崩壊への綻び
「よ、よろしく」
「よろしくお願いします・・・」
2人の距離感を象徴しているような、ぎこちない挨拶。今日初めて会ったわけでもないのに、何故かそんな感覚がした。気まずいというか気恥ずかしいというか、そんなこそばゆい感覚。ダンジョン内の空気とはこういうものだっただろうかと、そんな違和感すら覚えてしまう程だ。
ビギナーズ・アイ入ってすぐの導きの泉。その部屋でレオンとステラは向かい合って、今更とも言えるそんな言葉を交わし合っていた。
今日がステラにとって初めてのダンジョンという事になる。レオンにとっては既に見慣れていると言ってもいいこの部屋を、ステラは物珍しそうにキョロキョロ見回している。白に黄色が混じったような不思議な材質の壁、そして白亜の石材で出来た泉と像。ダンジョンに入るなり座って出迎えてくれたカーバンクルの石像を見て、可愛いですねと呟いたところはやはり女の子だったが、天井付近の壁にかかった松明を見て、すぐに魔法のアイテムだと見抜いたのはさすがジーニアスといったところかもしれない。
そんなステラだが、今日初対面のような気がしたのは、ダンジョンに初めて一緒に入るからという理由だけではない。
彼女は町に来てからずっとローブを着ていた。ローブとは、言ってみればくるぶしが隠れる程長いスカートのワンピースである。魔法を使う上ではいいのかもしれないが、お世辞にも動き易そうとは言えない服だ。だから、なんとなく大人しい少女という印象が強かった。
しかし、今の彼女は、それとは打って変わって、動き易そうな服装なのだ。どこか外套のようにも見えるスマートなフォルムの、丈が短めのワンピース。その下に、膝下までの細身のズボンを履いている。どちらもブルーが基調の色合いで、まるで別人みたいにアクティブな人間に見える。昨日初めて見た時は、あまりの印象の違いに驚きを隠せなかった程だ。
ただ、この服装は、この町では少し斬新過ぎたらしい。実際、レオンも他に似たような服を着ている人間を見た事がない。元々ステラは目立つ容姿なのだが、試しにこの格好で町を歩いてみたところ、案の定、何かの見せ物だろうかと思うくらいの注目を浴びてしまった。さすがにそれではまずいという事で、普段はこの上に目立たない色のマントを羽織る事になった。夏は暑いのではないだろうかと思ったが、ステラは魔法の力で周囲の気温をある程度コントロール出来るらしく、その心配はないらしい。
何より、本人がこの服を割と気に入っているようなので、それならレオンがとやかく言う筋合いはない。フィオナやシャーロットが作ってくれた服だから、きっと思い入れもあるのだろう。これからどんどん新作が増えていく予定らしく、ステラはもちろんだが、作る側のフィオナも楽しくてたまらないといった様子だった。
それはそれとして、これはただの服ではなくて、ジーニアスが魔法を使う上で支障がないように作られた魔導衣なのだ。だから、動きやすさはともかく、魔法が問題なく使えるかが重要である。
「どう?魔法は使えそう?」
外では既に試したものの、ダンジョン内で魔法を使うのは、もちろんステラにとって初めての事だ。
この質問に、ステラは思い出したように自分の服を見る。
「え、えっと・・・はい。たぶん」
見て分かるのだろうかと思ったが、自分もステラの身体を観察していたのに気付いて、すぐに視線を逸らす。やましい気があるわけではないが、失礼には違いない。
幸いと言うべきか、ステラは何も気付いていない様子だった。少し首を傾げて、その青い瞳でこちらを不思議そうに見つめている。
このままここで向かい合っていても仕方ないので、レオンは話を進める事にした。
「じゃあ、ステラは今日が初めてだから、ここの空気に慣れるつもりで、慎重に行こう」
慣れない話し方に戸惑っているのは、ステラよりも、むしろレオンの方だった。だが、自分が先輩である以上、それなりの話し方をするべきだろう。いつもの丁寧語では頼りない。
ステラは頷く。
「昨日も言ったけれど、とりあえず僕が先に進んで、ステラは少し離れて後ろを着いてくるのでいい?」
「私はいいですけど、本当に大丈夫なんですか?」
どこか不安げなステラ。相当頼りなく見られているようだ。
少し苦笑しながら、レオンは答える。
「まあ、偵察というか・・・慣れてるのは僕の方だから」
「モンスターってどんな感じなんです?」
この質問は、今日だけで4度目である。同じ事を何度も聞くのは、余程緊張している証拠に違いない。
「会ってみないと分からないけど・・・生き物に似てるのが多いかな。だけど、罠もあるから、そっちにも気を付けないと」
「あ・・・そ、そうですよね」
聞いた事のある回答が返ってきた為か、自分が同じ質問をしていた事にステラは今更ながら気付いたようだった。
なんとか勇気づけようと、レオンは余裕を装って微笑む。本当にそれくらい余裕があればいいのだが、つい最近やっと踏破出来た身分だから、ステラを守りながら戦うとなると、正直不安の方が大きい。
それでも多少は安心してくれたのか、ステラも少し微笑んでくれた。
「僕が先に進んで様子をみてくる。出来るだけモンスターには気付かれないようにするから、もしモンスターを見つけたら一度ステラのところまで後退して、そこで作戦を決めよう」
「はい」
「だけど、いつも上手くいくとは限らない。僕が先に見つかってしまったら、多分奇襲されると思う。それでも、ステラは無理に助けに来なくていいから。モンスターが待ち伏せていた場所で戦うのは向こうに有利なんだ。だから、一度後退して場所を変えた方がいい。なんとかして逃げてくるから、すぐに迎え討てるように準備していて」
頷くステラだが、実は昨日話し合っている時に結構揉めた部分だった。見捨てているようでもあるから、気分が良くないのは確かだろう。だが、助けに来られても罠にかかる人数が増えるだけであって、むしろ窮地に陥る可能性が高い。レオンとしては、ここは絶対に譲れない部分だった。
「それで、逆の場合なんだけど・・・つまり、ステラが奇襲される可能性もある。出来るだけそれはないようにするけど、絶対ないとは言えない」
向かい合う少女の表情が固くなるのが分かった。
「その場合、僕の事は気にしなくていいから、大声を出すとかして、とにかくすぐに知らせて欲しい。その後は自分で判断して貰うしかないけど・・・とにかく身の安全を優先してね」
「・・・はい」
やや間があってから頷くステラ。なんだか怯えさせているような気になってきたので、レオンは話題を変えた。
「ステラの方から何かない?あ、そうだ。魔法の事を聞いてもいい?」
柔らかそうなブロンドの髪を揺らしながら、ステラは首を傾げる。
「魔法ですか?」
「うん。ハワードさんから理論的な事は聞いたけど、よく考えてみたら、実践的な事は聞いてなかったから。ステラが魔法を使っている時に、僕が気を付けた方がいい事ってある?」
しばらく考えてから、ステラは言葉を選ぶようにしながら話し始める。
「えっと、なるべく制御し易い魔法を使いますから、巻き込まれるような事は、多分ないと思います。その分、威力はあまり出ないかもしれませんけど・・・」
「あ、うん。その方が有り難いと思う」
正直、モンスターごと氷漬けにされるのはぞっとしない。
「ただ、魔法は発動までに時間がかかるんです。それと、発動までの間、私は動けません」
「・・・そうなの?」
発動時間があるのは知っていたが、動けないのは知らなかった。だが、思い返してみれば、魔法準備をしながら動くモンスターはいなかった気がする。あれは動かなかったのではなくて、動けなかったのか。
ステラは頷く。
「例えば、押されて何歩か動いてしまうだけで、魔法は失敗してしまいます。他にも、大きな音とか眩しい位の光とか、もちろん攻撃の衝撃とかもですけど、そういうもので集中を乱されてしまうと、上手く発動出来なくなるんです。その、精神力が強い人だったら、そういう衝撃にも動揺しないで魔法が使えるそうなんですけど、私はあまり自信が・・・」
「いや、大丈夫。とにかく気を付けるようにするよ」
いずれにしても、ステラを守らなければならないのは一緒のようだ。
レオンは軽く頷いてみせる。
「じゃあ、そろそろ行こう」
「・・・はい。よろしくお願いします」
緊張を拭えない様子のステラだった。
最初の頃の自分もきっとこんな表情をしていたのだろう。そう考えると、どこか懐かしさがこみ上げてくる。それと同時に、自分が何をするべきなのかが少し分かったような気がした。彼女がここの空気に慣れるまでの時間を作るのが、きっと自分の役目だ。
こうして、ようやく今日のダンジョン探索がスタートした。
事前の話し合いの通り、少し先を行くレオンが、モンスターや罠の有無を確かめながら進む。元々、扉の鍵はレオンにしか開けられないし、何かあった時に咄嗟に対応する場合、魔法よりも剣の方が優れている。準備時間が必要な魔法は、不意打ちの対応には向いていない。
だから、この配置は妥当なものだと言える。それはそうなのだが、探索を始めて程なくしてから、2人はある事に気付き始めていた。
ステラが暇過ぎるのである。
最初の頃はまだよかった。解錠するレオンを見て興味津々だったり、罠が発動した痕跡を見て感心したり、初めて見るものの目新しさがあった。
だが、それがなくなってくると、途端に手持ち無沙汰になるのだ。これは、暇でつまらないというよりも、何も役に立てなくて悔しいという思いが強い。ビギナーズ・アイは最も難易度が低い部類に入るダンジョンと言っても過言ではない。ステラが役に立てるような、例えば、魔法的な仕掛けや罠なんて物は皆無なのだ。さらに、モンスターの数も少ないし、遭遇してもレオンだけで間に合ってしまう事も多い。実際、ステラがしている事といえば、灯りを持ってレオンの作業を見守るくらいのものだった。
そんな時間が続けば、あまりの手応えのなさに彼女が拍子抜けするのも、ある意味仕方のない事だった。
「・・・私、いる意味あります?」
「え?あ、うん・・・まだこれからが本番だから」
ぽつりと呟くステラはどこか不満げだった。それか、寂しそうだったかもしれない。レオンも彼女の気持ちが全く分からないわけではなかったが、不用意に作戦を変えるわけにもいかない。なんとか我慢して貰うしかなかった。
そして、そういった我慢の時間というものは、突然に終わりを告げるものである。
例によって、レオンは扉の陰から室内を覗き見ているところだった。
扉の向こうは、いつか骸骨モンスターに閉じこめられた時のような大広間。経験上、こういう部屋が必ず1部屋はある気がする。村なら集会でも開けそうな程のスペースに、このダンジョンでは比較的強力と言えるモンスター達が文字通り集まっている。そういうパターンが多い。
だが、その中のモンスターの顔ぶれに、レオンは驚きを隠せなかった。
赤い八面体結晶。そして、その中を蠢く大きな目玉。
ついこの間、このダンジョンの最深部で戦ったあのモンスターが、その部屋の中央に陣取っているのだ。
それを目で確認したのだが、レオンは見ても信じられなかった。確かに、ギルド窓口のケイトは、ボスは最下層にいるとは限らないと言った。しかし、まだ1階の中程といった場所にボスがいるという事があり得るのだろうか。
そんな都合のいい話があるとは思えない。だとしたら、あれはボスではないと考えるしかない気がする。そういえば、同じダンジョンであっても、ボスの顔ぶれはまちまちだとケイトが言っていた気がする。魔石を宿しているモンスターがボスの定義であり、あれがそうではないとするならば、この間のボスの劣化版だと考えていいのだろうか。
或いは、全く別のモンスターという事もあり得る。見た目だけで判断するのは禁物なのだ。というか、この間のボスは擬態が得意だったようだから、もしかしたらこのモンスターに擬態していたのかもしれない。
さらに、室内にいるモンスターはその結晶だけではなかった。
ちゃんと顔がある。最初にそのモンスターを見た時の感想がそれだったが、いずれにしても、このダンジョン内のモンスターの傾向に漏れず、それらは生物の形を模していた。
狼というよりは犬である。つまり、それほど大きな体格をしていない。刺さりそうに見える程固そうな焦げ茶色の体毛と、本来なら2つあるはずの目玉が1つしかない事以外は、ほぼ犬とそっくりと言っても過言ではない。分類するなら、恐らく中型犬程度の大きさだろう。
その犬型モンスターが、目で確認出来ただけでも2匹。ただ、足音から察するに、その倍はいるだろう。室内を徘徊しているらしく、その姿を見え隠れさせているのだが、あまり鼻が利かないらしく、こちらに気付く様子はない。
ここは不用意に飛び込まない方がいい。しばらく考えたレオンの結論がそれだった。初めての敵もいる以上、ステラを守りながら戦う余裕はない。
ここは避けて迂回しよう。そう思って、レオンはわずかに開いていた扉を閉めようとする。
だが、ほんの少し遅かった。
物音に気付いたのか、或いは今更気配を察したのか、視界の片隅にいた犬型モンスターの一つ目が突然こちらを向いたのだ。
当然というべきか、レオンと目が合う。
その一瞬後、そのモンスターは何の躊躇もなく、こちらに駆け寄ってきた。
レオンは咄嗟に立ち上がって、扉から距離をとる。一応閉めたものの、すぐにドアが破られてしまうのは目に見えている。何故なら、駆け寄ってくる気配は、目があった1匹だけではなかったからだ。3匹、或いは、4匹。もしかしたら、もっと多いかもしれない。
考えがまとまるのは早かった。今レオンがいるのは狭くて長い直線の通路で、横に隠れられるような部屋はないし、後方にはステラもいる。そもそも、犬の足を相手に逃げ勝てるとは思えない。
迎え撃つ。そう決断した直後、眠っていたダンジョン内の空気を叩き起こすようなけたたましい音を立てながら、犬の影が扉を蹴破って姿を現す。
4匹。一瞬で敵の数を把握する。
数は多いが、人2人がやっと並べるような狭い通路なのだ。一度に飛びかかってこられる数にも限界がある。
右手の剣と左腕の盾、そして、左手には短剣を握ってある。少しだけだが、簡単になら二刀流も出来るようになっている。
こちらに飛びかかろうとするモンスター達を、剣で牽制する。地の利という程でもないが、この場所は悪くない。それほど困難な脅威ではなかった。
そのうち向こうの隙を見つけられる。そこを仕留めればいいと思っていたレオンだが、もっと早く、あっさりと決着がついてしまった。
不意に、背後から冷たい風が漂ってくるのが分かった。
その直後、軽やかな身のこなしをしていたモンスター達が文字通り足を止めてしまったのだ。
予想だにしていなかった展開だが、すぐに原因は分かった。
モンスターの4本足が凍り付いているのである。最初は足だけだったものの、次第にその身体を覆うように氷がその面積を増やしていく。
レオンは後ろを振り返る。
もっと後ろに控えていたはずだが、いつの間にか、ほんの数メートル程後方の位置にステラが立っていた。彼女は胸に片手を当てて、目を瞑って少し俯いている。服の上からは見えないが、手を当てている位置にはルーンのネックレスがある。魔法を使ったのだというのは状況からも明らかだ。
しばし呆気にとられていると、すぐ背後で氷が割れる音が響いた。モンスターの方に視線を戻してみると、もうその姿はなく、バラバラになった氷塊がいくつかと紫色の煙が少し残っているだけである。
本当に、あっという間に倒してしまったのだ。
その威力にも呆然となるが、やがてこちらに駆け寄ってくるステラの足音が聞こえてくる。
またそちらを向くと、その直後に立ち止まったステラは、少し誇らしげな様子でこちらを見ていた。
「大丈夫でした?」
「あ・・・うん」
何か言うべき事があるような気がしたものの、予想外の事態に戸惑っていたからなのか、何も言えなかった。
そして、すぐにそんな状況ではない事に気付く。
それに気付いたレオンは、すぐにモンスターが待ち構えていた部屋の方に視線を戻す。
犬型の方は、さっきステラが倒したので全部だったようだ。だが、結晶型の方は、まだ部屋の中央に陣取ったままだ。
しかし、何か魔法を使ってくる気配はない。それどころか、中の目玉もぴくりとも動かない。ただこちらをじっと見つめているだけだった。
「モンスター・・・ですよね?」
ステラの質問に、レオンはモンスターに注意を払いながら答える。
「そうだと思うけど・・・」
「倒さないんですか?」
赤い結晶を見つめて少し考えてから、レオンは答える。
「・・・倒せるか分からないし、退いておこう」
「強いって事ですか?」
「いや、分からないんだけど・・・」
その回答にステラは拍子抜けしたらしい。
「だったら、戦ってみた方がいいんじゃないですか?戦ってみないと、いつまでも分からないままです」
レオンはステラの方を見る。
「そうなんだけど、でも、今日はステラもいるし、無理しない方が・・・」
言葉は途中で途切れた。ステラが今日一番の不満顔になったからだった。こんなにはっきり意思表示する彼女を見るのは、これが初めてだった。
「私、まだ戦えます」
「それはそうだけど・・・」
実際、これが最初の戦闘だと言ってもいいくらいなのだ。
「私の事を気にかけ過ぎじゃないですか?私だって、あれくらいは出来るんですよ」
先程の魔法の事だろう。レオンの想像よりも強力で便利だった。正直言って、戦闘能力という意味ではステラの方が数段上かもしれない。
「だから任せて下さい。あのモンスターも魔法を使ってくるんですよね?」
他の攻撃手段と言えば体当たりくらいだろうというのは、やはり見れば誰でも思う事らしい。
「まあ、たぶん・・・」
「だったら私が魔法を相殺します。その間にレオンさんが倒して下さい」
「相殺?」
レオンは初めて聞く言葉だった。
その様子を見て、ステラは余裕の笑みを見せる。
「相手の魔法を打ち消す事です。魔法さえ封じてしまえば、勝てますよね?」
「え?あ・・・うん」
まだ頭の中では迷っていたものの、レオンは頷いた。本当は、相手に何か隠し玉がある可能性もあるし、自分で倒せる保証もない。だけど、ここでステラの意見を邪険にするのは、相手の事を信頼していない証拠のように思えた。
「じゃあどうする?相殺っていうのは、どれくらいの距離から出来るの?」
ステラは小さく頷いてから答える。
「部屋の中にいればたぶん・・・2人で一気に飛び込みましょう。向こうは魔法準備に入ると思いますけど、それを見てからでも間に合います。魔法は気にせずに、相手を倒す事だけに専念して下さい」
「分かった」
答えるなり、レオンは床に転がっていた氷塊をいくつか掴んで、試しに部屋の方へと投げ入れてみる。特に何も起きなかったし、モンスターにも動きはなかった。
「・・・何してるんです?」
「あ、うん。一応罠がないかと思って」
その答えに頷くステラ。その確認が済んだという事は、突入の準備が済んだという意味だ。
2人は呼吸を整える。
「・・・よし!」
レオンの合図で、2人は広間へと駆けだしていく。
犬型モンスターが扉を蹴破った辺りに差し掛かった時、結晶型モンスターの目玉の前に、緑色の光が軌跡を描き始める。
それを見てステラは足を止めたようだった。魔法相殺の為の準備をしているのだろう。言われていた通り、レオンはモンスターに攻撃するべく距離を詰める。相手は部屋の中央付近に陣取っていて、入り口から距離は20メートル程度。だが、結晶は人間大程の大きさがあり、しかも、やや地面から浮いている。そして、レオンがまず狙いたかったのは、モンスター自体ではなく、その上の空間だった。せめてもう少し近付いておきたい。
もちろん、足下にも注意を払う。罠にかかるのだけは御免である。
だが、モンスターの魔法準備はあっという間に終わってしまった。緑の光は数文字描いただけで、一瞬輝き消えようとする。
もしかしたら、ステラの相殺は間に合わないかもしれない。そう思ってレオンは咄嗟に足を止めたが、どうやらその心配は無用だったらしい。
その光が消える直前、緑の文字の一部に、青い線が書き足されるのが見えた。そして、そのまま文字は消えていったものの、何も起きなかった。
「大丈夫です!任せて下さい!」
背後からのステラの声が、相殺が上手くいった事の裏付けになっていた。
なるほどとレオンは思った。魔法の相殺とは、相手の文字に少し書き足して、意味のない言葉にする事らしい。相手の魔法に少しだけ干渉して失敗させる。これなら相殺する方も準備が短くて済むから、相手がどんな魔法を使うのか見てからでも間に合うという事だろう。
これなら勝てるかもしれない。そう思って再び足を踏み出そうとしたしたレオンだが、その時向こうに変化があった。
赤い結晶の中でじっと正面を見ていた目玉。それが不意に蠢き、ステラの方を向いたのだ。
それだけといえばそれだけの事だった。だが、レオンは嫌な予感がした。これ以上ないくらいの危機感が、身体の中を暴れ回るように駆け巡ったのだ。
モンスターの眼前に描かれる緑の軌跡。
そして、やはりそれはあっという間に完成したようだった。すぐに一際の輝きを放つ。少なくとも、どうするべきか迷っているレオンが決断するよりも、短い時間の出来事だった。
それが消える直前、やはり青い線が書き足され、その意味を打ち消す。
だが、そうならなかった。
書き足されたのは、青い線だけではなかったのだ。
その文字に緑の線が新たに加わる。加わった青い線に、さらに書き足す様な位置だった。
「え?」
ステラの声が聞こえる。予想だにしなかったという声。
その声を聞いて、レオンの直感はステラを守れと警告していたが、何か行動を起こすような暇もなかった。
光の文字が消えると、モンスターを中心に猛烈な風が吹き荒れ始める。
そんな分析が出来たのも最初だけだった。
直後にやってきたのは、大木をも倒せそうな程の風圧だった。人間であるレオンにとっては、もちろん立っていられない程だが、それを上回る力があった。
身体が床から離れる。
雹の混じりの凄まじい風にレオンは文字通り吹き飛ばされる。
踊る視界。
ステラの悲鳴。
どちらも一瞬。
すぐに硬質なダンジョンの壁が、レオンの身体を手荒く受け止める。息が止まるような激痛が身体全体を襲った為、呻き声も出なかった。
それでも、意識だけは手放さずに済んだ。受け身がとれたとは思えないが、少しは鍛えていた甲斐があったという事かもしれない。
せき込んでから朦朧としていた視界が戻る頃には、風は既に止んでいた。
休みたいのは山々だったが、そんな状況ではない事を、ダンジョンに馴染んだ身体はしっかりと覚えている。
戻った視界に映る赤い結晶体の前には、当然というべきか、既に新しい光の文字が並び始めている。
その中の目玉が捉えているのは、こちらではない。
レオンは立ち上がりながらステラの方を見る。というより、身体はもうそちらに向かって動き出していた。
視界の先には、部屋の片隅で倒れているステラの姿があった。立ち上がる様子がない。
少しふらつきながらも、レオンは駆け出す。
彼女との距離はそれほどなかった。飛ばされ方がよかったようだ。不幸中の幸いと言えない事もない。
ステラの元にたどり着いたレオンだが、意識が戻る様子はない。彼女も壁に叩きつけられたのは間違いない。ただ、頭を打っていた場合、命の危険すらある。
だが、向こうが彼女の容態を見ている暇は与えてくれるわけがない。
風の音が聞こえ始める。
魔法が来る。そう思った次の瞬間に、レオンは倒れているステラに覆い被さるようにして、四肢を床に着いた。あの強風全ては防ぎようがないが、盾くらいにはなれる。
しかし、それだけだった。
この時ばかりは、レオンも拍子抜けした。その姿勢でしばらく待ったが、本当にそよ風くらいしか来なかったのだ。
首だけで振り返ってみる。モンスターはやはり魔法準備中だった。そして、その魔法もあっという間に完成して、風がやってくる。だが、その風も大した事がない。むしろ、場所が場所なら、気持ちがいい風だと言えない事もない。
何故攻撃してこないのだろうと思ったが、ふとレオンは、この部屋にいた別のモンスターの事を思い出した。あの犬型モンスター達と共闘する場合、あんな強風を使えば、その仲間達も吹き飛んでしまうだろう。もしかしたら、彼らの身長というか、高さに合わせた魔法を使っているのかもしれない。犬型モンスター達は人間の股下程度の高さしかなかった。彼らの頭上にしか影響が及ばないように、風の範囲を調整しているのか。
それならそれで、今はもう仲間がいないのだから、下にも風が吹くように調整すればよさそうなものだ。だが、もちろんレオンにはそんなアドバイスをする義理はないし、そんな状況でもない。
体勢を低くしたまま、身体の下にいるステラの状態を確認する。
呼吸はしている。首に手を当ててみたが、脈もある。だけど、呼びかけても頬を叩いても、意識だけは戻らない。
背中を冷たいものが通り抜けていくが、その予感を必死に振り払う。
早く運び出すしかない。
出口まで、導きの泉までどれくらいだろうか。
ステラの肩と膝の下に両手を差し込む。
持ち上げた彼女は、びっくりするくらい軽かった。ジーニアスとはいえ、まだ少女なのだ。レオンと同じ16歳。
だから自分が守らないといけなかったのに。そう思って、レオンは歯噛みする。
その少女の未来を、こんなところで終わらせるわけにはいかない。
少女を抱えて姿勢を低くしたまま、レオンは広間の入り口へと進む。
モンスターはまだ魔法を放ち続けている。結晶の中の目玉は、じっとレオンの背中を捉えて離さない。
しかし、レオンはもうモンスターの事を見ていなかった。
その瞳に映っているのは、自分の両手に託されたと言ってもいい、守るべき命だけだった。