段だけ下り階段があって、そこに木製の扉があった。
その前に立った時、レオンは少し肌寒さを感じた。
「ステラ。寒くない?」
鎧を着ていない分だけレオンよりも薄着の彼女だが、思いの外きょとんとしていた。
「レオンさん、寒いんですか?」
「あれ、寒くない?あ、そうか・・・」
そういえば、彼女は魔法の能力を使って、自分の周囲の気温を調整しているのだ。彼女にとってはほとんど無意識に出来る事らしく、多少気温が変わった程度では気付かないのだろう。
「よかったら、暖めてみましょうか?」
「暖める?」
突然よく分からない事を言い出したので、レオンは思わず聞き返してしまった。
「まだ怪我を治したりは出来ませんけど、体温を少し上げるくらいなら出来ますよ」
「へえ・・・」
どうやら治癒魔法の事らしい。そんな使い方もあるとは初耳である。
「すぐ済みますからやりましょうか?あまり上げ過ぎると気分が悪くなる事もあるので、危なそうだったら言って貰わないといけないんですけど・・・」
確かに、要は熱が出た時のような感じになるのだろうから、きっとやり過ぎたら気分が悪くなるに違いない。
失敗する事に関してはあまり心配していなかったレオンだが、そもそもちょっと肌寒い程度でしかなかった為、わざわざ魔法を使って貰う程ではなかった。だが、ここで断ると彼女の自信に傷を付けそうな気がする。
「じゃあ、ちょっとだけ・・・」
心なしか、ステラは嬉しそうに見えた。
「では・・・ちょっと手を出して下さい。あ、片方だけでいいです」
ランタンを床に置いてから、レオンが差し出した左手首を杖ごと両手で掴んで、ステラは瞳を閉じる。
その直後、一瞬だけ魔法の兆候が現れ、そしてすぐに光となって消えた。
しばらく待ってみる。
なんとなく分かってはいたものの、あまり変化はなかった。今は特に肌寒いとは思わなかったが、元々それほど強く寒いと感じたわけではない。この前の頭痛の時と同じパターンである。
やや間があってから、ステラは瞳を開けてこちらを見た。やはりこの前と同じく、不安げな表情に見える。
「・・・どうですか?」
正直に答えよう。一瞬でレオンはそう判断した。
「寒くない。ありがとう」
笑顔でそう言うと、ステラも微笑んでくれた。
そこまでは大した事ではないと思っていた。しかし、気を取り直して目前の扉を開けた時、レオンは、ステラの治癒魔法が決して伊達ではない事を思い知った。
扉の向こうの部屋は、まさに氷の世界だった。
かなり広い部屋のようである。この広い天井を支える為なのかは定かではないものの、太い岩の柱が5メートル程間隔を空けて、部屋の中に乱立していた。ただ、その柱も床も天井も、全てが氷に覆われているのだ。レオンにとっては馴染み深い銀世界とは少し違う、それよりももっとクリアな世界である。
このドア付近の床は凍ってないようだが、奥に行くほど、光を反射する氷の煌めきが目立つようになっていて、ランタンの光が途切れる辺りに至っては、ほぼ完全に凍結してしまっているようだ。
見るだけでもこの部屋の寒さが伝わってくるが、レオンはほとんど寒さを感じなかった。これはつまり、ステラの魔法のお陰だろう。
それを心の中で確認していたその時だった。
僅かに開けていたドアの隙間。その視界から見える闇の奥に、青白い光が灯る。
すぐには状況が把握出来なかったレオンだが、その小さな光の点が文字のような物を描き始めるのを見て、ようやく理解出来た。
魔法の発動兆候。
つまり闇の中にモンスターがいる。こちらの存在が察知されてしまったのだ。
すぐに状況を確認する。扉の陰に自分。その少し後方にステラとソフィ。唯一の灯りであるランタンはその中間辺りに置いてある。モンスターの方に至っては、正体はおろか、数も姿も分からない。
一瞬迷ったものの、レオンは咄嗟に扉を閉めた。
そのまま扉から距離をとって、後ろのステラに目配せする。彼女は最初こそ戸惑った様子だったが、すぐに真剣な顔に戻り、杖を両手で握って前に掲げる。そのままゆっくりと瞳を閉じた。
彼女の魔法の準備が始まったちょうどその時、扉に変化があった。
ミシミシという音と共に、木製の扉が白く凍っていく。
多少覚悟していたとはいえ、さすがにレオンは驚きを隠せなかった。
扉を魔法で攻撃してくる。これならまだあると思っていた。そうでなくても、普通に蹴破ってこられた場合、それほど長くは保たないだろうと思われた。
しかし、この時モンスターが使ってきた魔法は、確かに見覚えのあるものだった。
対象を氷が包み、そして跡形もなく塵にしてしまう。
まるでステラの魔法。しかも、彼女よりも発動が早い。
扉が消えていく様を見ながら、レオンは覚悟を決めていた。
相手のモンスターは、ステラと同等か、それ以上の魔法の使い手なのだ。
扉がなくなった為、遮蔽になる物はなくなってしまった。闇の向こうに、再び青白い光点が出現する。
レオンは置いてあったランタンを左手で掴んで前に出る。相手の魔法の準備時間がレオンには予測出来ないが、それほど相手と離れていないように見える。それならば、相手の準備を阻害する為にも、こちらから攻撃に打って出るべきだ。いずれにしても、向こうの戦力をはっきりさせるのもレオンの役割のひとつである。
かつて扉があった場所を抜けて数歩進んだ辺りで、ようやくモンスターの姿が光の中に入る。
モンスターはやや予想外の容姿をしていた。
掴まっている柱に溶け込むような白い体色をしているので、はっきりとは分からない。しかしながら、それはどうやらモモンガの姿をしていた。大きな一つ目を持ったモモンガがこちらを見ている。そういえば、ビギナーズ・アイの初日にもモモンガタイプのモンスターに出会った。ただし、その時は魔法はおろか、筋金入りの初心者だったレオンでもあっさりと倒せるような強さしか持ち合わせていなかった。
もちろん、今回もその時と同じとは思わない方がいいだろう。
レオンはそこで足を止めて、ゆっくりとランタンを床に置く。
そこで不意を付くように、瞬時に右手でダガーを抜いて、その勢いのまま投擲した。
魔法の準備中だけに、対処が難しいに違いないと思っていたが、向こうもそれくらいは予想済みだったらしい。
すぐに魔法の準備を止めたモモンガ型モンスターは、風を切るような速さで部屋の右手に滑空していく。
硬質な音を残して柱に弾かれたダガーは無視して、レオンはモンスターの姿を目で追った。しかし、その姿は途中で闇に紛れ込んでしまう。偶然ではないと考えるべきだろう。その方が攻撃されにくいと分かっているに違いない。
それでもレオンは慌てなかった。向こうが魔法を使えば、その兆候で相手の位置は分かる。そこを攻撃していけば、向こうが魔法を使う隙を与えずに済むはずだ。
そう考えていた矢先、やはり闇の中に青白い光が灯る。
そちらに足を踏み出しながら、レオンは右手にダガーを握る。
しかし、その時だった。
その踏み出した足が踏んだ床の感触が、物凄く頼りなかった。
咄嗟にその事に気付いたものの、当然ながらしっかり踏んてしまったから気付いたわけで、要するに、もう手遅れだった。
踏んだのは床ではなかったのだ。
張っていた氷。
しかも、レオンの重さには耐えられないような、薄い物だった。
なんとか周りの床に掴まろうとしたものの、そこにも氷が張っていた為か、手が滑ってしまってどうにもならなかった。
ダメだと思った瞬間、聞いた事のない笑い声が聞こえたような気がした。
その瞬間にレオンは悟る。
ここまで計算しての位置取りだったのか。
後は落ちていく感覚だけだった。
ただし、それもほんの僅か。
すぐに固い床に叩きつけられる。
下敷きになった右腕が痺れるように痛んだが、それでも、ちゃんとした床に落ちてよかったと思った。大怪我するような落差でなかったのも幸いである。
しかし、すぐにそんな場合ではないと気付かされる。
上にステラを置いたままにしているのだ。つまり、彼女と分断されてしまった。すぐに上に戻らないと、彼女は1人で戦わなければならない。彼女が1人で勝てるのかどうか、レオンには分からない。
そう思った瞬間、レオンの身体から血の気が引いた。
右腕を押さえながら立ち上がったレオン。しかし、灯りがない為真っ暗だった。まさに右も左も分からない。
上からの音もほとんど聞こえてこない。
どうすればいいのか、分からない。
焦る気持ちだけが募る。
そして、そんな事を考えている余裕もなかった。
レオンは息を止める。
ここにいるのは、どうやら自分だけではないと気付いたからだった。
うっすらと聞こえてくるのは、獣の息遣い。
獲物に飛びかかる直前に息を潜める、まさにその時の呼吸音だった。
危機感が身体中の血を熱くする。
とにかく避けなければならない。それだけは確かに身体が察知していた。しかし、どうやって避けるのか。それが咄嗟に判断出来なかった。
向こうがどちらから飛びかかってくるのか分からない。何も見えないのだから。向こうはどうやってこちらの居場所を把握しているのか。暗闇を見通せる眼を持っているのか。或いは、音か匂いか。
その瞬間だった。
胸と肩に衝撃。
レオンを突き飛ばしたのは、十分な質量を伴った獣の足。
とても耐えきれない。後ろに押し倒されながらも、レオンは直感する。
相手は熊か、それとも狼か。少なくともそれくらいの体重はある。
今まで潜んでいたのが嘘のような、荒々しい息遣い。
戦慄しかけたレオンだが、それでも身体は動いていた。仰向けのまま左手を前にかざし、右手は腰の剣を抜こうとする。
しかし、ここでも誤算があった。
右手に握力がない。落ちた時の痺れから抜け出せていないのだ。剣の柄は握ったものの、腰から抜けない状態。これでは、満足に振る事も出来ない。
代わりに、左手を思いっきり振るった。
剣も何も握っていないが、盾が装着してある。今更他の武器を用意する余裕はない。そんな事をすれば、その間にこちらの喉笛を食いちぎられるだろう。
その盾がモンスターの顔面を捉えたようだった。
これが幸運だった。モンスターの四肢から一瞬力が抜けたのを、レオンは逃さない。
一瞬で左手を腰に持って行きダガーを抜く。そして、逆手に持ったそれをモンスターの身体に闇雲に突き立てた。
首に当たればいいと思ったが、どうやら外れたらしい。モンスターの動きにはまだ活力があるように感じられた。
もう一度攻撃しなければいけない。そう思った時、左の二の腕の辺りに、鋭い痛みが走る。何も見えなかったものの、温かい吐息をその付近に感じて、噛みつかれたのだと分かった。咄嗟の防御本能だろうか。
鎧の上で良かったと思うと同時に、これで左手もダメかと悟ったレオン。
この瞬間、不思議なもので、右手の握力が戻った気がした。こちらが動かなければ、後は蹴る以外にない。しかし、蹴りでモンスターを倒す自信はもちろんない。要するに、ここで右手が動かなければ勝てないという事を身体は分かっていたのだろう。
まだ柄を握っていたのも、幸運のひとつだったかもしれない。
いずれにしても、ショートソードを瞬時に抜いたレオンは、それをモンスターめがけて突き刺した。
今度こそ、モンスターの身体から力が抜けた。
それとほぼ同時に、あれだけ重かった体重も空気のように軽くなる。
レオンは両腕を地面に下ろした。
息が上がっていた。
いつの間にか、気持ち悪い程汗をかいていた。
身体を疲労感が支配している。もうこれ以上身体が動くとは思えない程だった。
それだけ緊張したという事なのか。
しかし、すぐにレオンは思い出す。
休んでいる場合じゃない。
彼女はまだ無事だろうか。
そう思ったまさにその瞬間、仰向けになっているレオンの視界が明るくなり、そして、その少女の声が聞こえた。
「レオンさん!」
眩しくて分かりづらいが、確かに金の髪が見えた。
自分でも驚くくらい、レオンは安堵する。
「よかった・・・」
微笑んで呟いたが、ステラには聞こえなかったようだった。
「はい?あ、いえ、そんな事より怪我はないですか?というより、怪我してないわけないです。そうですよ。えっと、その・・・と、とにかく、私、治療道具を持ってきますね!」
やたら慌てている彼女を見て、少し笑ってしまったレオンだったが、立ち去ろうとする彼女を見て、すぐに声をかける。
「あ!それよりも、ロープか何かを・・・」
治療しようにも、まずは上までたどり着けないといけない。
「分かりました!」
遠ざかりながら答えるステラの声が聞こえた。
その足音が消えてから、何故か溜息が出たレオン。
最初の遭遇でこれか。
モンスターの強さ云々以前に、まず地形に負けていた。よく考えてみれば、レオンの機動力を生かすとはいっても、高低差があったり、自由に動けないような地形では難しいのではないか。戦術を見直すというか、いろいろな状況を想定した作戦が必要な時にきているのかもしれない。
レオンは上体を起こす。
これ以上モンスターがいないという保証は、よく考えたら全くない。しかし、どうやら気配はないようだった。ステラの様子からすると、彼女もあのモモンガを倒したらしい。レオンはこの有様だというのに、彼女は無傷のようだった。そう考えると、彼女は本当に凄い。
そこで不意に、右肩に慣れた感触があった。
そちらを見るレオン。
ステラがランタンを持って行ってしまった為、もちろん真っ暗である。だからその姿は見えないものの、それがソフィだという事は分かった。どうやってここまで下りてきたのかは謎だが、カーバンクルにとってはこの程度の落差はあってないようなものなのかもしれない。
自分を心配して来てくれたのだろうかと思ったが、突然ソフィはレオンの肩から下り立って、投げ出した右足の上を優雅に歩いていく。
そのままソフィは闇の中へと進んでいった。
「・・・ソフィ?」
心配になって呼んでみたレオンだが、ソフィは帰ってこない。
ちょうどその時、頭上が明るくなる。ステラが帰ってきたのだ。
「お持たせしました!」
彼女の声。少し息が切れているようだった。
しかし、レオンは返事をしなかった。
ステラと共に帰ってきた灯り。こちらを照らすその光が反射する事で、レオンの周囲も少しだけだが見えるようになっている。
レオンの視線の先、10メートル程先にソフィがちょこんと座ってこちらを見ている。
その傍らにそれはあった。
白い大きな花びら。ソフィのような純白の花だが、それがあまり目を引かないのは、茎や葉も同じ色をしているからだけではない。
その周囲を覆う白い霧。
花の周りだけを纏う幻想的な白いヴェールが、それが唯の花ではない事を如実に示しているからだった。
「レオンさん?大丈夫ですか?」
気が付くと、ステラが不安げな声を上げていた。
慌てて上を向いて、レオンは言った。
「あ、ごめん。うん、大丈夫」
「本当ですか?あ、いえ、とにかく早く治療を・・・」
「そんな事よりも・・・」
途端にステラが不満顔になったのが、声だけでも分かった。
「なんですか?そんな事って・・・全然そんな事じゃないです」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあなんですか」
また花の方を見るレオン。
「ロープと一緒に、瓶を下ろしてくれない?」
「え、瓶ですか?」
「うん」
「どうするんです?そんな物・・・」
レオンは立ち上がった。そして、上を向いて微笑む。
「僕もよく分からないけど・・・でも、ソフィがせっかく教えてくれたんだからね」