暗闇と炎
偶然なのか、それとも再挑戦させてやろうという誰かからの気遣いだったのか。
前と全く同じ大広間だった。
黄色混じりの不思議な石材で40メートル四方の壁面を埋め尽くした部屋。魔法の松明の灯りによって視界も十分確保されているが、その中身を見て驚いたのは失敗だった。
それでも、怪我をしなかったのは、不幸中の幸いだっただろう。
一週間前と全く同じように黒鳥目玉モンスターに奇襲され、同じように短剣を投擲して叩き落とした。ご丁寧に、数も全く同じで、行動パターンも同じだった。今回は普通の松明を持ち歩いていなかったが、さすがに慣れもあって、落ち着いて対処出来た。
その後、前回は見事に閉じこめられた。
だが、今回は違う。
レオンは右手で頬を掻く。本来なら、モンスターの前でこんな余裕を見せてはいけない。だけど、今はそれくらい余裕があった。そして同時に、こんな簡単でいいのかという、なんともやりきれない感覚で頭がいっぱいになった。
ほぼ直立姿勢。その無防備ともいえる体勢で、レオンが見下ろす先には、前回大苦戦した骸骨モンスターがいた。
ただ、身長が4分の3くらいになっているのだが。
もっと具体的に言うなら、この骸骨には膝から下がない。
それでも、膝立ちの状態でこちらに近づいてくる。だが、元から腕以外は緩慢なスピードでしか動けないから、はっきり言って、ほとんど移動出来ていない。きっと、赤ちゃんのハイハイの方が速い。
こうなってしまったら、モンスターというよりも、障害物と同じである。
それでも、一応倒しておく事にする。
レオンは無造作に距離を詰めた。普通に歩いて近づいているだけである。
間合いに入った瞬間、骸骨は右手の剣を振り下ろしてくる。
それを盾で受けたレオンは、既に握っていた右手のショートソードを振るった。
骸骨の右手首を斬り落とす。離れた部分は、すぐに溶けるように消えていく。
これで、ほとんど無害。
その後、盾しかないモンスターを倒すのに、さほど時間はかからなかった。
だけど、素直に喜べないレオンだった。
今回が3回目のビギナーズ・アイである。だけど、前回は下見のようなもので、すぐに出てきてしまったから、今回が2回目と言ってもいいかもしれない。
その間に一週間という時間が過ぎたが、レオンの実力がそれほど増したわけではない。剣ではまだアレンに勝てないし、投擲もまだ左手では難しい。弓もまだまだだし、火薬も勉強中。最初にここに来た時と、ほとんど同じ条件である。
それなのに経過は全然違う。前回は限界だったこの部屋も、今はまだ傷ひとつ負っていない。それどころか、ほとんど武器を消費していない。まさに無傷という状態だった。
何故ここまで違うのか。
理由はいろいろ考えられる。だけど、端的に言えば、この場所に慣れてきたという事だろう。
最初に入った時は、とにかくおっかなびっくりという有様だった。一歩進む毎にびくびくしていたし、何も加減が分からなかった。そんな状態では、身体もそうだが、精神的な負担もかなりのものだったはずだ。
今なら、自分があの時、どれほど緊張していたのかがよく分かる。なぜなら、今なら考えればすぐ分かるような事に、あの時は全く気付きもしなかったのだから。
例えば、さっきの骸骨モンスターにしてもそうだ。前はとにかく頭ばかり狙っていた。そこが急所だと思い込んでいたからで、実際その通りだったのだが、よくよく考えてみてみれば、馬鹿正直に急所ばかり狙う必要はない。というか、急所は向こうだって分かっているのだから、そこを入念に防御してくるのは当たり前だ。そんな場所ばかり狙っても、全然効率的ではない。
そこで、今回はまず足下を狙った。理由は簡単で、相手の盾が届きにくいからである。これはアレンに聞いた知識だったが、普通に考えれば分かる事だろう。だが前回は、それを考えようともしなかった。
そして、今回やってみると、あっさりと相手の足を止める事が出来た。少し屈めば盾も届くはずだが、急所以外はどうでもいいのか、足を守ろうともしなかった。
その結果が、さっきの状態である。まず移動出来なくして、次に武器を使えなくする。徐々に相手の戦力を減らすようにしていけば、問題なく倒せる相手だったのだ。
気付いてみれば、あまりに呆気ない。
これが他人の話なら、笑って済むかもしれないが、前回は、一歩間違えれば生きて帰れなかったかもしれないのである。全然笑えない話だった。
それでも苦笑いが出てしまう。武器をしまってからは、溜息が出た。
とりあえず、進もう。
入ってきたのとは反対の扉へと進む。これも前回と同じで、ツタのような装飾の施された金属製の扉。恐らく鉄製だと思うが、鉄よりも色合いが少し黒っぽい気もする。
罠に注意しながら鍵を開ける。その途中で気付いたが、向こうから水の音がしない。どうやら前回と一緒なのはこの部屋の中だけで、向こうは違う構造のようだ。少なくとも、導きの泉ではない。
鍵を開けるのに10分はかかった。
ゆっくりと扉を開ける。向こうは真っ暗だった。この部屋の灯りが、扉の向こうへと差し込んでいく。
レオンは扉を大きく開ける。体勢を低くして、右手に短剣を握っている。奇襲に対応する為である。
だが、何も起きない。
後ろに放り出していた松明を掴んでから、レオンはその暗闇を照らしながら進んだ。
この松明だが、全然熱くない。つまり、魔法の灯りである。魔法のアイテムという物は、便利だが、かなりの高級品で、普通ならレオンが手に入れられる代物ではない。
実は、これはダンジョン内に設置してある物を勝手に拝借した物である。
あるものは人様の物でも何でも使え。これはニコルの言葉だが、以前言っていた、普通の松明なんて使わなくてよかったという言葉も、要は同じ意味だった。つまり、わざわざ灯りを用意しなくても、そこら中に灯っているのを拝借していけばいいと言うのである。これも最初は考えもしなかった事だが、よく考えればその通りだった。
魔法の松明はかなり高い位置にあって、普通は手が届かないのだが、ニコルの簡易トラップを壁に張って足場にした。取り外しは全く問題なかったし、魔法の効果も消えなかった。そのおかげで、光源は全く問題ない。熱を持たないから炎としては使えないし、壊す以外に灯りを止める方法がないから、一度消したら二度と使えない。それでも、普通の松明と違って制限時間もないし、ちょっとやそっとの事で灯りが消えたりしない。かなり便利な物と言える。
ちなみに、先日下見に来た時に、これをダンジョンの外に持ち帰ってみた。一応魔法のアイテムなのだから、もしかしたら高く売れるのではないかと思ったのである。だが、外に出た途端、モンスターが消滅する時のように煙を出して消えてしまった。ギルド窓口のケイトに聞きに行ってみたところ、ダンジョン内でしか使えないアイテムで、さらに、どのダンジョンにもあるわけではないから、あまり当てにしないで下さいという事だった。
それでも、あったのだから、使うに越した事はない。
魔法の灯りを照らしながら慎重に歩みを進める。幅2メートル程の廊下で、両側の壁や床はもちろん、天井にも注意を払うが、何もない。ただお馴染みの石レンガが並ぶだけである。
レオンの足音だけが小さく響く。思ったより長くて先が見えない。あまり広い通路とは言えないから、どこか圧迫感を感じる。
距離にして100メートル、もしかしたら200メートルは歩いたかもしれない。
それくらい歩くと、変わり映えのしない通路にようやく変化が訪れた。
まず気付いたのは、壁と天井に、人がよじ登れそうな程太い緑色のツタが蔓延っている事だった。だが、普通の植物ではない事は明らかだ。
そのツタは、かなり遅いながらも、壁を這うように怪しく蠢いているのだから。
もちろん、レオンはすぐに歩みを止めた。
モンスターに違いない。壁と天井をびっしりと、そして、途中からは床もだが、完全に覆ってしまっている。その根元というべきか、それが生えている本体は通路の奥の方にあって、ここからは灯りが届かない。
緑色のツタはゆっくりとこちらに近づいてきているようだ。
とりあえず、レオンは後ろ足で後退する。
ツタはあまり動きが速くない。だが、ここを駆け抜けていく気にはならない。絡みつかれたら抜け出せないどころか、簡単に骨を折られそうな気がする。
ある程度離れると、ツタはこちらに近づかなくなった。どうやら、長さの限界があるようだ。
そこでレオンは落ち着いて考える。
燃やすという選択肢を一番に思い付く。だが、生木はそう簡単に燃えないし、燃料があるわけではない。何より、ただの植物ではなくて、モンスターなのだ。何が起きるか分かったものではない。
次に思い付いたのが、撤退するというものだった。どうしようもないならそれしかない。他にも分岐があったから、そちらを進めばいい。だが、出来る事なら、通路の奥がどうなっているのかを確かめておきたい。もしかしたら、そちらに下り階段があるかもしれないのだ。
この松明を放り込んだら見えるかもしれない。だが、それをすればこの辺りが真っ暗になるに違いない。どこからかもうひとつ拝借してこようかと思ったが、そこでレオンは、普通の松明を使う事にした。
どうせなら、こちらを放り込んでみよう。
通路の奥も確認出来るだろうし、モンスターが火にどういう反応をするかも分かる。
背負い袋から取り出した松明に、発火用具と紙で火をつける。
熱い方の松明を右手に持ち、それをなるべくゆっくりと、奥へ放り投げた。
せめてモンスターの本体が見えて欲しい。
その程度の期待しかしていなかったのだが、その予想外の効果にレオンの目は釘付けになる。
松明がツタのカーペットの上に落下するなり、その炎があっという間に燃え広がった。
一瞬で通路内が昼間のようになる。
場違いにも、レオンは綺麗だと思ってしまった。
それくらい綺麗に燃えたのである。地面のツタに燃え移った火は、あっという間に壁と天井のツタに広がり、通路の奥まで走るように赤く染めていった。奥には予想通り、モンスターの本体らしきものがいたが、それも炎の中に包まれて確認出来ない。悲鳴を上げるでもなく、また身悶えるわけでもなく、ただのキャンプファイアが燃えているような、そんな光景だった。
そこで、レオンは気付いた。
燃え上がるモンスター。そのすぐ後方に下り階段らしき通路が見える。実際には階段は見えないのだが、通路が地下の方へと傾斜しているのが分かる。
もしかしたら、今日2階層目まで進めるかもしれない。
期待が膨らんだが、それも一瞬だけだった。
モンスターは倒せば消えてしまう。だから、燃え上がっていたとしても、消えた瞬間にまた暗闇になる。そう考えていたのだが、実際にはそうならなかった。
最初に気付いたのは、その違和感だった。
炎はもう消えている。それなのに、この通路内には薄明かりが灯っているように、うっすらと奥まで見渡す事が出来るのだ。
さらに、それだけではない。
ツタはほぼ消滅しているのに、奥に鎮座している本体が何故か消えないのである。どこか花の蕾のようにも見える黒い人間大の楕円形。
その正体が分かったのは、その直後だった。
漏れてくる閃光。
花が開花しているというより、むしろ、卵が羽化している感じである。黒い殻が剥がれるようにして落ちていき、中から溢れてくるオレンジ混じりの白色光が通路内を明るく照らしていく。
炎とは違うが、それもやはり綺麗だった。
殻の中から出現したのは、オレンジに光り輝く蝶。
だが、明らかに普通の蝶ではない。そもそも、普通の生物ではない。光が集まって出来たような、そんなぼやけた輪郭をしている。
モンスターと考えるのが自然だった。
蝶という事は、もしかしたらさっきのはサナギだったのだろうか。いずれにしても、そこから漏れ出た光が薄明かりとなって通路を照らしていたのである。
それどころか、炎の力で羽化したようにすら思える。もしかしたら、ツタの方はその為の囮とまではいかないにしても、ある種の共生関係だったのだろうか。火を使わなければツタが、火を使えばこの蝶が戦うという関係。
とにかく、こいつを倒さないと下へは進めない。
攻撃には距離があり過ぎる。投擲は届かないだろうし、弓は届いても、恐らく命中しない。
まず距離を詰めるしかない。
だが、そこでモンスターが先に動いた。
蝶の輪郭は動かない。しかし、その少し手前で赤い光が小さく軌跡を描いている。
それは、レオンが人生で3度目に見る、魔法の発動兆候だった。
術者の前で光の文字が描かれる。それがあらゆる魔法に共通して見られる、発動前の兆候らしい。全く意味のない文字ではなく、ジーニアスが見れば、およそどんな魔法なのか分かるという話だ。だが、アスリートのレオンには分かるわけがない。
とりあえず魔法がくる。
距離を詰めようとしていたレオンは、それを思い留まって身構えた。
どんな魔法なのかは分からない。前と同じ目眩ましだったとしたら、今から目を逸らしておくべきに違いない。だが、前回とは文字の色も形も違う。
光の軌跡が止まった。
その次の瞬間、炎で出来た矢のようなものが、モンスターの目前から一直線に、レオンめがけて飛来してくる。
本物の矢よりは遅い。
それが判断出来るくらいの余裕はあった。
頭めがけてきたそれを、身体を右に逸らして避ける。右手が床に触れた。
炎の矢はその熱だけを残して、先程までレオンがいた跡を貫いていく。
わずかに遅れて、遙か後方で音が響く。
落雷でもあったのかと思える程の爆音だった。
その音に一瞬静止したレオンは、首だけ捻って後方を確認する。
入ってきた金属製の扉がない。
先程駆け抜けていった炎の矢は、その重厚な扉を吹き飛ばす程の威力を持っていた。
何かを呟きたくなったレオンだが、そんな場合ではない。
モンスターの方へ視線を戻すと、案の定、既に魔法の発動兆候が始まっていた。
先程と同じ赤い光。文字も同じに見える。
どうするか迷った。出来るなら逃げた方がいいと思ったが、向こうの扉までは相当な距離がある。そこにたどり着くまでに、何度さっきの魔法を避けなければならないだろうか。
魔法を妨害する方法を、以前ニコルと話した事があった。火薬とか閃光弾とかいろいろあったものの、結局一番汎用性があるのは、術者を攻撃する事。傷を負わせればもちろんだが、その精神集中を乱すだけでも、魔法を失敗させられる可能性がある。
2発目の炎の矢が放たれる。
レオンはそれを左へ駆け出しながら避けて、そのままモンスターの方へ走り出した。そのまま右手にダガーを握る。左手に持っていた魔法の松明は、とっくに投げ捨てた。
蝶に迷いはない。既に3発目を準備し始めていた。
駆け寄りつつその赤い文字を見る。今までの発動時間から考えると、投擲の射程に収めるまでに、もう一度避ける必要がある。
だが、距離が近くなっている。近ければ近い程、当然避けるのも難しい。
もっと進もうと思えば進めるが、レオンはモンスターの40メートル程手前で止まった。避ける為には、これくらい距離が欲しい。次を避けた後なら、なんとか投擲の射程に収める余裕があるはずだ。
その一呼吸後、3発目の炎の矢が飛来した。
さすがに、その姿は一瞬しか見えない。
だが、元から見て避けようとは思っていなかった。1発目も2発目も、矢はレオンがいた位置を正確に射抜いている。だがそれは、放たれる直前の位置なのだ。逆に言えば、発射するタイミングで横へ動きさえすれば、見えなくても避けられる。
今回も、なんとかタイミングを合わせる事が出来た。
脇をすれ違っていく熱の固まり。
それを確認して、レオンは駆け出す。
蝶型モンスターは一度も動いていない。やはり魔法の準備を始めているが、今度は間に合うはずだった。
距離は30メートル程。
もう少し。そう思った時、赤い光の軌跡が止まった。
驚いた。魔法が完成したのだと理解はしたが、いくらなんでも早過ぎる。まだ数秒しか経っていない。
だが、レオンはすぐ自分の勘違いに気付かされた。蝶は魔法の準備をしていたが、同じ魔法とは限らない。
赤い文字が一瞬輝いて消えると同時に、レオンの前方に火球が出現する。人の頭蓋骨くらいの大きさだと思ったのは、きっと少し前にそれを見ていたからだろう。
すぐに止まろうとしたが、走っているわけだから、急には止まれない。
火球が力を溜めるように、一瞬収縮した。
悪い前触れとしか思えない。咄嗟に左手を前方にかざす。盾は小さいが、ないよりはましだ。
その直後。
火球から放射状に放たれた熱波によって、レオンの身体は後方に吹き飛ばされた。
足が床から離れる。
宙を舞った後、床に叩きつけられたレオンは、その上を散々転がりまわってからようやく止まった。全身の痛みと焦げた匂いにせき込みながら、床に手を突いて、必死にモンスターの姿を探す。
その姿を確認したレオンは、正直嫌になった。
かなり飛ばされたらしい。距離がだいぶ開いてしまっている。また最初の位置に戻っていると言ってもよかった。まるでやり直しをさせられているような気さえする。
そして、さらに追い打ちをかけるのは、モンスターがもう魔法の準備を始めている事だった。
休む暇もない。
体勢を起こしながらレオンは考えた。これは勝てるのだろうか。敵はまさに遠近両用。どちらの魔法も威力十分。しかも、場所が悪過ぎる。身を隠すような障害物がないし、逃げようにも出口が遠い。もしかしたら、この状況を狙った設計なのだろうか。
迷っている内に、炎の矢が発射される。なんとか避けたものの、よろめいてしまって、壁に手を着いた。
後方で、炎が着弾する音が響く。
モンスターは再び魔法準備。疲労している様子はないし、そもそも疲労という概念があるとも思えない。
それを見て、レオンは決心した。
捨て身で行くしかない。長引けば長引く程、こちらが不利なのだ。
決心すれば、身体は勝手に動いた。
もう一度距離を詰めるべく走り出す。
数秒後に放たれた炎の矢をやり過ごし、再び40メートル程まで距離を縮めた。
そこで立ち止まる。
再び発射された炎の矢を、タイミングを合わせて避ける。
だが、レオンはそこで距離を詰めなかった。逆に、そのままの向きで10歩程後退する。
モンスターはすぐに火球を発生させた。だが、その位置はレオンのかなり前方、前にレオンを吹き飛ばした時の位置とほぼ同じである。
すぐに収縮し、起爆する。
体勢を低くしてそれを防ぐレオン。この位置でもかなりの風圧を感じるが、この姿勢なら耐えられない程ではない。熱いのは熱いが、我慢するしかない。
モンスターは再び魔法準備を始めた。
レオンはその場から動かずに、発動されるのを待った。だが、心の中で5数えたところで、自分の予想が正しかった事を半ば確信した。
遠距離の炎の矢。近距離の火球。どちらを使うのかを判断する基準は、こちらとの距離以外にない。そして、その距離をいつ計測しているのかといえば、魔法の準備を始めた時に違いない。相手との距離を見て使う魔法を決めているのだから、当然だ。
だから、先程の位置だと火球を使ってきたが、少し離れたこの位置だと炎の矢を準備している
のだ。まだ実際に放たれたわけではないが、準備時間の長さから言っても間違いない。
近距離用の火球は近くでしか使えない代わりに、準備時間が短い。だから、とてもじゃないが近づく余裕がない。だが、炎の矢の方はかなりの発射間隔がある。この魔法の準備中ならば隙をつけるはずだ。
つまり、炎の矢と火球の境界に見当をつけて、ギリギリの位置から距離を詰める。だいたい50メートルくらいではないかと思っていたのだが、それは正しかったようだ。だが、そこから距離を詰めて投擲距離まで持ち込めるかというと、かなりシビアだろう。
それでもやるしかない。成功しなければ、奥に進めないどころか、たぶん無事に帰れない。
そこで炎の矢が発射された。
しっかり避けつつも、レオンの目はモンスターから離れない。魔法を準備が始まるのを待ってから飛び出さないと意味がない。
蝶の前方に赤い点が発生する。
ここだ。心の中でそう叫んだのと、身体が走り出したのはほぼ同時だった。
赤い光が、もはや見慣れた軌跡を描いている。
この数秒が勝負。
両手にダガーを握る。最初に握っていた物は、吹き飛ばされた時にどこかへ行ってしまった。だから、あと2投しか出来ない。どうせこれが最後のチャンスなのだから、両方持っておいて損はない。
先程の40メートルの位置を越える。
意外に余裕があるような気がした。攻撃を避けるとき、思ったよりも体勢を崩されなかった。走り出しがよかったのだろう。
だが、ここでレオンにとって予想外の事が起きる。
文字を描いていた赤い光が、不意に消失したのだ。
その直後、新しい点が再び出現した。
自分でも驚くくらい、瞬時に理解出来た。つまり、炎の矢をキャンセルして、別の魔法を準備し始めた。恐らく火球に違いない。魔法知識のないレオンは、そんな事が出来るとは知らなかったが、予想出来なかったとは言えない。
火球の為の文字を描く光を見ながらも、レオンは足を止めなかった。
今から後退しても間に合わない。それに、今回は前回とは違う。相手の魔法準備は同じ地点からだが、こちらはもっと手前から走り出している。助走分だけ勢いがあるのだ。
30メートル地点でも、相手の魔法は完成しなかった。
ここで投げれば当たるかもしれない。だが、確実を期す為にも、もう少し近付きたい。
20メートルになろうというところで、火球が出現した。
驚いた。
まさに目の前だった。熱が直に伝わってくる程の距離。
レオンは滑り込むようにしながら、その下を通り抜ける。
頭上の火球が、一度収縮する。
ダガーを持った両手で、頭を庇った。あまりの近さに、こんな防御をしても無意味に違いないと思ったが、身体が勝手に動いた。
その直後、爆風の風圧によって、身体が床を飛ぶ。
壁や床が分からなくなる程揉みくちゃにされながらも、、レオンが考えていたのは唯一つだけだった。
武器を離してはいけない。
風が止んでから、周囲を見渡す。
気のせいか視界がおかしかった。ぼんやりとしたはっきりしない視界。
それでも、モンスターの位置は分かった。
真っ暗の視界の中にも、オレンジに光る場所がある。確か蝶の姿をしていたはずだが、今はよく分からない。
だが、場所さえ分かればいい。
倒れたままダガーを投擲した。身体を起こす余裕がない事を、直感的に理解していた。
実際のところ、本当に投げられたのかは自分でもよく分からなかった。
オレンジの光が消失した。
漆黒。
静寂。
倒したのか、それとも自分が葬られたのか、その直後はよく分からなかった。
それでも、音がした。
金属音。ダガーが床に落ちた音に聞こえた。
もちろん、それがモンスターを倒した証明にはならない。だけど、投げられたのはどうやら確からしい。その事実に、何故かたまらなく安堵出来た。
その感情を笑みに乗せたまま、レオンの意識は身体から離れていった。