掠れた名前
その日、ステラの付き添いでフレデリック邸を訪ねたレオン。だが、最初は着いていこうとは思わなかった。一緒に行けば、話が全てレオンの耳にも入るからだ。彼女が秘密にしたい事まで聞く事になるかもしれない。それよりも、彼女が自分で整理して、取捨選択された情報を聞いた方がいいと思ったのだ。
しかし、結局ステラ本人から着いてきて欲しいと言われた。
本人が望むのならば断る理由はない。ただ、もしかしたら、向こうが頼むよりも先に、こちらから着いていくと言うべきだったのかもしれないと、レオンは少し後悔した。この辺りの気持ちの機微が、レオンにはよく分からない。鈍感だと言われても否定出来ないところである。
そして、ベティも一緒に着いてきた。宿場を出る時になってレオンはそれを知ったが、彼女は自分から着いていくと言ったのだろう。いつも自分の気持ちに正直だし、意外に洞察力もあるベティである。ステラと一緒に寝泊まりしてもいるのだ。何か様子に変化があれば、すぐに聞き出したに違いない。
そういう経緯で、3人は歩いてフレデリック邸へと向かった。
暖かい空気が穏やかに流れる春の午後だが、だんだん夏が近づいてきたようだとレオンは感じていた。まだ春になって2ヶ月程だが、山の春は短いのだ。そして、夏はもっと短い。夏が来たと思ったら、あっという間に秋が来るだろう。もっとも、レオンがユースアイで迎える季節はこれが初めて。もしかしたら、レオンの村よりも意外に長い夏が待っているかもしれない。
程なくして、フレデリック邸に到着する。ベティに言わせれば、もっと大きい建物はたくさんあるという事だが、その立派な門構えには圧倒されるレオンである。建物も、広い庭も、入り口にある石門も、一般的という言葉は当てはまらない。
もしかしたら、こういう家の事を貴族というのかと思ってステラに聞いてみたが、どちらかというと、ここは領主と呼ぶのが正しいらしい。だとすると、貴族はもっと凄い家に住んでいるのだろうか。どうしても、それが具体的に想像出来ない。これ以上広い家に住んでいたら、かなりの家族がいないと部屋が余ってしまうだろう。掃除するだけで一日が終わりそうだ。そう感想を漏らしたレオンに、ステラは困ったような笑みを返すだけだった。どうやらまた馬鹿な事を言ってしまったようだと気付いたが、時既に遅しである。
レオン達を迎えてくれたのは、この立派な家に恥じない気品を携えた2人。フレデリックとデイジーである。フレデリックはグレイの上着とズボンに、黒い杖を突いている。腰が曲がっていて動きがゆったりとしているのだが、顔色はいいようだ。デイジーの方は、紫と白を基調にしたロングスカートのワンピースに、長い黒髪を下ろしたいつものスタイル。今日はシルバーのネックレスをしているが、初めて見るアクセサリである。親友であるリディアが作った物かどうかは分からない。
本当は2人の他にもう1匹出迎えてくれていた。フレデリックのカーバンクルであるハルクである。焦茶色の体躯に深緑の双眸はもちろんいつも通りだが、髪のないフレデリックの頭の上に腹這いになっている体勢もいつも通りだった。
1人と1匹はそれが当たり前みたいな無表情だが、ベティはそれを見て笑いを堪えている。それを見て困ったようにしながらも、気のせいか、ステラも少し笑いそうになっているようだ。デイジーはそんな2人を見て、何やら楽しそうに微笑んでいる。ある意味レオンは置いてきぼりだが、頼むから腹を抱えて笑わないで欲しいという思いでいっぱいである。肩に乗っているソフィは無反応だったから、この妖精だけが仲間といえば仲間だった。
そのまま客間へと案内される。フレデリックから話があるのだと思っていたが、彼は出迎えてくれただけだった。思えば、彼と会話らしきものをした事のないレオンである。笑い声を聞く事はあるから喋れない事はないはずだ。必要な時しか喋らない、寡黙な人なのかもしれない。
勧められるまで座ってはいけない。それを覚えていたレオンはすぐに座らなかったのだが、ベティがあっという間に座ったので少し驚いた。しかし、当然というべきか、デイジーがそれくらいで文句を言うわけがない。親しい間柄なら、無視してもいい事なのかもしれない。
ソファに座った配置は、レオンの隣がデイジーで、その向かいにステラ。その隣でレオンの正面がベティである。何故この配置になったのかはよく分からないが、デイジーの隣しか空いていなかったのだから仕方ない。自分がホスト側になったみたいで恐縮したが、デイジーを見ると微笑みを返してくれたので気が楽になった。
対面に座るベティはそれほどでもなさそうだが、ステラは少し緊張気味の様子だった。2人とも、髪型はいつも通りだが、今日は服装が普段着である。ステラはクリーム色のブラウスに水色のスカート。ベティは薄いグレイのシャツにブラウンのスカート。どちらかというと明るい格好をしたステラの方が表情が固い。2人で変なバランスをとっているような、妙な印象だった。
それはそれとして、デイジーの話は、一通の封筒をテーブルに置いたところから始まった。
「見て欲しい物とは、これなんです」
多少色褪せているが、上質な紙だというのはすぐに分かった。こんな上等な紙の封筒を使って手紙を出す事は、レオンにはまずあり得ない事である。こんな紙を買うお金があったら、代わりに何か美味しい物を食べようと思うだろう。
封筒には角に名前が長々と書いてある。そして、その横に朱いインクで家紋らしきものが記されていた。
それをじっと見るステラ。しかしレオンには、彼女の意識がどこか別のものを見ているように見えた。リディアの癖と同じである。視線は固定されているが、他の事を必死に考えているようだ。
「これって何?」
それを後目にベティがきょとんとして聞いた。彼女は普段通りである。
「私が生まれた時にある家の方から頂いたお祝いの手紙です。実際に頂いたのは、私の祖父ですけど」
少しだけブラウンの瞳を大きくするベティだったが、それだけだった。
「さすがフレデリックさん。凄いねー。でも、これがどうしたの?」
一度だけ封筒に視線を落としてから、デイジーは答える。
「封筒に印がありますよね?」
レオンとベティは封筒を見る。確かに朱い印がある。きっと幻ではないはずだ。
それを見てから、デイジーは言った。
「少し前に、ステラの手紙をお預かりした事がありました。それが秘密裏に届くように、祖父やハワード先生に協力していただいたのですけど、その封筒にも同じ印が記してあったのを見て、どこかで見た事があると、祖父はずっと気にしていたようなんです。それが、一昨日の夜、古い手紙を整理している時にそれを見つけて・・・」
言いながらステラを見るデイジー。少し心配そうな表情だった。
ステラは固まったように動かない。
「あれ?これ、中身はないの?」
横からベティが聞く。確かに、封筒だけで、中の手紙はないようだった。
「ええ。容易に手紙を人に見せるわけにはいかないですから。ですけど、何か特徴的な事が書いてあるわけではないそうです。それに、筆跡は名前の部分を見れば分かりますから」
かなり長い名前なのもあって、筆跡を知る上では十分参考になりそうではあった。しかし、とても流麗な書体で、レオンには何と書いてあるのか読めない。ただ女性らしい綺麗な文字だという事しか分からない。
しばらく待ってもステラが動かないので、またベティが口を開く。
「誰の手紙かくらいは、フレデリックさんなら分かるんじゃない?」
確かにその通りである。17年も大事にとってあるのだから、見ず知らずの人からの物ではないはずだ。
デイジーは少し微笑んだようだった。
「有名な商家の方だそうです。祖父と昔取引があった家で、もちろん、ステラのお母様ではありません」
「そうなの?じゃあ、どうして?」
何故こんな物を見せたのかと、ベティは聞きたいらしい。
いろいろ省略された質問だが、長い付き合いのデイジーなら言いたい事が分かったのだろう。問題なく答えた。
「お母様ではないですけど、親戚の方ではないかと思うんです。同じ印を使っているわけですから、多分そうだろうと祖父も言っていました。ただ、貴族の親戚というと、かなり広い意味になるので、ステラと顔見知りかどうかは分からないんですけど・・・ただ、フィオナさんがお祭りで会ったという女性が、どうやらこの方のようなんです」
それにはレオンも驚いた。結構近いところに、ステラの親戚がいたという事なのか。
「何年かに一度、この家の方がユースアイの夏祭りにいらっしゃるようなんです。ただ、取引があったのは20年以上昔の事で、今ではもうほとんどお付き合いがない家なんです。その家で祖父と顔見知りだった方は、もうみんな亡くなってしまっているので・・・今では夏祭りで会う事があっても、少し挨拶を交わすくらいで、特別親しい家というわけではないんです。その手紙を頂いた時も、正直頂けるとは思っていなかったそうです」
つまり、昔はその家の家長と仲が良かったが、その人が亡くなってしまったっきり、その家とも疎遠になってしまったという事らしい。レオンの村のような狭い共同体では考えられない話だが、広い付き合いがあればある程、そういう状況も起こりえるのかもしれない。
いつの間にか、ベティも難しそうな顔をしている。
「うーん・・・つまり、その手紙を書いた人が、今年のお祭りに来るかもしれないって事?」
デイジーは頷く。
「ええ。ですから、ステラとどれくらい縁のある方だったのか、聞いておこうと思って・・・」
そう言いながらステラを見るが、彼女はまだ現実に帰ってきそうになかった。
ベティもしばらくそちらを見たが、やがて仕方ないといった様子でデイジーに聞く。
「名前のところ、全然読めないんだけど、デイジーは読めるの?」
「はい。名前は・・・」
「クリスティアナ・L・ディオ・マキシアナ・フィンドレイ」
答えたのはステラだった。
しかし、途中までしか頭がついていかなかったレオンである。そんな長い名前を聞いたのは初めてだった。
顔を上げたステラは、やや間を空けて、一言だけ言った。
「私の叔母ですね」
「え・・・」
思わず声が出たレオン。親戚というか、完全に身内である。
しかし、デイジーは冷静に聞いた。
「お会いした事はありますか?」
どういうわけか、ステラは首を傾ける。
「いえ、それが・・・多分ないとは思うんですけど、幼い頃の事まではよく思い出せなくて。とりあえず、そんなに親しいわけではないです」
どうやら、子供の頃の記憶を必死に辿っていたらしい。
そこで、横からベティが聞いた。
「ステラって、叔母さんが何人くらいいるの?」
そこでまた首を傾げるステラ。レオンは少し嫌な予感がした。
「そうですね・・・多分10人か20人くらいだと」
「・・・はい?」
叔母さんが20人とは、いったいどういう状況だろうか。
今度はレオンが固まりかけているのを見て、ステラは慌てて両手を振る。
「あ、いえ、20人は大袈裟かもしれないですけど、でも10人以上はいますよ。父も母も兄弟が多いですし、皆さん結婚されていますから。それに、両親とも、祖父が何度か再婚しているので・・・確かにちょっと多いかもしれませんけど」
きっと、ちょっとどころではない。
しかし、いろいろな疑問が解けた気がするレオンだった。そんなにも大勢両親に兄弟がいるなら、確かに全員親戚を把握するのは難しい。このクリスティアナという叔母も、ステラにしてみれば、大勢いる中の1人に過ぎないのだろう。
「それなら、そんなに心配しなくても大丈夫ですね」
「そうだねー。ステラもお祭りに参加出来そう」
デイジーとベティが嬉しそうに言った。
それでもやや不安げに、ステラは聞く。
「そ、そうですか?お祭りに来る可能性もあるんじゃ・・・」
自信ありげなベティが、その疑念を遮る。
「大丈夫!私に完璧な作戦があるから」
以前からその存在だけは聞いていたが、いい機会なので、レオンは聞いてみる事にした。
「・・・何です?その作戦って」
こちらに微笑みを向けるベティ。なんとなく邪な笑みに見えない事もないが、完全にそうとは言い切れないという微妙な表情である。つまるところ、彼女の策というのが、概ねそういう類のものなのだろう。
「本番までのお楽しみかなー。特にレオンには」
何とも意味深な発言である。そして、そこはかとなく嫌な予感がした。
「ところで、私、気になっていたんですけど・・・」
両手を合わせて話を切り出すデイジー。彼女もすっかりいつもの淑やかな笑顔だ。
その視線がこちらを向いていたので、ステラは少したじろぐ。
「・・・な、何ですか?」
だが、レオンを見ているわけではない事にふと気付いた。自分の顔より少し右側である。
「その子が噂のソフィですか?」
そういえば、デイジーが会うのは初めてだったかもしれない。とにかくいろいろな人物に撫で回されていたソフィなので、いちいち誰と顔合わせが済んだのか確認などしていなかった。
「あ、そうです。えっと・・・あれ?」
ソフィにテーブルにでも丸まって貰おうとしたレオンだが、そちらを向いてすぐに気付いた。
いつもこちらを向いている紅い双眸。
それが、今はじっとデイジーを見ている。
「あれ・・・珍しいですね」
ステラも気付いたようだった。基本的に、ソフィはあまり周囲の物に関心を示さない。いつも大抵レオンの方を見ているのだ。
すると何も言わずともソフィはテーブルに下りて、デイジーの前で丸くなった。紅い瞳でそちらをじっと見ている。
「お利口ですね」
嬉しそうにそう言ったデイジーは、そっと右手でソフィの背中を撫でた。
しばらくすると、気持ちよくて眠くなったのか、目が細くなっていく。なかなか可愛らしい姿である。
それでも、不思議は不思議だった。いちいち言葉にしないと、ソフィは撫でられる体勢になってくれないのだ。何も言われずとも自分から丸くなったのは、今回が初めてである。
「もしかして、デイジーに会いたくて出てきたのかな」
普段通りの口調でベティが言ったが、恐らく誰にも答えられない質問だろう。カーバンクルの気持ちを理解するのは難しい。
「良かったら、引き取って貰っても・・・」
その言葉は途中で途切れた。対面に座る少女の視線が強過ぎたからである。
「うちにはもうハルクがいますから」
呟くように言ったデイジー。笑顔でソフィを撫でながらである。
そんなデイジーを見て、ベティは微笑みながら言った。
「いいなー、デイジーは。ソフィにもハルクにも懐かれてるし。妖精に懐かれるコツとか、何かあるの?」
「ないと思いますけど。ハルクも勝手にさせているだけですから」
「ハルクって、さっきの、あの・・・」
何やら聞きにくそうなステラだった。恐らく、焦茶色のカーバンクルがどこにいたのか、場所について表現するのが難しいのだろう。
あっけらかんとベティは答える。
「そうそう。フレデリックさんの髪の毛になってたあの子」
その表現に絶句するステラとレオン。しかし、孫娘であるデイジーはあっさり言った。
「あの場所がお気に入りなんですよ。きっとしっくりくるものがあるんだと思います」
一瞬の沈黙。そんな言葉に返事が出来るわけもない。
いつの間にか、ソフィの瞳は完全に閉じている。
「うーん・・・やっぱり気になるなー。何か好かれやすいポイントがあるのかな。例えば、妖精は黒髪が好きとか」
「・・・もしそうだったら、ちょっとショックですね」
金髪のステラは残念そうに言った。ある意味正反対の髪色だ。
苦笑するレオン。嫌われるのも困るが、そこまで好かれたいものなのだろうか。
不意にベティがこちらを見る。
「レオンは黒髪とかどうなの?」
突然だったのもあるが、質問が漠然とし過ぎていてよく分からない。
「どうって・・・何がですか?」
「だから、黒髪の女の子ってどうなの?」
「え・・・」
そういう意味かと思ったが、かなり答えにくい。何故なら、その黒髪の女の子が、今まさに隣にいるのだ。
当然というべきか、デイジーの方が見られなくなったレオンだった。
ベティはニコニコしながらこちらを見ている。ステラは何故か興味津々に見えた。
「えっと・・・その、髪の色が特にどうとかはないですけど」
「昔好きだったソフィちゃんの髪は、何色だった?」
更なる追撃に動揺するレオン。
しかし、その時唐突にレオンは思った。
ソフィという名前と、黒髪というキーワード。
何か繋がりがあるような気がする。
会った事がないはずなのに、ソフィという人物の髪が黒色だったような、そんなイメージが確かに自分の頭にある。それにレオンは気付いた。
本当に会った事がないのだろうか。
自分の過去を思い返してみるレオン。しかし、結果は明らかだった。村で出会った人間は本当に少ないのだ。全員の名前を覚えていると言ってもいい。ソフィなんて人物はいない。
もしかしたら、名前を変えた人の中に、かつてソフィだった人がいるのだろうか。それを誰かが間違えて呼んで、それをたまたま聞いた自分がそれを覚えていた。そんな可能性ならあるかもしれない。
さらに記憶を辿ろうとしたが、そこで視界に影が過ぎったのに気付いた。
いつの間にか、テーブルから身を乗り出したベティが、こちらの目の前で手を振っている。そして、かなり邪な笑みを浮かべていた。
「ソフィちゃんの事を思い出してたのー?そんなにいい思い出がたくさんあるんだ」
濡れ衣だった。しかも、釈明しようのない濡れ衣である。
気のせいか、ステラの視線が少し冷たかった。
結局、その日にソフィという言葉の意味を知る事はなかった。
しかし、ただ1匹、同じ名前の妖精だけは、もしかしたら、その夢の中で会っていたのかもしれない。