いつかの扉
これで最後かもしれない。
黒い重厚な巨大扉に手を押しつけながら、レオンはそんな事を考えた。
8周目。
つまり、今回のボスを倒す事が出来れば、無事に資金が集まる事になる。それはすなわち、次からはファースト・アイに挑戦の場を移すという事だ。
もしかしたら、もうビギナーズ・アイに来る事はないかもしれない。もちろん、行こうと思えばすぐに行ける場所にあるのだが、何の用事もないのに来るような場所ではない。そう思うと、なんだか名残惜しいような気がしないでもない。
ここでダンジョンの基礎を学んだ。いろいろな事があった。危ない目に遭った事もある。
いい思い出というわけではない。それでも、住み慣れた家や通い慣れた道のような、どこか自分の身体の一部が染み着いているような感触がするのは確かである。
しかし、それも一瞬の事。
感慨に耽るのは、無事に終わってからでいい。
まだ最大の難関が残っているのだから。
気を引き締め直して、レオンは両腕に体重を押しつけようとする。
だが、そこで背後から声がした。
「あの・・・」
よく抑えられた小さな声だった。扉の奥にモンスターが潜んでいるかもしれないのだから、当然の配慮だと言える。それでも、彼女の済んだ声は問題なく聞こえた。
扉から手を離してレオンは振り返る。そこに立っているのは、白い膝丈のワンピースにズボンを組み合わせたような、独特のデザインの魔導衣を着た金髪碧眼の少女。そして、彼女のすぐ隣にちょこんと座っているのは、白毛に紅眼のカーバンクル。その紅と碧両方の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。
当然ながら、先程の声は人間のものである。レオンは少女の方に、つまりステラの方に小声で聞いた。
「どうかした?」
彼女は少し言いにくそうにしながらも、それほど間を空けずに答える。
「えっと、今更なんですけど」
「え?あ、うん」
「この扉・・・その、ニコルさんのそれで壊せませんか?」
ステラの視線が、数秒間レオンだけレオンの腰の辺りを捉えていた。
「ああ・・・」
頷くレオン。言いたい事は分からないでもない。
ニコルのそれというのは、レオンが時折使っているガジェットの事だろう。木や金属等で組み立てた二重円柱構造をしているそれは、内側の筒だけ引き抜いて投げつける一種の爆弾である。中身は歯車等の細かい部品が複雑に組み合わさっているらしく、レオンも正確に構造を把握出来ているわけではない。
ただ、構造や原理はともかく、その威力は折り紙付きだった。どれくらいかと言うと、レオンの実家を吹き飛ばす事が出来るのは間違いない。ニコルのガレージであっても、誤って起動しようものなら、恐らく笑えない結果が待っているだろう。この装置の使用にいろいろと特殊な準備が必要なのは、爆発の威力を高める為というよりは、誤爆を防ぐ目的の方が大きいのかもしれない。ちょっとした弾みで爆発してしまうような代物だったら、レオンが怖じ気付いてしまうからである。
それはそれとして、彼女が言う事にも一理ある。仮にこの巨大扉を壊す事が出来るなら、予め魔法準備をしておいたステラが、動かずとも扉の向こうのモンスターを視界に収める事だって出来る。そうなれば、こちらから魔法で先制攻撃する事だって可能だ。
実はレオンも前にそう考えた事があった。それなのにそうしなかったのは、もちろん理由がある。
「えっと、僕が最初に1人でここをクリアした時なんだけど・・・ステラには話してなかったよね?」
頷くステラ。
「ここを開けて入ったらボスがいたんだけど・・・あ、ほら。あの紅い結晶型のモンスター。炎の矢を撃ってくる方だけど、覚えてる?」
「あ、はい。確か、その時もそれで・・・」
言いながらガジェットの方を見るステラ。どう言葉にしたらいいのか分からないといった表情をしている。確かに役に立っているこの装置だが、威力が威力なので、なんとなく話題にするのが憚られる存在だった。
「僕が最初にクリアした時のボスがあれだったんだけど・・・」
「え?」
驚きの声を上げたステラだったが、すぐに両手で口を押さえる。思いの外大きな声をあげてしまったので、自分でびっくりした様子だった。
つまり、レオンが1人であのモンスターを倒せた事が、それくらい驚きだったのだろう。そう思われても仕方ないので、レオンは苦笑するしかない。
それはともかく、話の要点は次の部分だった。
「いろいろあって、この部屋の中にモンスターと僕だけになって・・・要するに閉じこめられたんだけど、その時に、もしかしたら向こうの魔法で扉が壊れないかと思って、扉に魔法が当たるように誘導してみた事があるんだ」
「それで、ダメだったんですか?」
「うん。それに、このガジェットなんだけど・・・」
レオンも腰の後ろにあるそれを一瞬見る。
「爆発したら破片が飛び散るから、結構危ないんだよね。広い場所ならまだいいんだけど、こういう壁に囲まれた場所で使うと、多分衝撃が開けた方に逃げてくるから・・・つまり、投げた僕の方に向かってくるから、ちょっとね」
何故か、その後しばらく沈黙があった。
ふと気付くとソフィだけが身じろぎしている。さほど緊張していないようだった。
それを見て、レオンもなんとなく落ち着いた。
「・・・じゃあ、いこうか」
「あ、はい・・・そうですね」
再び扉に両手を押しつけるレオン。最初はステラも一緒にしていたのだが、それよりも中を観察して貰う方が有り難いので、扉に出来た隙間から中を覗くのが、今の彼女の役目だ。
体重をかけると、重い巨大扉がゆっくりと動く。
少しだけ隙間を作ったところで、レオンはその状態を維持する。とはいえ、かなり大きくて重い扉なので、それなりに辛い体勢だった。
ドアの陰から中を覗いたステラは、数秒程して頷く。
それを見て、レオンは扉を閉めた。
こちらに近付いて、ステラは小声で告げる。
「いつもの広間なんですけど、奥に扉がありますね」
思い当たる節のあり過ぎる報告だった。なんとなく、さっきの会話を誰かに聞かれていたような気までしてくる。
一応、レオンは確認した。
「・・・えっと、どんな扉?」
「ちょうどこの扉みたいな・・・だから、もしかしたらまだ奥に部屋があるかもしれません」
確かに以前のレオンもそう考えた。そして、あっさり閉じこめられたのだ。
しかし、どうやら最初にあの光景を見た人はそう思うのが普通らしい。それが確認出来たような気がして、何故かレオンは少しほっとする。
そういう心境が表情に出ていたのか、気付くとステラが不思議そうにこちらを見ている。
やや気まずい思いをしたレオンだが、この場所で咳払いをするわけにはいかない。気を取り直してから聞いた。
「その扉、本物だった?」
質問の意味が分からなかったのだろう。ステラは首を傾げるだけだった。
「いや・・・なんていうか、前に閉じこめられた時は、その扉が偽物だったんだ」
「あ、そうなんですか?」
瞳を大きくするステラ。確かにあの時も、一目見て分からない程、よく出来た擬態だった。
「中に入ってみたらその扉が崩れて、その陰にモンスターがいるって事があるかもしれない」
「なるほど・・・どうしましょうか。結晶型が1体だけなら、なんとか魔法相殺出来るかもしれませんけど」
あくまで可能性であって、確実ではない。しかも、モンスターがそれだけとは限らない。彼女が暗に言っているのはそういう事で、レオンも全く同意見だった。
かといって、何か良い作戦があるわけでもない。
「2人で入ろう。ステラはすぐに魔法の準備をして」
「レオンさんは?」
「ステラの準備が出来たところで、扉を弓で攻撃してみる。それで擬態が解けるかは分からないけど、いつかは解くはずだから、ステラは本体を攻撃出来るようにしておいて」
「向こうの動きの方が早かったらどうするんですか?」
「なるべく対処するから、ステラは魔法に集中して。それでも危ないと思ったら、すぐに中止して身を守って」
やや不満顔になるステラだったが、代案が思いつかなかったのか、或いは、いつもの事だから諦めたのか、すぐに表情を戻す。
それでも一言だけ告げた。
「無理はしないで下さい」
少し微笑んでみせてから頷く。本当は無理しないと勝てない場合が多いのだが、そんな事を口にするわけにはいかない。それに、1人だった時よりもずっと、今は心強いのだという事が分かるようになってきた。
仲間がいるというのは、戦力云々以前に、他の何をもっても得難いものがある。それは安心感にも近いが、もっと近いのは希望だった。1人の時は自分が倒れたらそこで終わりだが、仲間がいる場合は違うのだ。1人ではどんなに強くなっても、この希望を得る事は出来ない。
2人は視線で合図してから、レオンはゆっくりと扉を開ける。
ステラが先に飛び込んでから、レオンも後に続いた。
もはや見慣れた大広間。明かりも十分だし、障害物も何もない。もし安全が保障されている場所だったら、集会やスポーツに貸し出されるかもしれない。雨の日に剣の稽古をする場所にも使えるだろう。
目を閉じて精神を集中するステラ。魔法準備が始まるのを確認してから、レオンは奥の扉を視界に捉えた。
前に見た物と同じ物に見える。つまり、本物にしか見えない。
ステラを入り口近くに置き去りにして、レオンは扉の方へと進み出る。しかし、あまり近付くと向こうを刺激する可能性もあるので、数歩進んだだけで足を止めた。それに、以前は床に罠が仕掛けてあったのだ。近付いたら粘着質の糸に絡めとられて動けなくなるかもしれない。
一応、ここから床を見渡してみるが、糸らしき物が張り巡らされているようには見えない。しかしながら、それを信じきっていいとも思えない。
弓を手に持ちながら、レオンは後方のステラを見る。まだもう少し時間がかかるだろう。
それを確認してもう一度奥の扉を見るレオンだが、そこで変化があった。
全くの無音で、扉がすっと大きく開いたのだ。
見た時には確かに意表を突かれたのだが、よくよく考えてみると、それもおかしな話である。扉の動作としては、開くというのは最も一般的なものだろう。しかしながら、不意にボロボロに崩れ落ちるという場面を想像していたので、そういう意味で予想外だったのだ。
予め少し驚いていたからだろうか。その奥から現れたものを見ても、レオンは余り驚かずに済んだ。
しかし、8周目にして、確かに初めて見る種別のモンスターである。
4本足でのそのそと歩いてくる姿は、まさに狼にそっくりだった。
これが一つ目だったり骨だけだったとしたら、今までに何度も見た事があるのだが、今回は違う。
足が動く度につなぎ目がギシギシと音を立て、爪が床と擦れる時には石を削るような雑音が響く。体躯は大人の狼にも引けを取らない立派なものだが、それに拍車をかけるように、その色も黄金色に輝いて美しい。
もしかしたら、これもゴーレムなのだろうかと、レオンは一瞬思った。
それは分からなかったものの、いずれにしてもモンスターなのは間違いない。
このモンスターの特徴。それを一言で表すなら、金属生命体。
狼型の身体を構成しているのは、磨かれた真鍮のような、美しい黄金色の光沢を持つ金属だった。
それを確認した一瞬後には、レオンは弓を構えていた。
一切の躊躇なく、矢をつがえて放つ。
矢は真っ直ぐに狼の頭へと飛び、意外にも、それはあっさり命中してモンスターの頭を貫通した。
しかし、ただそれだけだった。
ある意味想定内の結果だが、もちろん喜べるわけもない。レオンはそこで考える。弱点はどこだろうか。自分がどう動くのが最善か。
ステラの魔法はもうすぐ発動するだろう。それを考えると、こちらから飛び込むのは得策ではない気がする。相手には遠距離攻撃手段が少なそうだ。あったとしても魔法くらいだろうが、それにしては近距離戦に強そうな姿をしている。
いずれにしても、彼女の魔法の結果を見極めてから動きを決めた方がいい。そう思っていたレオンだが、またしても、向こうは意外な方法でこちらを攻撃してきた。
最初に気付いたのは、何かが型にはまるような、カチッという金属音だった。
それがモンスターの方から聞こえたと思った瞬間、次はもっと大きな変化があった。
甲高い金属音。
うるさいというよりは、気持ち悪い音だった。抑揚のない一定の単音。それがあっという間に部屋中に広がる。
思わず耳を押さえるレオン。しかしながら、あまり意味がなかった。頭に直接響いてくるような耳障りな音なのだ。防ぎようがない。
顔をしかめながらそれに耐えるレオンだが、ふと気付いて、背後を振り返る。
やはりというべきか、ステラも耳を押さえて苦しんでいる。
魔法の妨害だ。
以前にニコルがシンバルを使えばいいと言っていた事があるが、それと同じ理屈だろう。こんな耳障りな音が響く空間内では、精神集中が出来ない。
すぐにレオンはモンスターに視線を戻す。
その時には、金属狼はこちらへと突進し始めていた。
狼の力がどれくらい強力なものか、レオンはある程度知っている。その突進と正面からぶつかれば、人間などは簡単に蹴散らされる。
だから、普段なら避けるところだった。しかし、今は背後にステラがいる。自分は避けられても、彼女はきっと避けられない。
持っていた弓を捨てて、右手に剣を、左手に短剣を握る。嫌な音が頭に響くので痛くて仕方ないが、無理矢理忘れるしかない。酒場の父娘ではないが、まさに気合いだ。
モンスターがこちらに迫るまで、ほんの数秒。
レオンはその歩調を観察する。
獣というものは、戦いにおいては天性の素質を持ち合わせている。敵に飛びかかる直前で咄嗟に歩調を変化させたり、横にフェイントをかけたりといった動作をしてくるのだ。金属狼にもそういった素質があるのかは分からないものの、あり得ないと決めてかかるのは危険だ。
こういった場合、相手に合わせていては勝てない。
タイミングを見計らって一歩引く。
だが、これはフェイントだった。そう見せかけておいて、レオンは弾けるように前に出る。
互いの距離は一瞬でゼロになる。
具体的な策があったわけではない。そもそも、そんな事を思案する暇もなかった。結局のところ運任せである。
向こうの前足が丁度地面を捉えた時と、レオンの剣がその足を斬りつけた時がほぼ同じ。
相手の足に上手く狙いをつけられるとしたらこの瞬間しかない。まさにその一瞬に上手く剣を当てる事は出来た。
確かにショートソードは、金属製の足に亀裂を入れている。
この右腕を動かすわけにはいかない。
相手の足に楔を入れてバランスを崩す。それ以外に、この突進を受け止める手段はない。
このレオンの作戦は、部分的には上手くいった。
モンスターは左足からバランスを崩す。
倒れたところを左手の短剣で狙おうと思っていたのが、誤算がいくつかあった。
ひとつは、倒れながらもモンスターが右の前足を果敢に振り上げてきた事。
そしてもうひとつは、楔として打ち込んだショートソードが衝撃に耐えきれずに、根元から折れてしまった事だった。
驚きはしたものの、レオンは左腕の盾で右前足の攻撃を受ける。
多少減衰されたとはいえ、衝撃はかなりのものだった。
耐えきれずに、後ろに倒れ込む。
しかし、折れてしまった剣の柄を咄嗟に捨てて、床に手を着けたのが幸いだった。
そのまま身軽に身体を反転させ、レオンは尻餅を突かずに立ち上がる。
狼型モンスターの方はというと、ややつんのめるようにしながらも、残った3本足だけですぐに体勢を立て直している。
レオンが斬りつけた左足は完全にとれてはいないものの、モンスターは少し持ち上げて床に着かないようにしている。痛いというわけではないだろうから、身体を支えるのには使えないという事なのだろうか。いずれにしても、その体勢だから疲れるという事もないに違いない。
向こうはその左足を失っただけ。
こちらは最大の近接武器を失ってしまった。
それでも、レオンはすぐに決断した。
右手のダガーを抜いて、再び距離を詰める。こういった場合、何よりも逃がさない事が重要なのだ。魔法が使えない以上、距離があってこちらに得になるような事は何もない。
だが、そもそも向こうは逃げなかった。
左足をブラブラさせていたのは、どうやらこちらを油断させようと思っていたかららしい。
何事もなかったかのようにその右足を床について、向こうも飛びかかってくる。
モンスターの方が体重はある。しかし、勢いがない為、威力はさほどでもなかった。
右前足を左腕の盾で受けながら、左前足は半身を引いてやり過ごす。
そして、再び持ち上げようとするその左前足を、こちらの右足で踏んで押さえつけた。
この時、レオンは不思議と思った。
思った程じゃないなと。
比較対象としてはあまり適当ではないかもしれないが、アレンに比べれば、このモンスターの動きは素人のようなものだった。攻撃ばかりで、守備を全く考えていない。アレンのような攻防一体の剣が相手だったら、このように懐に入る事も出来ないのだから。
しかし、こんな事を思った自分に、心の中にいる別の自分が驚いていた気がする。きっと、余りにも頭が痛すぎたから、脳が誤作動を起こしていたのかもしれない。
それはともかく、向こうの両前足を抑えている。
そして、自分にはまだ右手が残っていた。
なんとなくだが、レオンは首を狙った。
何か考えがあったわけではない。考えている時間はない。しかし、この耳障りな音が止まったらいいくらいは思ったのかもしれない。動物が声を出す場所といえば、大体が喉なのだから。
その予想が合っていたのかは、結局分からなかった。
右手のダガーがモンスターの首を貫いた瞬間、今まで重厚感たっぷりだったのが嘘だったかのように、モンスターの身体が急に軽くなった。
同時に、広間を満たしていた金属音も消える。
僅かに遅れて、身体中から紫の煙が立ち上った。
慌ててレオンは後方に退いた。一番驚いていたのは、きっとレオン自身だった。
まさかこれで終わるとは思わなかったのだ。まだ数手しか交えていない。呆気ないにも程がある。
だが、確かにモンスターはその姿を消した。
残ったのは、赤い小さな魔石。
8度目のボスを倒したという、その証だけだった。
何をするでもなく、ただそれを眺めていただけのレオン。
そこではたと気付く。
そういえば、ボスを倒した経験があまりなかった。正確に言えば、ボスにとどめを刺した経験である。最初にクリアした時以外は、ステラと2人でボスに挑んでいた。そして、今までのボスを直接倒していたのは、全てステラの魔法だったのだ。
今やたらと驚いているのは、まさか自分がとどめを刺すとは思っていなかったからのようだ。
それに気付いたものの、何故かそれでも感激出来ないレオンだった。
恐ろしい事だが、物足りないと思っている自分がいるような気がした。そんな事を冷静に考えている時点で、余裕があったという事だ。
つまりそれは、自分が強くなったという事なのだろうか。
「あの・・・レオンさん?」
突然背後から声が聞こえてきたので、慌ててレオンは振り返った。
いつの間にかすぐ後ろに立っていたステラが、こちらを心配そうに見ている。
「大丈夫ですか?」
一瞬意味が分からなかったが、すぐにレオンは気付いた。身体中を自分で確認してみるが、特に異常はない。
「うん、大丈夫。あ、でも、剣が折れちゃって・・・」
言いながら周囲を見回す。もう剣としては使えないだろうが、持って帰れば溶かして再利用出来るかもしれない。
剣の残骸はすぐに見つかった。しかし、視線を戻してみると、ステラはまだ心配そうな表情である。
「・・・何?」
こちらから聞いてみると、ステラは意外そうに瞳を大きくした。
「レオンさん、どうかしたんですか?なんだかぼんやりしてるし・・・」
「それは・・・まあ、いつもの事だし」
苦笑するしかないレオンである。村にいた頃には、ぼんやりしていると数え切れない程言われたのだ。慣れ親しんだ言葉だと言ってもいい。
こちらの表情を見て、ステラは首を傾げる。
「本当に平気ですか?さっきも何度も声をかけたのに、全然反応がなかったんですけど・・・」
「あれ、そうなの?」
この反応がつまり、全くステラの声が聞こえていなかった証拠だった。
途端にステラの表情が曇る。
「ほら、やっぱり・・・どうしたんですか?あ、もしかして、さっきの嫌な音が堪えてるんじゃないですか?」
言われて初めて気付いたが、少し頭痛が残っているようだった。しかし要するに、言われなければ気付かない程度のものでしかない。
だが、この一瞬の間で、ステラにはレオンの心が読めたらしい。真剣な顔になって、こちらの腕を引っ張ってくる。
「導きの泉まで戻りましょう。まだそれほど効果はないですけど、私も治癒魔法が使えるようになっていますから、それで少しは楽に・・・」
「いや、大丈夫だから・・・」
「いいんです。戦闘では役に立てませんでしたから、せめてそれくらいはさせて下さい」
そう言われると、断るのも悪い。
そのままステラに腕を引かれて導きの泉まで戻りそうになっていたのだが、途中で、ステラはふと気付いたように足を止めると、レオンをその場に残して、自分だけボスのいた部屋に戻っていく。
何をしているのかすぐには分からなかったが、彼女が帰ってくる前には気付いていた。
戻ってきたステラは、右手で小さな赤い石を摘んでいた。その表情はまさに苦笑していたが、きっとレオンも同じ表情だったに違いない。
何はともあれ、無事に導きの泉まで戻ってきた2人はその白亜の縁に腰掛ける。
いつの間にか近くにいたソフィが、2人の前の床に立ってこちらを見ていた。
その紅い視線を浴びながらも、ステラはレオンの左手首を両手で掴む。
「そういえば・・・僕よりもステラは平気?」
今更かもしれないが、あの音に苦しんでいたのは自分だけではない。
ステラは微笑みを返す。
「自分の身体は簡単なんです。病気を治すとか怪我を治療するのはまだ出来ませんけど、ちょっと頭痛がするくらいならすぐに治せます。ただ、他人の身体は難しいので・・・えっと、こんな事言うのもなんですけど、何かおかしいと思ったらすぐに言って下さい。多分大丈夫ですけど、その、失敗する確率がゼロではないので」
「あ、うん」
何やら不吉な前置きだが、レオンは笑った。彼女ならばきっと大丈夫だろう。少し心配性というか、自信に欠けるところがステラにはあるが、レオンに言わせれば、彼女には自信を持つに相応しいだけの実力がある。
掴んでいるレオンの左手を見て呼吸を整えたステラは、やがてその青い瞳を閉じる。
彼女の顔の前に一瞬だけ青白い光が走ったものの、それはあっという間に消えてしまった。
魔法を使ったらしいというのは分かった。
しかし、身体に変化はない。
もしかしたら、これが失敗したという事なのか。レオンがそう考え始めた頃、ステラがゆっくりと瞳を開ける。
「・・・頭痛、治りました?」
こちらを上目遣いで見て、怖ず怖ずと聞いてくるステラ。そう聞かれて、レオンは初めて頭痛が消えている事に気付く。
しかし、元から大した頭痛ではなかった。ほっておいたとしても自然に消えていたかもしれない。
どう答えたものか迷ったが、あまり迷うと彼女が不安になるだろう。なので、レオンは思ったまま答える事にする。
「大丈夫。ありがとう」
笑顔で言うと、ステラは少し照れたように微笑んだ。とりあえず、間違った事を言ったわけではなさそうである。
立ち上がってから、レオンは言った。
「じゃあ、帰ろうか」
「そうですね・・・」
同じく立ち上がったステラだが、ふと視線をソフィに移す。
妖精はステラの方を見たものの、すぐにレオンの身体を駆け上って、いつもの定位置に到着した。
そんなソフィを目で追うステラ。
とりわけ羨ましいというわけではなさそうだった。いつもと様子が違うような気がして、レオンは少し気になった
だが、こちらが何か聞くよりも先に、ステラはこちらの視線に気付いたようだった。軽く両手を振ってから彼女は言った。
「あ、いえ、大した事じゃないんですけど・・・ソフィと会ったのって、ここでしたよね。それでちょっと、いろいろ思い出してました」
なんとなく分からない話でもない。レオンがビギナーズ・アイに対して抱いている感情を、ステラはソフィに対して抱いているのだろう。彼女が初めてここをクリアした時には、既にソフィがいたのだ。
そう考えてみると、結構長い付き合いのように思えてくる。
不意に思い出したようにステラが言った。
「あの、実はシャーロットが言ってたんですけど、ソフィって名前、もしかしたらイブさんと関係あるんじゃないかって」
初めて聞く話に、レオンは驚く。
「本当?」
「フィオナさんもどこかで聞いた事がある名前だって言ってたんです。それで、レオンさんとの共通点といえば、やっぱりサイレントコールドじゃないかって」
「あ、なるほど」
感心するレオン。筋が通った推論に思えた。
「ただ、私もフィオナさんも、ソフィが誰の名前なのか、どんな意味なのかは分からないんですけど・・・」
そこで推測もストップしてしまったらしい。前世の記憶というものは曖昧だから、そういう話は意外と多い。レオンの母親も前世はサイレントコールドだが、冒険者だった頃の記憶はほとんどなかったのだ。
何かは分からないが、そこで頭の隅に何か引っかかった。
それはとりあえず置いておいて、レオンはこちらからも推測を話してみる。
「実は、僕もちょっとホレスさんに聞いてみたんだけど・・・」
「何をですか?」
きょとんとするステラ。ソフィという名前やサイレントコールドと、狩人でしかないホレスに接点があるとは思わなかったのだろう。
最初から説明すると長くなりそうなので、レオンは簡潔に言った。
「もしかしたら、冬とか雪とかに関係あるんじゃないかって」
何故か数秒間の沈黙があった。
「・・・えっと、ソフィが真っ白だからですか?」
そんな推論なら子供でも出来る。そう口にはしなかったし、彼女の表情にも出ていなかったものの、言わんとする事は分かった。
レオンは言い訳するように片手を軽く振る。
「まあ・・・そうだね。はっきりした事はまだ分からないけど」
本当にその通りだった。だから、一応伝えておこうと思っただけである。
しかし、そこで予期せぬ事が起きた。
急にステラが表情を険しくする。
それがどういう感情表現なのか、レオンにはすぐに分からなかったが、彼女が右手をこめかみ辺りに当てるのを見て、それが感情表現ではない事に気付いた。
頭痛がする。
彼女の表情が語っているのは、つまりそういう事だった。
「だ、大丈夫?」
そう聞きながらもレオンは考える。頭痛の原因といえば、先程のモンスターが発した音に違いない。彼女は大丈夫だと言っていたが、もしかしたら無理をしていたのか。或いは、ただの音ではなくて、もっと質の悪いものだったのか。
だが、ステラは左手を軽く挙げた。
「いえ・・・大丈夫です」
そうは言っても、苦しそうに見えた。
レオンはステラの肩に手を当てて、真剣な顔で言った。
「診療所まで行こう。すぐそこだから、僕が背負ってだって行ける」
「そうじゃなくて・・・分からないだけなんです」
「え?」
その言葉の意味こそ、レオンには分からない。
「あの・・・ちょっとだけ、そこで休ませて下さい」
ステラがそこと言ったのは、どうやら、先程まで腰掛けていた泉の縁の事らしい。
休むだけでいいのだろうかと心配だったレオンだが、本人がそう言うのだから従うしかない。彼女が座ろうとするのを、レオンは手をさしのべて手伝う。
「分からないってどういう意味?」
落ち着いたのを見計らってから聞いたレオンだったが、ステラは返事をしかねる様子だった。
頭を押さえて俯くステラを、レオンは見ている事しか出来ない。
これがとんでもない病気だったらどうするのか。そう考えると、レオンの背筋が寒くなった。
しかし、その時だった。
レオンの肩に乗っていたソフィが、音もなくステラの肩へと飛び移る。
そのまま頭の上に飛び乗るソフィ。
その紅い瞳はこちらを見ていなかった。ステラの方も見ていない。どこか遠い景色でも見ているような真っ直ぐな視線で、じっと壁を見ている。
ただ、それは数秒間だけの事だった。
ソフィはすぐにステラの肩に飛び移る。何事もなかったかのような、無音のステップ。
ただ、レオンは気付いた。
ステラの青い瞳から涙が零れている。
「・・・ステラ?」
不安から出た言葉だったが、その感情はすぐに消えてしまった。
こちらに少しだけ向けたステラの顔は、思いの外明るい表情をしていた。
「大丈夫です。あの、ごめんなさい・・・」
涙を拭いながら謝るステラ。
どうしたのかと、レオンは聞こうと思っていた。しかし、その時のステラの表情を見て、何が起きたのか分かった気がした。
代わりにこう聞いた。
「・・・何か見せて貰った?」
カーバンクルには特殊な能力がある。他人の前世の記憶を見せる事が出来る、不思議な能力。
まだ瞳は潤んでいたが、ステラはこちらを見た。
レオンは素直に、綺麗な笑顔だと思った。
「はい・・・あの、分かりました」
「何が?」
「えっと・・・あ、でも」
ステラは自分の肩に乗るソフィを見る。いつものレオンとソフィの位置関係である。
珍しく、ソフィはじっとステラの方を見ていた。
しばらくその紅い瞳を見つめていたステラだったが、やがてふっと微笑む。そしてこちらを見ながら、申し訳ないという表情で言った。
「すみません。やっぱり秘密です」
堂々とそんな事を言われたのにも驚きだったが、彼女の表情があまりにも大人びていたので、レオンは何も言い返せなかった。
いつの間にか、ソフィはステラの首に頭を擦り付けている。
以前は慰めているように見えたのに、今は不思議と甘えているように見えた。
その妖精の頭を愛おしそうに撫でるステラ。
ただなんとなく、ステラの笑顔も、彼女に甘える妖精の仕草も温かい。それと同時に、ソフィという言葉も温かく様変わりした様な気がした。
きっとそうなのだ。
ソフィは温かい。
ステラにあんな温かい涙を流させたのだから。
だから、それでいいじゃないか。
そう思ったレオンの顔にも、同じ様な温かい表情が浮かんでいた。