ダンジョン入門
その日、レオンの朝は早かった。
どれくらい早起きだったかというと、泊まっている宿場の主人のガレットよりも早かった。彼は、毎日夜明け前には廊下を徘徊している事で有名だが、今日起きた時には、宿場内は静寂そのものだった。しばらくしてから用を足そうとして部屋を出たら、その物音でガレットを起こしてしまったらしく、気まずい思いをした程である。
そもそも、ベッドに入った時間が早かったとは言える。だけどそれ以上に、よく寝付けなかったのは自分でもよく分かっていた。
高揚と緊張。
それらと上手く折り合いをつける為の心の準備をしながら、薄明を迎え、身支度をして、早い朝食を済ませたレオンは、まだ早朝と言える時間に酒場を後にした。
風がやや冷たい。
だが、それが気にならない程、レオンの頭はこれから向かう場所の事でいっぱいである。
ガレットにも訓練所のアレンにも、ただの通過点だと言われた。
それでも、最初の一歩には違いない。
まだ人気の少ない大通りを歩きながら、装備を確かめる。
腰に下げているのは、スローイングダガーが3本とショートソード。それから左腕にはバックラー。もう重さには十分慣れている。投擲もだいぶ上達してきて、動きながらでも狙った位置に飛ぶようになってきた。ただし、それは右手で投げた場合だけで、左手で投擲するのはまだ難しい。
一昨日初めて着たのが、鍛冶師のジェフとその娘のリディア特製の皮鎧。ただの皮だけではなくて、特殊加工した金属で網目を作って、それを下地にしてあるという事だった。軽くて丈夫だが、もちろん、金属製の鎧程の信頼性はない。それでも、命綱としては十分な物である。元冒険者のガレットにも見て貰ったが、初心者には勿体ないと言わせた程、手の込んだ代物だった。
背中には弓と矢筒。狩人であるホレスのお下がりだが、かなり小型の弓で、矢は10本程しかない。というのも、レオンはまだあまり弓が使いこなせない。よほど的が大きくないと、動きながらは当てられない。急所を狙うなんて事はもっての他。あくまで補助としての武器だ。
そして、昨日最後まで揉めたのが、二の腕に巻き付けてある紐のような物だった。細くて光沢のある紐の両端に、小さな円錐状の器具が取り付けてある。紐の長さは最長で4メートル程はあるが、端の器具に仕掛けがあって、普段は短く収納されるようになっている。それを左の二の腕に2本、右腕に1本巻き付けてある。皮鎧の上からだから、それほど痛くはない。
実はこれはニコルが作った物だ。彼が呼ぶガジェットという物である。
昨日、ニコルは様々なガジェットを見せてくれた。自分の為に用意してくれた物だったが、予想通りというかなんというか、その大半が、凶悪な威力を誇る代物だった。もちろんガレージ内では実践できないから、説明を聞いただけである。粉塵が舞ってみたり、二種類の液体が混合したり、とにかくいろいろ過程はあるものの、最終的には何らかの形で爆発させるのがニコルの流儀らしい。
だが、嬉々として説明していたニコルはともかく、実際に使うかもしれないレオンは、はっきり言って気が進まなかった。取り扱いを誤った場合はもちろん、万が一モンスターの攻撃が命中して起動したりすれば、木っ端微塵になるのは自分の方だからである。
それをなるべく丁重に訴えてみたところ、次にニコルが紹介したのがこの器具だった。いろいろ用途を教えてくれたのだが、とにかく爆発しない。その一言で、レオンはほぼ即決した。
以上が、レオンの装備の全て。
全てといっても、他にも食糧等の細々とした道具が必要だから、重量にもある程度の余裕が必要だ。そう聞いていたからこの装備でいいと思っていたが、実際には初めての事だから加減が分からない。
やってみなければ分からない。
例えそれが危険なチャレンジでも。
いつの間にか、レオンは目的地に着いていた。
町の南西部。ぽっかりと空いた大穴の中を、石レンガで出来た下り階段が続いている。
その脇には石碑があり、大きくこう書かれている。
ダンジョン。ビギナーズ・アイ。
自治都市ユースアイは、その町の中にダンジョンを有している事で有名でもあるらしい。普通はもちろん、ダンジョンの入り口は町の外にある。そこからモンスターが出てくる事もあるし、観光名所になるわけでもない。だが、この町は、敢えてこのダンジョンを囲むように作られたという事だった。
それには当然理由がある。最も大きい理由は、今から400年以上前、この町を作ろうとしていた頃に起きたとある事件だった。
ある町の中心に、突然ダンジョンの入り口が出現して、そこからモンスターが溢れ出てきたのだ。
それは、レオンでも知っている程有名な話だった。その町の人々は必死に応戦したが、一週間もしないうちに、その町には人がいなくなった。ダンジョンの規模が大きかった為、モンスターの強さも相当なものだったのだ。ダンジョンの規模とその中に潜むモンスターの強さは比例するし、外に出てくる頻度も多くなる。
その話を聞いて、ここに移住しようとしていた人達も不安になった。そもそも、ここが自治都市なのは、国が普通の都市として認めていないからである。今でこそ大きくなったが、当時にしてみれば、交通の要所でもないし、高地で冬が厳しいし、季節の変わり目には水害もある。自然の恵みもあるが、裏を返せばそれは厳しさでもある。ただでさえ辺境と言える土地なのに、そんな住みにくい都市を、国力を費やしてまで守ろうとは思わなかったのだ。そこで、自治都市という事にして、軍備や行政を丸投げしているのである。
そんなわけだから、万が一ダンジョンが出現しても国は守ってくれない。自分達を守るのは自分達以外にはいない。だが、人も資産にも恵まれないわけだから、備えようにも備えられない。
力が無かった当時の人達は、そこで頭を使った。
だったら、最初からダンジョンがある場所を選べばいいと。
本末転倒な話に聞こえるかもしれないが、もちろん根拠があった。踏破済みのダンジョンからはモンスターが外に出て来ない事。そして、ダンジョンの入り口には一定以上の間隔があるという事。どちらも経験則でしかなかったが、移民がほとんどだった為、それぞれの故郷の話を聞いているうちに、そういう傾向がある事に思い至ったのだ。
当時、この付近にはダンジョンが2カ所存在した。ここ、ビギナーズ・アイと、町東部の池のほとりにあるというファースト・アイ。どちらも難易度が低めであり、かつ踏破済みのダンジョンだった。ビギナーズ・アイは、その名の通り、まさに初心者向けのダンジョンであり、万が一モンスターが出てきたとしても被害が大きくならない。
それから150年程すると、町北部の山脈の入り口辺りにダンジョンが出現した。ほどなくして、そこが魂の試練場と呼ばれる特別なダンジョンだという事が分かった。魂の試練場からはモンスターが出てきた事はない。ユースアイの人々は安堵したに違いない。
それから今に至るまで、大きくなったユースアイの町中に突然ダンジョンの入り口が顔を出すといった事態は起きていない。ビギナーズ・アイからもモンスターが出てきた事はない。
ただ、だからといって、ユースアイの先祖が慧眼だったかというと、それは断言出来ないところだった。何故なら、400年以上前のあの事件以来、町中にダンジョンが出現したという事例はないのである。今では、あの町であの時、邪悪な何者かが暗躍したのではないかという説が有力という事だった。
もっとも、ユースアイの人達だって、自分達の推測をまるごと信じたというわけではないだろう。ただ、これからこの土地を開発しようという時に、不安は出来るだけ解消しておきたかったはずだ。その為のお守りというか、気休めのようなものだったに違いない。
最後の想像も含めて、これはデイジーから聞いた話である。彼女は読書が趣味という事で、そういった歴史に詳しい。ただ、歴史は歴史でも、血生臭い方面に偏っている傾向はあった。そもそも、この話を聞いた時もダガーの投擲の訓練中だったのだ。たおやかに微笑みながら短剣を投げる彼女の姿は、それだけでも十分アンバランスだった。
その光景を思い出して複雑な心境になっていたレオンだったが、ふと我に返る。
目の前には、ビギナーズ・アイと記された石碑。
昔はともかく、今は自分の為にあると言っても過言ではない。
ダンジョン初挑戦。
それにうってつけのダンジョンなのだ。
レオンは大きく深呼吸する。
ここから始まるという期待。そして、ここで終わるかもしれないという不安。
どちらも、完全には消えなかった。
さらに小さく息を吐いて、呼吸を落ち着ける。
そして、足を踏み出したレオンだったが、その方向はダンジョン内へ続く石段ではなく、隣に立つ家屋の方だった。
怖じ気付いたわけではない。そもそも、そういう予定なのである。
隣に立つのは、この町では一般的な木造2階建て。横にダンジョンがあるわけだが、特別な防備を備えているようには見えない。むしろ、ダンジョンの方に向けて、大きな両開きのドアが備え付けられている程である。
もちろんモンスターを迎え入れる為の物ではない。
レオンはその扉のすぐ脇にある勝手口の方をノックする。
「入れ!」
聞き覚えのない女性の声。だが、もちろん予想はついている。
レオンがドアを開くと、そこは広間だった。この家の一階部分の3分の1程の広さはある。そのスペースをカーテンで仕切って、広々とした何もない空間を確保している。本当は何もないわけではなくて、入った右手には大きめのベッドが置かれているし、木製の小さなイスが2つと棚もある。ただ、それでも広々とした感じがするほどの、普通の広間にしては家具が少なすぎる部屋だった。
そして、室内には先客が3人いた。そのうち2人とは顔馴染みで、1人は、ユースアイのギルドで働くケイト。もう1人は、冒険者向けの道具屋をしているラッセル。
最後の1人は、今日初めて会う人物である。やや明るい髪を頭の上の方で留めている、鋭い顔つきの女性。白いブラウスにカーキ色のズボンという格好だが、何となく立ち方が様になっている。鋭角的な雰囲気といい、ファッションといい、どこかリディアに似ている感じがした。彼女があと10年くらいしたら、きっとこういう女性になっているだろう。要するに、それくらい大人の女性である。
レオンはベティからいくつか予備知識を得ていた。彼女の名前はイザベラ。ここで医師をしている女性で、現在32歳。子供が3人いる。ただし、絶対に年齢は聞くなという事だった。
「朝早くから、僕の為にわざわざすみません」
3人の近くまで行くなり、レオンはそう言って頭を下げた。
微笑んで答えたのはケイトだった。ブラウンの髪と瞳はいつも通りだが、今日は相棒のカーバンクルであるシニアはいない。きっと、ギルドで留守番をしているのだろう。そのせいなのか、いつもはしている頭の装飾品を忘れているような、そんな物足りなさがある。
「いえ、これが仕事ですから。見習いの方が最初にダンジョンに入る前には、必ず説明しておくようにと。それがギルドの方針です」
そう言うなり、ケイトは隣のイザベラの方を向く。彼女の話を聞けという事だろう。ラッセルは最初から少し離れた位置でこちらをまとめて眺めている感じだった。
しばらくしてからレオンが注目すると、イザベラはこちらを値踏みするような視線を送ってから、何もリアクションせずに口を開いた。
「レオンだっけ?」
優しいと厳しいの中間のような口調。さばけた感じが出ていて、大人は大人でも、母親らしい口調だと思った。もっとも、レオンの母親はもっとおっとりした話し方だったけれど。
「はい」
「とりあえず、言っておくことが3つある」
ダンジョンに入る時の注意事項だろう。レオンが気を引き締めて頷くと、イザベラが右手の指を1本立てる。
「まず、私の事は先生と呼びなさい」
「・・・はい?」
いきなり小さな要求をされたので戸惑ったが、その返事が気に入らなかったらしい。もともと鋭かったイザベラの視線がさらに強くなる。
「返事は?」
彼女の低い声に、レオンは咄嗟に頷いていた。
「あ、はい」
「じゃあ、2つ目」
元の声を表情に戻ったイザベラは、右手の指をもう1本立てた。
「私の歳を詮索しない事」
「・・・はい」
既に知ってしまっているわけだが、それを言うのはやぶ蛇だろう。
幸い気づかれた様子はなく、イザベラは3本目の指を立てる。
「じゃあ、最後」
正直、レオンはあんまり期待してなかった。たぶん、また小さい要求だろう。一応、この人との関係を良好に保つ上では役に立ちそうだが、それ以外には使えない情報に違いない。
だが、最後だけはそうではなかった。
「私でも、死んだ奴は治療出来ない」
イザベラの表情は変わらないまま。だけど、隣にいるケイトの表情が、少しだけ曇ったのが分かった。
女医の言葉は淡々と続く。
「もし怪我をしたら、例えそれが軽傷でも、あと少しでダンジョンクリアでも、今日の儲けがほとんどなくても、要するにどんな状況でも、とにかく撤退する事を選択肢に入れなさい。軽傷を負ったという事は、次は重傷を負うという事だと考えなさい。重傷を負えば、死はすぐそこだ。死との距離を確認する方法は、自分の身体に聞く以外ない。傷を見たらその背後の死を見る事。経験が浅いうちは、とにかくこれが鉄則だ」
言われた事を噛みしめるようにしながら、レオンはゆっくりと頷く。
それを確認すると、イザベラはケイトに視線を送る。もう言うべき事は言ったという事なのだろう。てきぱきとしていて効率的だ。医者という仕事をしていたら、自然とそうなるのかもしれない。
ケイトの方はどこか表情が固い。それを見ているレオンの方が、少し心配になった。
「では、レオンさん。私の方からは、ダンジョンの構造について、簡単にですが説明させていただきます。今から説明する事は、この先どのダンジョンに入った場合でも、すべてに共通している事です。今日入って出ていただければ忘れる事はないと思いますが、万が一確認したい場合には、いつでもギルドに尋ねて下さい」
「分かりました」
そこでケイトは少し微笑んだ。レオンの声に緊張が含まれていないのを確認して、少しは安心して貰えたのかもしれない。
「まず、ダンジョンの定義についてです。多くの方は、地下空間にあって、中にモンスターがいる場所をぼんやりとダンジョンだと考えていますが、ギルドには正式な定義があります。レオンさんは、ダンジョンも転生しているという話を聞いた事はありませんか?」
「え?」
思わず声が出る。そんな話は聞いた事もないし、考えた事もない。
「ダンジョンは入る度に構造が変化します。昨日と今日では、同じ人が入ったとしても、中にいるモンスターはもちろん、部屋や通路の配置、鍵や罠の有無も違います。昨日ダンジョン内で落とした物が、次の日入って見つかる事はまずありません。逆に、同時に入った冒険者の場合、つまり仲間の場合ですが、仮に中ではぐれてしまった場合でも、ダンジョンから出なければ合流出来る事が確認されています。ですが、一旦外に出てしまうと、中で再会するのは難しいと言えます」
そこでケイトは言葉を止めた。こちらをじっと見ている。どうやら、理解出来ているか確認したいようだ。レオンが頷いてみせると、彼女も小さく頷く。
「ですので、ダンジョンは普通の地下空間ではありません。学者の方々は、そこが時の牢獄ではないかとか、冒険者達の幻覚ではないかとか、それから先程の、転生しているのではないかという説、とにかくいろいろ議論されていますが、結論はまだ出ていません。ですが、ギルドとしてはその結論を待つわけにはいきませんから、とりあえずとしての定義を設けています。それは、入り口に導きの泉があるという事です」
導きの泉。レオンも名前は聞いた事がある。
「ビギナーズ・アイにも、入ってすぐにその泉があります。広い部屋の中央に、白い石で設えられた泉があって、その中心部分に、同じ石で出来たカーバンクルの像があります。高さはだいたい1メートル程の像で、直方体の台座の上に、立派な翼の生えたカーバンクルが座っています。それは見ていただければ分かるのですが、問題はそのカーバンクルの見ている先です」
「見ている先?」
ケイトは軽く頷く。
「その導きの泉がある部屋に入ると、ちょうど台座の上のカーバンクルに見つめられる格好になります。というのも、像のカーバンクルは必ず入り口の階段の方を見ているからなんです。そして、実はこれが目印になっています」
「目印ですか?」
「はい。導きの泉はダンジョンの中に何カ所もあります。そして、そこにある像のカーバンクルは、すべて上り階段がある方を見ています。それで、不思議な話なんですけど・・・その上り階段は、そのすべてがダンジョンの入り口につながっているんです」
頭の中がこんがらがった。
「えっと・・・どういう意味ですか?」
レオンが首を捻りながら聞くと、ケイトは少し苦笑したようだった。
「仕組みは誰にも分かりません。ですから、事実だけをお伝えします。ダンジョンの入り口は一カ所だけです。ですが、導きの泉は、つまり、出口は何カ所もあるんです。中には何十階層もあるダンジョンもありますが、例えば、地下20階の導きの泉にある出口を使ったとしても、ほんの数十秒歩くだけで、最初に入った入り口から出てきます。例え2階でも、200階でも、道のりは同じだと言われています」
摩訶不思議な話だった。どんな仕組みなのか想像もつかない。
「ですから、導きの泉の場所さえ覚えておけば、入った場所を覚えておかなくても、ダンジョンから出る事が出来ます。ダンジョンは出る事さえしなければ構造が変わりませんから、余裕がある時に地図を書いておくといいと思います。或いは、目印でも構いません。退路の確保という意味で、是非利用して下さい」
よく分からないものを信じ切って利用していいのだろうか。レオンはそう思ったが、命に関わる事だから、それくらいは妥協した方がいいのかもしれない。帰り道は短い方がいいに決まっている。長ければ長い程、モンスターに会う確率が上がるのだから。
レオンの頷きを見てから、ケイトは話を再開する。
「導きの泉についてですが、その部屋にはモンスターが出ないとも聞きます。もちろん、絶対出ないとは言えないと思いますが、遭遇しにくい場所とは言えると思います。それに、湧いている水も綺麗で、飲んでも平気だという事です。ですから、休憩をとる場合、可能なら、導きの泉で休むのがいいと思います。ダンジョンには時間の感覚がありませんから、無理をしないように、なるべく余裕をみて休息して下さい」
「・・・親切設計ですね」
思わずぼやくと、ケイトは苦笑いする。
ギルドからの説明はまだ続いた。
「最後に、いわゆるボスモンスターについて説明します。ボスモンスターは、必ずダンジョンの最深部にいるわけではありません。ですが、9割以上は最深部にいると考えていいと思います。そして、他のモンスターより強力な場合がほとんどですが、これも絶対とは言えません。ですから、当然、ボスモンスターにもギルドの定義があります。それをお見せしようと思いまして、今日用意してきました」
「え?見せられるものなんですか?」
「はい」
ケイトはずっと右手を身体の後ろに隠していたが、それをすっと自分の胸の前に持ってくる。
彼女の親指と人差し指の間にあったのは、トウモロコシの粒くらいの大きさの、真っ赤なガーネットのような石だった。
レオンは顔を近づけてそれを見た。ただの宝石のようだが、よく見ると、中でゆっくりと水流のようなものが起きている。石ではなくて、枠の中に液体を閉じこめているのだろうか。
「これは魔石です」
全く心当たりのない単語だ。
それを表情から読みとったのか、ケイトは補足する。
「ルーンとも言いますが、魔石を加工したものがルーンですので、これは正式には魔石です。ただ、世間一般にはルーンという言葉が定着しています。レオンさんも、ルーンという言葉なら聞き覚えがあるのではないですか?」
「いえ・・・全然」
田舎者丸出しだが、本当に聞き覚えがないのだから仕方ない。
その返答には表情を変えず、ケイトは補足を続ける。
「魔石はその名の通り、魔力を秘めた石です。これを職人の方が加工するする事で、ルーンとなります。ルーンは魔力に特定の働きかけをする物で、魔法の武器やアイテムに使われるのが主な用途ですが、それらには使えないような弱い魔力のものも多いです。そういった物は、一般的な装飾品としても使われています。見ての通り、見た目が綺麗ですし、魔力が弱いとはいっても、ちょっとした魔除けくらいにはなりますので、富裕層の方々の間では人気がある物なんです」
「という事は・・・もしかして、これも高価な物ですか?」
レオンの質問に、ケイトは軽く頷く。
「これは最小クラスの物ですけど、それでも、ルーンになったらそこそこの値がつくものです。というかですね、実はこれ、ビギナーズ・アイのボスモンスターがドロップする物なんです」
ドロップという言葉にも聞き覚えがない。落とすという事だろうか。だが、この前遭遇したモンスターは、ルーンどころか何も痕跡を残さなかった。煙のように消えてしまったのだ。そういう事態はギルドへの報告義務があるという事だったので、当然ケイトにも伝えてある。
彼女は魔石片手に話を続けた。
「通常のモンスターはまれに何か残していく場合もありますが、それはそのモンスター固有の素材である場合が全てです。例えば、獣に酷似していれば、牙や爪。植物に似ていれば、茎や種等です。ですが、ボスモンスターのみ、倒すと必ず魔石を落としていきます。つまり、魔石を持って帰れば、そのダンジョンをクリアしたと認められます。魔石の形状や大きさは、ダンジョンによってほぼ決まっていますから、魔石さえ見せていただければどのダンジョンをクリアしたのかが分かります。さらに、魔石の流通は基本的にギルドが引き受けています。ですから、換金という意味でも、魔石を得たらギルドに来て下さい。それがレオンさんの資金になりますし、またダンジョンクリアというステータスにもなります」
「それ・・・もし拾い忘れて出てきたら、どうなりますか?」
ケイトはにっこり微笑んだ。
「やり直しになります。ですから、絶対に忘れないで下さい」
努力が全て水の泡。資金もそうだが、ダンジョンクリアも認められない。結構重要な事だが、うっかり忘れてしまいそうな気がして、レオンは正直不安だった。
ケイトはラッセルに目配せする。彼女の話はここで終わりのようだ。
いつの間にか、ラッセルは背負い袋を抱えている。袋の容量の割には、中に入っている物は少な目なようだ。外からは、何が入っているのかよく分からないが、端から松明が突き出しているのだけは分かった。
彼はこちらに歩いてくると、それをレオンに差し出す。片手で持ち上げられるくらいだから、結構軽い物のようだ。
「とりあえず、食糧は最小限だよ。2日分。あとはまあ、いろいろ入ってるから、後で確認しておいて。在庫は確保してあるから、店まで来てくれたらいつでも補充出来る。だけど、たぶん足りない物とか、これがあったら便利って物もあると思うから、気づいたら僕に言ってね。なるべく早く用意するから」
レオンは袋を受け取った。
ラッセルはそれっきり何も言わなかった。この程度の説明なら、事前に話してくれれば済む事だが、実は今日彼がここにいるのは、彼がそう申し出たからだった。どうしても直前に直接渡したいと言ったのだ。その事実だけで、彼の気持ちが伝わってくる気がした。
3人の顔を見てから、やっぱりレオンは言わないではいられなかった。
「あの、本当にありがとうございます」
イザベラが淡々とした口調で言う。
「仕事だ。というか、もしかして1人か?」
「はい」
「それなら焦らない事だ。隠しても仕方がないから言っておくけど、ビギナーズ・アイは、4人パーティならば初心者でも、入ったその日にクリア出来る。だが、それが3人になると2日かかるようになる。2人だと1週間。1人だと2週間以上かけるつもりでいなさい。入って出てを繰り返して、徐々に慣れるようにしなさい。そうしないと、下手すると一生出て来られなくなる。その代わり、1人でクリア出来たら、4人でクリアした奴の数十倍は価値がある経験が出来る」
優しさと厳しさ、両方とも伝わってくる。
「・・・はい。これからお世話になります」
そこで、イザベラは笑ったようだった。
「レオンは本当に変わった子だな。本当に冒険者か?噂になっていたよ」
その噂の発信源に、心当たりがないわけではなかった。
「・・・ベティが何か言ってましたか?」
だが、彼女はあっさり否定した。
「いや、うちの子達だ。一番上の子がアレンのところで剣を習ってる」
「あ、そうなんですか・・・」
まさに奇遇である。
「下手な真似をするな。レオンが帰ってこなくなったら、理由を子供達に説明する羽目になる。そんな事は御免だ」
「・・・はい」
まだ付き合いが短いとはいえ、ユースアイの人達とも他人ではないのだ。
ケイトとラッセルの顔を見ると、2人とも微笑んでいた。多少ケイトの表情が不自然だったけれど、それは経験の差だろうか。彼女が案内した見習い冒険者のうち、どれくらいの人が帰ってこなかったのだろうか。それを聞いてみたくなったが、すぐに思い直す。今の自分が聞いてもどうにも出来ない事だし、何の為にもならない。
3人とも、もう何も言わなかった。
聞くべき事は聞いたのだ。
これはただの通過点。だから、見送りなんていらない。見送りなんてされたら、もうお別れみたいだ。ベティではないが、それくらいならクリア出来た時にお祝いして欲しい。
レオンは笑顔になって、その場で挨拶した。出来るだけ頼もしく見えるように。
「それじゃあ、行ってきます」
踏み出す。
それが、半月程かかってようやく実現した、レオンの冒険者としてのスタートとなった。