名残の旋律
細くてしなやかだが、その手には大小様々な傷が刻まれている。生えてきたばかりの若木ではなく、幾重もの季節を重ねてきた事を示す印。彼はまだ若者と呼ぶに相応しい年齢だが、その手以外にも身体中のいたるところに、年経てきた風格のようなものを感じさせる傷がある。ずっと自然と共に生きているから、その輪廻の時がいつの間にか身体に染み着いてしまったのかもしれない。
彼の指が示した先には、確かに見慣れぬ植物が生えていた。ギザギザ模様の5枚の葉っぱが地面から直接顔を出している。緑と呼ぶには黒過ぎる色合いをしていて、どちらかというと、周囲の草よりも土の色に近い。
背の高い草をかき分けながら、レオンとホレスはその位置まで近付く。レオンの右肩には白いカーバンクルが乗っていたが、次から次へと押し寄せてくる草の大群を、肩の上をうろうろしながら器用に避けていた。
「これは・・・?」
隣に立つホレスの顔を見ながら聞くが、彼はこちらを見なかった。その草をじっと見つめている。
「薬草だ」
「へえ・・・」
見た目の印象としては、どちらかというと身体に悪そうな色合いである。しかし、そう言われてみると、滋養が詰まっているように思えてきた。
「そのまま食べる事も出来るが、調合した方が高い効果が望める。あとは、独特の香りがするから、ハーブティーにする場合もある」
「効果って、具体的にはどういう効き目があるんですか?」
「ハーブによって違う。この黒っぽいのは鎮静作用があると言われるが、他には解毒や解熱、疲労回復等、色によって効き目が変わる。だが、余程緊急の場合以外は、そのまま食べるのは避けた方がいい。専門家が調合した物を使った方が安定した効果が望めるし、それに副作用も出にくい」
薬草というものは、時折身体に合わなくて体調不良を起こす事がある。ホレスが言っているのはそういう事だろう。バターで生死の境をさまよった事のある彼の言葉だから、それだけの重みがあった。
「分かりました。一応知識として知っておこうと思っただけなので、多分そういう事態にはならないとは思いますけど」
周囲の環境に溶け込むように生えているハーブを見ながら、レオンは言った。人によって様々だとは思うが、大半の人は美味しくなさそうだと思うだろう。自分が口にする場合はともかく、ステラにこれを食べさせるような事態にはなって欲しくない。
気になってソフィの様子を見てみると、その紅い瞳はじっとハーブの方を見ている。まさか美味しそうだと思っているのだろうか。カーバンクルは人が食べる物なら何でも食べるので、食の嗜好はよく分からない。
ホレスは周囲を観察している様子だった。視線だけ時折動かしながら、レオンに返事をする。
「ダンジョンの中にもハーブが生えている場合があるらしい。その場合、下手に口にするのはもちろん避けるべきだが、取り扱いにも注意するべきだ。なるべく他の物と隔離出来るように、密閉出来る容器があればそれに入れておいた方がいい」
「・・・そんなに危ない物なんです?」
まるで毒物を扱っているみたいだと思ったが、彼はすぐに頷いた。
「薬草と毒草は紙一重だ。保存食に触れてそれを食べでもしたら、死なないまでも、寒気がしたり腹を下す場合もある」
結構馬鹿に出来ない話である。ホレスならともかく、自分ではまだ完璧に薬草と毒草を見分けられないだろう。
レオンは重々しく頷いた。
「分かりました・・・ちなみに、ハーブを見分けるコツとか、何かありませんか?」
一瞬だけ、エメラルドグリーンの右目がこちらを捉える。
「見た目を信じない事だ」
なんだか意味ありげな一言だった。レオンがすぐに連想したのは、彼が妹のように想っている少女の事だった。彼女もまた、ある意味見た目通りではない。
「・・・そうですか」
それだけ返すのがやっとだったが、ホレスは気にも留めていない様子だった。また周囲を見ながら、独り言のように口を開く。
「勉強という事なら、それを採ってもいい」
「え、いいんですか?」
「ああ。たまにだが、ベティが土産と言って持って帰る事もある」
「土産・・・?」
薬草なんて誰が喜ぶのだろうと思っていたら、ホレスが補足した。
「目が見えない人間でも、香りなら一緒に楽しめるから、だそうだ」
「あ、なるほど・・・」
どうやらフィオナの事らしい。ハーブティーにするという事なのだろう。
噂をすれば影というべきか、そこで元気のいい少女の声が、2人の背後から聞こえてきた。
「ホレス!ちょっと見て!」
振り返る男2人。
ここは、ユースアイから西へ進んだ先にある林の中だった。道らしい道はほとんどない、まさに自然そのものといった場所である。視界に入る物といえば、首が痛くなるほど見上げてようやく先が見える背の高い木と、焦茶色の地面を半分以上覆い隠している草。そして、時折姿を見せる動物達くらいのものだった。他にも一応小川らしきものがあるものの、水量がほとんどなく、水が通った形跡が見受けられるという程度のものだ。ホレス曰く、大雨の後や雪解け直後には泉から水が溢れて小川が形成されるものの、夏が迫った今ではこれが普通らしい。その泉に水を供給するのも、地下からの湧水という事だった。
その林に乱立する木々の間をぬって、30メートル程先にある大木のすぐ傍にベティが立っていた。こちらに大きく手を振っていて、その振動でブラウンのポニーテールが揺れている。やや距離があるこの位置からでも、彼女の機嫌が良さそうな事は分かった。
彼女はホレスと長い付き合いがあるから、ここにいるのは不自然ではない。それどころか、まだキャリアが数年とはいえ、彼女は狩人でもある。時折ホレスの手伝いをしているらしく、彼程ではないにしろ、この林にも慣れている様子だった。
しかし、今日は珍しく、もう2人の少女がいた。
ベティのすぐ傍に立っているのは、ステラとシャーロット。多少贔屓目に見ても、明らかにこの大自然とはそぐわない2人組である。
3人の少女は、皆同じ様な服装だった。ダークグレイのシャツとズボン。何度かベティが着ているのを見た事があるので、どうやら野外活動用の服装らしい。ステラはベティに借りたようだが、当然ながら、シャーロットにはサイズが合わないから自前だろう。もしかしたら、ベティが子供の頃に着ていた服かもしれない。しかしもちろん、それは禁句である。
動きやすさという意味では、その服装は間違っていない。しかし、上品さを備えた金髪碧眼のステラがその格好をしているのは違和感が拭えなかったし、あどけなさが残るシャーロットの場合はいつも可愛らしい子供服を着ているから、これ以上ないくらいのギャップがあった。
そんな違和感を携えた2人がここにいるのは、当然ながら目的がある。
少女特有のよく通る声で、ベティがこちらに聞く。
「これ切ってもいいー?」
これというのは、恐らくベティの右手が掴んでいるツタのような物に違いない。彼女の背丈よりもずっと上にある枝から垂れ下がっていて、かなり長い。
一瞬だけその枝に視線を上げたホレスだったが、すぐにベティに視線を戻す。
「そんな物を切ってどうする?」
あまり大きい声ではなかった。しかし、ベティの耳まで届いたようだ。
「よく知らないけど、シャーロットが使うんだって。ステラの魔導具に使うからって」
彼女達がここまでやってきた目的がまさにその材料集めだったので、きっとそうなのだろう。しかし、そんなツタを何に使うのか、レオンにもよく分からない。魔導具というのは、ダンジョンでステラが着ている魔導衣のような、ジーニアス用装備の総称らしいのだが、今作ろうとしている魔導具がいったいどういう形状の物なのか、レオンには想像もつかない。
「それなら構わないが、すぐそこに同じ物が落ちている」
「え、本当?」
下を向いてキョロキョロと探すベティ。ステラとシャーロットも下を向いた。
だが、なかなか見当たらないようだった。ホレスとほぼ同じ位置にいるレオンも、どこにそんな物が落ちているのか分からない。
「どの辺ー?」
視線を動かしながらベティが聞く。
そこで何故か、ホレスは返事をしなかった。
気になって彼の方を見てみるが、特に呆然としているようには見えない。しかし、どちらかというと、彼は普段から呆然としているような雰囲気を漂わせているので、あまり当てになる評価とは言えない。
「ホレス?」
気が付くと、少女3人組も彼の方を見ていた。
少し遅れてホレスが言葉を発する。返事をするのかと思いきや、全く脈絡のない一言だった。
「蛇がいるな」
林全体が呼吸を止めたような、一瞬の静寂。
その後の少女達の反応は非常に分かり易かった。目にも留まらぬ速さでステラとシャーロットがベティの身体にしがみつく。一番頼れそうな人にとりあえず触れておきたいという事らしい。しかしながら、そのベティも少し動揺しているようだった。怖いもの知らずの彼女にしては、意外な反応である。
かく言うレオンは、もちろんなんとも思わなかった。蛇なんて見慣れている。冬眠からはとっくに目覚めているだろうから、いても全然不思議ではない。ただ、肝心のその姿が自分には見えないので、それが不思議といえば不思議だった。
「ど、どこ!?」
その声を聞いて、ベティも動揺している事が確認出来た。そんな事を呑気に考えられるくらいには、レオンは冷静だった。
ただ、やはり蛇の姿は確認出来ない。
少女3人はじっと下を観察している。
変わらず遠くの方を見つめているホレスだったが、やがて呟いた。
「・・・逃げたな」
これも小さな声だった。
しかし、待ちに待っていた言葉だったからか、少女3人はしっかりと聞き取れた様子だった。あからさまに安堵した様子を見せる。
それを後目に、レオンは気になっていた事を聞いてみた。
「ちなみに、どの辺りにいたんですか?」
返事は早かった。
「200メートル程先だ。そこからでもこちらの気配が分かるのだから、やはり賢いな」
さすがの視力だが、およそ一般人の常識とはかけ離れた、生粋の狩人と野生生物との、気配の探り合いでしかなかったらしい。
ベティが聞いたら怒りそうだと思ったが、少女達は余程ほっとしたのか、3人で何やら話し込んでいた。こちらの会話は聞こえていない様子である。
それを確認して密かに安堵の息を吐いてから、レオンはホレスに聞いた。
「いつもの事だから当たり前みたいになってますけど・・・そんな遠くの事までよく見えますよね」
ホレスは周囲を観察しながら答える。
「そうでもない。もっと遠くまで見える動物もいる」
「まあ、そうかもしれませんけど・・・でも、人間基準で考えたら、やっぱり凄いです」
ただ、ダンジョンで役に立つだろうかとレオンは考えた。基本的に屋内だから、視力が良くてもあまり意味がないかもしれない。しかし、ホレスくらい鋭敏に気配を探れたら、やはり便利だろう。
そこでホレスは、意外な事を言い出した。
「何でも見えた方がいいというわけではない」
「え?」
びっくりした。言葉の内容もそうだが、いつもの淡々とした口調の中に、いつもとは違う何かを僅かに感じたからだった。
何だろう。
寂しいや悲しいに似ているけれど、そうではない。
気のせいか、どこかハワードに似ているような気がした。
つまり、何かの強さ、頼もしさ。そういった類のものが染み出したような言葉。
しばらく待っても、ホレスはじっとベティ達の方を見たまま何も答えない。
ベティを見ているわけではない。もっと遠くを見ている。
なんとなくそんな印象を抱かせる視線だった。
聞きたい事はいろいろあったのだが、レオンは言葉が出なかった。思えば、ホレスの事をあまり知らないレオンである。過去にあった出来事をいくつか聞いてはいるものの、普段どんな生活をしているのか、彼が何を考えているのかはよく分からない。彼の思想に触れさせて貰った事もあるものの、自分には遠過ぎて分からないようなものだった。
そこで不意に、肩から何かが飛び立つ気配を感じる。
また驚かされた。
ソフィが勝手にホレスの肩に飛び乗って、そして彼の首の辺りに頭を擦り寄せている。
もちろんそんな事をするソフィは初めてだった。
珍しく少し驚いた様子のホレスだったが無理もない。ソフィとホレスが会うのは今日が初めてではないが、それまで全くと言っていい程、ソフィは彼に興味を示していなかったのである。
そんなソフィを見つめながら、ただなんとなくレオンは思った。
甘えているんじゃない。
慰めているんだ。
レオンにはそう見えた。
根拠はもちろんない。しかし、思わず頬が緩むような微笑ましい光景ではなく、見るものの感傷を誘うような光景だった。
「・・・ソフィといったか?」
いつの間にか、ホレスがこちらを見ていた。
「あ、はい」
「そうか」
ホレスはソフィの頭を撫でる。その表情は全く変わらない。もういつも通りの彼だった。
撫でられたソフィは黙ってそれを受け入れていたが、その手が止まると、その紅い双眸をじっとホレスに向けて、やがてレオンの肩へと飛び移ってきた。
妖精の身のこなしは本当に軽い。後に何も残さないような、そんな鮮やかさだった。
何事もなかったかのように、ホレスはまたベティ達の方を向く。
少女達の話はまだ続いている。つまり、それだけ短い、ほんの僅かな時間の出来事だった。
しかし、もっと大きな意味があるのではないか。
今なら何か分かるような気がする。レオンは呼吸を整えてから、頭を整理した。
存在しないと言われている白いカーバンクル。
何故か聞いた事のあるような気がする、ソフィという名前。
デイジーやホレスに示した特別な態度。
それでいて、何故か自分に一番懐いている。
まだ何かあったような気がする。
そう考えたところで、ホレスの右目がふと視界に入った。
「あの、ホレスさん」
その緑の右目だけが、一瞬こちらを見た。
返事はなかったものの、レオンはすぐに聞いた。
「最初に会ったあの日、笛を吹いてくれた事がありましたよね?」
「ああ」
「あれって、えっと・・・」
どう聞いたらいいのか、レオンは迷った。あの時レオンにはソフィの姿が見えたものの、他の人にも見えたわけではない。何かソフィと関係がありませんかと聞くのもおかしい気がする。
その辺りの意を汲んでくれたのか、ホレスは自分から答えてくれた。
「特に曲名はない。俺に狩人の基礎を教えてくれた人がたまに吹いていた曲だ」
「あの、その方は・・・」
「今も自然のどこかにいる」
曖昧な言い方だったが、自然と共にある彼らしい表現だった。いずれにしても、今からその人に会って話を聞くというのは難しいようだ。
「他に何か聞いたりしてませんか?曲の由来とか・・・」
そこで不意にベティの声が聞こえてくる。
「ホレス!ちょっとこっちに来て教えて!」
そちらを見ると、ベティがすっかり笑顔に戻って手を振っている。ステラとシャーロットは辺りを何やら探しているようだ。どうやら、3人とも蛇の恐怖からは抜け出したらしい。
「悪いな」
簡単にそれだけ言ったホレスだが、レオンにも意味は分かった。慌てて両手を振る。
「いえいえ!どうぞ・・・僕の話は大した事じゃないので」
「曲の由来は知らないが、この辺りではそれなりに知られた曲だろうな」
「そうなんですか?」
「ああ。たまにだが、山の方から笛の音が聞こえてくる事がある」
その北の山に住んでいたレオンだが、全く聞いた事がない。もっとも、仮にレオンの村で誰かが笛を吹いたとして、いくらホレスでもこの辺りから聞き取れるとは思えない。もしかしたら、この付近に住んでいる別の狩人が吹いているのかもしれない。もしかしたら狩人の間で意味のある伝統曲か、或いは流行った事のある曲という可能性もある。
「なるほど・・・」
その呟きを聞いて、ホレスはベティの方へと歩き出した。言うべき事はもう言ったという事なのだろう。
そう思ったのだが、彼は途中で足を止めた。
「・・・冬か」
最初は独り言なのだろうかと思ったが、まだその言葉は続きがあった。
「秋が終わって、最初に雪が積もった日。その日に聞こえてくる事が多い」
ホレスは一瞬だけ、その緑色の視線をこちらに向ける。
正確には、彼が見たのはソフィの方だった。
ただそれも本当に一瞬だけである。結局、彼はそのままベティの方へと向かって行ってしまった。
レオンも自分の右肩の上を見る。
ソフィの紅い瞳はこちらを見ていた。何か言いたい事があるのか、レオンには分からない。
右腕を曲げて、その頭を右手で撫でてやる。気持ちよさそうに瞳を細めるソフィ。紅色は目の奥の方へと隠れてしまう。
残った色は純白。
「雪か・・・」
自分でも気付かないうちにそう呟いていた。
前に聞いたホレスの演奏を思い出す。どこか寂しいながらも、温かい旋律だった。
初めて雪が積もった日にその音色を奏でる者がいる。
何を想って吹いているのだろうか。
「ちょっと!レオンも手伝って!」
聞き慣れた少女の声で、我に返る。
気付けば、ベティがこちらを見ている。彼女は笑顔だが、少し怒った表情を装っているようにも見える。1人だけサボるとは何事かと、そういう意思表示のようだ。
ステラとシャーロットは何やら熱心に相談中だった。ホレスは草をかき分けながら、ツタや枝等を拾っている。それが必要というよりは、その場所に埋もれている物を探しているようだ。
確かに、自分だけ何もしないというのは良くない。
「今行きます!」
返事をしてから、レオンはソフィから手を離す。紅い瞳が再び顔を見せて、こちらを捉えてくる。
しかしながら、レオンの頭に残ったのは、そのガーネットのような紅い輝きではなく、冬の到来を感じさせるような汚れない雪の色の方だった。