最初の結実
こういう部屋は初めてかもしれない。
レオンは重い金属製の扉を閉めてからそう思った。もちろん、偵察で得た情報は他にもある。しかし、それは自分1人で昇華するべきものではない。
低くしていた体勢を起こしてから、来た道を引き返す。
黄色混じりの白で埋め尽くされた、いつもの見慣れたダンジョンの光景。
その通路の先に仲間が待っている。流れるような金色のショートヘアと青い瞳をした、自分と同い年の少女。今日もいつもの外套風ワンピースとズボンのセットだが、白地に紫の装飾が施されているこの魔導服は初めて見る。恐らくフィオナの新作だとは思うが、かなり手の込んだ刺繍だった。もしかしたら、リディアがアレンジしている可能性もある。
それはともかく、ステラのすぐ近くに立ってから、レオンは小声で報告した。
「なんていうか・・・汚い部屋だった」
当然というべきか、嫌そうな表情をするステラ。
「汚いって、どういう風にですか?」
思い出しながらレオンは答える。部屋の様子が全て見られたわけではないが、それはステラも理解している。
「とにかく散らかってるというか、石造りの建物が崩れた後みたいに、割れた石材みたいなのが床に散らばってる」
「もしかして、遺跡跡みたいな感じですか?」
「遺跡を見た事ないから・・・あ、でも、本の挿し絵を見た事はあるかも」
もちろん、れっきとした絵画のような写実的な絵ではない。だから、あまり参考になる意見とはいえない。
しばらく口元に指を当てて考えていたステラだが、やがて顔を上げて質問してきた。
「・・・モンスターではないですよね?」
床に散らばっていた石材が、という事らしい。
「うん・・・まあ、ないとは言えない」
「レオンさんはどう思いました?」
「分からないけど、モンスターだとして、わざわざ散らばってる意味があるのかな。どちらかというと、こちらの足を止める為に置いてる障害物だと思う」
「障害物・・・あ、他のモンスターは?」
頷くレオン。
「鳥型のモンスターが見えた。翼の音からすると、多分、3か4くらい。そして・・・あの赤い結晶が1」
ステラが息を飲むのが分かる。
あの結晶型モンスターとは、2人で初めてダンジョンに入った日以来の遭遇になる。負けた経験しかないというのは、命の危険がある以上、想像するよりもずっと重いものなのだ。
ここは迂回した方がいい。レオンはそう思ったが、それは自分だけの意見だ。
「・・・魔法を使う為の時間稼ぎという事でしょうか?」
思ったより冷静なステラの分析だ。
「そうかもしれない。それに、向こうは床を歩く必要がないからね」
地形の影響を受けるのはこちらだけなのだ。
こちらを真っ直ぐに見て、ステラは言った。
「挑戦しましょう」
レオンも見返す。
「無理して戦う必要はないと思う」
頷いてからステラは言った。
「そうです。ですから、今日はここまでにしませんか?その部屋に挑戦して、それで終わりにしましょう」
「・・・大丈夫?」
「いつかは挑戦しないといけません。それに、今日はまだ余力が十分残っています。導きの泉もすぐそこです。それでどうですか?」
再び一緒にダンジョンへ行くようになって5日目。気のせいか、ステラはどんどん押しが強くなっている気がする。口調は丁寧だけど、自分の意見をはっきりと言うようになった。それはもちろん、レオンにとっては喜ばしい事だ。
少し考えてみたが、彼女の言う事も一理ある。またいつか挑戦すればいいという意見もあるかもしれないが、いつもいつも今日のような好条件が揃っているとは限らない。
「分かった」
ステラが微笑むのを見て、ついこちらも微笑みそうになるのを堪える。今はダンジョンにいるのであって、そんな場合ではない。
「どれくらいの広さでした?」
聞かれて思い出してみるが、そんなに広くなかった気がする。
「奥行きが20メートルくらいかな・・・幅も多分それくらいだと思う」
「結晶モンスターはどの辺りです?」
「部屋の奥の方。鳥はまあ・・・うろうろと」
やや思案してから、ステラは頷いた。
「いつもの作戦で・・・あ、でも、レオンさんがいつも通りに動くわけにはいかないですよね」
足場が悪いから、いつものように身軽に動くわけにはいかないという意味である。
レオンは微笑む。
「いや、大丈夫。足場が悪いのは慣れてるから」
「そうなんですか?」
「昔、父親と一緒に山で狩人をしてたから。山の中は複雑な地形なのが普通だからね」
「へえ・・・」
何故か感心している様子だったので、レオンは少し照れてしまった。
「狩人って言っても、ホレスみたいな生粋のっていうわけじゃないんだけど・・・」
「ホレスさんですか・・・」
複雑な表情を浮かべるステラ。最近聞いた話だが、ステラは初めてホレスを見た時、相当なカルチャーショックを受けたらしい。というのも、ホレスはボロ布一歩手前といった服を着ているし、髪もボサボサ。都会の裕福な家で育ったステラは、あんな人間を見た事がなかったのだ。
それはそれとして、レオンは装備を確かめながら言った。
「じゃあ行こう」
「あ、はい」
2人は物音を立てないように扉まで進む。
扉の前に着くなり、レオンは再び少しだけ開いて中の様子を覗き見る。そして、特に変化がない事を確認すると、扉の陰に隠れているステラの方に視線を送った。
彼女から頷きが帰ってくる。もう何度もこの合図を使っているから、そろそろ慣れ始めていると言ってもよかった。
その合図を見るや否や、扉を少し開けて、室内に体を滑り込ませる。
当然、モンスターの視線を浴びる。
しかし、それが狙いというか、そういう作戦なのだ。
まずレオンだけ入って、中の様子を把握する。そして大事なのは、敵の注目を浴びる事。それが基本だが、具体的にこの後どう動くかは、レオンの判断に委ねられている。
予め確認していたように、室内には鳥型モンスターが4と結晶型モンスターが1。他には気配を感じない。
その把握は一瞬で済んだものの、それとほぼ同時にモンスターが動きを見せる。
鳥型モンスターはこちらに滑空を、そして、結晶型モンスターの眼前では、赤い光が文字を描き始める。
レオンの身体も既に動き始めていた。足は駆け出し、右手は短剣を抜き、そして、左手は腰の後ろに伸びる。
その位置に下げているのは、金属や木材やガラスが組み合わさって出来た、水筒程度の大きさの二重円柱状の物体。これがニコルの新作ガジェットである。
その筒の脇から伸びる鎖を引く。カチカチと音を鳴らして伸びるそれは、ある程度の長さまでしか伸びない。そこで手を離すと、ゆっくりとそれは筒の中に巻き戻っていく。この動き自体はガジェットの性能とはほとんど関係がないが、ひとつの目安として、こういう仕掛けにしてあるのだ。
つまり、この鎖が完全に戻れば準備完了。およそ20秒程度である。
それよりは向こうの魔法の方が早い。その公算が高かった。
しかし、その為にこの配置にしてあると言える。今ならステラは扉の陰に隠れているから、ある意味最大の遮蔽を得ている。向こうが狙われたとしても、分厚い扉が防いでくれる。
裏を返せば、その分の攻撃がレオンに集中する事になる。
レオンは部屋の中央まで駆けだしていく。
魔法よりも、鳥型モンスターの滑空はさらに早い。前方から2羽、後方から2羽。
前方の1体をダガーの投擲で早々に葬り去りながら、レオンは身体を横に投げ出す。その直後に、さっきまで自分がいた位置をモンスターの鉤爪が抉っていく。
一瞬だけ結晶型の方を見やる。魔法の準備時間等分かるわけもないが、まだ光の文字が消えてはいない。それでも、一度は魔法を避けなければならないだろう。
残る3羽の鳥型は向きを変えるのに手間取っている。
ここでもう一匹倒しておく。右手でダガーを抜きながらそう考えていたレオンだが、すんでのところでそれを思いとどまった。
最初に気付いたのは、カラカラという石が転がるような音だった。
部屋中に散乱している瓦礫が振動しているのだ。
だが全部ではない。揺れているものと、揺れていないもの。どちらもあるが、それが何故なのかは分からなかった。どちらも見た目は同じただの瓦礫なのに、どうして違いが出来るのか、その規則性が分からない。
しかし、不意に気付いた。
入ってきたドア。今もステラが身を隠しているドアだが、そのドアのある壁の両側の角付近、人の腰辺りの高さに、光り輝く小さな赤い石が浮いている。
ただ浮いているだけならいいのだが、振動している瓦礫が、まるで意思を持っているかのように、次第にその光を覆うように集まっているのだ。
木の葉を隠すなら森の中。レオンはそんな言葉を思い出した。
その一瞬後、鳥型に投げるはずだったのを急遽変更し、その赤い光に向かってダガーを投擲していた。
寸分違わずに赤い石を捉えた瞬間、何かが割れるような音とともに、集まりかけていた瓦礫は突然紫の煙を上げて消えていく。
それを確認するや否や、方向修正をようやく済ませた鳥型の滑空に襲われるが、それも体勢を低くしながら転がるようにして身をかわす。
再び視線は結晶型に。赤い文字はまだ続いている。だが、発動までもうすぐだろう。
それでも、レオンは一瞬だけ振り返った。赤い石は一体しか倒せていない。反対側は、この位置からだと遠すぎて投擲が届かない。だが、見ておくのに越した事はない。
一瞬だけ視界に入ったそれは、どうやら人形のようだった。瓦礫が集まって出来た、人間の子供程の大きさの、石造りの人形。
そんな確認も、申し訳程度しか出来ない。
レオンが視線を戻したとほぼ同時に、結晶型モンスターの魔法は完成した。
光の文字が消える。
この距離なら火球だろうかと思ったが、その予想は外れた。
炎の矢が敵の眼前に数本出現した。だが、その角度が問題だった。床と平行ではなく、レオンの足下を狙うような角度。いや、それよりももっと手前かもしれない。
そこに着弾したらどうなるだろうかと考えてみると、ついなるほどと思ってしまった。そんな呑気に構えている場合では、もちろんない。
その場所から動かずに、左腕の盾を構えるレオン。そして、身体を低くして、瓦礫を遮蔽として利用する。
しかい、そこで背後に気配を感じる。
振り返る余裕はない。身体の判断を信じて、瓦礫を蹴ってその場を離れる。
その直後、自分がいた位置を穿ったのは、石人形が振り下ろした拳だった。
すぐにその光景を目で確認したレオンだが、正直驚きを隠せなかった。その寸胴な身体は、どう見ても機敏な動きが出来るとは思えない。それなのに、この歩きにくい場所を音も立てずに歩いてきたというのだろうか。
ただ、そこに思考を巡らす暇があるわけはない。敵の魔法がすぐにやってくる事を忘れているわけがない。
その直後に、すぐ近くの床を捉える炎の矢。
爆炎を巻き上げるそれは、瓦礫を粉々にするのに十分な威力を持っている。
結果、無数の石片が、周囲にまき散らされる事になるのだ。
瓦礫と盾を最大限利用して、レオンはそれを防いだものの、大きい物は拳大程もある。まともに当たったらと思うと、油断出来ない。
目前に迫る石人形は、そんな石片はものともせずにこちらに近付いてくる。つまり、この石人形を援護する為の作戦なのだろう。炎の矢を敵に直接打ち込むと、間違って石人形に当たる可能性もある。
一瞬でレオンは周囲を確認する。鳥型はいつの間にか天井付近に避難している。その辺りも抜かりがないようだ。結晶型は新たな魔法の準備、そして、石人形はこちらに向かってくる。
だが、全く問題なかった。自分がいる部屋の中央。この場所に敵が集まっているのだ。
作戦通り。
レオンは駆け出す。石人形はそれほど早くはないが滞りなく、正確に方向転換している。一瞬だけしか見えなかったが、もしかしたら足が床から少し浮いているのかもしれない。
左手で腰の後ろを探る。ニコルのガジェットの準備は整っていた。
二重になっている円柱構造。その内側が実は取り外せるようになっている。というか、取り外せないと意味がない。何故なら、この内側部分、人の中指ほどしかない円柱状の金属こそが、ある意味本体だからだ。残る部分は、この本体を起動させる為の、言わば準備装置でしかない。
本体の上にあるボタンを押す。本当に、この瞬間だけは、何度やってもドキドキする。
無造作に、結晶型に向かって放り投げる。
そのまま、思いっきりレオンは瓦礫の陰に飛び込んだ。
金属がぶつかる音。
その直後に訪れたのは、この部屋を丸ごと振動させるような、そんな爆音だった。
内心、レオンは思った。
ニコルは本当に、とんでもないものを作っていると。
しばらくして振動が止んでから、レオンは身体を起こした。服の汚れを払う。こんなにのんびりしているのは、もう決着がついたと分かっているからである。
結晶型モンスターがいた辺りを見る。黒い煙以外に、紫の煙も立ち上っている。きっと木っ端微塵になった事だろう。ほんの少し、申し訳ないような気分になったレオンだった。
続いて、石人形が迫ってきていた方を見る。モンスターは確かにいたが、ほぼ動けなくなってしまっていた。
その身体を覆っているのは、白い半透明な氷塊。
上は見上げなかった。もう翼の音が聞こえないからである。恐らく最初に処理してしまったのだろう。
代わりに、入ってきた扉の方を見た。
扉付近に立っていたのは仲間のジーニアス。その少女が目を瞑ってやや俯いている、いつもの姿だった。
しばらくして、砕ける音とともに石人形はその姿を消滅させていく。内包されていた赤い石だが、最初見た時の輝きは既になく、身体を構成していた瓦礫と一緒に消滅していった。
それから程なくして、ステラは目を開いた。そして、戦闘が無事終わった事を確認して、安堵したように大きく息を吐く。
ステラの魔法は準備時間が長い分、一度敵を捉えればほぼ確実に動きを封じる事が出来る上、そのままとどめを刺す事も出来る。しかも炎の矢のように巻き込まれる恐れがないので、そこが何より、レオンは有り難かった。
ただ、もちろん万能というわけではなく、最大の制約は、相手を目視出来ないと上手くいかないという事だった。ほんの数メートル程度の距離であれば、魔法的な感覚だけで敵を捕捉する事も出来るらしいのだが、それ以上となると、一度は目で見て確認しないと無理なのだと言う。
その為、例えばこの部屋にいたモンスターと戦う場合、いきなり彼女が室内の様子を把握しようとしても、すぐにモンスターの集中砲火を浴びてしまう。魔法の準備時間が長い彼女は、咄嗟の対応が難しいし、それに相手も魔法を使ってくる場合、確実に速度負けしてしまう。
だから、まずはレオンが敵の注意を引きつけるのがセオリーとなった。レオンで全ての敵を倒すのは難しいが、防御を優先すれば、ある程度は時間を稼ぐ事が出来る。今回のように、魔法を使うモンスターを処理するのが理想だが、それが出来ない場合でも、簡単には倒れない事が最低条件だ。それが出来れば、しばらくしてからステラが魔法で援護してくれる。
一応、これが2人で決めた戦術のひとつである。他にも細かい作戦があるし、実際には、状況によって対応が変わる事も多い。ニコルの考えてくれた案をほぼ踏襲しているが、ステラの魔法を客観的に評価して、その原案に反映させている。
ステラがこちらに駆け寄ってくる。やはりほっとした様子だった。
「上手くいきましたね」
微笑むステラに、レオンも同じ表情を返す。
「うん」
「でも、やっぱりちょっと危なかったですよね。小さかったですけど、ゴーレムもいましたし」
「ゴーレム?」
聞いた事のない単語だったが、どうやらさっきの石人形の事のようだ。
ステラは頷く。
「高位のジーニアスが作る事があるんです。生ける人造。石だったり鉄だったり、他にも植物とか・・・」
「へえ・・・」
何の為に造るのだろうか。寝ずの番とかをさせるのかもしれない。
また笑顔に戻ってから、ステラは言った。
「約束した通り、今日はこれで帰りましょう」
レオンは頷く。
「そうだね・・・あ、そうだ。短剣を回収しておかないと」
「どの辺ですか?私も手伝います」
「いいよ。足場が悪いし、危ないから、ステラはそこにいて」
不満顔になるステラだったが、すぐに吹き出して笑顔に戻った。今日は機嫌がいい。一度負けたモンスターに勝ったというのは、自分が成長した証のように思えて嬉しいものなのだ。
そんなステラをその場に残して、レオンは短剣を捜す。確か、鳥型に投げたのが1本とゴーレムに投げたのが1本。
ゴーレムに投げた方はすぐに見つかった。部屋の角辺りだったから、よく覚えていたのだ。しかし、鳥型の方はあまり覚えがなかった。部屋のやや奥で命中したのは見たが、その後は見ていない。それなりに高さがあったから、思いの外遠くに落ちている可能性もある。
結局、捜すのに結構時間がかかった。床一面に瓦礫が散らばっているから、捜すのに余計手間取ったのだ。
落ちていたのは、結晶型モンスターが陣取っていたその付近だった。ここまで飛んだというのも意外だが、それだけ投擲の威力が増しているという事かもしれない。
しかし、レオンが見つけたのはそれだけではなかった。短剣を拾った後、すぐ近くに落ちていたそれが目に留まった。
瓦礫の上に落ちていたのは、レオンの盾よりも大きい、ガラスの様な透明な板だった。
それだけなら、ただのガラクタだと思ったかもしれない。しかし、よく見れば、それは普通のガラスではなかった。何故かといえば、一見透明に見えるものの、虹色に輝くような不思議な反射光を返す事。あれだけの爆発があったにも関わらず、その上には塵一つ積もっていない事。そして、その板の形状が綺麗な正三角形をしている事。
レオンは手にとって持ち上げてみる。
思いの外軽かった。指で軽く叩いてみるが、硬度はそこそこありそうだ。
「どうしたんですか?」
ステラの声に、レオンは振り返った。
「いや・・・ちょっと、変な物を見つけて」
「変な物?」
とりあえず、ステラの位置まで戻って、彼女にそれを見せてみる。ジーニアスなら何か分かるかもしれないと思ったが、しかし、彼女も首を捻るばかりだった。
「・・・でも、普通の物じゃないですよね。こんなに綺麗な形になっているわけですし」
普通の場所ならともかく、ここはダンジョンの中なのだ。例えこれがガラスだとしても、十分不自然である。
「ケイトさんか、ガレットさんに聞いてみます?」
その提案にレオンは何度か頷く。確かに、彼らなら何か知っていそうだ。
「あ、そっか・・・そうだね。聞いてみよう」
微笑んでからステラが言った。
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん」
2人は帰路へと歩き出す。とは言っても、通路を10メートルちょっと歩いただけの部屋が導きの泉なのだ。着くまではあっという間である。モンスターに遭遇する可能性もほぼない。
歩きながら、今日の戦闘がどうだったかレオンは考えていた。順調にいけば、あと数日もあれば、ステラとこのビギナーズ・アイをクリア出来るだろう。そろそろ、少し高難易度のダンジョンであるファースト・アイに挑戦する頃かもしれない。ここは2階層だが、ファースト・アイは5階層だと言われている。恐らくモンスターも強力になっているはずだ。
「どうかしました?」
導きの泉への通路を歩きながら、隣のステラが聞いてくる。
「何が?」
「考え事ですか?」
「あ、うん・・・ここをクリア出来たら、そろそろファースト・アイに挑戦なのかなって」
前を向くステラ。
「そういえばそうですね・・・」
どこか感慨深げに言葉を吐き出したステラだったが、突然こちらを向いた。一瞬で笑顔になっている。
「でも、焦らずにいきましょう」
レオンも微笑む。
「そうだね」
そこでようやく、導きの泉へと続く扉に到着した。
ドアを開けるレオン。
この部屋を通り抜けて、階段を上ればユースアイに辿り着く。そのはずだった。
しかし、そこで2人の足は止まる。
その視線は、白亜の泉の少し手前の床に釘付けになっていた。
そして、レオンは開いた口が塞がらなかった。こんなに驚いた事は、この町に来てから一度もない。いや、もしかしたら、人生で一番の衝撃を今体感しているのかもしれない。
紅い双眸。
白い体躯。
本当に、あの日見た光景そのままだった。
いつか蒸留所でホレスの演奏を聴いている時に見えた光景。そのものだったのだ。
白毛に紅眼のカーバンクル。
あの妖精が確かに、あの時光景のまま、今目の前に座ってこちらを見ていた。
「わぁ・・・可愛い!」
驚きで声も出ないレオンをよそに、ステラは普通の女の子の感想をそのまま口に出して、妖精に駆け寄っていた。そのまま屈み込んで、撫でようと手を伸ばす。
だが、突然カーバンクルは駆け出した。
レオンは慌てた。その白いカーバンクルが、自分の身体を身軽に駆け上ってきたからである。頭まで上ってくるかと思ったが、妖精は右肩で止まった。
首を捻ってそちらを見ると、カーバンクルはじっとこちらを見ていた。
紅い瞳と目が合う。宝石みたいな輝く瞳。
だが、何を言いたいのかはよく分からなかった。何故ここにいるのか。自分に何か用があるのか。聞きたい事は山ほどあるが、言葉の通じないカーバンクルには聞いても意味がない。
しばし見つめ合っていたレオンだが、不意に気配を感じて、正面に向き直る。
いつの間にかすぐ近くに立っていたステラが、何故かこちらをじっと見つめている。それは恐らく穏やかな表現で、実際には、睨まれているという状態に違いなかった。
「えっと・・・何?」
怖ず怖ずと聞く。すると、ステラは呟くように言った。
「・・・羨ましいです」
意味が分からなかった。
「・・・何が?」
「どうしてレオンさんに懐いてるんですか?」
「え?別に懐いてるわけじゃ・・・」
「ずるいです」
酷い言われようだった。何もずるい事はしていないはずなのだが。
「・・・そう言われても」
勝手にカーバンクルが上ってきただけである。
しかし、ステラは何か不満があるらしい。
「・・・いいなぁ」
あまりに羨ましそうにこちらを見つめるので、何故かレオンも罪悪感を覚えてしまった。
首を捻ってカーバンクルと目を合わせてから、レオンは試しに言ってみた。
「あの・・・ちょっとだけでいいから、ステラの肩に乗ってあげてくれないかな」
正直、誠意を見せただけというか、ダメもとだったのだが、意外にも、カーバンクルは言う事を聞いてくれた。まさに妖精の身のこなしで、音もなくステラの左肩まで飛び乗る。
「うわぁ!・・・可愛い!」
満面の笑顔で感想を口走った後、ステラは右手でカーバンクルの背中を撫でる。特に嫌がる事もなく、しばらくしてから頭を撫でられると、気持ちよさそうに眼を細めた。
そんなカーバンクルを微笑みながら愛でるステラ。
微笑ましい光景と言えるかもしれないが、レオンの頭の中ではいろいろな疑問が渦を巻いていた。
あの時見たのと全く同じカーバンクル。もちろん偶然とは思えない。だとしたら、自分の前に姿を見せたのは何か理由があるのだろうか。最初は光景を見せたにも関わらず、今になって実際に会いに来たのはどうしてなのか。そもそも、仲間以外とは合流出来ないはずのダンジョンで、どうして会う事が出来たのだろう。
全部答えられなかった。
相変わらず、カーバンクルと戯れているステラ。表情はこれ以上ないというくらい嬉しさに満ち溢れている。
しかし、そんな仲間の表情を、レオンはただ呆然と見つめる事しか出来なかった。