第6話
「あのね……私、一個下の妹がいるんだけど。私のせいで、妹は沖縄への修学旅行に来れなかったんだ」
水槽の青い光の中で、彩香は静かに語り出した。
彩香が中学生の時から、白血病で何度も入退院を繰り返す彩香に、両親は付きっきりだった。寛解して、地固め療法に入った後も、過保護と言っていいくらい、両親は常に彩香のことを心配していた。
その分、思春期真っ只中の妹は、孤独にさらされることとなった。
彩香が中学三年生のある日。
妹は、自殺未遂をした。
「病院でね、泣いてる私たちの前で、妹はこう言ったの」
『私も入院すれば、お母さんは私の方見てくれると思った。死んだら、お姉ちゃんじゃなくて私のこと考えてくれるんじゃないかって』
「その出来事のせいで、妹は楽しみにしていた修学旅行も行けなかった。もし妹がここの水族館に来れていたらって、思ったら、急に涙が出てきちゃって」
「そっか……」
話を聞いた拓海は、難しい顔で黙り込んだあと、不意に口を開いた。
「きょうだい児……って、知ってるよね」
思いがけない言葉だった。
『彩香ちゃんのせいじゃないよ』そんなどうでもいい予定調和の慰めが来るだろうと予想していた彩香は、一瞬、息を呑んだ。
「うん。まさにそれだった」
——きょうだい児。それは、病気や障害を持つ子供の、きょうだいとして生まれた人たちを指す言葉だ。
家族の中では、どうしても病気や障害を持っている子供が中心となりやすい。親は病気の子供へつきっきりになり、時には入院の付き添いなどで何日も家を空けることになる。
健康な自分は親に負担をかけないようにしなければ、と言う責任感に苛まれる一方、親からの愛情を求めて苦しむなど、きょうだい児にはきょうだい児の抱える苦悩があった。
彩香の妹も典型的なきょうだい児であり、その特有の苦悩を抱えて生きていた。
「俺らは病気で苦しんで、親はその子のために走り回って、きょうだい児は別の場所で孤独に耐えて。それぞれにそれぞれのしんどさがあるし、ままならない部分も多くあると思う。けど……」
拓海は、何かを振り絞るようにして、言葉を連ねた。
「俺の同い年だった闘病仲間さ、亡くなってるんだ」
「えっ」
突然振ってきた重たい言葉に、思わず声が漏れる。
「そいつはもう、世話をかけた親に何か孝行することも、兄弟の苦労に報いることも、二度とできない。でも、俺ら生きてるじゃん。生きてるなら、彩香ちゃんはその妹をこの水族館にいつか連れてきてあげることもできるし、足りなかった家族の時間を補うことだって、出来るはずだよ」
それは、過去を後悔してばかりいた彩香に、未来を示す言葉だった。
拓海にとって、友人の死は話すだけでも辛いことだっただろう。それは、震える声が如実に表している。
それでも拓海は、彩香のために話してくれた。そのことに、彩香の涙は余計に溢れてくる。誤解をされたくなくて、話してくれてありがとうと伝えたくて、彩香は何度も拓海に頷いた。
「うん、うん……そうだよね。私、生きてるから。妹のためにできること、まだあるんだもんね」
傍らの水槽を、魚の群れが泳いでいく。その命の煌めきを、二人はしばらく眺めていた。
拓海がふっと息を吐き、笑みを浮かべる。
「俺たち、少ししんみりしすぎたな。せっかく水族館に来てるのに」
「そうだね、せっかくだもん、今日は目一杯楽しもう」
空気が少し和らいだところで、二人はカフェを出て歩き出した。
グループに合流すると、皆は暖かく出迎えてくれた。
「もー、マッチングもしてないのに二人きりでデートすんなよー」
そんな風に言って、理央が明るく場を盛り上げる。
歩夢はマイペースに水槽を眺めては、「魚美味そう」などと呟いていた。
そして、有名なトンネル型水槽に差し掛かる前に第二印象マッチングが行われる。マッチが成立したのは、光流と結衣、そして……理央と愛菜だった。
マッチの成立が公表されて、愛菜の顔が輝く。もはや隠しようもないくらい、理央に恋をしているのは明らかだった。
だが、その瞳がふと陰る。
「あれ? 彩香ちゃんは? 拓海くんとじゃないの?」
不思議そうな顔で、愛菜は尋ねた。その疑問に答えなければならないことを心苦しく思いながらも、愛菜に見えない角度からスタッフの手振りで指示があり、彩香は覚悟を決める。
「私は……理央くん書いたから」
「えっ?」
丸く大きな目が驚愕で見開かれ、次第に複雑な表情へと変わっていく。ライバルが現れたことへの不安と、彩香への申し訳なさと、ほんの少しの対抗心が綯い交ぜになり、愛菜の愛らしい顔立ちを陰らせていく。
「その話は後にしよ! まずは俺とのデート楽しもうぜ」
ピリついた空気を吹き飛ばすように、理央が大きな声を出して愛菜の肩を抱く。そうして、光流と結衣、理央と愛菜はそれぞれに水族館デートを開始した。
「じゃあ、まあ、三人で回ろっか」
少し気まずい空気ながらも、彩香は拓海と歩夢に声をかける。
「歩夢くんは、誰の名前書いたの?」
「俺は……神山さん」
「えっ、なんで?」
歩夢が愛菜を選んでいたことに、彩香は驚く。愛菜はすでに理央に夢中で、割って入る余地があるようにも思えない。
それに歩夢は、第一印象マッチングでは、結衣の名前を書いていたはずだ。疑問が顔に浮かんでいたらしい。彩香の表情を見て、歩夢は渋々といったように口を開いた。
「や、初日、一人だったから。神山さん」
そういえば、拓海と理央は彩香を選び、光流と歩夢が結衣を選んだことで、愛菜は一人あぶれていたのだった。男女比が男に偏っている中で、これは少々気まずい。
歩夢は物静かでゲームのことばっかり気にしている印象だったが、根は優しい性格のようだ。
「余計なお世話だったっぽいけど」
「そんなことないだろ。優しいな、歩夢は」
「や、俺、学校で二人組作ってーみたいなやつでいつもあぶれる側だったから、気まずくて」
と、ふざけているのか真剣なのかわからない表情で、答えにくいことを言う。
「それに俺、むしろこっちでもお邪魔虫な感じになってない?」
二人はいい感じなんだろ、と口に出さないまでも歩夢の眼差しが如実に語っていた。
彩香は壮治からの三角関係作戦に関する指示もあり、あまり迂闊なことは答えられない。
「そんなことないって! それより歩夢くんは、誰か気になる人いないの?」
恋愛リアリティーショーらしく、恋バナで誤魔化してみる。
「俺はまぁ、暇つぶしに出てみただけだし」
歩夢は彩香から目を逸らしながら、ぼそぼそ、と答えた。
一行はトンネル型の水槽に差し掛かり、天蓋から青く透き通る光がゆらゆらと揺らめいている。
「歩夢くんは、恋をするつもりはないの?」
「俺、病気が原因で一回振られてるからなぁ……」
なんでもないことのように、歩夢はぼやいた。そのぼそぼそとした語り口は、今までと何も変わらなくて。けれど、どこかで、自嘲するような、自棄的な響きを帯びていた。
「え……」
「未来のこと考えられないって言われて初彼女に振られたんだ。正直あんまり、イッパンジンと深い付き合いができるとも思ってないし、同じ立場ならと思って参加してみたけど……。俺、自分と同じ病気の人、逆の立場になってみたらイヤかもって。正直、彼女がいつ死ぬかもわからない病気って、怖すぎるし……」
「わかる。怖い……よな」
自分と同じ病気の相手は嫌だという歩夢の言葉に、拓海が同意を示して、彩香は少しショックを受ける。だけど、よくよく考えてみれば、彩香にとってもその気持ちは理解できるものではあった。
「自分が死ぬ可能性には慣れているけど、自分の大切な人がって思うと、正直ちょっと怖気付くよね」
「そうなんだよな。俺は白血病で闘病仲間を亡くしてるからさ。余計に怖い気持ちはあるよ。その上、理央みたいに再発したやつが身近にいるとな」
葛藤は、どうしようもない現実として存在した。それは恋愛リアリティーショーの中の恋だけに限らず、この先一生付き纏ってくる類の悩みである。若くして死が近く、死について思い悩まなければならなかった者達特有の苦しみだ。
そんな三人の物思いなど知らぬげに、ジンベエザメは天蓋の水槽を悠々と泳いでいた。