触れ合う灯火
ランプの炎が静かに揺れている。
その灯りを頼りに、レオンの目は本の上の小さな文字を追っている。写本した人が几帳面だったからなのか、字自体は綺麗な活字なのだが、ところどころ破れていたり汚れていたりする為、読む人間に多少の忍耐を要求する本だった。だが、そもそもレオンには難しい内容の本だから、仮に綺麗な状態だったとしても、流し読みなんていう真似は出来ない。少しずつしか読み進めないのは致し方ない事だった。
ここは、冒険者見習いとしてレオンにあてがわれた部屋である。1人がやっと寝られる大きさのベッドと、テーブルとイスがひとつずつ。それらをようやく押し込める程度の広さしかない部屋だから、他の家具なんて物はない。他にあるものといえば、窓がひとつと収納スペースが少しだけ。殺風景な部屋だと言えるが、ただ寝るだけの部屋だと思えば十分だとも言える。
それに加えて、最初はほとんど何も物がなかった。ある物といえば、レオンの服や生活用品だけだったが、今はほんの少しだけだが賑やかになっている。武器や鎧、その手入れ道具、そして本、それを読む為の灯り等、少しずつレオンの部屋らしくなってきたと言えるかもしれない。
ページをめくる。頭は本に書かれている科学推論の事でいっぱいだが、これも冒険者の性なのか、身体は周囲の気配を把握しようと躍起になっているようだった。毎晩お馴染みの酒場の喧噪が下の階からうっすらと聞こえてくるし、ランプの炎と油の匂いもしっかりと拾っている。この状態に慣れないうちは、気になって読書に集中しにくかったレオンだが、今はむしろ便利だと思えるくらいだった。
だから、外の廊下を歩く人の気配に、レオンはすぐに気付く事が出来た。
出来たからといって、特に何かをしなければならないというわけではない。ここがダンジョンなら、どこで戦うのが安全で有利かを考えるところだが、宿場でそんな大袈裟な真似をしても仕方ない。仮にその人物が強盗で、突然この部屋に押し入ってきた場合、咄嗟に手近な武器を掴んでベッドの陰に隠れるのがいいだろうくらいは考えたものの、その程度の事なら、いちいち準備していなくても、身体が勝手に動く。
しかしもちろん、そんな緊急事態ではない。普通のお客が酒場から引き上げて、部屋に戻る途中なだけだろう。
そういうわけで、レオンは何も気にせず本を読み進めていた。水の性質について考察している本で、ニコル好みの物騒な実験も記してある。この本を読んでいるのは、今日新しくニコルに提供して貰ったガジェットが、まさに水を使う代物だからだった。しかも、扱いを誤ると自分が大怪我をしかねない。そうなれば、知識の習得にも真剣になるというものである。
またページをめくる。
だが、レオンはその手を途中で止めた。廊下を歩いていた人物の気配が、自分の部屋の前で止まったからだった。
やや間があってから、ドアがノックされる。
イスから立ち上がりながら、レオンは返事を返す。なんとなく、レオンはドアの向こうの人物に予想がついていた。日が沈んだ後のこんな時間に、自分の部屋を訪ねてくる人物といえば、ある程度可能性が絞られている。
座っていたイスからドアまでは、歩いて数歩程度の距離しかない。ものの数秒で、レオンは部屋のドアを開いてその人物を出迎えた。
月とランプの火が作る薄明かりの中、夜空を薄めたような青い瞳がこちらを見ていた。
「お帰り、ステラ。もう身体は大丈夫?」
そう聞きながらも、レオンは少し意外だった。自分の部屋を訪問する人物といえば、ガレットかベティだと相場は決まっている。ステラが来た事もあるが、その時は大抵ベティが一緒だったのだ。
ステラはどこか思い詰めたような表情で頷いた。
そのまま何も言わずに黙っているが、どうやら話を切り出しにくい様子だった。
それも無理のない事だ。最初のダンジョンを経験したのが、つい昨日の事。怪我は大した事がなかったものの、レオンが無神経な事を言ってしまったのもあって、心的な負担は少なくなかったはずだ。その日のうちに宿場に帰ったものの、元気がないのは一目瞭然といった様子だった。ベティが自分に任せて欲しいと言ったのもあって、結局、今日は一日中別行動だった。
なんとなく話し辛いのはレオンも一緒である。しかし、ステラよりは自分の方が心に余裕があるに違いない。
レオンは出来るだけ静かな口調で、話を切り出した。
「少し話をしない?」
しばらく視線をさまよわせた後、ステラは小さく頷いた。そして、部屋の中を一瞬だけ見てから言った。
「部屋にお邪魔していいですか?」
何度か瞬きするレオン。
「えっと・・・部屋って僕の部屋?」
当たり前だったが、確認せずにはいられなかった。
「ダメです?」
少し上目遣いになって聞くステラ。ここで取り乱さなかったのは、もしかしたらベティに鍛えられていたお陰かもしれない。
「ダメって事はないけど・・・」
自分の心臓への負担が大き過ぎるかもしれない。その前に、居たたまれなくなって緊急避難する公算が高い。
それでも、ステラは退かなかった。
「どうしても、その、2人だけで話をしたいんです。お願い出来ませんか?」
ステラはベティの部屋に泊まっているから、他に2人きりになれる場所は、あまり候補がなさそうだった。
相手の真剣な様子を見て、レオンは承諾する事にした。ここで渋るのは、1人で変な気を遣っているだけで馬鹿みたいである。
ドアの前から身体を退けて、ステラを部屋に通す。彼女の身体が自分の前を通り過ぎる時、ただそれだけの事だというのに、言いようのない緊張感で身体が強ばった。
部屋の中を何気なく見回すステラ。ふと、テーブルの上にある本に気付いた。
「勉強中でした?」
「あ、うん」
「お邪魔でしたよね?」
申し訳なさそうな表情をしているステラの顔が、ランプの灯りに照らし出されている。
「いや、そんなに急ぎでもないから・・・ステラはそこに座ってくれる?」
「そうですか?それなら、ちょっとお借りします・・・」
ステラがイスに、レオンがベッドに腰掛ける。これが逆だったら、きっと自分の心臓が悲鳴をあげたに違いない。
室内にはランプの灯りしかない。テーブルから発せられるその温かい光が、ステラの髪や顔をほんのり朱く照らしている。彼女の幻想的な雰囲気を増長しているように思えた。
それでも、青い瞳は色を変えずに、こちらをじっと見ている。何かを責めるわけでも、何かを怒っているわけでもない、澄んだ瞳。
それを見て、彼女は真面目な話をしに来たのだと改めて認識する。
一度考えを整理してから、レオンは口を開いた。
「今日、いろいろ考えてみたんだけど、やっぱり昨日は僕が悪かったと思う」
相手の反応はなかった。昨日の診療所の時と同じだ。
レオンは話を続ける。
「僕はずっと1人でダンジョンに入っていた。ステラより経験があるとはいっても、それは1人で戦って培った経験なんだ。でも、仲間と一緒に戦う場合、それらが全てそのまま生かせるわけじゃない。それを僕は分かっていなかった。それなのに、先輩面をして、自分の経験をステラに押し付けていたと思う。本当は、全てをステラと話し合って決めないといけない。結果が問題なんじゃない。僕の方が正しいと思い込んでいた事を、どうしてもステラに謝らないといけない。だから、ステラ、ごめん」
頭を下げる。
ステラの返事はすぐに返ってきた。
「私はレオンさんを怒ってたわけじゃないんです」
こちらが顔を上げるのを待ってから、ステラの言葉は続いた。
「とても怖かったです。初めてダンジョンに入って、モンスターと戦って、そして負けて、凄く怖かったです。そして、目が覚めたらすぐ近くにレオンさんがいて、私、きっと怒られると思っていました」
「え?」
全くそんなつもりはなかったし、何か怒る理由があるだろうか。
そこでレオンは意表を突かれた。
彼女は少し微笑んでいる。心配していたよりも心に余裕があるようだった。
「だって、私が悪いんです。私が失敗したから、2人とも怪我をしたんですよ。それに、私が冒険者になりたいのは、本当に身勝手な理由なんです。個人的で自分勝手な理由で、そして、そんな動機だから、きっと覚悟も足りないんです。それなのに、レオンさんに一人前みたいな口を聞いて、挙げ句の果てにそれで怪我をさせてしまったんです。だから、きっと怒られるんだと思ってました。でも、いざその時になってみると・・・」
もちろん、昨日の事だから覚えている。レオンは怒るどころか、ステラに謝っていた。
「そっか・・・でも、ステラが悪いわけじゃない。失敗したからって、怒る理由にはならないと思う」
レオンの言葉に、ステラは首を横に振った。
「そうですけど、それでも怒って欲しかったんです」
気持ちは分からないでもなかったが、レオンは頷かなかった。
そこでステラは視線を少し落とした。
「怒って貰えなかった時、最初は私、きっと仲間として認めて貰えてないんだと思いました。でも、レオンさんの言葉を聞いていて思ったんです。この人は、本当に凄く強い人なんだって」
「え?」
自分の事は、あまり強くない人間だと思っていた。もっと強い人がたくさんいるし、何より自分には前世という土台がないから、根底には自信を持てない自分がいる。
ステラは顔を上げた。
「というより、冒険者の人が強いと言った方がいいかもしれません。レオンさんはモンスターに負けた後でも、すぐに自分を反省していました。冒険者を志す人なら、きっと当然なんだと思うんですけど、私はそんな事も出来なかったんです。私が泣いてしまったのは、それが情けなかったからなんです」
「・・・そうなの?」
そんな感情だったとは露ほども思わなかった。
「冒険者を志している、強い覚悟を持った人を目の前にして、それに比べて、私はなんて弱いんだろうって思ったんです。自分を省みるような余裕なんてありませんでした。それどころか、仲間に叱って欲しいと思っていました。命懸けの経験をしたのに、仲間として認めて欲しいとか、そんな事しか考えてなかったんです。どれだけ自分に覚悟がないのか、自分が弱いのか、それを目の当たりにした気がして・・・だから、レオンさんのせいで泣いたんじゃないんです。私も、どうしてもそれだけはレオンさんに謝らないといけないと思ってました。突然泣いてしまって、ごめんなさい」
姿勢を正して頭を下げるステラ。
レオンは慌ててしまった。謝るのは慣れているが、謝られるのには慣れていないのだ。
「その、僕の方こそ気付けなくて・・・とにかく、気にしてないから大丈夫。あ、いや、全然気にしてなかったわけじゃなくて、そういう事なら、僕はもう気にしないって意味」
しどろもどろな対応が可笑しかったらしく、顔を上げたステラは少し吹き出した。
それを見て、レオンもつられて笑ってしまったが、彼女が笑顔を引っ込めなかったのが、少し意外だった。以前は人前で見せるのを隠していた上品な笑い方だが、今はその仕草を止める事はなかった。
しばらくして気が付くと、彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
反射的にレオンは視線を逸らした。どうやら、不思議がられるくらいステラの顔をまじまじと見つめていたらしい。
気を取り直して、真摯な口調でレオンは話しかける。
ステラの青い瞳がそれを受け止める。
「僕の事を強いって言ってくれたけど、実際にそんなに強いわけじゃない。昨日ダンジョンに一緒に入って分かったと思うけど、とにかく慎重に進んで、なるべく有利な場所を選んで、それでどうにかやってこられただけなんだ。精神的にも、僕はそんなに立派な人じゃない。強さっていうなら、僕よりも、むしろベティとかフィオナさんの方が強いと思う。そういう町の人が支えてくれるからなんとかなっているだけで、それくらいなら、ステラだってすぐになれる」
そこで間を置いた。ステラは黙って聞いてくれている。
「だから、僕と仲間でいると、多分人一倍苦労すると思う。もっと強い人と仲間を組んだ方がいいかもしれない。そう思うんだけど・・・やっぱり、僕も本当の仲間が欲しいんだ。贅沢かもしれないけど、安心して背中を預けられるような、心から信頼出来るような仲間が欲しい。強さも大事だけど、僕は仲間にそういうものを求めたい。そして、ステラなら、きっとそういう仲間になってくれる気がする」
青い瞳が少し揺れたような気がした。
「真面目で、思いやりがあって、それに、ステラは覚悟もあると思う。初めて見るモンスターを冷静に観察してたし、僕を助けてもみせた。怖じ気付いてたら出来ない事だと思う。経験や強さはまだまだかもしれないけど、これから身につけていけばいい事だし、僕なんかよりもステラにはよっぽど才能がある。だから、絶対守るとか、何かを教えるなんて言えないけど・・・2人で一緒に強くなっていこうとしか言えないけど、それでもよかったら、まだ僕と仲間でいてくれないかな」
やっと言えたとレオンは思った。
自分の気持ちは伝えた。後はステラ次第だ。仲間でいてくれたら嬉しいけれど、仮に自分から離れていったとしても、それは仕方ない。今言ったように、彼女には才能がある。自分といない方が、もっと強い人といた方が、その才能を伸ばせるかもしれない。離れていったとしても、後悔はない。彼女にはベティ等の友人もいるから、どうなったとしても、きっと上手くいく。
室内は静かな空気が満ちている。小さく聞こえる酒場の喧噪が滞りなく伝わる程、淀みのない空間。
不意にステラは目を伏せた。
「・・・少し話を聞いて貰えますか?」
突然の要望だったが、レオンはすぐに返事をした。
「どんな話?」
青い視線が戻ってくる。
「私の話です。私の家の事とか・・・」
「え・・・どうして?」
そういった類の事は、ステラが今まで隠していたから敢えて聞かなかった。どうして急に話す気になったのか。
ステラは少し緊張している様子だった。
「隠していた事というか、本当の私を知って欲しいんです。私も、その、出来たらレオンさんと仲間でいたいです。ただ、今のままだと、レオンさんを騙して仲間に取り入ったように思えてしまうんです。だから、隠していた事を聞いて貰って、その後で、それでも私を受け入れてくれるか教えて下さい。実は、今日遅くなったのは、この話が長くなってしまって・・・」
ふとレオンは気付いた。
「あ・・・もしかして、リディアとかデイジーとか、みんなに話してきたの?」
頷くステラを見て、レオンは苦笑した。
「それは、まあ・・・長くなるよね」
女性は長話をする傾向があるという事を、最近レオンは身をもって学んだばかりだった。あの時は、もしかしたら日が暮れるまで話す気かもしれないと思ったが、今日は本当に日が暮れてしまったというわけらしい。
どこか恥ずかしげなステラに、レオンは言葉を続ける。
「えっと、聞くのはいいんだけど、それよりもステラの気持ちはどう?」
「はい?」
「僕と仲間でいたいって言ってくれたけど、僕に遠慮してるわけじゃない?」
その質問はステラには意外だったようだ。
「何を遠慮するんです?」
教えてもよかったが、その反応だけで、質問の答えは十分分かった。
レオンは微笑む。
「だったら、別に話さなくてもいいよ」
聞いても聞かなくても、どうせ答えは同じなのだから。
しかし、ステラは不満げだった。
「聞いて下さい。どうしても知っておいて欲しいんです」
頬を掻くレオン。こう見えて、彼女は結構強情なところがある。
しばらくしてから頷いてみせると、彼女は安心したように顔を綻ばせたが、その表情も一瞬だけだった。やはり、話すのは少なからず抵抗のある事なのだ。
ステラは一度息を吐いて、それで意を決したようだった。
「私の本名、実はステラじゃないんです」
意外は意外だったものの、レオンは特にリアクションはしなかった。
そこでじっとこちらを見てくるので、レオンは気になって聞いた。
「・・・どうかした?」
そう質問されて、ステラは意表を突かれたらしい。
「いえ・・・驚かないんですか?」
驚くところだったのかと、レオンはその部分に少し驚いた。
「えっと、あ、そうか・・・ごめん。僕の村だと、割と普通だから」
「・・・はい?」
今度はステラが驚く番だった。
やや照れ笑いを浮かべながら、レオンは説明する。
「僕の村では、みんな気分で名前を変えたりしてたから。毎年変わるから、誰も本名を知らない人だっていたし」
さすがにそれは極端な例だが、人生の節目に名前を変える人がほとんどだと言ってもいい。あくまで言い伝えだが、サイレントコールドにはいろいろなものに名前をつける習慣があったらしい。人もそうだが、動物や植物、風や季節にもそれは及んだようだ。そんな彼女の故郷であるレオンの村では、呼び名が変わる事に抵抗感がない。自分の名前を変える事に至っては、日常茶飯事と言ってもいいくらいだった。
「・・・あの、冗談ですか?」
真顔でそう聞かれたが、レオンは正直に答えるしかない。
「本当の事だけど・・・ほら、イブ様がいろんな物に名前をつけてたりしない?」
ステラの前世はそのイブなのだから、夢にそういう場面が出てきてもおかしくはない。
「え?・・・あ、はい」
「その影響じゃないかって、一応言われてるんだけど」
「あ、なるほど・・・」
口ではそう言ったものの、半信半疑といった様子のステラだった。サイレントコールドの記憶はあっても、その後世の事まではさすがに分からないだろう。
「例えば、ガイさんだって本名じゃないし、そういう人なら結構いるんじゃないかな」
「え?あ・・・そ、そうですよね」
本格的に混乱中だったようなので、レオンが話を収めた。
「それで?」
先を促すと、ようやくステラも気を取り直す。
「あ、はい・・・とにかく、私が名前を変えているのは、実家が貴族だからなんです」
「貴族・・・」
正直言って、全く実感がわかない言葉だった。
ステラが怖ず怖ずと聞く。
「あの・・・もしかして、貴族をご存じないですか?」
どう答えたものか迷ったが、知らないものは仕方ない。
「ごめん。この町の歴史とかはデイジーに教えて貰ったんだけど、あんまり社会の事は勉強してなくて・・・」
物質や法則を覚えるのに忙しくて、そちら方面は疎かになっているのである。
ステラが唖然としている様子だったので、レオンは少し心配になる。
「大丈夫?」
「・・・あ、えっと、何でしたっけ?」
自分が話していた事を忘れる程の衝撃だったようだ。自分が田舎者なのは分かっていたが、ここまで相手を唖然とさせたのは初めてだった。本当に申し訳なさ過ぎる。
「確か、ステラの家が貴族だから、ステラが名前を変えたって・・・」
「あ、そうです。えっと、貴族っていうのは、簡単にいえば、由緒正しい血筋というか、大昔の功績によって現在も特権が認められている一族の事です。全部が全部、そういうわけではないですけど・・・」
「へえ・・・」
聞いたところで、実感がわかないのは一緒のようだ。全然イメージ出来ない。
そんなレオンをしばらく見つめてから、ステラは続きを話した。
「私の家はそれほど高い地位にあるわけではないんですけど、それでも、一般的な家庭よりもかなり裕福な生活をしています。私もそこで、何不自由ない生活をしていました。私が何もしなくても、美味しい物を食べて綺麗な服を着て笑っていられる。そんな環境で育ったんです」
それはそれでいい生活だと思ったが、ステラの表情から察するに、どうやらそんな話ではないらしい。レオンは黙って聞く事にした。
「私の家族は、私が将来働く事はもちろん、冒険者になるなんて事は全く望んでいません。家族が私に望んでいるのは、その・・・簡単に言えば、大きな権力を持つ家の男性に見初められて、その家に嫁ぐ事です。ただそれだけの為に、私は幼い頃から教育を受けて、礼儀を学びました。なるべく多くの人に見て貰えるように、そして多くの人に好かれるように、容姿や振る舞いを整える事だけが、私に家族が望んだ事です」
そこで再びこちらを見てくるので、レオンは感想を言ってみる。
「よく分からないけど・・・それは、ステラに幸せになって欲しいからじゃない?」
ただそういう印象を持っただけだった。正直、住む世界が違い過ぎて、想像も出来ない。
ステラは少し表情を強ばらせたが、やがて小さく頷いた。
「それもあると思います。それに、家同士の繋がりが出来る事は、貴族社会にとってはとても重要な事です。ですから、私が大きな家に嫁ぐ事が出来れば、家族もより大きな力を得て、より裕福になる事が出来ます。それが私の幸せであり、家族の幸せでもあります。その事は、私だって分かっていたはずなんです。それなのに・・・」
言い淀むのを見て、レオンはステラに聞いた。
「後悔してる?」
俯いたステラだったが、しばらくしてから小さく頷いた。
レオンは少し間を置いてから言った。
「一度帰ってもいいよ」
家の人ときちんと話をしてから、またこの町に来ればいい。それまで待っている。そういうつもりだったが、レオンには見落としている点があった。
ゆっくりと、ステラは首を横に振る。
「帰ってしまったら、きっともう戻ってこられないと思います。私がいくら話しても、そんな簡単に意見を変えてくれる両親ではありません。レオンさんには、多分実感がない話だと思いますけど、貴族には貴族の歴史があるんです。ずっとそういうものが幸せだと考えてきたのもありますし、代々そうやって積み重ねてきたものを自分の代で翻す事はなかなか出来ないんです」
「うん・・・そうだね。ごめん」
確かに実感はないが、それでも気付いてしかるべき話だった。ステラだって、家を出る前に両親と話くらいしていたはずだ。それで認めて貰えないまま出てきたから、こんなに後悔しているのだ。
そこでステラは上目遣いになる。
「それに、その・・・実は私、もう婚約していました。もし帰ったら、すぐに結婚させられてしまう可能性が、ないとは言えません」
さすがに驚きを隠せなかったが、それでもレオンはすぐに聞いた。
「・・・男の人が苦手なのに、婚約したの?」
ステラは急に顔を朱くする。
「その・・・全然話した事もない人なんです。ただ食事の席で何度か見かけた事があるだけの人です」
「・・・え?」
それなら男性が苦手だろうがなかろうが関係ないかもしれないが、そんな相手と婚約するというのは、本末転倒ではないだろうか。
いつの間にか、ステラは耳まで真っ赤だった。
「そういう事が珍しいわけではないんですけど、その・・・そ、その方が、私がいいって言って下さったみたいです。結構大きな家の方だったみたいで、その、両親もいいんじゃないかって」
「・・・それはいいんだけど、ステラは?」
今のところ、本人の意見が全く出てきていない気がした。
顔の熱を逃がす為なのか、ステラは一度両手を軽く頬に当ててから、視線を上げる。
「私ですか?えっと、何がですか?」
真顔で聞き返されたので、レオンもつい首を傾げてしまったが、答えやすいように聞き方を変えてみた。
「ステラはその人の事をどう思ってるの?」
何故か、ステラはすぐに答えられなかった。しばらく思案してから口を開く。
「どうって言われても・・・まだちゃんと話した事もないので分かりません。ただ、両親は優しくて有能な方だと言ってましたから、多分そういう方なんだと思います」
あまりに他人事のように話すので、レオンは思わずこう聞いていた。
「その人の事、ステラは本当に好きなの?」
口に出してから自分で驚いたレオンだったが、ステラは首を捻った。
「嫌いではないと思いますけど・・・そもそも男性は苦手なので」
「・・・そうだよね」
思わずそう呟いてしまう程、妥当な評価だと言える。彼女の場合、まともに話せるのはレオンとハワードくらい。後者は人として尊敬出来るからだと思うが、前者についてはあまり仮説を立てたくない。ガイではないが、男性として多少なりとも傷つくに決まっている。
それはそれとして、レオンは自分の考えを大幅に修正しなければならなかった。
「今更な質問かもしれないんだけど・・・もしかして、誰と結婚するのか、ステラが自分で選べるわけじゃないって事?」
前置きの通り、今更な質問だったようだ。ステラの瞳が大きくなるのを見て、それが分かったレオンである。
「あ、はい・・・私、そう言ってませんでした?」
直接はそう言ってないものの、確かにそういうニュアンスの言葉はあった。だが、それでも最終的にはステラが自分で決めるのだと、レオンはそう思い込んでいた。
「そっか・・・ごめん。本当に、そういう事は全然知らないから」
きっと世間では常識なのだろう。だが、レオンには常識が抜け落ちている部分が多々ある為、時折今のような恥ずかしい質問をする事がある。
一応、少しだけステラはフォローしてくれた。
「貴族の家が、全部そうだというわけではないです。それでも、やっぱり貴族の幸福というものが染み着いているのは確かだと思います。家の力というのは、経験がないとなかなか分からないものですから、両親が子供の縁組の面倒をみるというのは、割と一般的な事だと思います」
「へえ・・・」
筋は通っている。少し感心してしまったレオンだった。
「えっと・・・何の話でした?」
思い出したように聞くステラだったが、今度はレオンも忘れてしまっていた。
「・・・何の話だったっけ」
残念な空気がしばらく室内に充満する。自分が田舎者過ぎて話の腰を折っているようなものだから、ほぼ全ての責任がレオンにあるだろう。
ようやく思い出したステラがゆっくりと口を開く。
「確か、私が婚約してたっていう・・・」
「あ、そうか。つまり、結婚してからだともう冒険者にはなれないだろうから、それでステラは家を出たって事?」
ステラは頷く。
「簡単に言うならそういう事です。私の身勝手な行動で、家族にも、その婚約相手の方にも、そしてレオンさんにも迷惑をかけました。私はそういう人間なんです。ですから、ここでレオンさんが私を受け入れてくれなくても、仕方のない事だと思います。もし・・・」
「いいよ」
言葉を遮って、レオンは微笑んだ。
青い瞳が確かに揺れたのが分かった。
「身勝手っていうなら、僕だってそうだと思う。僕の村はいつも人手不足だから、若い人が村から出て行けば、その分村の人の負担が増す事になるからね。でも、それでも僕は冒険者になりたかった。それはどんな見習いの人も一緒だと思うな。僕みたいに田舎者でも、ステラみたいな都会の人でも、みんなどこかの社会で育ったんだから、冒険者になりたいって言えば、周りの人に迷惑や心配をかける事になる。僕達に出来るのは、立派に独り立ちして、心配してくれた人を安心させられるように努力する事だけじゃないかな」
その言葉の後には、静かな時間が待っていた。
いつの間にか、酒場の方も少し静かになっているようだ。
こちらを見つめていたステラだが、やがて少し視線を落とす。
「・・・本当にいいんですか?」
囁くような声。
精一杯の優しい声で、レオンは聞いた。フィオナやデイジーの様に上手くはないけれど、出来るだけ安心させたかった。
「ステラは?」
顔を上げる青い瞳の少女。
「僕はステラと仲間でいたい。ステラは?」
レオンは何も願わない。
唯一考えたのは、この少女の心の負担が、少しだけでも軽くなったらいいという事だけ。しかし、そんなのは心配いらない事だと言える。これだけ誠実で、優しくて、そして覚悟もある人物なのだ。自分があれこれ気を遣うのは、お門違いというものだろう。
彼女ならどんな場所でも生きていける。
いつまでも待とうと思っていた答えだが、思いの外すぐ、ステラははっきりと言った。
「私、やっぱり迷惑をかけてしまうと思います」
そこで顔を上げたステラの視線は、とても力強かった。
「それでも、冒険者になりたいです。夢の中のイブのように、もっと強い女性になりたい。その為に私も仲間が欲しいです。レオンさんのような仲間がいれば、きっと頑張れる。当たり前ですけど、その為に出来る事は何でもします。だから・・・それでもいいなら、私の仲間でいて下さい」
やっぱり、レオンは嬉しかった。
表情に出ていたのだろう。こちらの顔を見て、一瞬だけ驚きの色を見せたステラだが、彼女もすぐに笑顔を返してくれる。どこか抑制された、洗練された笑顔。
つまり、彼女らしい笑顔だった。
「よろしく。ステラ」
「はい。よろしくお願いします。レオンさん」
何故かそこで、2人は笑ってしまった。
今更改まったのが可笑しかったのか。それとも、幸せ過ぎて笑い声として漏れ出してしまったのか。
いずれにしても、心の温まる時間。
ひとしきり笑った後、ステラが言った。
「あの、デイジーに頼んで、家に手紙を出して貰う事にしました。ですけど、この町から送ったとは分からないようにして貰うので、いきなり連れ戻されるような事はないと思います」
「そんな事出来るの?」
「はい。フレデリックさんはここの代表のような身分の方なので、顔が広いんだそうです。他にも、ハワードさんやラッセルさんがいろいろ手を貸して下さるそうです」
「へえ・・・凄いね」
なんとなくそう言ったものの、具体的にどういう力が働いているのか、レオンには想像も出来ない。
「ですから、家の事ではもう迷惑はかけません。それは、安心して下さい」
「そっか・・・それでも、いつかは安心させに行ってあげないとね」
「・・・はい。ただ、兄や姉がしっかりしていますから、家や両親の方は心配いらないと思います」
兄姉がいるという話は初耳だった。
「そっか・・・あ、もしかして、僕ばかりステラの話を聞いてるから、不公平かな」
両手を軽く振るステラ。
「いえ、そんな・・・」
「僕の話もした方がいい?あんまり面白い話じゃないと思うし、全部が全部は話せないけど」
「いえ、私も全部は話してませんから・・・」
一晩で全部話すというのも、それはそれでなかなか難しいだろう。
「じゃあ、僕の村の事だけでも・・・」
「聞きたいです!あ、いえ。すみません、急に・・・」
突然食いついてきたステラだが、どうやらサイレントコールドの故郷には並々ならぬ関心があるらしい。
少し苦笑して、レオンは言う。
「じゃあ、少しだけ・・・あ、そうそう。ニコルに新しい戦術を考えて貰ったんだ。それも一緒に検討しよう」
「ニコル?」
首を傾げるステラ。彼女はまだニコルに会った事がない。
「えっと、ニコルはスニークの伝承者で・・・ちょっと、話が長くなりそうだよね。時間は大丈夫?」
あんまり遅くなると、ベティと同部屋の彼女は帰りにくくなるかもしれない。
ステラは気付いたように、ドアの方を見た。
「あ、そうですよね。でも、なるべく早い方が・・・」
レオンは微笑む。
「いいよ。これから少しずつ話していこう」
仲間なのだから、これからたっぷり時間があるのだ。
微笑むステラ。
そこで、部屋のドアが前触れもなく開いた。
驚くレオン。というのも、部屋の入り口に人がいる事に、自分が全く気が付いていなかったからだった。気配を完全に消していたのか、或いは自分の注意力が散漫になっていたのか。
だが、入り口に立つ人物を見て、レオンは拍子抜けした。
月光を背にして立つのは、部屋着らしきラフな格好をしているベティだった。それでも、髪は高い位置で結ってある。
「・・・何してるんです?」
とりあえずの質問をぶつけてみたレオンに、ベティは悪戯っぽく微笑む。
「いやー、この辺りに獣がいるんじゃないかって思ったから、ちょっと見回りにきてみたんだよね。もしいたら、ちょっと叩き潰してやろうと思って」
彼女は取っ手の長い金槌のような物を杖代わりに突いている。どうやら、潰すというのは比喩ではなくて、文字通りの意味らしい。
唖然とするレオンを尻目に、ベティはステラに声をかける。
「ステラー。今日は疲れたでしょ?もうそれくらいにしておいて、後は明日にしたら?」
「あ、うん。そうする」
そう返事をしてから立ち上がったステラは、レオンに軽く頭を下げる。
「話を聞いてくれてありがとうございます。仲間として認めてくれて、本当に嬉しかったです。じゃあ、今日はこれで・・・レオンさん、お休みなさい」
「あ・・・うん、お休み」
微笑みを残して、ステラは部屋から出ていった。ベティと話す声が数秒だけ小さく聞こえた。
ランプの火を消す。
ベッドに倒れ込み、そこで何故か溜息か出た。
特に運動したわけでもないのに、疲れているようだった。それだけ緊張していたのだろうか。そんな感覚はほとんどなかったのだが。
ただ、疲れているとはいえ、どこか心地よい感覚だった。
きっといい事があったからだろう。これ以上はないと言ってもいいくらいの、とびきりのいい事が。
レオンは目を閉じた。
その心地よい疲労感は、すぐにレオンの意識を何もない暗闇へと連れて行く。
それでも、レオンの顔にはどこか幸せそうな笑みが浮かんでいた。