信頼と痛み
診療所の窓から差し込む光に、少し夕日の色が混じり始めてきたようだ。
いつの間にか窓の外に視線を向けていた事に気付き、レオンは再びベッドに視線を戻す。先程から、視線こそ窓とベッドを行き来しているものの、身体はイスに座ったまま一歩も動いていない。
この広い部屋にひとつしかないベッドで眠っているのは、金色の繊細な髪が目を引く少女。
目を閉じたまま差し込む光を浴びるステラは、本当に輝いて見える。髪もそうだが、肌理の細かい白い肌と小さく整った顔は、まるで名工がしつらえたような様式美を感じさせる。ブレットも言っていた事だが、きっと魅力的な容姿なのだろう。だけど、今のレオンには、それを素直に評価する事が出来なかった。
こんな少女の身を危険に晒してしまったのだ。ステラの目を瞑っている姿は、どこかレオンの不甲斐なさを責めているように見える。もちろん彼女が寝ながらそう言ったわけではないが、結局これは自分の印象なのだ。自分があまりにも惨めで、例え彼女が許してくれたとしても、自分で自分を許せそうにない。その後悔の念が、見るもの全てに暗い影を落としている。
今思い返してみても、何度も止める機会があったはずだ。あのモンスターと無理に戦う必要はどこにもなかった。それを自分は学んだはずなのに、そして、それを彼女に教えるのが自分の役目だったはずなのに、自分は一体何をしていたのだろう。
その結果が今の状態なのだ。
ステラはまだ目覚めない。
外傷はともかく、頭を打ったかどうかが問題だ。レオンの傷の手当をしながら、イザベラ医師はそう言った。見える範囲では大きな怪我はないらしい。どちらかといえば、レオンの方が重傷らしいのだが、自分の怪我の事はどうでもよかった。
彼女が目覚めたらどう謝ればいいのだろう。レオンの頭の中ではその命題が何度も繰り返されていたが、答えが出るどころか、満足に考えを組み立てる事も出来なかった。
そんな時間も、終わりは不意にやってくる。
身じろぎひとつせず、ステラがゆっくりとその青い瞳を開いたのだ。ずっと彼女を見ていたレオンは当然すぐにそれに気付いたが、すぐに声をかけるのは控えた。なるべく驚かせないようにしなければいけない。
しばらくぼんやりと天井を見つめていたステラだが、やがて気配に気付いたのか、こちらに顔を向けてくる。夢を見ているような表情だった。レオン自身は夢とは縁がないが、他人がこういう表情をしているのを見る機会は、普通の人と同じだけある。
こちらからは何も言わず、レオンは相手の言葉を待った。
「レオンさん・・・」
少し掠れた声だったが、その一言でレオンは自分でも驚くくらい安堵した。
「ステラ。身体は平気?」
その言葉にもしばらく無反応だったステラだが、しばらく待つと、彼女は身体を起こそうとする。
「まだ寝てた方がいい」
「いえ、大丈夫です」
少し強い口調だった気がした。レオンはそれに意表を突かれたが、ステラが不意に視線をさまよわせるのを見て、何も言えなくなった。
上半身だけ起こしたステラだったが、彼女もこちらを見ない。落ち込んでいるのと怒っているのが混じっているような、そんな表情をしてあさっての方を見たまま何も言わなかった。
結果、沈黙が場を支配する。
そんな重苦しい時間がたっぷり過ぎてから、やはり自分から話しかけるべきだと思い、レオンは口を開いた。
「・・・ステラ。ごめん」
ステラは微動だにしなかった。だが、聞こえていないわけがない。
やはり怒っているのだろう。そう思いながら、レオンは言葉を続ける。
「こんな事になったのは、全部僕の責任だ。言わなければいけない事、教えなければいけない事があったのに、それを疎かにした。それを腕でカバー出来ればいいけど、そんな力もなかった。それで自分が怪我をするだけならいいけど、ステラにまで怪我をさせた。本当に、全部僕のせいだ」
言葉を準備出来ているとは言えなかったが、いざ話す段階になると、口から勝手に出てくるもののようだ。だけど、こんな言葉だけでは、謝っても十分とは言えない。
「・・・ごめん」
最後に付け足すようにそう呟いていた。結局、レオンの気持ちはこの一言だけだった。
どの言葉にも全く反応しなかったステラだが、やがて、彼女にも変化が現れた。
青い瞳から大粒の涙が零れる。
彼女は泣いていた。
「・・・どうして謝るんですか」
そう呟いた途端、ステラは両手で顔を覆ってしまう。
静かな病室に、彼女の嗚咽だけが響く。
何をするでもなく、レオンはただそれを見つめる事しか出来なかった。彼女はどうして泣いているのか。彼女の言葉がどういう意味なのか。どちらもレオンには分からない事だった。それでも、今ステラが泣いている。それだけは確かな事なのだ。そして、彼女が泣いている原因といえば、間違いなくモンスターとの戦いが関わっている。
つまり、どう転んだところで、自分の責任なのは間違いない。
彼女をなんて目に遭わせてしまったのだろう。そして、自分はなんて惨めなのか。
不意に背後から誰かが近付いてくる。静かな足音だった。
振り返ると、やはりというべきか、ここの主とも言えるイザベラだった。彼女は明るい髪をしているし、いつも白いブラウスを着ているから、颯爽とした中にも明るい雰囲気があるのだが、今はその印象もなりを潜めている。もしかしたら、これも見ている人間の心が映ってしまっているからだろうか。
「・・・また出直してきなさい」
イザベラは静かな口調で言った。この部屋の空気に合わせたような話し方だが、これもレオンの精神が映っているせいかもしれない。
「はい・・・すみません。よろしくお願いします」
それだけ言ってから、レオンは立ち上がった。
少女の嗚咽を背にしながら、部屋を後にする。
勝手口のドアを閉めた時、確かにステラの鳴き声は聞こえなくなったはずだが、どこか耳の奥に残っているような気もした。数日は消えないだろうと、ぼんやりと思った。
これからどうするべきか、レオンは考えようとしたが、そんな気にもならない。どうしたらいいのか分からない。
結局、溜息を吐いて歩き出す。
だが、そこから歩き出して数歩もしないうちに、背後から肩を軽く叩かれた。
振り返ると、ブラウンのポニーテールと瞳の利発そうな少女が、いつもよりは控えめな笑みでこちらを見ていた。
「ダメだね。私が隠れてた事くらい気付けないと、冒険者失格じゃない?」
これも気のせいなのか、ベティの口調もいつもより落ち着いて聞こえる。
「・・・隠れてたんですか?」
全然気付かなかった。勝手口の付近に隠れる場所なんてあるだろうか。或いは、そんな申し訳程度の隠れ方をしていたのに、自分は気付けなかったのか。
「ごめんね。立ち聞きする気はなかったんだけど、さすがに入り辛かったから」
「あ、いえ・・・僕は別に」
どうやら話を聞かれていたようだが、その事よりも、その気配に気付けなかった自分が情けなかった。
ベティはじっとこちらの目を見てくる。
いつもならみっともないくらい慌てる程顔が近い気がするが、今はそんな気もならない。
その事実を確認したのか、一度大きく瞬くと、ベティは少し離れる。人間同士が話す時の通常の距離に戻っただけだが。
彼女は唐突に質問してきた。
「レオンは、ステラの事どう思ってる?」
返答に困る。答えにくいというよりも、質問が曖昧過ぎるのだ。
それに気付いたのか、ベティは聞き直した。
「これからも、一緒にダンジョンに行く気がある?」
今度はだいぶ具体的な質問だった。
「・・・はい」
「ステラがいいなら?」
やや間が空いたレオンの答えに、すぐにベティはその質問をぶつけてきた。
すぐに答えが返ってこないのを見て、彼女は言葉を続ける。
「最初にもお父さんが言ったでしょ?仲間になるかどうかは、レオンとステラに聞けって。とりあえず最初は強引に組ませてみたけど、嫌ならやめてもいいんだよ。レオンは何かステラに遠慮してない?確かにステラが他の仲間を探すのは大変かもしれないけど、そんなのどうにでもなる事だし、レオンだって、ステラがいない方が他の仲間を見つけ易いかもしれない。それでも、ステラと一緒にいる?」
「そんな言い方は・・・」
思わずそう口にしていた。ベティがステラを邪魔者みたいに言ったのは、もちろんこれが初めてだった。
だが、ベティの表情は真剣そのものだ。
「ステラだって、きっとそう思ってるよ」
「え?」
そんな事は考えた事もなかった。
「お情けで仲間にして貰ってるって、きっとそう思ってる。だから、役に立たないといけないって必死なんだよ。そうしないと、レオンから見捨てられる。そうなったら、もう先が見えなくなる。レオンにもそういう経験あるでしょ?」
同じだった。町の人に見捨てられるのを怖がっていた時の自分と。
だけど、それも当然といえば当然だ。彼女はこの町に来たばかりなのだ。周りには誰も知り合いがいない。ベティ等の友人はいても、それは自分が見習い冒険者だからであって、その道が閉ざされてしまえば見捨てられると思っていても不思議ではない。
こちらを見据えながら、ベティは言葉を続ける。
「だから、もしレオンがお情けでステラと仲間をやってるんだったら、そういうのは迷惑なんだよ。レオンにもステラにも、必要なのは本物の仲間であって、見せかけの仲間じゃない。うわべだけの関係なら、全然ない方がお互いの為なんだ。どう?レオンはステラと仲間でいたい?」
いつになく真剣なベティの質問だが、レオンはすぐに答えられなかった。今までの自分とステラは見せかけの仲間だったのだろうか。ステラはこんな自分の事を仲間だと信頼出来るのだろうか。そして、自分はステラを守る自信があるのか。
そんな時、突然頬に痛みと衝撃が走った。
乾いた音だった。
見るとベティの右手が上がっている。
彼女が自分の頬を打ったのだというのも驚きだったが、それ以上に、彼女の表情に驚いた。
それは、レオンが初めて見る、彼女の怒りの顔だった。
「男ならはっきりしろ!」
少女の大声だけが周囲に響きわたる。
そんな声を出す彼女も初めてだった。
こちらを睨みつけるベティは、今度は静かな口調で言った。
「私はステラの親友でいるって決めてるんだ。だから、半端な事をしてステラを傷つけるような奴は許さない。相手が男でも、冒険者でも、伝説の英雄でも、どんな奴でも、言うべき事ははっきり言うよ」
呆然としながらも、レオンはベティの瞳を見つめる。
目の前の少女は、本気でステラの親友になると決めているのだ。相手がその思いに応えてくれるかどうかは分からない。いや、それどころか、まだステラはこの町に自分の居場所を見つけられていないと、ベティにも分かっているはずだ。つまり、彼女の思いは、今は一方通行だと言ってもいい。ベティがステラに向けている友情と、ステラがベティに向けている友情の大きさには隔たりがある事は間違いない。
結局、自分の問題だ。
相手が応えてくれるかどうかなんて、最初から分かるわけがない。自分が決められるのは、どれだけ本気で相手の事を思えるのかという事だけだ。他には何も決められない。相手の気持ちが自分の思い通りになるわけがない。だから、いくらこちらが本気で思っていても、相手には伝わらない可能性だってある。だけど、それが普通だ。そうなったら、縁がなかったと思って諦めるしかない。なんて事はない、それが当たり前の事だ。
それなのに、自分は今まで何を悩んでいたのか。ステラがこちらを頼りにしてくれるのか。そんな事は分かるわけがない。ステラを自分は守れるのか。それだって分からない。
自分に決められるのは、ステラをどれだけ思う事が出来るのかという事だけ。
レオンは目を閉じる。
まだ会って1週間程だが、その間のステラの顔を思い出す。
最初に仲間になるという話になった時、最初彼女は遠慮していた。こちらに迷惑がかかるからと言っていたのだ。つまり、男性が苦手な自分と仲間だと、他の人間と仲間を組む時に制約が出来てしまう。そういう気遣いをしてくれたのだろう。
サイレントコールドの話をした時、彼女は前世の記憶に見る雪景色を美しく語ってくれた。レオンが伝説の女性に抱いていた印象を裏付けてくれたのも彼女だ。
伝承者と会った時はどうだっただろうか。彼女は真剣に話を聞いていた。それは誰の為だっただろうか。
ダンジョンでの彼女。自分の力をアピールしていたというだけではなかった気がする。レオンを助けてくれた後、彼女は最初に何と声をかけてくれただろうか。
いろいろ失敗もあった。だけど、それは初心者なのだから仕方ない。しかし、仲間だと信頼する上で、レオンにとって最も比重が大きいものは何だろうか。
レオンは目を開けた。
視界に映るのは、先程と変わらない表情でこちらを睨む、ブラウンの瞳の少女。
だが、ゆっくりと頷いてから、レオンは言った。
「仲間でいたいです。ステラとなら、どんな時でも一緒に戦える。そう思います」
ベティは目を閉じた。
そしてすぐに目を開いた彼女は、その一瞬でいつもの笑顔に戻っていた。
「うん。命拾いしたね」
いつもなら震えが来るような台詞だが、レオンは笑った。
「命拾いですか?」
「そうそう。ここで下手な事を言うようなら、今度は脳味噌を揺らしてやろうと思ってたんだ」
彼女がその気になれば、きっとそれくらいは容易いだろう。
2人で笑い合ってから、レオンは言った。
「・・・じゃあ、ステラに謝ってきます。今度はちゃんと」
自分の気持ちを伝えないといけない。
だが、ベティはそれを制した。
「あー・・・ちょっとそれは今度かな」
「どうしてですか?」
ベティは口元を上げる。
「イザベラ先生。殴らなかったでしょ?」
「・・・はい?」
確かに殴らなかったが、普通はそうそう人を殴るような機会はない。
「ああ見えて、先生も結構手が出るんだよねー。ただ、絶対1人だけ殴ったりはしないんだ。ダンジョン内の事は、仲間全員の連帯責任って考えの人だから」
「へえ・・・」
「さっきのレオンとステラの会話も、普通なら先生がパチンとやってたと思うなー。だけど、しなかったのは、たぶんだけどステラの頭を気遣ったんだよ。ほら、頭をぶつけた後は1日安静とか、先生がよく言うでしょ?」
「あ、なるほど・・・」
それで脳に悪影響が出たら困るという事らしい。しかし、そんな強烈なビンタが飛んでくるのだろうか。意外という程ではないが、見た事がないから実感がない。
「だから、話はステラが落ち着くのを待ってからの方がいいと思うな。今は動揺させたら身体に毒なんだと思うし。イザベラ先生も、日を改めろって言ってたでしょ?」
「そうですか。でも・・・」
ベティがレオンの言葉を制す。
「私がそれとなく話しておくから。とにかく、ステラの事は任せて」
「・・・そうですね。分かりました」
女性同士にしか分からない心の機微というのもあるだろう。それに、レオンには他にするべき事もある。
その考えが顔に出ていたのか、ベティが聞いてきた。
「ニコル辺りに相談する?」
思考パターンがあまりに見抜かれているので、レオンは苦笑した。
「まあ・・・一番工夫出来そうなのが、その辺りなので」
「こっちも、もしかしたらフィオナさんの出番かなー」
「フィオナさんですか?」
聞き返すレオンにベティは片手を軽く振る。
「とにかく任せといて。ステラが落ち着いたら、その足でレオンのベッドにでも潜り込ませておくから」
慌てふためくレオン。それを見て、ベティは可笑しそうに笑った。
「・・・あの、冗談でもやめて下さい」
復帰するなり発せられたレオンの一言だったが、ベティは既に背を向けていた。いっそ華麗なくらいのスルーである。
「じゃあ、私はお見舞いにいくからー」
「・・・いや、あの、本当にやめて下さいね?」
「お見舞いを?」
言葉に詰まる。ベッドの方ですと言うだけなのだが、公衆の面前で言うのには無視出来ない程の抵抗があった。
勝ち誇った様な微笑みを見せてから、ベティは診療所へと歩いていく。
だが、すんでのところで、レオンは言うべき一言を思い出した。
「ありがとうございました!」
こちらに背を見せたまま片手を振るベティ。通訳するなら、親友の為だから気にしなくていいよというところだろうか。或いは、感謝の分だけダンジョンで頑張ってくれればいい。こちらかもしれない。
いずれにしても、レオンのするべき事は決まっている。
今日のダンジョンで感じた事があった。ジーニアスと一緒に戦闘をするというのは、意外に難しいものなのだ。実際、今日のステラは完全に役目がなかったと言ってもいい。自分が偵察の為に先行していたのもあるが、それでも距離を置き過ぎていたのだろうか。そして、あの魔法相殺の戦いの事も気になる。今回のようにジーニアスが相殺に失敗した場合、どうやって助ければいいのか。何か手段があるはずではないだろうか。
こういった話を聞くなら、元冒険者のガレット、或いは頭のいいニコルやハワード。その辺りだろう。
ステラが帰ってきた時の為に、出来るだけ準備しておかなければ。それが仲間としての努め。
レオンは歩き出す。迷いなく、真っ直ぐと。
その瞳に映るのは、日が陰り始めている町並み。脳裏に映るのは、泣いている青い瞳の少女。
あんな悲しい思いだけは二度とさせられない。レオンの心にはその決意がしっかりと刻み込まれていた。