精神疾患
第1話
セミが鳴き始める前。僕の発作は始まった。
焚き火を大勢の人が囲んでいた。僕と同じくらいの年の子が多い。保護者も、それぞれ子どもの隣に座っている。
「はい、じゃあバーベキューを始めましょう」
パパの声が焚き火を伝って、ぱちぱちと聞こえた。僕は焚き火を見て、それから川を見て、森を這うように見て、落ち着かなくなった。
「車に戻っていろ」
パパが気づいて言った。僕は急いで車に戻って、ドアを閉めた。深呼吸をした。
さっきまで、吐き気がして、心がぞくぞくした。呼吸が止まりそうだった。死んでしまうんじゃないかっていう気持ちが、僕の心を包んでいた。なんとかやり過ごすそうとする。深呼吸。深呼吸。落ち着け、落ち着け。苦しさに体が包まれている感じがした。でも少しずつ、剥がれていく。
パパにもらった薬を、手を震わせながら飲む。
「ほんと、大丈夫か?落ち着いたか」
パパは僕の背中をよしよししてくれた。僕はうなずいた。大丈夫かと聞くくらいなら連れてきて欲しくなかった。
「じゃあ、子どもたちを見に行くからな。健介さんとかと会うか?」
僕は首を横に振る。
「そうか。じゃあ寝てるか川にでも行ってろよ。」
パパが木の先に消えていくのを見て、僕も立ち上がった。
車を出ると、さっきよりもっと暑かった。太陽がまぶしくて、僕は目をこすった。ライフジャケットをつけて、虫籠を持って、川に行くことにした。砂利道を歩いていくと、右側ではみんながバーベキューをしていた。だけど僕は左のほうに行った。
川に飛び込む。水はつめたくて気持ちよかった。だけど心がちょっとずきずきした。でも、ここで吐いても、なんともない。ときどき深呼吸をしながら、虫籠を水に浸して魚を探していた。
すると、ばしゃーん、と大きな水音がした。僕は顔をあげて、音のした方を見た。川の向こう、少し曲がった先に、何かが見えた。青い浮き輪だ。この浮き輪には宇宙が描かれている。と、言うよりも銀河か。もちろん、人が乗っているらしい。だんだんと、こっちに近づいてくる。浮き輪の中に寝転がった男の子が、手をくねくねさせながら流れてきた。僕と同じくらいの年に見える。
「よう。何年だ?」
いきなり声をかけられて、僕は少しびくっとした。声は明るかったけど、ちょっとぶっきらぼうで、強引な感じがした。僕は黙ったまま、その子を見た。
「まあ、答えなくてもいいけどよ」
そう言って、その子は浮き輪に寝そべったまま空を見ていた。浮き輪には「健斗」と書いてあった。
「俺は健斗。親父に連れられてきたんだ」
僕は少しだけ視線を合わせたが、すぐにそらした。夏休みなので、このイベントとは関係ない人もたくさん来ているはずだった。でも、川の一部を貸し切って開かれているたき会だ。たぶん参加者だろうと、僕は思った。
「お前も、たき会に来たのか?」
僕はうなずいた。健斗くんも、たき会の参加者なのだろう。僕も参加者だ。毎年、パパに連れられて来ている。でも、今年は少し違う。今までは、なんとなくついてきていた。でも、今年は、行きたくなかったのに、無理矢理連れてこられた。薬を何個も飲まなきゃ、ここにいることすらできなかった。
少し寒気がして、僕は岸にあがった。遠くを見ると、たき火の煙が少なくなっているのが見えた。そんなに長いこと、水に入っていたのだろうか。寒気がひいて、今度は真夏の熱気が体を包んだ。冷たさとか暑さに包まれるみたいな感じが僕の発作に似ているかもしれない。
健斗くんも、浮き輪から降りた。いつのまにか川の石をひろって投げていた。石は水面で跳ねて、ぱしゃぱしゃと音を立てた。2回。
僕も投げてみた。規則的に6回ほど跳ねてポチャン、と泡を立てて沈んだ。
「くそー、負けたか。」健斗くんは悔しそうにしながらまた投げる。今度は蝉の鳴き声を突っ切るようにして大きくポチャンと音がして一回も跳ねずに沈んだ。
「どうやったらうまくできるんだ?」
僕はまた投げて見せた。健斗くんは目で石が何回も跳ねるのを頑張って追っていた。僕も石を目で追う。今度は8回くらい跳ねて沈んだ。石を見ていたら健斗君がいなくなっていたことに気がついた。僕は当たりをキョロキョロ見渡す。次の瞬間水面で音がした。そっちを見ると健斗くんが出てくるところだった。
「これか?」健斗くんは石を持ち上げた。「さっき投げた石。」僕は頷いてみた。健斗くんは岸に上がってくる。
「よし!」健斗くんは助走をつけて投げた。水を綺麗に石が切ったけど3回跳ねて沈む。
「くそー」と健斗くんは悔しそうにしていた。
みんなは大きなテントを設置していた。僕は隅に隠れて固定する釘をトンカチで叩いていた。健斗くんはどこに行ったのだろうか。少しだけ辺りを見渡す。一瞬誰もいないかと思った。よく見るとたまに人影が見える。僕はこのたき会はやっぱり独特なのだと再認識した。みんな嫌々来ているのだろう。
———僕は違った、、、違ったはずだった。去年までは。でも今年はダメだった。そもそも学校にも行けていない。学校に行こうとすると発作が起きるのだ。それがどんどんひどくなって今は外に出るだけで発作が起きる。
———パパはここにだけは行こうな、と言った。僕はそれに従ってついていくことにした。というよりは、手を握られて強引に連れられてきた。半々、いやもっと小さい気持ちだったかもしれない。体は嫌、心は少し行きたい気持ちがあった。心と体が一体ではなくて別々という感じだった。僕にはもうどうすればいいのか分からなかった。一言で僕の気持ちを表すと、辛い。辛いのだ。僕には何かわからないモンスターみたいな、悪霊みたいなのに体に取り憑かれていてそれがどんどん増えていくような感じがしていた。実際、発作はすごく増えていた。一日中寝ている日もあって生きるのに全力な日が多かった。
セミの鳴き声が耳に当たった。草の匂いがする。セミが少しの間鳴き止むと鳥の囀りが聞こえてきた。
「おーい」テントを超えて声がした。僕は影を認識した。どんどん近づいてくる。健斗くんだった。
「釣り、しようぜ」そう言うと健斗くんは釣り竿を渡してきた。僕は最後の釘を打ち終わると立ち上がった。たくさんの人がいるこの場所より川の方がマシな気がした。歩いているとパパと少し目があったけど何も言われなかった。健斗くんは見えなくなるくらい先を行っていた。僕は方向だけ記憶して川に沿って歩いていく。少し涼しくなった風が僕の体を包んだ。鳥の鳴き声もセミの鳴き声も止んでいた。僕は適当に拾った石をたまに川に投げてみたりしながら健斗くんを探した。ある程度行くと健斗くんが手を振っていた。周りは暗くなっていて懐中電灯の光が目を突き刺した。目がしょぼしょぼしながら座る。
箱に入ったミミズを摘んで糸につける。
「平気なんだな。」
「まあね」僕は言った。またセミが鳴きだしていたので聞こえたかは分からない。釣り竿を投げると僕は暇になって勝手に去年のたき会を思い起こしていた。
僕は焚き火の前にいた。焚き火を囲んでいる人たちと話をしたりして過ごすことが多かった。だからこんなふうに静かに過ごすたき会は初めてだった。僕は今日車から見えた焚き火を囲んでいる人たちを思い起こす。タケルくんとかヤマモトくんとか知っている人が居なかった。飽きて辞めたのだろうか。転校でもして来れなくなったのかもしれない。表情を思い起こす。ついさっきまで喋っていたみたいに鮮明に映像がでてきた。どっちも真顔だった。ほんとに、なにをしているんだろう———
セミが鳴き止む。交際相手は見つけられたのだろうか。子孫は残せるのだろうか。健斗くんは立ち上がって対岸に行く。セミの抜け殻を大事そうに何個も持ってきて、バーナーで焼くと食べ出した。僕は黙っていた。ポリポリと聞こえる。
「なあ、夏休みも終わるな。」セミが鳴き止むと思い出したように健斗くんが言う。僕が黙ってても黙ってないかのように話してくれる。
「うん、どうしよう。」僕は声を出す。またセミが鳴き始めて聞こえなかったかもしれない。夏休みが終わる、学校が全てだと僕はこのとき思っていた。学校と家の往復。憂鬱な毎日。考えると辛くなって僕は走り出した。健斗くんは止めなかった。途中で釣竿も何もかも置いてきたことに気づく。だが、足は止まらない。風も味方して心地よかった。
2
9月1日。統計では、この日が一年で一番自殺者が多いらしい。本とか学校から山のようにもらうプリントに書いてあった。
カーテン越しに差し込む光が、ぼんやりと部屋を照らす。僕は目を細め、ゆっくりと布団から起き上がった。歯を磨くが、何も食べる気はしない。食べたらきっと吐き気が襲ってくるだろう。
チョンの頭を撫で、リードを握る。外に出た瞬間、眩しい光が目に焼き付いた。耳には「ツクツクボウシ」の声が深く刺さるように響く。チョンはゴールデンレトリバーのオスで、僕の体よりも大きく感じるほどだ。しっかりとリードを握って歩き出す。
健斗くんは、今ごろどうしているのだろう。元気そうに見えることに、僕は嫉妬していた。僕だって元気になりたかった。健斗くんみたいに。ズルをして学校に行かないなら、いっそ体を交換してくれよと思った。でも、もしかしたら彼にも病気があるのかもしれない。
僕は心療内科で借りた本を読み、いろんな病気について調べていた。勉強は好きだった。この苦しさから解放されて医者になれたら──そんな漠然とした夢も持っていた。
チョンが鼻で僕の手をチョンチョンした。鼻でいつもチョンチョンしてくるからチョン、単純な名前だ。僕は分かったよと言って歩みを進める。
去年の夏休み前、友人が遠くへ引っ越した。死んだわけではないと思う。それでも僕の体は拒否反応を示すようになった。母と一緒に病院を回り、内科や脳外科を受診したが原因はわからず、最後に心療内科を勧められた。診断は、不安障害だったりパニック障害だったり──はっきりしないまま。そこから学校に行けなくなり、早朝のチョンとの散歩だけが、外に出る数少ない時間になった。
駅前を通る。小さな駅だが、昼は人が増える。朝は静かで、その先にある公園まで毎日歩くのが習慣だ。風は心地がよく僕の体を包んでくれるがそれでも健斗くんがどうしているのかという思考は消えなかった。
家に帰るとママがいた。パパは遠くの職場に勤めている。ママは「友人より近い」と言っていたけど、僕にとってはほとんど関係がない。夏休み明けの今日、行けるかもしれないと朝は思っていた。けれど、体はだめだった。
「大丈夫?」
ママの声がする。僕は布団にくるまっていた。チョンの気配もそばにある。胸が締め付けられ、息が荒くなる。
「行けない、行けない……」声にならない声で繰り返す。
「……しょうがないね。休もう。うん、しょうがないよ」
ママは電話を手に取る。その時には少し落ち着き、ランドセルを背負えば行けるかもしれない、そんな感覚がよぎった。けれど、もうひとりの僕が「行けない」と告げる。そして、行けそうだと思っていた自分も、結局「行かない」に変わる。
何かの拍子に症状が消えて、ふとしたときに行ける気がすることもある。でも、それは本当に気まぐれで、不安障害かパニック障害か──どっちかは知らないしはたまた身体表現性障害とか鬱病とかにも似ているしとにかく得体の知れないものに取り憑かれている感じがして気持ち悪かった。
「ほんと、どうしようね。気のせいだよ。病気じゃないんだから」
ママは病気と認めたがらない。なぜなのだろう。風邪は病気と認めるし精神疾患も知っているはずなのに。
「病気だよ」僕は反論した。
「そうは言っても、外に出ないと治らないしねぇ……」ため息が落ちる。一時は病気と言っても次の日には病気じゃないんだしとママは言い出す。
「お前、そんなんで生きていけると思ってるのか?」パパが言う。
医者に診断書を書いもらったとママは言っていたが、見せてもらえなかった。仮にあっても、ただの形式的なものだろう。僕は捻くれているので金稼ぎのために書いたと言う話しかとも思った。そう思ってしまうと頭に残り続けた。最低なんじゃないか、と思うようになり、申し訳なくなり、これだから病気になったんだと自分を責めた。ビョーキって日頃の行いなんだろうか。
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「捻くれてるな。」健斗くんが言う。この頃よりも声は低い。カレンダーが目に入る。日付は2040年。
「うん。そうだね。」と僕が頷く。声が低くなったかは自分ではわからない。
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僕は布団を被ったまま、自室まで歩いていった。自室が避難所なのかもしれない。しばらくしたらノックがした。来るなよ、と言うけど入ってきた。
「ごめんね。手紙来てるよ。たき会の子かな?」ママは嬉しそうにしていた。「置いとくね。」そう言って出ていく。僕は布団に隙間を開けて手紙を読む。
--くんへ
たき会で会った、健斗です。三宅川で待ってます。来てください。一緒に水切りでもしよう!
短く力強い綺麗な字だった。三宅川か、と僕は記憶を辿る。近かった。健斗くんは近所に住んでいるのだろうか。住所を知っているのは僕のパパにでも聞いたのかもしれない。郵便切手は見たことのないものだった。
わん、と小さくチョンが鳴く。チョンを連れてきていた。もう暗くなるところだ。三宅川に着いた。周りを見渡すが見つからない。
———そもそも、三宅川といっても何十kmもあるし時間だって指定されていない。どうしよう、とパニックになる。
おーい、と声がした。僕は振り向く。奥から人影が見えるけど慣れた人影だった。少しずんぐりして背は低い。
「来てくれたか。」健斗くんが言う。
「走ってきた割には、全然汗かかなかった。」すらすらと言葉が出た。
「うーん、そうだね。ところでさ、」健斗くんはポケットから何かを取り出す。「決闘だ!」と力強く言った。三宅川に誘われた時点で予想できていた。
「おーい。」と声が聞こえてくる。河川敷になっていて道は丘にある。僕と健斗くんが見上げるとライトが目に焼き付いた。
「きたぞー、お前。健斗くんもありがとうな。」パパだ。
「お、来てくれたんですか。」健斗くんが驚く。
「仕事がひと段落ついたもんでな。あいつがいないもんだからどうしたもんかと思ったら珍しく外に出てるって言うもんできたわけよ。にしても、外に出てるお前を見るのは久しぶりだな。」
「いや、この前たき会行ったし、いつもチョンと散歩してるし、、、」
それもそうか、とパパは笑った。
水切り対決が始まった。健斗くんは投げ終えるとまた、水に潜って石を探し出した。プハーと息を吸う音が聞こえる。
「石が多くて投げた石が見つからないよ。」
「良さそうな石をまた探せばいいんじゃない?」
「そうか、そうじゃん、お前、その通りじゃん。」そう言って岸に上がる。
「よし、じゃあやるぞ!」健斗くんが服の水を搾りながら言うが、それを邪魔するように雨がポツポツと降り始めてすぐにザアザアになった。僕はまだ遊んでいたかった。心地が良かった。雨が降るまで快晴だったからというのもあるかもしれない。
「やばいな、帰ろうか。健斗くん、一回家に来て風呂に入るか?」
健斗くんは消えていた。遠くに人影が見えるから健斗くんが幽霊だったというオチではない。そーれそーれと声が聞こえる。踊っていた。その間も雨足は強くなる。
「———健斗くん変わり者だよね。」
「そうか?変わり者ってお前が勝手に決めていいものなのか。そういうお前も変わり者だと思うぞ。」パパは咳払いをする。雨がさらに降ってそれも場を濁してくれた。
「一回健斗くんには家に来てもらうからな。風呂でも入ってもらって、一緒に飯でも食おうじゃないか。いいか?緊張するか?」顔を見てくる。まだ少し嫌な気もしたけどいいよと言って健斗くんを探す。チョンは車に入れた。
見えなくなったのは坂を越えて視界に入ることが物理的にできないからだと2人は認識していたけど居なかった。
「なぜだろう。さっきまで見えてたよね。川なんて開けてるから遠くまで見えるはずだし。」僕は困惑する。
「いや、雨も降ってるしあんまり見えないじゃねえか。健斗くんの家に電話してやるよ。」
「家知ってるの?」
「ああ、大体。3kmくらいか。」
電話が鳴る。2人は急いで車に戻った。
背中に冷たいものが伝った。雨水と一緒に寒気があった。
気づけば服は重く、水を吸い込んで健斗くんみたいに川に飛び込んだみたいになっていた。チョンの毛もびっしょりで、車の中に湿った匂いがこもった。はっきり言って、、、クサイ。
「もう帰ったの?」驚きの声が勝手に出た。
パパは当たり前みたいにうなずくけど、3kmをこの時間で帰るのは…おかしい。走った?雨の中を?
背中に冷たいものが伝った。雨水じゃない。寒気だ。
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「これさ、結局どうだったんだよ?ママでも近くにいて車で帰ったとか、自転車で帰ったとかそんなんじゃないのか?」
「いや、ほんとに走ったんだよ。」健斗くんが言う。
「ほんと?」
「本当だよ。ほんとほんと、まじだぜ。信じろよ、親友。」
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3
「ごめん、おととい、雨が心地が良くて気づいたら踊っちゃって、、、」
で、帰ちゃったんだと僕は少し笑う。「大丈夫だよ。風邪ひかなかった?」
僕はやっぱりまだ不思議に思っていた。そんなに元気なのだろうか。でも今日は平日。おとといも平日だからやっぱり学校は休んでいるらしい。
「うん、まあちょっと喉痛いけど大丈夫。」
「あのさ————」
「風邪で休んだわけじゃないよな。」
僕は言ってしまったと思ったが黒い僕の中の悪霊みたいなのを止められなかった。悪霊みたいなのってみんな心の中で飼っているのだろうか、それとも自分だけ?
少しの間沈黙が続く。僕は本当に言ったのかすらはっきりしないくらい時間が経ったように感じた。けど、そこまで実際は経っていないらしい。
「うん、まあ。風邪ではない。」
「じゃあ、、、」僕がじゃあなんなんだ、と聞こうとすると健斗くんの手が制した。
「他人に聞かれるの好きか?俺、お前のこと聞いたか?」
「いや、、、まあ、、、」
「自分がされて嫌なことは他人にするなよ。」
僕には「他人」という響きが妙に脳に残った。
「そうだね。ごめん、、、」
僕が小さく言うと、健斗くんは少し俯いて黙ったまま、手をポケットに入れた。
「実はさ、、、昨日も、一日中寝てたんだ。気づいたら動けなくて、、、」
言葉が途切れる。僕は息を詰めて健斗くんを見た。
「なんとか外に出てるけど、正直、つらい日も多いんだ」健斗くんはそういうと石を投げた。川面で5回ほど跳ねてポチャンと音がする。
「あれに似てるんだ。ああやって人より動けるようになったり寝込んでしまったり、で、あんな風にポチャンって俺の人生は終わっちゃう気がするんだ。」
「———分かるか?」
またツクツクボウシ、ツクツクボウシと聞こえてきた。
セミもすぐに死ぬ。僕たちは毎回違う個体の鳴き声を聞いているはずだ。
「まあさ。ほんとどうしたらいいんだろうな。」僕が黙っていたら、健斗くんは付け加えた。「これ、持っといてくれ。多分もうそろそろ寝込むと思うんだ。今までは寝込んでたら親に色々頼んでたんだけど、長い出張するとかしないとか。」
「どっちなんだよ。」僕は笑う。紙に書かれていたのは住所だった。それを見るにやっぱり3kmくらい離れているらしい。
「まあ、薄々気づいてたけどね。そううつってやつでしょ。で、寝込んだら抑うつ。」
「気づいてたのか。」健斗くんは驚いた顔をしている。
「うん。気づいてた。僕たち仲間だね。」
「———勝手に仲間にするなよ。」健斗くんは突然大声をあげた。「俺の辛さ、お前に分かるのか?」
「———分からない。確かに。病気にも、せいしんしっかんにもグレードがあるのかな。」
「———ごめん、騒いじゃって。辛いよな、お互い違うベクトルの辛さが。」
「べくとる?」
「ああ、わからないか。なんていうんだろう違う種類というか、、、」
「なるほどね。そうだね。」僕は言った。「いつでも呼んでね。じゃあとりあえず明後日にでも行くよ。」僕は下見だ、下見。と微笑する。
「よろしくな。待ってるから———」
明後日になった。
———僕は学校にいた。教室に入る前から吐き気がしていた。唾が出てくる。袋に唾を出し続けた。
「まだ?」
「もうちょっとでしょ。ほら、」三者面談のお知らせと書かれた紙を見せてくる。
「長い。もう帰りたい。」貧乏揺りをする。頭を掻く。頭がおかしくなりそうなくらい吐き気がして僕はこの世の終わりかと思ってみたり吐き気に怯えたりしながら待つ。シャープペンシルを腕や肩や手に突き刺す。そうしないと正気が保てない。少ししたら良くなってもまたすぐに悪くなる。それの繰り返しだ。手は赤くブツブツになっていた。
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「、、、」健斗くんは横で黙っている。大変だな、と聞こえた気がする。
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「死ぬ、死ぬ死ぬ。」
「死なない。大丈夫。」ママは深呼吸深呼吸と息を吸って吐いてみせる。
「帰ろう。ほんとに無理。」僕の頭に健斗くんが思い浮かんだ。健斗くんの家には行けなかった。忘れていた———と言うより怖くて脳が消去したのかもしれない。この地獄のような面談を。
教室のドアが開いた。どうぞ腰掛けてと担任の牧野先生が言う。久しぶりだった。もう何年もここにきていない気がした。
「こんにちは。お久しぶりです。」
「お久しぶりです。」ママと牧野先生がやりとりする。
「ごめんね。、、くん。ここでやる決まりになってるんだ。」牧野先生は「大丈夫?」と言いながらドアを開けた。僕は震えていた。この地獄の時間が一生続くと言う感情が渦のように脳を取り巻いた。吐きそうなので喋られない。
「じゃあ、、、始めて行きますね。」牧野先生はパソコンを開く。僕はどうにかなりそうで机の横に顔を伏せた。
「こら、」ママが小さい声で言う。牧野先生が「大丈夫」ですよ、と言って話を進めた。
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「なんかさ書いてると苦しいね。」僕が言う。
「うん、そうだな。」健斗くんの低い声が聞こえた。
「この話は飛ばそう。」
「それがいいよ。また俺とお前が再開してからのことを書こう。」健斗くんは頷く。
「健斗くんの部屋が汚かったとかは書くかな?」僕は少し意地悪に言った。
「忠実に書こうよ。」と健斗くんは真面目そうに言う。
「この会話も物語に載せよう。」と僕は提案し、「自分たちの辛さって簡単に表せるものじゃないよね。それに読んでる人が苦しいと思わない?」と言った。健斗くんも賛成してくれたのでこの会話がここに載っている。
「結構大変な時あったよね、健斗くん。例えば寝込んじゃってトイレも行けなくて僕がオムツとか汗拭きタオルとか渡しに行ったり。またそれくらい酷くなることもあるのかな?」
「分からないよ。でも、そうなったら頼むな、また。」健斗くんは申し訳なさそうに言った。
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「来てくれたのか。」健斗くんが言って部屋に招く。歩くところがないくらいのゴミ屋敷だった。図鑑に、ティッシュに、食べた後のカップラーメンとか、とにかく色々転がっていた。
「来たよ。」
「——ごめんな。こんなゴミ屋敷で。まだ元気だからそこは安心してくれよな。」
「うん、どうしようかな。」僕は思案顔になったと思う。「片付けようか?」そう言う前に体は動き始めていた。
「ずっと家にいたの?」僕は聞く。あ、っと声を上げる。聞いちゃだめなんだったと思い出す。そのあ、っが聞こえたのか(本人は覚えていないらしい。)「大丈夫だよ。うん、寝込んでたよ。」
「寝込んでたってどれくらい?図鑑は読めるくらいは動けるの?」
「それくらいは動ける日があったりなかったり。」
僕はカップラーメンのゴミを捨てた。健斗くんは掃除機で埃を吸っている。寝転んでいるが、僕は指摘しなかった。病気ってそういうもんだと思う。コントロールできないわけだから。僕もそうなんだから。心の病気っていう表現が良くないよな、と腐って悪臭を放つ残飯を片付けながら思う。脳の病気だと僕は思っているし実際本を読んでるとそんなことが書かれていた。
「お前、本読むの?」健斗くんは僕のポケットを指差した。そこには文庫本が入っている。歩きながらあのセリフが良かったよな、とか思い出した時にその周辺の文章を見ていた。その作家の集大成みたいな本だった。人が死ぬのだけれど。
「読むよ。」
「ちょっと見せてくれないか。」と健斗くんが近づいてくる。「いいよ。」と僕は言う。健斗くんは読み出す。何時間も読んで読み終わった。僕はその間健斗くんを止めずに黙々と掃除を続けた。
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本が好きになってこう2人で意見を出しながら書いているのはこの時から決まっていたのかもしれないな、と未来の自分は思った。
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「すごいよ、すごいよこれ。」健斗くんは声を上げる。その作家の集大成なのだ。誰が見てもすごいし精神疾患の孤独さを如実に表していていて重いものだった。
「僕もこうなるかもしれない。」
「、、、俺も。」健斗くんはすぐ下を向いた。「でも、こうして2人でいたら大丈夫だと思わないか?———俺は思うけどね。」
僕は小さくうん、と頷いた。2人でいれば大丈夫。うん。多分。
「なんだか照れ臭いな。告白したみたい。」健斗くんは布団を被った。
僕はその本を捨てた。
「最後に死ぬのが良くないよな。この先生、なんで死なせたんだろう。俺にはよく分からないけど、結末は変えることはできると思う。」
「———うん。」
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「まあさ、ここまでの経緯を書いたわけだけど。」健斗くんが改まって言う。「まだ、治らないもんな。2人とも。」
「しょうがないよ。」僕は残金を確認した。「健斗くんはどう?お金大丈夫?」
「そりゃ大丈夫だよ。生活保護貰ってんだしほとんど外に出ることもないわけだから、、、」はぁとため息をつく。
「何年経ったっけ?」僕は指を折り数える。
「数えんくていいよ。」、、、、、、「数えないで。。」健斗くんはビシッと言った。僕はごめん、と謝り脳で計算した。15年くらい経っていた。
「なんかさ、この世の中って不公平でさ———サイテーだよな。神様っていないよな。アッラーもキリストも釈迦も」
「うん、、、」
「僕はこの小説は人を死なせたくない。健斗くんはどう?」僕は最終確認みたいに聞いた。もちろんOK。
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15年くらい経っていた。ネットでできることを仕事としてしている。とは言ってもすずめの涙ほどのお金で親に支えてもらうしかなかった。健斗くんは生活保護をもらった。親とはなんとかやっているらしい。
「まあさ———世の中不公平って言っても生活保護だっていただけるんだし、ネットでできる仕事もあるにはあるし。大丈夫だよね。なんとかなること多いよな。」
「そうだね。」
「なんか、未来決まってる?俺は決まってない。」健斗くんが言う。「決まってないというより決められない———のかも。」
「うん、、、ちょっとね。」
「なんだよ?」
「他人の話は聞くなじゃなかった?」
「そうだったな、ごめん。」健斗くんが馬鹿正直にごめん、と言うので僕は笑ってしまった。なんだよ、と健斗くんは言う。僕はそれを聞いて言いたくなった。
「大学に行こうと思う。」
「大学?あれって高校卒業してすぐじゃないと行けないんじゃないのか?」
「いや、ちがうよ。おじいさんだっているしおばあさんだっているし。ほら、この前通った法案で飛び級も可能になったわけだから下手な話、赤ちゃんだって入れる資格はある。」
「知らんかった」
僕は知らなすぎだよ、と笑う。オンライン大学にした。2040年だから世間の理解も深まっているわけだ。
「まあ、なんとかなるよ。」
「———だな。医者、目指すのか?」
「あのさ、」僕は呆れる。「外に普通に出れない人が医者になれると思うか?」
「無理だな。」健斗くんは寂しそうに笑った。
「でもさ、外に出れるようになったら———」
「うん———リハビリだよ。俺が連れて行ってやる。お前に発作が起きても車椅子も買ったし大丈夫。俺が免許取ったんだからどこにでも行けるし。」
「楽しみだね。」僕は言った。健斗くんは躁鬱の時季に免許を取っていた。自動運転が主流になったので鬱病でも免許が楽に取れるわけだ。
窓の外からツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。ツクツクボウシ、ツクツクボウシ、ツクツクボウシ———学校に縛られていた時はこの音を死刑宣告みたいに身構えていたが———今は心地が良く感じた。
よし、と僕は言った。外が待っている。家も待っている。健斗くんもいる。大丈夫なはず。僕はドアをミシミシと開けた。
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