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夢色彩のカーバンクル  作者: 倉元裕紀
第2章 ビギナーズ・アイ
17/114

隙間風の摂理



 狩人と一言で言っても、その生活は様々であるらしい。

 レオンの父親も狩人だった。少なくとも、村の人は皆そう認識していたし、自分でもそう主張していた。だから、それを幼い頃から見てきたレオンも、きっとそうなんだと思っていた。

 だけど、最近になって、その認識が揺らぎつつある。

 隣で弓を引いている男。

 あまり逞しい身体とは言えない。さらに、彼の着ている服が、もう少しで布切れと化すその一歩手前といった有様なので、どうしても見窄らしく見える。長めのダークブラウンの髪も、手入れ云々以前の問題で、恐らく無造作に伸ばしているだけに違いない。

 それでも、やはりただ者ではない。一見細身に見える身体だが、若木のようにしなやかで、内には相当な力が秘められている。弓をいっぱいに引いている今も、彼の身体は微動だにしない。まるで彫刻かの如く、遠くの一点を見つめたまま静止している。通常なら、弦を引く手には大きな負荷がかかるはずだが、彼の右手はまるで楽器を弾いているかのように静かに佇んでいる。

 その瞳は、右目だけが新芽のような緑色。

 一瞬その目を細めるや否や、芸術作品のように美しく留まっていた彼の時が弾けた。

 驚く程、音が小さい。

 それなのに、消えてしまったと思える程の、目にも留まらぬ矢の速度。

 林の方に飛んでいったはずだが、レオンの目ではその軌跡を追う事は出来なかった。

 わずかに遅れて、林から鳥が数羽飛び立っていくのが見える。

 ここからその地点まで400メートル。もしかしたら500メートルはあるかもしれない。

 何度見ても凄い。名人というか、もう超人だと思うしかない。

 その凄腕の射手の方に視線を戻すと、彼は流麗な動きで弓を下ろしていた。これも何度も見ているが、まるでその動きだけ練習していたかのように、全く同じ所作である。同じ時を繰り返しているのかと疑ってしまう程だった。

 彼は首を少しだけ捻った。

 緑の右目だけが、こちらを見据える。

「分かったか?」

 これも何度目かの質問だった。いい加減申し訳なくなるから、出来るなら分かったと言いたいところだった。

 しかし、分からないものは仕方ない。

「・・・いえ、さっぱり。というか、今思ったんですけど」

 控えめな声で前置きすると、男は少しだけ頷いたように見える。

「林に向けて矢を射ってますけど、大丈夫なんでしょうか。動物に当たるかもしれないし、誰かいないとも限りませんし」

 最初はそもそも届くと思っていなかった。届くなんてあり得ない距離なのだ。

 彼の返事は簡潔である。

「岩に当てている。問題ない」

「・・・見えるんですか?ここから林の中が」

「ああ」

 どうやら本物の超人だったらしい。視力が尋常ではない。

 そこで、明るい少女の声が、目の前の男を挟んだ向こう側から聞こえてきた。

「レオンもさ、いい加減突っ込んでもいいと思うな。見ただけで分かるかーってはっきり言わないと、ホレスは平気でこれを一日中続けると思うよ」

 男の陰になっているから姿は見えないが、もちろん誰の声かは分かる。

 それはそうと、言い方はともかく、彼女の言う事も一理あった。

「・・・すみません。やっぱり見ただけだと無理みたいです」

 怖ず怖ずと告げると、ホレスは視線を遠くにやる。

「そうか・・・悪いな。人に教えた経験がほとんどないから、あまり教え上手じゃない」

「いえいえ!僕の方こそ、なんていうか、飲み込みが悪くて・・・」

 恐縮するレオンに、ベティが笑いながら言った。

「そこでもっと押さないと。下手でもいいから努力しろーとか言ってみたら?」

「・・・そこまで図々しくはなれないです」

「ホレスと会話しようと思ったら、とにかく押さないとダメだよー。レオンもホレスも全然押しがないから、言葉は交わしてるけど、本当の意味で会話になってないし。全然摩擦が起きてないんだよねー。もっとお互いの事を分かり合う為に、本音で会話しないと」

 レオンとホレスは、顔を見合わせた。

 しばらくしてから2人はベティの方を見て、同時に言葉を発する。

「本音で話してますけど」

「本音でしか話せない」

 男性陣の視線を浴びながら、彼女は苦笑いした。

「じゃあ、嘘でも・・・いや、とにかく、ああ、もういいかー。私が通訳するから、とにかく頑張ってー」

 投げやりに言いながら、彼女は寝心地良さそうな草原に背を預ける。

 訳が分からない男2人は、また視線を交わした。さっぱり分からないという事を、互いに確かめ合う程度の意味しかなかった。

 駆け抜けていく春風が緊張を解す。

「・・・そろそろ休憩しよう」

 ホレスがそう口にすると、ベティが瞬時に跳ね起きる。彼女のポニーテールが、本当の馬の尻尾みたいに跳ね上がった。

「昼飯だ!」

「昼飯はやめろ」

「お昼ご飯だ!」

 一瞬の会話。決まり文句みたいなやりとりに、レオンは呆気にとられる。案外、本当に昼食前の決まり文句なのかもしれない。

 それはそうとして、そこで昼食となった。

 3人がいるのは、ユースアイ南西部の平原。のどかな草原が広がっていて、南北両側に、それぞれ違った高さの山々を望む事が出来る風光明媚な場所である。さらに西には、先ほどホレスが矢を放った林があり、そこから時折鳥や小動物が顔を見せる。ピクニックにはもってこいの場所である。

 汲んでおいた水で手を洗ってから、大きなバスケットを囲うようにして座った。バスケットの大きさは尋常ではなく、旅行鞄の代わりに使えそうな程である。

 ベティがにこにこしながら、その蓋を開ける。今日の彼女は、淡いオレンジのワンピースに白いエプロン。ある意味この景色に一番似合っている。

「今日はサンドイッチ!私の手作りだよー」

 その言葉通り、中にはサンドイッチがぎっしり詰まっていた。意外にも野菜が多いようで、見た目も鮮やかだ。

「凄いですね・・・」

「美味しそうでしょー?」

「え?あ、はい」

 レオンの呟きは、出来映えよりもむしろ、その量に対するものだった。これはいったい何人分だろうか。3人どころか、6人いても間に合いそうなくらいある。これだけ作ろうとしたのもさすがだが、実際に作るのは相当大変だったはずだ。 

 もちろん、美味しそうなのも間違いない。

 ふと気付くと、ホレスが右手を顔と胸の前で忙しなく動かしている。何かの作法というか、神様に祈りを捧げているようだ。

 気になってそれを見つめていたレオンだったが、その動きもあっという間に終わった。

「じゃあ、いただきまーす」

「いただきます」

 少女の声に続いて、男2人の声が平原に伝わっていく。

 一口食べてみて、レオンは驚いた。

 ベティお手製のサンドイッチは、いつもレオンが酒場で食べているこってりした料理とは違って、かなりあっさりした味だったのである。

 思わず、食べかけのサンドイッチを見つめる。

「何か、変な物入ってた?」

 その声がかなり近くから聞こえたので、レオンは慌てた。

 いつの間にか、ベティの顔がすぐ近くにある。彼女はレオンの顔と、レオンの左手にある食べかけのサンドイッチを交互に見つめていた。

「いえ、そういうわけじゃ・・・」

「そう?何か慌ててない?」

「慌ててるのは・・・というか、ベティさん、わざとやってませんか?」

 必要以上にお互いの距離が近いような気がした。

 案の定、その言葉を聞いたベティの表情に笑みが浮かぶ。予想通り悪戯だったようだ。

「レオンも少しは耐性出来たねー。私の努力の賜物だよね」

 彼女は可笑しそうに言う。確かに彼女のお陰はお陰かもしれないが、きっと努力とは少し違うものだろう。

「・・・喜んでいいんですかね」

「ダメダメ。もっと精進しないと」

「・・・つまり、まだ僕で遊ぶ気満々ですか」

「うわー・・・レオン、鋭くなったね。じゃあ、ご褒美に、サンドイッチ食べさせてあげる」

 彼女はこちらを見て微笑んだまま、無造作にバスケットの中に左手を突っ込む。

 咄嗟に右手を出して阻止しようとしたレオンだったが、その前に彼女の右手がレオンの胸ぐらを掴んだ。

 失敗したと思ったが、もう遅かった。

 身体にかかる浮力。

 見事なくらい鮮やかに、右腕一本で押し倒される。

 柔らかい草原のクッション。

 お陰でそれほど痛くはなかったレオンだったが、もちろんいい状況ではない。

 彼女の左手が飛んでくる前に、両手を顔の横に挙げる。左手には食べかけのサンドイッチ。

 だけど、彼女は止まらなかった。

 次の瞬間には、レオンの口の中がサンドイッチで埋め尽くされていた。量が多い。胸ぐらを掴まれたままだったので、呼吸するのが辛い。

 サンドイッチをねじ込んだ左手を戻しながら、ベティは少しだけ首を傾げた。

「こっちはまだまだだねー。位置から考えても、私の左手に間に合うわけないんだから、せめて右手に注意しないとダメだよ。というか、逆に私を押し倒すくらいじゃないと。そうしないと、もしバスケットの中に武器が仕込んであったら、仮に右手に対処出来たとしても、その後、武器を持った左手に襲われるんだから」

 その言葉は聞こえていたものの、レオンはサンドイッチを飲み下すのに精一杯だった。

 返事がないのにも構わず、ベティの考察は続く。

「最後の左手には間に合ってたけど、あれだって、もう押し倒された後のわけだから、あの体勢で攻撃を防御するのは難しいでしょ?やっぱりね、戦いは先手必勝。今ので言えば、私の右手が届いた時点で、というか、レオンが私の左手に気を取られた時点で、もう勝負は決まってたんだよ。まず冷静に私の右手を弾く事。出来れば逆にこちらを押し倒す事。それを一瞬で判断して実行しないと」

 ようやく、レオンはサンドイッチを飲み込んだ。

「・・・せめて、左手を掴んでおくんでした」

 最後にサンドイッチをねじ込んできた手の事である。

 普段から彼女のこの手の奇襲はあるのだが、女性を相手に本気で戦えないと訴えたところ、両手を顔の横に見せて降参の意志を伝えれば、そこで戦闘終了というルールが定められた。

 だが、今回はそのルールが破られた事になる。レオンの言葉は、その事に対する不満を込めたものだった。

 ベティは口元を少し緩める。

「サンドイッチを食べさせてあげるって言ったでしょ?最後のはただのご褒美。どっちにしたって、怪我するわけじゃないんだし」

 怪我はしないかもしれないが、危うく窒息しそうにはなった。

 レオンは小さく息を吐く。よくある事だからとはいえ、いい加減慣れてきた自分が怖い。

「さってと・・・どうしよっかなー」

 やたら楽しそうなベティの声が上から響く。

 レオンは背筋が冷たくなった。いつもの彼女なら、先程のような感想を述べて終わりなのだ。それなのに、今日は身体を退ける気配がない。それどころか、まだ何かを企んでいるような表情だった。

 身の危険を感じた。

 すぐに状況の把握に努める。地面に押し倒された状態だが、彼女の右手が胸ぐらを、右足が腹の辺りを押さえているだけだ。完全に組み敷かれているというわけではない。自分の両手は自由だし、体重もこちらの方があるだろう。しかし、彼女は腕が立つし、それに何より、下手に暴れると、彼女が怪我をしないか心配だった。

 交渉しよう。レオンは密かにそう決心した。

「あの・・・ベティさん?もう退いて貰ってもいいですよ」

 ベティは笑顔になった。だけど、何かを覆い隠しているのがみえみえの笑顔だった。完全には隠せない程、隠そうとしている物が強大なのか。

「私が勝ったわけだし、レオンをどうしようと、私の自由でしょ?」

 冗談だとしても、彼女の今の表情を見れば、全然笑えない。

「いえ、そんなルールはないと思いますけど・・・」

「勝負の世界では常識だと思うなー」

「常識って・・・」

「ここからレオンが逆転したら、私を自由にしていいって事になるわけだし。だったら、公平な条件だと思わない?」

 あまり思えなかったレオンだが、口に出すとまずいような気がしたので、無理矢理別の話題に移った。

「とりあえず、昼食をいただきませんか?ほら、せっかくベティさんが作ってくれたわけですから」

 その瞬間、胸ぐらを掴んでいるベティの右手に力がこもったような気がした。咄嗟にレオンの身体が緊張したが、幸いと言うべきか、攻撃はなかった。

 草原の爽やかさがかき消される程、重苦しい沈黙。

 何故こんな事になったのかと思っていると、変化が突然訪れた。

 ベティが急に笑みを引っ込めたのだ。

 レオンは目を疑った。

 無表情。いや、明らかに落ち込んでいる。

 いつも明るい彼女がこんな表情を見せたのは、もちろん初めてだった。

「・・・美味しくないなら、無理して食べなくてもいいよ」

 トーンの低い声に、今度は耳を疑った。

「はい?」

 びっくりの連続で、こんな間の抜けた返事を返すのがやっとだった。

 状況がさっぱり分からない。

「サンドイッチ。どこが口に合わなかった?」

 また訳の分からない質問だった。

 だけど、いつになく深刻な彼女の顔と声だった。もしかしたら、これが泣きそうな顔なのかもしれないと、一瞬だけ思った。

「えっと・・・ちょっと待って下さい」

 そう断ってから、レオンは左手に残っていたサンドイッチを口に放り込んだ。倒れたままだったが、それほどの量ではないので、喉に詰まる事はない。一瞬、ベティの瞳が大きくなったような気がしたが、それには構わず、とにかく口の中に感覚を集中した。

 野菜の食感も残っているし、パンも固くない。味は最初感じたように素朴だが、少し胡椒が利いているようだ。だけど、野菜やハムの味を邪魔する程ではない。

 凄く無難にまとまっている。感動するような味ではないかもしれないが、そもそもサンドイッチで人を感動させるのは難しいのではないか。逆に、どこか欠点を見つけろと言われても見あたらないから、そういう意味では出来がいいと言える。

 それに、ベティが作ってくれた料理なのだから、普通のサンドイッチよりも美味しく感じる。例え有名な料理人だとしても、赤の他人が作った物と、知り合いが作ってくれた物では、やはり味わいが違う。

 結局、レオンの口から出たのは次の一言だった。

「・・・これ、口に合わない人がいるんでしょうか?」

 もし欠点を指摘出来る人がいるなら、それはきっと、サンドイッチ自体に何か恨みがある人ではないだろうか。偏った目で粗探しでもしないと、欠点と思えるような箇所はない。そうとしか思えなかった。

 だけど、ベティはその答えを聞くなり、すっと目を細めた。

 レオンの顔から血の気が引く。

「・・・今から正直に言えば、命だけは保証してあげるけど?」

 彼女の目は完全に据わっている。この状況で笑える人がいたら、きっとその人は、前世が相当な猛者だったか、或いは、今現在相当な猛者であるか、そのいずれかだろう。

 両手を顔の横に持ってくる。今の彼女がこのルールを覚えているかは分からないが。

「しょ、正直に言ってますけど・・・」

「へえ・・・未練はないって事でいいの?」

 ベティが握った左手を持ち上げる。

「な、何で信じて貰えないんでしょうか・・・」

 声が尻すぼみに小さくなる。

 彼女は微笑んだ。だが、目は笑っていなかった。

「レオン。冥土の土産に教えておいてあげる。女の子はね、手料理を作ったら、絶対最初の一口は見逃さない。見てないふりをしていても、こっそり見てる。その時の反応の為に作っていると言っても過言じゃないんだから」 

 最初の一口。自分がどんな反応をしたか、必死に思い出そうとする。

 それ自体は難しくなかった。

 だけど、何故ベティが不満なのか、それがよく分からない。

「さあ、どう?正直に言う気になった?」

 結論が出るよりも早い、最終宣告。

 もうなりふり構っていられなかった。

「わ、分かりました!正直に言います!」

 彼女は頷いた。拳は握ったままだったが。

 なんだか不条理な気もしたが、とにかく誠意を尽くして話すしかない。

「一口食べてみて、とにかく最初に思ったのは、意外にヘルシーなんだなって事です。ほら、いつも酒場で食べてる料理って、こってりした物が多いじゃないですか。だから、新鮮だったというか、どちらかというと、村ではこういう物ばかり食べてたので、懐かしかったというか・・・あと、ベティさんが作ったって聞いてたので、味付けが素朴だったのが意外だったというか、とにかく、全然、その、美味しくないとか、口に合わなかったとかじゃなくて、ただ、予想と違ったから驚いただけなんです!味とかそういう意味では、むしろ美味しかったですよ!」

 最後を強調すべく必死にアピールした。

 だがそこで、ようやく助けが来た。

「ベティ」

 ホレスの一声。いつもの彼の声だった。

 それなのに、その声には驚く程効果があった。

 一瞬ベティの表情が乱れたかと思うと、彼女は慌てたようにレオンの上から飛び退いた。

 解放された事に安堵するよりも、彼女の反応が気になって、じっとそちらを見つめてしまう。

 彼女は気まずそうに視線を逸らして、元の位置に座り直した。俯いたままで、こちらの顔を見ようともしない。心なしか、少し元気がないようにも見える。

 いつもの彼女とは正反対と言っても良かった。

 呆気にとられたままのレオンの耳に、ホレスの声が届く。 

「早く食べろ。昼食が夕食になりかねない」

「え、あ、はい・・・」

 その言葉に、レオンは反射的に身体を起こして座り直す。

 誰も、何も言わない。

 ベティとホレスを交互に見るのだが、ベティは俯いたままだし、ホレスは林の方を見ているだけだった。

 さすがに気になったので、レオンは怖ず怖ずと尋ねた。

「・・・ベティさん、大丈夫ですか?」

 彼女がこちらを向く。まるで人形みたいな表情。さすがに少し気圧された。 

「・・・ごめんね」

 やっと届くようなか細い声だった。本当に彼女の声だろうかと疑ってしまった程だ。

 次に口を開いた彼女の声は、いくらか声量が回復していた。だが、視線がさまよっている。いつもの彼女とはまるで別人だった。

「ごめん。私、ちょっと、その・・・ああいうのはだめなんだ。その、レオンが嘘を吐いてるって思ったから」

「え?・・・あ、いえ、分かって貰えればいいんですけど」

 よく分からないものの、ベティのあまりの深刻さにそう返事したレオンだったが、彼女は首を横に振った。

 そこでホレスが唐突に口を挟む。

「俺はバターで死にかけた事がある」

 端的過ぎて分かりにくい説明だった。普通に考えても、バターと死が結びつく事なんてあるだろうか。

 その後をベティが引き継いだ。

「昔からね、今日みたいに、ホレスに差し入れするのはよくある事なんだ。ホレスは昔から、何でも美味しい美味しいって食べてくれるから、つい嬉しくて、いろいろ作って持って行ってたんだよ。だけど・・・だから、気づかなかったんだ」

 それっきり黙ってしまう。

 だけど今度ははっきり分かった。無表情が崩れそうになっている。

 今度こそ、本当に彼女は泣きそうだった。 

 レオンは何も言えなかった。いつも明るい彼女だし、以前お祖父さんの話を聞いた時も、彼女はここまでの表情をしなかった。

 余程辛い事なのだろう。

 重い沈黙を破ったのはホレスだった。

「どうやら、俺は牛乳とかバターとか、そういう物が食べられない身体らしい。ただそれだけの事だ。ベティが悪いわけじゃない。俺が自分の身体の事に気付かなかった。自分の身体に異常があったのに、それを気にも留めなかった。自業自得だ」

 まだ話の細部は掴めないが、あまり聞きたい話とも思えない。ベティにこんな表情をさせてまで聞きたい話はない。

「いえ、もういいです。僕は全然・・・もう何も気にしてませんし、それに、嘘を吐いたりもしません。これでいいですよね?」

 その言葉を否定したのは、他ならぬベティだった。

「ううん・・・やっぱり、聞いておいた方がいいと思う」

 彼女は真っ直ぐにこちらを見つめた。いつになく真剣な表情だった。

 それを受け止めるレオンも、背筋が自然と伸びる。

「私も詳しくはないけどね、食べ物が原因で人が死ぬ事があるんだ。イザベラさんが調べてくれたんだけど、最初は身体が痒くなるとか、少し気持ち悪くなるとか、そんな程度でも、次に食べたら呼吸が止まったりする事もあるんだって。ホレスがそうなんだよ。最初は少し発疹が出ただけだった。だけど、その次は・・・」

 ベティは言葉を濁したが、それが何よりの説明になっている。

 つまり、彼女が持っていた料理で、ホレスが死にかけてしまった。彼女の料理に使ったバターが、彼の命を奪うところだったのだ。

「最初の時も、その時も、ホレスは私の料理を、美味しいって言ってくれたんだ」 

「美味しかったからな」

 ホレスが即答した。彼にしては早い回答だった。

 彼の方を少しだけ見て、ベティは視線をこちらに戻した。

「だけど、正直に言ってくれたら、もしかしたら気付けたんじゃないかって、今でも思うんだ。だから、レオンも、料理くらいとか思わないで、何でも正直に言ってね。軽い嘘だって思わないで欲しい。なんていうか、レオンとホレスは似てるから、2人とも優しいから、だから余計に心配なんだよ。私に気を遣ったせいで、突然いなくなるんじゃないかって・・・ごめん。縁起でもないね。だけど、そんなつまらない嘘は吐かないで欲しい」

 この表情を見ているだけでも、その一件が彼女の心にどれだけの影を落としているのかが分かる。モンスターに襲われた時よりも、祖父が亡くなった時よりも、彼女には辛い事だった。それは、彼女自身や祖父の命が、ホレスの命よりも軽いという事では決してない。ただ、自分のせいで身近な人が消えてしまう。その恐怖が計り知れない程大きいものだったという事なのだ。

 彼女の過剰とも言える行動は、自分が嘘を吐いたと思って、どうしても見過ごせなかったのだろう。もしかしたら怒っていたのかもしれない。

「こう言うとベティは怒るんだが」

 ホレスがそう話を切り出した。 

「俺は、あの時死にかけてよかったと思っている」

 そんな事を言ったら、さすがに怒るだろう。だが、ベティの方を見ると、彼女は少し口元を緩めて肩をすくめただけだった。どうやら、もう怒りきった後らしい。

「レオン。狩人になる条件を知っているか?」

 知らないし、考えた事もない。レオンの父親は、きっと自分で名乗っていただけだった。

 首を横に振ってみせると、ホレスはリアクションせずに話を続けた。

「自然の一部になる事だ。人間は肉体が滅んでも、来世でまた新しい肉体として生まれ変わる。自然も同じだ。一日を繰り返し、季節を繰り返す。土から植物が生まれ、それを動物が食べ、動物が死ぬと土に還る。その輪の中に入るのが狩人だ。自然の営みを見て、自然を理解して、その中で暮らす。そして、その一部になる。俺もずっとそうして生きてきた。だが、レオン・・・そのうちこう思うようになるんだ。俺が生きていても死んでいても、結局同じ事だとな」

 生きていても死んでいても同じ。レオンには難しい言葉だった。

「俺がこうして生きていても、或いは死んで土になっていても、自然にとっては同じ事だ。俺はその一部でしかない。ただ、土なのかそれ以外なのか、せいぜい場所が違うだけだ。一日に例えるなら、昼なのか夜なのか、太陽がどこにいるのか、そんな程度の意味だ。自然から見れば、俺が生きているか否かというのは、その程度の違いしかない。俺はずっとそう信じていたし、それでいいと思っていた。俺の命に、俺が生きている事に価値はない。この身体にも、全く未練はない。だから、あの時、最初に身体に発疹があった時も、何とも思わなかった。何かおかしい、病気かもしれないとは思った。だが、それだけだ。放っておけば死ぬかもしれないと、ほんの少しだが考えた。だが、重要な事とは思えなかった。どうせ同じ事なんだからな。だが・・・」

 彼の右目だけが、彼の大事な家族を一瞬捉えた。

「あの日、俺は人生で一番苦しい時を過ごした。息をするのが難しい程だ。これで死ぬかもしれないと思った。それでいいとも思った。だが、声が聞こえた。ベティが俺の手を握りながら、ひたすら俺の名前を呼ぶのが聞こえた。後で聞いた話だが、丸一日以上、ずっとだ。ベティは泣いていたな。そんな声を聞いたのは初めてだった。その声を聞きながら、俺は考えた。何故彼女は泣いているのか。俺が生きていても死んでいても、同じ事だ。そもそも、生きている者は皆死ぬ運命だ。また来世になれば生まれ変わる。だというのに、彼女は何を泣いているのか。分からなかった。だが、レオン。俺は考えているうちに気付いた。もしかしたら、自然は輪を描いているわけではないのかもしれないとな」

 自然が輪を描いているわけではない。

 ホレスは視線を遠くにやる。

「何かはっきりとした答えを得たわけじゃない。ただ漠然と、もしかしたら、俺は間違っていたのではないかと考えただけだ。自然の一部になった気でいたが、よく考えれば、自然そのものとは違う。俺が自然の一部だと思っているにも関わらず、その中心からは自分を外している。それが矛盾のような気がした。何か俺は見落としている。そして、もしそうなら、俺は何をしているんだと思った。ベティを泣かせたまま、どこへ行く気なのか。不思議なもので、そう思った次の瞬間には、俺の意識が戻っていた。その時、確かに俺は確信した。輪の構造よりも、もっと世界を忠実に示す構造があると。その一端に触れたから、俺は帰ってきた。その一端が、彼女を泣かせた。そしてレオン、弓を引く時もそうだ」

「え・・・弓ですか?」

 ベティの声がそこに割り込んだ。もう、いつもの彼女の声だった。

「その前と後だと、ホレスの弓の腕、全然違うんだよ。前は名人くらいだったけど、今は超人くらいあるし」

 どちらにしても、レオンにしたら凄過ぎる腕前に違いない。

 しかしそこで、連想するものがあった。短い時間で、急に腕前が上がる。こういう話を以前聞いた事がある。

 こちらの表情から読みとったのか、ホレスがその疑念に答える。

「いや、俺は伝説の記憶に触れたわけではない」

「違いますか?伝承者にアドバイスされた人の中には、そういう人もいるって聞きましたけど」

 最初にフレデリック邸を訪ねた時、デイジーが言っていた事だ。

「俺は伝承者にアドバイスされた事がないから、はっきり違うとは断言出来ない。だが、俺は違うと思っている。実際、俺はそういった記憶を見た覚えがない。ただ、死にかけていた時はとにかく朦朧としていたから、覚えていないだけかもしれないが」

 そんな状態だったのに難しい事を考えていられるというのは、やはりそういう生活を送ってきたからだろうか。ずっと自然の中で育ってきたのだ。よく考えてみれば、牛乳やバターが駄目だという事にその事故の時まで気付かなかったのは、それまで口にした事がなかったからではないだろうか。いったい彼はどんな生活をしていたのだろうか。

 少なくとも、レオンの父親とは違う。父は間違いなく片手間にやっていた。それが良い悪いという話ではきっとない。村は人手が少なかったから、兼業が基本なのだ。

 だが、ホレスはまさに生粋の狩人なのだろう。もしかしたら、ずっと1人で暮らしていたのかもしれない。

 ホレスはこちらを見ながら話を続ける。

「弓はただ決められた姿勢で引けばいい物ではない。いや・・・決められた姿勢を教わるというのも、恐らく悪くはない。だが、それだと精度に限界があるし、動きながら射るのは難しい。だから、レオン。弓を射る時には、弓と矢と目標だけに注意していては駄目だ。風や空気はもちろん、もっと広い意味で、空間の繋がりのようなものを意識しろ。自分の力が弓や矢にどう伝わっていくのか、そしてそれが他の物にどう伝わるのか、まずはそれを理解しろ。少なくとも、それが出来なければ狩人の弓とは言えない。直射でも曲射でもそれは同じだ。狩人にとって、それが基本でもあり、真髄でもある」

 彼の言葉を反芻してみる。空間の繋がり。力の伝わり方。それが真髄。

 これ以上分かりにくい話があるだろうか。

「・・・難しいですね」

 思わずそう漏らしてしまう程、難しい概念だった。口で言われてもさっぱり分からない。それに、仮に理解出来たとしても、実践出来る気がしなかった。

 難しい顔をしているレオンを見て、ベティが微笑みながら言った。

「とりあえず、先にお昼済ませた方がいいよ。お腹減ったら、頭も働かないし」

「・・・そうですね」

 ベティの方を向くと、彼女はもう食べ始めている。いつもの笑顔に戻っているようで、レオンは安心した。

 彼女特製のサンドイッチを頬張る。あっさりしていると思ったが、バターやマーガリンを使っていないという事だろう。だが、パサパサ感はない。何か工夫があるようだ。

「これ、全然パサパサしてないですよね。何か秘訣があるんですか?」

 彼女は水筒に口をつけてから、ゆっくりと頷いた。

「もちろん。でも、秘訣って程じゃないよね。乳製品を使わなくても、意外となんとかなるもんだよ」

「へえ・・・」

 そうは言っても、代用品を使えば、普通はそれだけ質が落ちる気がする。だが、この特製サンドイッチには全くそれが感じられない。ここまで工夫してくれるのは、やはりそれだけの愛情があるからに違いない。

「うちはお母さんが調理場に入り浸ってるから、その影響で私も料理好きなんだよね。だから、こういう試行錯誤は割と好きだし、結構得意だし。というか、私って、よく考えたら、家事はそこそこ得意だなー。うんうん。いつでも嫁に行けるねー」

 実際には、彼女はガレット酒場の一人娘なわけだから、嫁に行かれると大変かもしれない。だけど、そこに口を出す程、まだ自分は親しくないだろう。

 そんな事を考えていたレオンだったが、そこで思わぬ奇襲がやってきた。

「というわけで、よろしくね、レオン。出来る嫁を貰って、幸せ者だねー」

 結果、激しくむせた。

 ベティはその背中を叩いてくれた。顔は笑っていたが。

「そんなに喜ばなくてもいいのにー」

「・・・喜んでません。驚いただけです」

「正直だなー、レオンは。うん、でも、今回はそれで許してあげようかな」

 彼女は笑顔でそう言った。許すも何もないのだが、嘘を吐かないで欲しいと言った手前、正直に言ったレオンに敬意を表してくれたのだろうか。

 小さく息を吐いてから、またサンドイッチに手を伸ばしたレオンに、思いついたようにベティが口を開く。

「そう言えば、お詫びしないとね」

 手を止めた。どう考えても、彼女からのお詫びなんていい響きとは言えない。

「お詫びなんていいです。何も被害を被ってませんから」

 予防線を張るように言った言葉。

 ベティは少しだけ首を傾ける。

「・・・やっぱり、似てるよね」

「はい?」

「ホレスもねー、ずっとそう言うんだよ。お詫びなんてされたら困るって。ごめんって謝っても受け取ってくれないんだ」

 そこで、その本人から声が飛んだ。

「ベティは何も悪くない」

 そちらをちらりと見たベティだったが、やがてまた首を傾げた。

「・・・私の周り、どうしてこういう男が集まってくるのかな」

 それはきっと、誰にも答えられない問いだった。

 だけど、レオンはひとつだけ分かったような気がした。それは、ホレスがベティからのお詫びを受け取らない理由。以前、モンスターから助けてくれたお礼も拒否していた。

 なんとなくだが、レオンにはホレスの気持ちが分かる。もしかしたら、ベティの言う通り、2人が似たもの同士だからかもしれない。だけど、もっと根本的なもののように思える。

 それがつまり、ベティとホレスの微妙な関係の要因。

 これも難しい。

 だけど、弓の真髄程ではない。

 働き過ぎた為か、頭が変な熱を帯びてきた。

 その脳に増援を送るべく、レオンは自然味豊かな特製サンドイッチを頬張った。



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