背中の向こうに
100メートルほど距離が開いた位置で浮遊する、赤い八面体結晶。
あのモンスターとの魔法対決を制することが、最初の試練のようだ。
モンスターの魔法を一度相殺しにかかったステラだったが、あっさりと修正されてしまった。その手順が恐ろしく的確だったので、予定していたさらなる相殺を急遽取りやめる。
この辺りの駆け引きは難しい。基本的には、割り込めるだけ割り込んだ方が相殺の成功確率は上がる。ただし、それで相殺し損ねた場合、修正式を組み込んだ分だけ、相手の魔法の威力が上がってしまうこともある。さらに、ほんの1秒にも満たない時間だけど、完成した魔法に対する防御が遅れてしまう。
今回は、なんとなくだが、モンスター側の余裕というか、誘われているような違和感を感じていた。自分の力を過信して勇み足したために敗北した、最初のビギナーズ・アイでの記憶を引きずっているだけかもしれないけれど。
いずれにしても、ステラは相殺を諦める代わりに左へと駆けだした。発動を阻止することはできなかったけれど、その系統はおおよそ把握できている。
赤い光の文字が輝いた後消えると、6本の炎の矢がモンスターの前方に弓なりに並べられる。それからほぼ間髪なく、全ての矢がステラめがけて発射された。
しかし、その時には既に、ステラは柱の陰で身を屈めている。
周囲を襲う爆音と衝撃。思わず目を閉じたステラが、再び辺りにを見渡すと、灰色の煙と埃が舞っている。床も柱も綺麗に成形された石材のはずだったが、今では廃墟のように瓦礫が積まれていた。
だけど、攻撃はまだ終わりじゃない。
ステラは杖を抱えて、その場所を飛び出す。煙で見えなかったモンスターの姿を視界に収めると、やはりと言うべきか、既に新たな魔法準備を始めていた。
その準備時間からいって、今からでも相殺できないことはない。だけど、確実に阻止するにはやや短いインターバル。下手な相殺は、リスクが増すだけだ。
撃ち合いは不利だ。
その事実を自覚して、ステラは走りながら歯噛みする。
拡散型と収束型。こうして真正面から撃ち合う場合、あのモンスターが属する拡散型の方が、ステラの収束型よりも有利になる。この知識は、ジーニアス向けの一般的な教書にもよく記されている。収束型はいろいろ小回りが利く代わり、拡散型に対して威力や手数で劣る。同じ規模の攻撃魔法なら、拡散型の方が準備が速いし、射程も長い。まともに撃ち合えば、必ずいつかは押し負けることになる。
もっとも、現状は、ほぼ向こうが攻撃し放題。この間合いは遠すぎて、ステラは攻撃することすらできないのだから。
だから、収束型が対抗するには、多くの搦め手を使いこなせなければならない。今ステラがしているような魔法相殺はもちろん、拡散型が苦手な防御用の魔法を使う。武器や道具が使えるならそれもいいし、強力なルーンアイテムがあればもっといい。とにかく、工夫しないことには話にならない。
だというのに、今の自分は防戦一方。駆け引きにすら持ち込めていない
まだまだ甘いと言われても仕方ない。こういう時、前で体を張ってくれるアスリートの有り難みがよく分かる。彼らが、レオンがいてくれるから、自分は安心して攻撃魔法に集中できる。そして、いなければこの有様なのだから。
別の柱の陰で、再び炎の矢をやり過ごしてから、ステラはまた駆け出す。
だけど、だからこそ、今はひとりで勝たないといけない。
ガレットが言っていたように、アスリートが前に踏み出してくれるから、ジーニアスも危険に飛び込むことができる。だけど、そのジーニアスが怖じ気付いたままでは、せっかくのアスリートの献身を無駄にしてしまう。
彼ひとりだけ前に行かせて、自分だけ逃げてしまうような臆病者になってしまう。
そんな人間では、パートナーとは言えない。
今はとにかく、近付くこと。
モンスターに。
そして、きっとその先にいるはずの彼に。
回り込むように方向転換しながら、結晶型モンスターを魔法の射程に収めるべく、ステラは距離を詰めていく。
さらにそこで、3回目の炎の矢が降り注ぐ。
発動のタイミングはもちろん読んでいたので、例の如く柱の陰に隠れるステラ。しかし、角度がついたせいか、そのうちの1本が柱を回り込むようにして飛んできて、一瞬背筋が寒くなる。
だけど、咄嗟に掲げた杖が間に合った。
発動を保留させていた氷の壁が一瞬で展開して、炎の矢を受け止める。
いつもの衝撃の後、立ち上る煙の中にバラバラと砕けた氷が飛び散る。それを浴びるのを避けるように、ステラはその場を飛び出した。そのお陰か、前よりも早いタイミングだった。
そしてようやく、こちらの魔法の射程圏内にモンスターを収めた。
しかし、当然ながら、向こうの魔法準備は既に始まっている。
また物陰に隠れてやり過ごすべきか。
そう思った矢先だった。
モンスターが描いていた赤い光の軌跡が、前触れもなく消える。
一瞬戸惑ったものの、ほぼ直感で、ステラはその意図を理解した。
レンジによる魔法選択の変更。こちらが距離を詰めてきたため、射程が短い代わりに準備時間の短い魔法に差し替えるつもりだ。明らかに近接戦闘能力のないモンスターなので、近付かれることだけは絶対に避けなければならない。その弱点を突かれないための戦術。
でも、これはチャンスだ。
相手の魔法準備は今まさに始まったばかり。いつか相殺しなければならないとすれば、これ以上のタイミングは望めない。
勝つとすれば、ここしかない。
ステラは両手で魔導具の杖を握りしめ、意識を集中する。相手の魔法を読み解く為に。
そして、敵の魔法がまさに放たれようとした瞬間。
「そこです!」
杖を持った右手を掲げ、赤の魔法に割り込む。
だが、向こうも相殺されることは読んでいる。ステラはその対処をさらに読み、時間差で書き込みを増やす。赤いサインに青や赤のラインが増えるにつれて、負けた方が支払う代償が積み重なっていく。
相殺に完璧はない。
だけど、ここで勝てないようでは、本当のジーニアスとは呼べない。
勝負は、瞬く間に決着した。
互いの手が尽くされた赤いサインが輝く。
そして。
水蒸気が爆発する低い衝撃音に押され、結晶型モンスターが仰け反るように傾き、その表面にひびが入る。
勝った。
その確信と共に、ステラはトドメの魔法準備に入る。
迅速かつ的確に。あの精霊には完璧主義すぎると言われたけれど、基本的にはそれで悪いわけじゃない。魔法は大きな力だからこそ、取り扱いには細心の注意が必要。これもまた、教書の最初のページに書いてあるような基礎中の基礎だ。
程なくして魔法準備完了。
もちろん、苦し紛れに飛んできた相殺も、ステラはしっかりと見切っていた。
氷の檻が発動する。
その中に閉じこめられたモンスターは、氷の囲いが砕けると共に消滅した。
後に残ったのは紫の煙と、ステラの安堵の溜息。
勝利。
よかった。
一応辺りを確認してから、ステラはその場にぺたりと座り込んだ。
はっきり言って、最初からかなり苦労させられた。このクラスの戦闘が、少なくともあと9回あるということか。このレベルならまだしも、急にもっと強敵が出てきたら、途中で気力が尽きてしまうかもしれない。もう少しセーブしながら進まないといけない。
そういえば、彼もゆっくり進んでと言っていた。
本当にその通りだ。
早く追い付きたいのは山々だけど、焦ってはいけない。
長い息を吐いて落ち着いてから、ステラは杖を支えに立ち上がる。
一度入り口側の巨大な扉に戻る。その奥に荷物を置いているからだ。荷物を持って入るべきか外に置いておくべきか、ここに踏み込む前に悩んだものの、いざ押す段階になって、持って入ることなんてまず不可能だということに気付いた。扉が重すぎるからだ。ベティ達に鍛えて貰っていなかったら、ここ開けることさえできなくて、まさに門前払いされていたしれない。
思えば、ここを開けるのもまた、パートナーのレオンに任せきりだった。ここをひとりで開けたのは一度だけ。彼が大怪我をしたあの時だけだ。その時、こんな扉をどうやって開けたのか、未だにさっぱり思い出せないのだけれど。
それはともかく、ステラは思いっきり体重をかけて、なんとか漆黒の扉をこじ開ける。十分に開いたところで、置いてあった荷物を掴み、それを引きずって中に戻る。これだけの動作で、だいぶ息が上がっていた。
よく考えてみれば、この扉も、まだ何回も開けなくてはいけない可能性がある。
本当に、体力を温存しながら進まなくては。
改めて荷物を背負い直し、ステラは向かい側の扉に向かう。そちらも同じ漆黒ではあるものの金属製で、明らかに小さい。はっきり言って、そのコンパクトさがかなり有り難い。
鍵が掛かっていたらどうしようと思ったが、それ以前に、その扉は既に半開きだった。どうやら、試練をクリアしたら開く仕組みのようだ。
その先はいきなり下り階段。このダンジョンはどこも明るいらしく、中まで煌々と魔法の松明が照らしていた。
どうやらモンスターはいないようだ。だけど、罠は分からない。
ステラはゆっくりとした足取りで、階段を進み始める。
本当に、アスリートの有り難みが身に染みる。こういう時、彼はどんなことを注意しながら進んでいたのだろうか。自分も、できるだけ気を付けながら進んでいたつもりだったけれど、いざ独りになってみると勝手が難しい。あまり神経質になりすぎては、先の見えないダンジョンでは身が持たないだろうけど、適当に済ませるわけにもいかない。
こうなってみると、彼の強さが本当によく分かる。
幼い頃に抱え込んだ闇を見ないように、気付かないようにしながら、彼は生きてきた。普通の人が支えにしている前世というものが、彼にはない。だから、それが無くても立てるように生きてきた。彼自身は、それからずっと座り込んだままだと思っているみたいだけど、仮にそうだとしても、影の隣でずっと耐えていることは、並大抵の精神ではできないことだと思う。
もし自分に、サイレントコールドの導きがなかったら、どうなっていただろうか。
間違いなく、ユースアイに来ることはなかった。それどころか、家を飛び出すこともできず、自分に価値を見いだすこともできず、ただ暗い顔をしていただけではないか。
こうやって、長い階段を下りていく勇気さえ持てなかった。
でも、彼は、その勇気を持っている。
それはきっと凄いことで、そして、今はまだ遠い背中の象徴。
だけど、私は彼のパートナーだから。
負けてはいられない。
階段が終わると、その先は導きの泉だった。どうやら、毎回休憩スペースを用意してくれるつもりはあるらしい。
カーバンクルの像を挟んだ向かい側に、金属製の黒い扉がひとつだけある。
その先が次の試練の部屋だろうか。
しかし、ステラはそこで荷物を下ろして、少し休むことにした。
まだ先は長い。この孤独も不安も、まだまだ続くと考えた方がいい。彼が言ってくれた通り、慎重に進もう。いくら早足で歩いても、影が離れてくれることはあり得ないのだから。
このひとりの闇を、自分はきっと乗り越える。彼の言葉があるから、乗り越えられると信じられる。
見習い卒業への道は、まだ始まったばかりだ。