第32話
病院で相談すると、主治医は非常に難しい顔でしばし黙り込んだ。
「うーん。正直、この先悪化する可能性も否定はできないからね。今は無理はしないでほしい。投薬治療と安静にした上で二週間後、レントゲンで改善傾向が見られるようなら出演も許可しよう」
二週間後、となると、本番までほとんど時間はない。焦りはあるが、ここで無理をして出演を禁止されたら元も子もないために、今は耐えるしかない。
「おっ見舞ーいに来ましたよ!」
家で安静にしている彩香の元へ、愛菜が見舞いにやってきた。名古屋住まいの愛菜だけれど、イベントのためにすでに東京入りしているのだ。打ち合わせに練習、リハーサルと、やるべきことはいくらでもある。
「わ、愛菜ちゃん、久しぶり。元気だった?」
「そりゃもう、見ての通り! 理央くんともラブラブで、人生の春を謳歌中です!」
にしし、と愛菜が変わった笑い方をする。
それに釣られて彩香も笑った。
「あれからも理央くんと仲良くやってるんだ」
「はい! まあ遠距離ですけど、三連休とか長期休みとかは会いに行けてるんです。私もまた高校入り直しましたから忙しいんですけどね」
「高校、入り直せたんだ。よかったね」
みんなそれぞれに自分の道を歩み始めている。彩香もまた、今は療養に励むのが前に進むための道だと信じて、頑張るしかなかった。
「うん。みんなのおかげ。私、少し前まで人の目が怖くて、病気のこともあったけどそれで学校辞めちゃったんです。でも、あや恋があったから強くなれた」
確か愛菜は、髪が無くなった姿を見られて「雰囲気美人」と暴言を吐かれたのだったか。そんな愛菜がダンス番組に出演などして精力的に活動しているのを見るのは、彩香にとっても嬉しかった。妹のようなものなのだ、愛菜は。
「私も頑張らなきゃ」
「無理はしないでくださいね、彩香さん。肺炎だって聞いて、びっくりしたんだから」
「うん。でも、チャリティイベントには出演するつもり」
「拓海さんも心配してましたよ、もう。意外と頑固なんだから」
そう言って愛菜は苦笑した。その笑顔は以前よりも少し大人びて見えて驚いた。困ったように、少し苦しそうに目を細めて笑う愛菜は、本気で彩香のことを心配しているのだろう。
色んな人をヤキモキさせながら、それでも自分の意思を押し通している。そのことを自覚しながらも、彩香は最後の最後まで諦める気にはなれなかった。
あの時、病院で話しかけてきたファンの少女を思い出す。
彼女は退院したらチャリティイベントを見に行くのが夢なのだと語っていた。
彩香が頑張ることで、同じように病気に苦しんでいる子たちの希望となりたい。それは、あの子と話してからずっと胸に抱えてきた思いだった。
再発したことを、ただマイナスなだけの出来事にはしたくなかった。
再発したからこそ、病気と闘うことで人々の希望になりたかった。
彩香にとってそれは、自分の人生に意味を見出すため。もし短い生で終わることになったとしても、あの「桂木彩香」は生き抜いたのだと、他の人々を勇気づけられればと、そんな思いを抱えていた。
療養生活のお供は、「あや恋」の番組事務局に送られてきたファンレターだった。「励まされた」とか、「勇気づけられた」とか、そんな言葉が、可愛らしい便箋や、少し大人びた罫線の上を踊っている。
同じ病気の患者や、患者家族、特に病気ではないけれど同年代の若者たち。病気のことだけでなく、歌手として、アーティストとしてファンだという人もいた。そんな彼らの言葉が、彩香の心を奮い立たせる。
そして、運命の診察の日。
レントゲンを撮って、改善していなければチャリティイベントには出られない。
ベッド上で安静にして過ごしたこの二週間は、永遠にも感じられた。時計の針が進むたびに焦りが募る中、歌も歌わず、ただ体の回復に努めていたのだ。
その結果が、今日、判明する。
緊張しながらも、彩香は病院に赴く。病院までは、仕事のある両親の代わりに拓海が付き添ってくれていた。
二人で手を繋いで歩いていく。
「ついに、今日だね」
「うん。もしダメだったらどうしよう……」
「その時は、その時だよ。……俺は絶対に彩香ちゃんを置いていったりしない。回復して元気になったら、また一緒に活動しよう?」
かつて彩香の劣等感をぶつけてからも、拓海は変わらず彩香に接してくれていた。やっぱり、作曲の能力では拓海の方が誉められていることが多く、嫉妬してしまうことはある。けれど、彩香の歌声や作詞も評価される機会が増えていて、少しずつ自信もつけていた。
このまま、二人で活躍できるようになりたい。その思いに変わりはない。
そのための第一歩が、チャリティイベントなのだ。
二人で歩いている道すがら、三月の陽気に桜の木の枝がそよいでいた。その枝には、膨らみかけた蕾が薄桃色の光を透かしている。
今日は最初にレントゲンを撮り、その後診察だ。
名前を呼ばれ、緊張しながら診察室へ赴くと、主治医は笑顔で待っていた。
「こんにちは、桂木さん」
「こっ、こんにちは。それで、先生、結果はどうですか?」
待ちきれずに彩香が勢い込んで尋ねると、主治医は電子カルテの画面にレントゲン写真を映し出した。前回撮ったものと今回のもの、二つが横並びに映し出されている。
主治医が説明をし始めるまでの数秒間が、永遠のようにも感じられた。
「見ての通り、ここにある胸の白い影が薄くなっていますね。改善傾向です。今のまま症状もおさまっているようであれば、イベントに出演しても大丈夫ですよ」
「あっ、ありがとうございます! 先生!」
やった、と彩香は小さくガッツポーズをした。待合室で待っている拓海に、今すぐにでも伝えに行きたい。そのまま辞去しそうになる彩香に対して、主治医は少し眉根を寄せて引き留めた。
「それでも、完全に治っているわけではないですからね。無理しないように、特にこの状況で感染症になったりすると、呼吸状態が悪化する恐れがありますから、できるだけ人混みは避けて」
その後も長々と注意事項を説明された。これからはリハーサルなどもあるのだ。どうしても人の多い場所に行かなければならない機会もある。それでも、何とか対策をして参加するしかないだろう。
彩香は力強く頷くと、きちんと気をつけることを約束して診察室を後にした。