通過点の価値
振り返って、弾む息を整える。
ビギナーズ・アイの通路。ここ数日間、毎日のように見ているこの光景に、馬の蹄の音が響きわたる。
近付いてくるその音を身構えて待ち構えていると、やがて奥の曲がり角から、ほぼ実寸大の馬型モンスターが姿を見せた。ただし骨だけの状態である。
ここは基本的に、比較的小型の生物か、或いは大型でも骨だけになっているか、そのいずれかの形態をしたモンスターがほとんどだ。この間のツタのような例外がたまにあるものの、その場合、どちらかというと、モンスターというよりも罠という印象が強い。近付かなければ襲ってこないからである。
それはそうと、今はこの馬型モンスターの相手をするのが先だ。
レオンが待ち構えているのは、あまり幅のない通路だった。せいぜい3メートルくらいの幅である。モンスターはかなりの勢いでこちらに駆けて来ているが、突進を避けるのには向かない場所である。骨だけとはいえ、馬の脚力には馬鹿に出来ない威力があるはずだ。
それでもこの場所を選んだ。ここでないと無理だったのだ。
身を落として待ち構えるレオンまであと少しといった場所で、モンスターは突然体勢を崩す。まるで見えない糸にひっかかったように。
実際、その通りである。
通路に仕掛けられていた罠に気付かず、盛大に倒れるモンスター。突進の勢いが強過ぎたせいなのか、骨格が何本か外れてしまったようだ。積み木が崩れるように、脚の骨が床に散らばる。
この時を待っていたレオンが、その隙を逃すはずがない。
牽制にダガーを投擲し、さらにショートソードを抜いて近付く。一撃で倒せる保証はない。隙を作って、そこに近接武器でとどめを刺す。これがセオリーだった。
だが、今回はその必要はなかった。
短剣を頭にもらったモンスターは、空気に溶けるようにその姿を消滅させていく。勝負がついたのだ。
その姿が完全に消えると、ダンジョン内は再び、音をも飲み込むような静寂に戻る。
レオンは息も吐かなかった。
本当に慣れてきたようだ。
周囲の気配に注意しながら、レオンは装備を回収していく。この手順も、身体はすっかり覚えてしまっている。頭は周囲に感覚を研ぎ澄ませつつも、身体はいつもの手順を勝手に行ってくれる。効率が良くなってきたと特に実感するのは、大抵こういう時である。
回収を済ませてから、レオンはモンスターが駆けてきた方へと踵を返す。さっきのモンスターは、この曲がり角の先の小部屋の中にいたのだが、こちらまでおびき寄せたのだ。その部屋で戦う事も出来たのだが、それでは室内に罠がないかどうかを確かめられない。安全な場所を選んで戦うのが基本だ。
その心得も、ようやく身についてきた。
蝶のモンスターと戦ったあの日から、既に2週間が過ぎた。最初にビギナーズ・アイに挑戦してから、もう3週間は経過している。イザベラ先生は、1人でクリアするのに2週間以上かかると言っていたが、下手をすると1ヶ月はかかりそうである。それでも、最初の頃はいざ知らず、今はその事に対して、焦りのようなものは全くない。
あの頃の自分が焦っていたと自覚出来るようになったのも、つい最近の事だ。
ユースアイでは自分は余所者だという思いが、どこかにあったのかもしれない。だから、早く強くならないといけないと思っていた。それどころか、強さを証明出来なければ、ここから追い出されてしまうと考えていたのかもしれない。いつまでもここにいられるわけではない。もっと頑張らないと見限られてしまう。そんな思いが、自分を先へと先へと、追い立てるように歩みを進ませていた。退ける時に退かなかったのは、その思いが邪魔をしたからだ。目の前の危険よりも、町の人に見限られる方がよっぽど怖かったのだ。
だけど、もうその恐怖はない。
今では、危険に飛び込む事だけが勇気ではないと分かる。退き際を見極められるのが強さの一部だという事も分かる。それを冷静に見つめる事が出来たのは、ユースアイの町の人達が自分を受け入れてくれたからだ。もう何にも追い立てられていない。ゆっくりとでも、一歩一歩先へ進む事が出来るのは、その支えがあるからこそである。
鎧の修理が終わってから毎日、レオンはビギナーズ・アイに通い続けた。だが、その滞在時間はとても短い。新しいモンスターに遭遇した場合、戦いはしても無理に倒そうとはしない。だから、1時間もしないうちに出てきた事もあった。だけど、それでいい。剣や弓の訓練、道具や知識の勉強等、外で他にする事がいくらでもある。ダンジョンに入るのはクリアの為ではなく、実戦経験を得る為なのだ。
本当に、少しずつ少しずつ、ここの空気に慣れる事に時間を費やしてきた。
先日の蝶型モンスターには再遭遇していない。しかし、仮に遭遇したとしても、今度は正しく対処出来る自信がある。少なくとも、逃げるべきだと思ったら、迷いなく逃げられる。それはダンジョンで生き残る上ではとても重要な事だ。
しばらく歩くと、先程のモンスターが待ち構えていた部屋にたどり着く。入ってきたドアは、馬が通るのを考慮した為なのか、かなりの大きさだったが、部屋自体は対して広くない。馬小屋だと考えると、せいぜい2頭が限界だろう。
調べてみたが、他のモンスターや罠はないようだった。そもそも、何も置いていない、飾り気のない部屋なのだ。それでも灯りはあるから、視界には困らない。
ただ、入ってきたのとは別に、向かいに扉がひとつだけある。こちらはあまり大きくない。人間用の普通サイズだった。金属製のドアで、いつかの広間と同じように、ツタのような装飾に鍵穴が隠されている。
嫌な予感がしつつも、とりあえず解錠する。鍵のタイプも以前と同じだった。だから問題なく開けられたが、嫌な予感はますます募る。
それでも、開けないわけにはいかない。ゆっくりと、ドアを少しだけ開いて、向こう側を覗き見る。
向こうも灯りがあるようだ。かなり明るい。
さらに、慎重にドアを開いていく。
そうして明らかになった光景を見て、レオンは少し面食らってしまった。
下り階段があった。
ほんの数メートル通路が続いた先に、確かに階段が下へと続いていたのだ。
これはつまり、2階へと進めるという事だった。
別におかしい事ではない。むしろ先に進めるのを喜ぶべきなのだ。だけど、あまりに容易にここまでたどり着けたので、つい驚いてしまった。以前は、この階段があまりにも遠く感じたものだが、今日は、ここまで進もうとすら考えていなかったのにたどり着いてしまった。そのギャップに戸惑ってしまったのだ。
複雑というか、変な気分になったが、レオンはその階段を進んだ。
階段は意外と長い。だが、下には部屋の灯りが見える。入り口にあった階段と同じくらいの道のりのようだ。
何事もなく階段を下りきってみると、そこには、白い泉とカーバンクルの像。つまり、導きの泉である。妖精の像はこちらを向いていた。
立ち止まって考えてみる。今下りてきた階段は、確かに地下1階から2階へと下りる階段だったはずだ。だけど、泉の像がこちらを向いているという事は、ここを上ったら地上に出るという事なのか。
自分で考えておいてなんだが、本当だろうか。だが、試して地上に出たら、それはそれで馬鹿みたいである。
見るだけ見てみようと振り返って、階段の先を見上げてみる。遠いからはっきり見えないが、確かに外の明るさだとしてもおかしくはない。
地上にすぐ帰る事が出来るのはありがたいが、よく考えてみると、先程までいた1階の部屋に戻る事は出来ないようだ。こういうケースもあるのなら、階段を下りる時は忘れ物に気を付けなければならない。拾いに戻ろうにも、もう二度と戻れないのだから。
何はともあれ、レオンはそこで少し休憩する。しばらく考えた後、もう少し進んでみる事に決めた。今日はまだあまり戦闘していない。体力も装備もほとんど消費していない。それに、退路もこれ以上ないくらい確保出来ている。すぐそこに帰り道があるのだから、万が一怪我を負ったとしても、診療所まで徒歩5分もない。
進める道は、階段の向かいの壁にあるドアだけのようだった。ここも金属製。ただし、装飾も何もなく、鍵も付いていない。
気を付けながら開けてみると、そこは通路だった。ただし、今度は結構広い。長細い大部屋と言ってもいいかもしれない。
奇襲や罠に注意しながらその道を進む。灯りは十分だった。だから、道の先にあるものが最初から見えていた。
大扉である。
もちろん遠くからでも分かってはいたが、すぐ近くに立ってみると、その巨大さに圧倒される程だった。両開きの扉だが、その片方だけでも床に倒せば、大人が30人は横になれそうだ。それは誇張でもなんでもなく、もし持って帰れたら、これ1枚で家の床や壁として成立しそうである。黒光りしているがどうやら木製らしく、表面には植物が絡み合ったような彫刻が施されている。その中心に目玉のような物が描いてあるから少し不気味な感じだが、芸術作品としても申し分のない風格があった。
これ以外に扉のようなものはない。だから、進もうと思ったらここを開けるしかないのだが、罠云々以前の問題で、まず、この重そうな扉が人間の力で開くのかどうか疑わしかった。
それでも、とりあえず挑戦してみるしかない。
軽く押してみたがびくともしないので、両手に体重をかけて押してみる。すると、わずかだが両扉の間に隙間が出来た。扉の向こうも暗くはない。
身体を押し当てるようにして、さらに体重をかける。隙間がある程度広がったところで、レオンは向こう側を観察した。重い扉を支えながらだから辛い体勢だが、不用意に入るわけにはいかない。入ってから向こうにモンスターがいる事に気付いたら、簡単には逃げられない。この重い扉を開けなければならないからである。モンスターに襲われながらここを開けるのは、事実上不可能と言ってもいい。
扉の向こうは、いつか骸骨モンスター達がいたのと同じような大広間だった。ただし、それよりも一回り広く、さらに、中には何もいない。もちろん、見える範囲ではだが、気配も何も感じない。
部屋の向こう側の壁に、こちらと同じくらい巨大な扉がある。
意を決して、レオンは部屋の中に飛び込んだ。
身体で支えていた扉がゆっくりと閉まっていく。音はほとんどしない。完全に扉が閉まった時もほぼ無音で、まるで吸い込まれたかのようだった。
完全な静寂。何もいないとはいえ、閉じこめられたに等しい状況だから、居心地がいいものではない。
とりあえず、向こうの扉まで歩く。
罠を張ろうにも、何も無さ過ぎる空間である。何かスイッチを用意したとして、せいぜい床に仕掛けるくらいしかないだろう。壁も天井も遠すぎるし、明るいから妙な物があればすぐに気付く。第一、本当に何もない部屋なのだ。
だが、それはレオンの思い込みだった。
広間の中央辺りに差し掛かった時、突然その異変は起きた。
レオンが目指していた扉。その黒い一枚板が一瞬で粉々に砕けてしまったのだ。
というより、扉ではなかったというのが正しい。少なくとも、レオンが入ってきた扉とは明らかに違う。ボロボロと崩れ落ちていく破片は、まるで羊毛のように、全く落下音がしなかったからである。
その黒い破片は瞬く間に消えていく。紫の煙を上げながら。
擬態。別の植物や昆虫に姿を偽装できる生き物は多いが、さすがにモンスターともなると、人工物にも擬態出来るらしい。
呑気に感心していたレオンだが、身体はしっかり動いていた。その異変に気付いた瞬間に、既に背中の弓に手をかけている。距離から考えれば、弓が一番有効だ。
だが、擬態を解いたモンスターの姿は、レオンのどんな予想とも一致しないものだった。
目玉が中央にある。これはまだよくある事だった。しかし、それ以外は何かの生物に似た形態をしているものが普通だった。人だったり、鳥だったり、蝶だったり、馬だったり。いろいろなバリエーションがあるものの、一目見て分からなかった事はない。
しかし、今回は分からなかった。
そもそも、生物の形状をしていないというのが正しい。
八面体。綺麗にカットされた宝石のような形状をしたそれは、その半透明の器の中に大きな目玉を宿し、ただ床の少し上の空間を浮いていた。飛んでいるとかではなく、本当に空中で微動だにしない。
人の大きさ程もある赤い結晶の中で、ギョロギョロと動く目玉。あまりに予想外の姿に、レオンも呆気にとられてしまった。
その為、モンスターが先手をとった。
突如出現した赤い光が、モンスターの目前で文字を描き始める。
魔法の準備だが、レオンはあまり驚かなかった。あんな形状だから、魔法でも使わないと攻撃出来ないだろう。他の手段といえば、体当たりくらいではないか。
冷静に矢を取って、弓を構える。
躊躇なく、一瞬で矢を放つ。
ホレスが教えてくれた弓の神髄はまだ理解出来ていない。だが、それなりに腕が上がっているのも確かだった。
的が大きいのもあって、その矢はモンスターに命中する。
しかし、本当にただそれだけだった。
レオンは顔をしかめる。矢があっさり弾かれてしまったのだ。とてつもなく硬い。モンスターの体というか、結晶体には傷ひとつ付いていないように見える。
続けてもう1本射てみるが、結果は同じだった。傷つけるどころか、魔法の準備を妨害する事も出来ていない。
弓を諦めて捨てる。次の手を思案していたところ、モンスターの反撃がきた。
赤い文字が消える。
魔法の襲来に対して準備するレオンだったが、その規模に度肝を抜かれた。
いつか蝶が放ってきた炎の矢。それと同じ形態の魔法だが、その数が尋常ではない。
20本。いや30本はある。モンスターの目前を埋め尽くすように出現したそれらは、その全ての鏃をこちらに向けている。
確かに驚いたが、それでも身体は動いた。誰だって同じ状況に立たされれば、嫌でも身体は動くだろう。動かないと、最悪の事態になるのは必至である。
タイミングがどうこうなんて言ってられない。レオンはただ闇雲に、左へ、モンスターを中心に弧を描くように駆けた。
その直後、矢の雨が一斉に飛来する。
床や壁。レオンの足跡を辿るように着弾していくそれらは、その度に爆炎と轟音をまき散らしていく。その衝撃で部屋が崩壊するのではないかと思える程だった。
とにかく、必死で走るしかない。
最後の一矢がすぐ脇の床に落ちた後、最近では一番かもしれない程安堵した。しかし、息を整えながら自分が走り抜けた跡を確認してみて、レオンは絶句する。
ニコルがとんでもない実験をしたのだろうか。そう思えるような、荒れ果てた惨状。
よく生きていられたな。
その感想を抱くのがやっとだった。
だがもちろん、モンスターの攻撃はそこで終わりではない。
結晶がくるっと回転し、目玉がこちらを捉えるや否や、再び魔法準備が始まる。今度の光も赤色だった。
またさっきのような、命からがらの事態になるのは堪らない。しかし、ここで距離を詰めるのは躊躇したレオンだった。以前の蝶との戦いを思い出す。近距離用の魔法だって、当然使えるはずなのだ。不用意に近付けば、その餌食になる可能性もある。それに、そもそも近付いたところで、何か有効な攻撃手段があるだろうか。放たれた矢を軽々と弾くあの硬度は、相当なものに違いない。
一度撤退するべきだろう。だが、あの重い扉をどうやって開けるか。モンスターが擬態していた扉は完全に偽物だったらしく、元あった場所には、ただの壁があるだけである。この部屋から出ようと思ったら、入ってきた扉から出る以外にない。
そうこう考えている間にも、魔法の準備は進んでいく。だが、準備時間がかなり長い。先程の魔法もそうだったが、どうやら威力のある魔法程、そして射程がある魔法程、準備時間が長く必要であるらしい。
逆に言えば、これだけの大技を使うだけの余裕があるという事だろう。準備中に仮に攻撃されたとしても、防御に絶対の自信があるか、或いは瞬時に別の魔法が使えるのか。
高威力の魔法と強固な防御。それらを併せ持っている。
そこでレオンは、扉を開ける手段を思い付く。
思い付いたと同時に、その扉の方へと駆けだした。
モンスターは追ってこない。魔法の準備中だからなのか、或いは動く気がないのか。広間の奥に陣取ったままだ。
扉の前にたどり着いた時、再び無数の炎の矢がモンスターの前に出現する。
レオンはそこで立ち止まらずに、そのまま駆け抜ける。
直後に、一斉に矢が襲来してきた。
響きわたる轟音。だが、それが狙いである。
自分が避けた炎の矢のうち、そのうちの幾つかが扉に着弾しているはずだった。それで壊して貰おうという算段である。
だがもちろん、いちいち扉に当たったか確認する余裕なんてない。目論見はあっても、レオンが実際にしている事は、ただ必死に炎の矢から逃げ回っているだけである。
しばらくして、轟音が止んだ。
また魔法準備を始めるモンスターを尻目に、レオンは扉の方を振り返る。
なんというか、ちょっと感心した。全く無傷というわけではないが、その漆黒の壁は泰然として残っている。その周囲の壁や床は散々な惨状なのに、その丈夫さは見事としか言いようがないだろう。
いずれにしても、簡単には壊れてくれそうにはない。
よく考えてみれば、それも当然かもしれない。経験則から言って、ダンジョンの構成とそこに潜むモンスターの間には、確実に作戦みたいなものがある。今回で言えば、重い扉はこちらを閉じこめる為の物なのだ。それが簡単に壊れてしまっては意味がない。
そこから考えを広げれば、逃げられなくなった冒険者達が捨て身で攻撃に出てくるのも計算済みだろう。
つまり、まだ切り札を残しているはずだ。
どんな切り札だろうか。この間の蝶のように、近距離魔法だろうか。
それくらいは使えると考えるのが自然だった。
だが、そこで少しレオンは違和感を感じた。そんな切り札があるのなら、近付いてきて使えばいいのではないだろうか。実際、そうされるのが一番困る。こちらを追ってこないまでも、例えば部屋の中央で火球を爆発させるだけでも、被害は甚大だろう。向こうは防御も鉄壁なのだ。それで問題ないのではないか。
もしかして、近距離魔法は使えないのだろうかと一瞬考えた。だが、信じて懐に飛び込む気にはなれない。その予測が外れていたら大怪我では済まないのだ。せめて魔法発動の文字が解読出来れば、飛んでくる魔法が分かるはずなのだが、それも出来ない。そのお陰で、不用意に扉を開けようとも出来ない。準備時間が長いなどと高をくくっていて油断したところを、不意打ちされないとも限らないのだ。
再び放たれた炎の矢を、部屋中を走り回って避ける。もう、炎の雨と呼んでもいいくらいだった。床の大部分が、焦げて陥没してしまっている。そのうち走り回るのも難しくなるかもしれない。
ぐずぐずしてはいられない。
炎の雨が止んでから、レオンは距離を詰めた。
だが、モンスターの40メートル程手前で立ち止まる。前回の経験から言って、これ以上近付くと、火球を使われた時に避難が間に合わない。
モンスターは特にリアクションしなかった。既に準備し初めていた魔法の赤い光も、変わらず文字を描き続けている。
レオンは数歩後退する。そろそろ危ないという予感があった。
予想通り、炎の雨が飛来する。
雨とは言っても、実際には矢だから、その軌跡は床と平行に近い。1本ならともかく、避けながら距離を詰めるのは難しい。
否応なく後退させられながらも、レオンはなんとか走り回って回避出来た。
最後の矢が壁に当たって爆炎を上げるや否や、モンスターの魔法準備は始まった。
さすがに息が上がっている。早く攻撃に出てしまいたい気持ちを抑えながら、レオンは必死に考える。
相手が近付いてこないのは何故なのか。近距離魔法が、つまり火球が使えないからなのか。だがそうなると、相手が別の切り札を用意している事にならないだろうか。その切り札と、このモンスターが動かない事には何か関係があるのだろうか。
自分なら、どういう切り札を用意するだろうか。
思い付かない。だが、切り札があるのは確かなのだ。自分に予測出来ないのは、何か先入観を持っているからではないか。
もしかしたら、魔法ではないのかもしれない。
そこで、レオンはようやく閃いた。
その仕組みを予測する。それを意識しながら、よく目を凝らして床を観察した。そのわずかな痕跡にようやく気付いたが、そこで意外な収穫もあった。
この結晶型モンスター。どうやら、一応生物を模していたらしい。
右手でダガーを握る。距離はかなりあるが、威力はそれほど問題ではない。
しっかり狙いをつけてからの投擲。
モンスターが浮いている、その上の空間をめがけて。
ダガーがそこを通り抜けた時、確かに糸が切れるような音がした。
それと同時に、モンスターの角張った身体が傾き、床に横倒しになる。
だがそれだけではなかった。ここまでは予想通りだったが、それ以上の効果があったのだ。
床に倒れたモンスターは、先程までの硬さが嘘のように、ガラスの如く砕け散ってしまったのだ。
目玉が不気味に蠢いた気もしたが、ただそれだけだった。
あっという間に、紫の煙と共に消え去ってしまう。
なんとも呆気ない幕切れだった。
しばし唖然となるレオンだったが、すぐに気を取り直して、腰のショートソードを抜いた。それを右手に少し前進し、その剣で前方の床を少し撫でてみる。
確かに、非常に細い粘着質の糸が、剣にまとわりついてきた。引っ張ってみるが、なかなか強度もある。
その付近にも、よく目を凝らして見れば、同じような糸が張り巡らしてあるのが分かる。気付かずにここを通り抜けようとしていたら、完全に足止めされていたに違いない。
蓑虫という虫がいる。言ってみれば蛾の幼虫なのだが、さっきのモンスターは形こそ違ったものの、どうやらその蓑虫を模したものらしい。というより、蓑虫そのままの姿だったら、さすがに一瞬でばれてしまっただろうから、敢えて形を変えていたのかもしれない。最初は扉の姿に擬態していたが、もしかしたらそういうのが得意だったのだろうか。
蓑虫は粘着質の糸を使って蓑を作ったり、ぶら下がったりする。さっきのモンスターも浮いているように見えたが、実際は糸で吊っているだけだった。矢で射っても揺れなかったのは、モンスターが重かったからだろうか。それを支えられる程なのだから、糸の強度も相当なものだ。
そして、その同じ糸を自身の周囲の床に張り巡らせていた。これが切り札だったのだ。言ってしまえば罠である。その罠にかかって動けなくなったところに、あの炎の雨を浴びせる算段だったのだ。
さらに言うなら、あのモンスターが動かなかった理由も、火球を使わなかった理由も予想がつく。動かなかったのは、そもそも動けなかったのだろう。火球を使わなかったのは、使えなかったのかもしれないが、きっと張り巡らせた糸が吹き飛んだり燃えたりするのを嫌ったのだろう。床すれすれに張った糸だから、炎の雨なら上を通るから問題ないが、火球は全方位に影響が及ぶから使えなかったのだ。
最後は、まさかあれだけで勝てるとは思っていなかったが、せめて驚いてくれれば魔法を失敗させられるかもしれないとは思っていた。最後の呆気なさだけは、本当に予想外である。
何はともあれ、生き残れてよかった。それに、ちゃんと相手を分析する事が出来た。自分の成長を実感出来たような気がして、それが何よりの報酬である。
投げたダガーを回収すべく、レオンは剣を使って張り巡らされている糸を切断していく。この糸は何故か消えない。モンスターがまだいるかもしれないから、油断は出来ない。
それでも何事もなく、短剣の落ちた場所までたどり着いた時、レオンはようやくそれに気付いた。
この時ばかりは、レオンの警戒心も吹き飛んでいただろう。
モンスターが消滅した場所。
そこに小さな赤い石が落ちていた。
幽霊を見つけたような表情で、レオンはその石を拾った。
中を水流のようなものが渦巻いている。
呆然としながらも、頭は申し訳程度には働いていた。確かに、ここは2階層のダンジョンだと聞いていた。そして、確かにここは2層目だ。最初の導きの泉を除けば、1部屋目と言ってもいいが、とにかく2層目なのは間違いない。というか、よく考えてみれば、これ以上先の部屋はないのだ。ここに見えていたはずの扉はモンスターの擬態だったのだから。だから、言ってしまえば、ここがこのダンジョンの最深部だと言える。
だから、さっきのがボスだったとしても、不自然というわけではない。
レオンの心中では、まさに今摘んでいる魔石のように、言いようのない感情がぐるぐると渦巻いていた。
これは喜んだらいいのだろうか。だが、何か損をしたような気がするのは気のせいだろうか。
心の整理は簡単ではなかった。
それでも、それを完了出来た時、レオンの口から自然と声が漏れた。
「・・・やった」
その一言があまりにも大きく聞こえた。自分で慌てた程だった。他に聞いている人間は誰もいないというのに。
胸に手を当てて呼吸を整える。
落ち着こう。まだダンジョンから出られたわけじゃない。
結局レオンはそれっきり、ダンジョンから出るまで一言も言葉を発しなかった。何か口にしてしまうと、我を忘れてしまいそうだった。ここで我を忘れてしまっては、せっかくの成功に傷を付けてしまう気がしたのだ。
それでも、やはり抑えきれず、表情には満面の笑みが浮かんでしまっていたが。
村から出て1ヶ月半。春真っ直中といったある日。
レオンはダンジョンをクリアする喜びを、初めてその胸に仕舞い込んだ。