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夢色彩のカーバンクル  作者: 倉元裕紀
第3章 ジーニアス・ステラ
30/114

オレンジ・フレーバー



 白いティーカップを満たす緋色の液体から、うっすらと湯気が漂うのが見える。一緒に立ちのぼっているのは、胸が軽くなるような、清涼感のある香り。実家ではいろいろなお茶を飲む機会があったけれど、この香りには心当たりがない。この地域の特産品だろうか。

 ステラはその香りの元へと視線を落とす。

 朱い水面に自分の顔が映っている。少し前とは印象が変わったような気がする。髪を切ったからだろうか。服装が違うからだろうか。もしかしたら、少し痩せたかもしれない。多少は冒険者らしくなったという事だろうか。

 だけどそれは見せかけだけの事。

 その言葉に行き着くと、ステラはどうしても溜息を吐いてしまう。頭が何かを考える度に、まるで通過儀礼のようにその言葉が姿を見せる。自分を戒めているというよりは、自分の不甲斐なさを見せつけているようだ。

 自分は何になりたいのだろう。

 何にならなれるのだろうか。

 今自分がしている事は、結局逃げているだけなのだろうか。

 家での自分は飾りの花だった。家の都合で飾る場所が変わる、家の都合で所有者も変わる、そんな都合のいい花。

 そんな自分でも、夢の中では自由に生きる強い女性。それが誇りというわけではないけれど、数少ない拠り所のひとつだった。自分は唯の飾りじゃない。いつかイブのように強い女性になれる。ただの思い込みだとしても、そう思えたから自分は自分でいられた。

 それなのに、家族はその拠り所すらもただの飾りにしようとした。

 どうしても、ステラはそれが許せなかった。耐えられなかった。自分の夢を、未来を傷つけられたような気がした。

 だから家を出た。自分の理想を守りたかったから。

 だからここに来た。その理想に近付きたかったから。

 だけど、それはもしかして、自分に言い訳しているだけだろうか。

 勝手に家を飛び出してきた、少し魔法が使える以外には何の取り柄もない女。

 周りに迷惑をかけているだけ。

 無駄な事をしているだけ。

 そう言っている家族の声が聞こえたような気がした。

「珍しい香りでしょう?」

 その言葉に、水面に映る顔が驚く。

 ステラを現実に引き戻したのは、穏やかで優しい声だった。

 視線を向けると、その女性は先程の声をそのまま象った様に優しく微笑んでいる。緩く波打つ長い髪も、その柔和な表情も、とても女性らしくて素敵な人だ。だけど、彼女の一番の魅力は、もしかしたら目を閉じている事かもしれない。誰でも包み込んでくれそうな落ち着きのある外見とは裏腹に、実は彼女には子供っぽい一面もある。大人っぽさと幼さの共存。目を閉じている無防備な姿にも関わらず、こちらを安心させるような印象を与える事。そういうアンバランスな部分に、人を引き込む不思議な魅力がある。出会って程なくして、ステラもその魅力に惹きつけられたと言ってもいい。

 サイレントコールドの伝承者、フィオナ。自分と同じく、イブを前世とする女性。

 そんな事を考えていたステラは、すぐに自己嫌悪に陥ってしまった。彼女が普段から目を閉じているのは、焦点の定まっていない瞳を見せたくないからだと言う。それを見た人が気の毒そうな表情をする事が、目の見えない彼女にも分かる。決して好き好んで目蓋を閉じているわけではない。そういう苦労があるのに、何も不自由な暮らしをした事のない自分が、何を知った気でいるのだろう。

 苛立ちと失望がない交ぜになったような心境になって、ステラは返事が出来なかった。当然ながら、フィオナはそれを心配してくれたようだった。

「もしかして、苦手な香りだった?」

 またその慈愛の声で引き戻して貰う。自分は一体何をしているんだろうと呆れたけれど、今度は忘れずに返事をした。

「いえ、いい香りです。私も初めてだったので、ちょっと気になってしまって・・・」

 嘘を吐いたステラだが、それを包むようにフィオナは微笑んでくれる。

 強い。ステラはそう思った。

 精神的にもそうだし、魔法の力でも、フィオナは自分よりも強い。こうして向かい合って座っているだけでも、ステラにはその能力を垣間見る事が出来る。フィオナの周りには、自分では到底成し得ないような量の魔力の帯が、整然とした流れを作っている。実際に目に見えるわけではないけれど、まるで不可視のドレスを着ているようだ。その生地は彼女の身体を覆うだけには収まらず、部屋の端まで弱い糸となって伸びているようにすら思える。その不可視の感覚で視覚を補助しているという話も、あり得ない事ではないと思える。

 ここまでの事が出来るのは、もちろん先天的な才能もあるけれど、それでも努力の部分が大きいに違いない。大きな才能があっても、それを使いこなせないと意味がない。これだけの大きな力を使いこなせるようになるまでには、並大抵の努力では済まなかったに違いない。そして、これだけの力があるにも関わらず、フィオナはそれに全て依存しているというわけではないのだ。

 本当に強い。

 出そうになった溜息を、ステラはなんとか飲み込んだ。

 フィオナだけではなくベティもリディアもデイジーもシャーロットも、それぞれの職場で立派に働いている。自分とそれほど年齢が離れているわけではないのに、ちゃんと自立している。ただの飾りでしかなかった自分とは、比べるべくもない。

 自分とは違う。 

 その言葉に別のニュアンスを含んでしまったような気がして、また落ち込みそうになったステラだったが、もしかしたらあながち間違っていないのかもしれないと思いとどまる。

 つまり、文字通り、住む世界が違うという事なのか。

 ただそれだけの事なのだろうか。自分がこの町の女性のように生きるのは、望みようもない事なのだろうか。

 或いは、夢の中の女性のように冒険者として生きる事も。

 夢はただの夢でしかない。

 ステラの胸が熱くなり、それと同時に冷たくなる。居ても立ってもいられなくなる。

 自分はその言葉を認めたいのかもしれない。認めてしまえば、諦めてしまえば楽になれると囁きかける自分がいるような気がした。それとは逆に、諦めたら何か大事な物を失うと警告する自分もいた。そんな自分に、それはただ意地を張っているだけだと冷めた視線を送る自分もいた。

 どうしたらいいのだろう。

 分からなかった。

 そして、こんな経験は初めてだった。

 助けて欲しいと叫ぶ自分が心の中にいる。だけど、他の自分はそれを見る事しか出来ない。何故なら、その隣でこう呟く自分がいるからだった。

 誰も助けられない。自分の事を分かってくれる人は誰もいない。

 その言葉にも、他の自分は何も言わない。

 否定出来ない。

 この町には知り合いや親戚は1人もいない。そんな人がいたら、家に自分の所在が知られてしまうからだった。かといって、この町で出来た友人に自分の事を全てさらけ出す事は出来ない。そんな事をすれば、もしかしたらその友人達が自分から離れていってしまうかもしれない。下手な真似をして、関係が変わってしまうのが怖かった。

 本当に、誰も助けられない。

 この町の人も、そして自分も。

 結局ステラに出来る事は、なるべく静かに涙を流す事だけだった。

 誰にも気付かれないように、ひっそりと。

 そっと涙を拭いながら、ステラは周囲に気を配る。このダイニングルームには、自分とフィオナしかいない。ここまで付き添ってきてくれたベティは、確か裏庭に行くと言ったきり帰ってこない。正面のイスに座るフィオナは、魔法的感覚が視覚の代理をしている。ジーニアスのステラならその感覚を多少誤魔化す事が出来る。だから、泣いていた事は気付かれていないはずだ。

 だが、そこでステラは違和感に気付いた。

 フィオナはじっとこちらを見ている。見ているとは言っても、目は閉じたままだから、顔がこちらを向いているだけだ。

 そのフィオナの微笑みが少し控えめになっている。とても優しい表情。前の微笑みは明るい表情だったけれど、今の表情は明るさを引っ込めた分優しさを上乗せしたような、下手をすると、どこか寂しげに見える表情だった。優しさと寂しさは、もしかしたら似ているのかもしれない。そう思わせるような微笑み。

 そんな表情に変わっていたフィオナだが、何故か何も喋らない。

 なんとなくステラも言葉を発しにくかった。この雰囲気にというか、相手の表情に水を差すのは悪いような気がした。

 気付いてみれば、静かな時間が部屋を満たしている。

 こんなに落ち着いた時間は、この町に来てからは初めてかもしれない。実家では毎日のようにこういう時間があった。どちらかというと、ステラにとって好きな時間かもしれない。

 一口お茶を頂いてみる。少し冷めていたけれど、温いという程ではない。林の中にいるような清涼感が、鼻腔に一瞬だけ広がった。

 ティーカップを置いた直後、フィオナは急に質問してきた。

「私っていくつくらいに見える?」

「・・・はい?」

 脈絡も何もなかったのはもちろん、ステラは既に本人から実年齢を聞いていたから、尚更質問の意図が分からなかった。

 フィオナは少し首を傾げる。それだけで少女のように見えるから不思議だった。

 控えめにステラは答えた。

「えっと、21歳ですよね?」

 すると、フィオナは微笑んだ。

「それくらいに見える?」

「え?・・・見えますけど」

 少なくとも、年齢相応の女性らしさは備えているように見える。

「ステラは16歳よね?」

 いつからか、フィオナはステラの事を呼び捨てにするようになっている。ステラの方からも呼び捨てにいいと言われているけれど、向こうが年上だから、それはまだ抵抗がある。

 それはさておき、質問の意図は相変わらず不明だった。そうは言っても、実はフィオナにしてみれば珍しい事ではない。少しピントがずれた事を言うのも、彼女のアンバランスさの一部と言える。

「はい。一応・・・」

 頷いてから答えるステラ。幼く見えると言われた事もあるけれど、シャーロット程ではない。

「だったら5つ違いね。ちょうど姉妹くらいの差だと思わない?」

「そうですけど・・・」

 趣旨は分からないものの、言葉の内容自体は確かにその通りだった。

 微笑みながら、フィオナは言った。

「ちょっと、お姉さんのお願いを聞いて貰ってもいい?」

 意表を突かれたステラだったけれど、ややあってから頷く。

「いいですけど、何ですか?」

 フィオナは何の躊躇もなく言った。

「ステラに触ってもいい?」

 本当に唐突なお願いだった。

 その要望自体は、何の問題もない事だった。そもそも、わざわざ改まって聞くような事でもない。服のサイズを測った時も魔導服の試着をした時も、フィオナの手が触れる機会はあった。もしかしたら変な意味だろうかと思ったけれど、そんな女性ではない。

「いいですよ」

 そう言ってテーブル越しに右手を差し出したステラだったが、フィオナはそれには触れずにイスから立ち上がった。そのままテーブルを回り込んでこちら側までやってくる。目が見えないとは思えないスムーズな動きだった。

「そうじゃなくて・・・ちょっとこっち向いて」

「こうですか?」 

 笑顔で言ったフィオナの方を向くきょとんとした表情のステラ。イスに座ったまま、右を向く形になった。

 すると突然、フィオナはステラの左手を掴んで、自分の方へと引き寄せる。

 柔らかくて温かい身体。そして、優しい匂い。

 ステラの身体はその両方に包まれる。

 フィオナはステラを抱き締めていた。

 驚くには驚いたステラだったけれど、不思議と何も言葉が出なかった。それくらい、物凄く落ち着く場所だった。

「やっぱりシャーロットとは違うのね。シャーロットはもっと甘えてくるから」

 何も返事をしないで、ステラは目を瞑った。

 右手で頭を、左手で背中を撫でてくれている。

 身体全体で自分を受け止めてくれている。

 本当に温かい。

 ステラは母親に抱き締めて貰った記憶があまりない。自分を抱き締めてくれるのは、優しかった祖母の役目だった。その祖母も、自分が9歳を迎える前に亡くなってしまった。

 こんなに安心出来る場所にいるのは、8歳の時以来かもしれない。

 溜息が出る。

 心のわだかまりを全て吐き出してくれるような、癒しの呼吸が。

 そして、同時に涙も出る。

 一緒に何かを忘れさせてくれるような、温かい涙だった。

 フィオナはステラの髪を手で梳く。

「柔らかい髪・・・切ったの?」

 質問の意味は十分に伝わった。

 ただ頷く事しか出来なかったステラだったが、フィオナにも十分伝わったはずだ。

 元々、ステラの髪は腰まで届く程長かった。その方が見栄えが良いからという、ただそれだけの理由だった。冒険者になると決めた時、家を出ると決めた時、髪を切っていくと決めた。そして、切った髪を家に置いてきた。自分が断ち切りたかったものを、家族にも分かって欲しかったのかもしれない。

 それでも、何か大事なものを失ったような、そんな感覚は残っていた。だけど、そんな事は誰にも言えなかった。たかが髪程度の事だと言われるに決まっている。そんな事を今も引きずっているように思われるのが、不安だった。

 だけど、それももう明るみになってしまった。

 そう認識した途端、ステラの中のいろいろな物を押し止めていた堰が、ゆっくりと消えていくのが分かった。

 せき止められていたものが流れ出していく。

 涙の形となって溢れ出ていく。

 いつの間にか、ステラもフィオナに抱きついていた。両手を背中に回して、まるで甘えている子供のようだった。

 フィオナは黙ってそれを受け止める。

 どこか物悲しいけれど、確かに優しい時間が過ぎていった。

 ひとしきり泣いた後、ステラはぽつりぽつりと自分の事を話し始めた。自分の家や家族の事。そして、自分がそこを勝手に飛び出してきた事。その身勝手さを後悔しているものの、あのまま家の道具でいるのには耐えられなかった事。この町に来る道中、不安だったけれど、期待も大きかった事。そして、この町の人達に会えて本当に幸せだという事。ここの友人達を失いたくないから、自分の弱い部分を見せられなかったという事。一度話し出してしまうと、今までどうしても話せなかったのが嘘のように、次から次へと言葉が出てきた。

「自分の口から話してあげて」

 フィオナはそれだけ言った。いつものように、慈愛溢れる口調だった。

 そこでようやく、ステラはフィオナから離れた。

 イスから立ち上がってから、真っ直ぐ相手の顔を見て、ステラは言った。

「ありがとうございます、フィオナさん。本当に・・・凄く気が楽になりました」

 本当はそれ以上の気持ちだった。実際には何も状況に変化はないはずだけれど、以前とは正反対に、先が明るく見えるから不思議だ。しかし、結局言葉では上手く言い表せないのかもしれない。

 優しく微笑むフィオナ。お礼は何もいらないと顔に書いてあるけれど、言い尽くせない程の事をして貰ったのは確かだった。

 そこでフィオナは、不意に両手を合わせる。話を切り替える時に、彼女がよくする仕草だ。

「ステラはお花好きよね?」

 本当に脈絡も何もない。今度はステラも少し笑ってしまった。

「何か可笑しかった?」

 首を傾げるフィオナ。先程は母性を感じたが、一転して可愛らしく見える。

 口元を隠して笑いを止めてから、ステラは答える。こういう習慣を幼い頃から覚えさせられていて、この町ではそれを隠していた。だけど、それももう終わりに出来そうだった。

「いえ・・・えっと、お花は大好きです」

 また笑顔に戻ったフィオナは裏口の方を示しながら言った。

「私が育てたお花を見ていかない?それに、ベティも帰ってこないからそろそろ呼びに行かないといけないし。きっとセラと遊んでるんだと思うけど」

「セラ?」

「あ、私のカーバンクルね。日当たりが良いから、晴れの日は大抵裏庭にいるの」

 そういえば、フィオナのカーバンクルには会った事がなかった。どんな色をしているのか、是非見てみたい。

 2人は連れだって裏口へと向かう。

 そのドアを開けた時、ステラの視界は色とりどりの色彩で埋め尽くされた。

 ハワードの学校にも植木鉢やプランターがあったが、ここはそんなものではなかった。裏庭を埋め尽くしていると言ってもいい程のプランターが、整然と格子状に並べられている。そして、その全てに鮮やかな花を咲かせた植物達が植えられているのだ。まさに春爛漫といった光景そのものだった。

「凄いですね・・・!」

 笑顔になるステラだが、そこでフィオナは不意に微笑んで、口元に1本立てた指を当てる。

 状況が飲み込めないままのステラの手をとって、フィオナは裏庭の中央に連れ出す。そこから彼女がドアの陰を指さした時、ようやく意味が理解出来た。

 それは、ここの花々にお似合いの微笑ましい光景だった。

 壁にもたれ掛かるようにして、ベティが居眠りをしている。そして、その膝の上で丸くなっているのは、小川のような水色の毛並みをしたカーバンクル。きっとこの妖精がセラなのだろう。ただ、瞳の色は分からなかった。セラも気持ちよさそうに眠っているからだ。

 妙に静かだと思っていたけれど、こういう事だったらしい。フィオナの言う通りここは日当たりがいいがら、1人と1匹はとても気持ちよさそうだった。

 ステラはフィオナの方を見る。すると、彼女もこちらを向いた。

 フィオナの目は閉じられたままだ。それでも、2人ともお互いの気持ちが分かっている。

 同時に2人は小さく吹き出した。

 そしてすぐに同じ様な優しい笑顔になる。

 まさに本物の姉妹さながらといった様子に見えた。

 


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