第30話
咳はなかなか治らなかった。
再発の兆候である、歯茎からの出血や、青あざなどはできていない。
なのにどうして、と彩香は不安に思う。この後に及んで、別の病気にでもなったのだろうか。
ひとまず主治医に相談すべきだと、病院を受診することにした。
いつ来ても、この大病院の受付は慣れない。この特殊な空間で、自分が世間と隔絶されているような気分になる。
「桂木さーん、お入りください」
1時間ほど待ったあと、ようやく診察室に呼ばれた。
「はいこんにちは。どうしたの今日は?」
「一週間前からずっと咳が止まらなくて。熱もないし、痰とかもないんですけど」
「うーん、そっか。ちょっと聴診するね」
呼吸の音を確認した主治医は、ふうとため息をついた。その思案顔に、不安がいや増す。
消毒液の匂いが、やけに鼻についた。
主治医は、聴診器を首にかけると、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと時間かかっちゃうけど、今日はレントゲンと、うーん……念の為にCTの検査もしていこうか。時間は大丈夫?」
「はい。あの、先生。私の病気って……」
「うん。まだはっきりとは言えないから検査をするね。……念の為に聞くけど、妊娠とかの可能性は?」
「ッ、ないです!」
いきなり、なんてことを聞くんだろう。彩香は焦って大きな声を出してしまった。
検査は放射線なども出るから必要な質問だというのは彩香にもわからないでもないが、主治医からそのようなことを聞かれるのは気恥ずかしくてちょっと嫌だった。なにせ、世間中に恋人との出会いから結ばれるまでの過程を知られている状況なのである。
検査室に案内され、またそこで長時間の待ち時間が発生する。
不安が強くて、すがるように彩香は拓海にメッセージを送ってしまった。
『今、病院。咳のこと相談したら、CTまで撮っていけって。不安なのに待ち時間長いし、怖いよー』
ついつい甘えるような口調で送信してしまう。
拓海からは、すぐに返信が来た。
『待ち時間、怖いよね。何か気晴らしいる? 新しい曲作ったから送ろうか』
『え、ほんと! いるいる』
そうして拓海が送ってくれた曲を、イヤホンで聴く。それはゆったりと優しい旋律のバラードで、天に焦がれる天使が翼を焼かれ墜落し、遙かな海がそれを受け止める、幻想的な歌詞の曲だった。
(まるで、イカロスの翼みたい)
自意識過剰、ではないだろう。イカロス欠失という遺伝子変異のことは、拓海に伝えているのだから。墜落しても海が受け止めるだなんて、粋なことを言う。
そうして時間を潰しているうちに、検査を受ける時間が来た。
全ての検査を終え、再び診察室に呼ばれた時。彩香は自分を励ますように、お守り代わりにかつて沖縄で買ったピンキーリングをそっと撫でた。
「結果から言うと、軽度の間質性肺炎ですね。化学療法後に薬剤性の間質性肺炎が起こることが、稀にあります」
「あの、それって大丈夫なんですか?」
「今のところ、酸素の値は大丈夫なので入院までは必要ないですが……。炎症を抑える薬を呑んで、安静にしてください。次回の予約も取っておきましょう」
なんで……、と思う。
乗り越えたと思ったのに、今度は薬の副作用。
13歳で白血病になって、何とか乗り越えたら今度は初めての恋人ができたタイミングで再発して。
辛い抗がん剤治療を頑張って耐え抜いて、ようやく夢に手が届くと言う時に。
(なんで、私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんだろう)
流石に少し、心が疲れていた。
暗い顔で、とぼとぼと病院から帰りのバス停に向かって歩く。一体何の罰なのか。前世で何か悪いことでもしたのか、と思い悩みさえした。
長引く検査で、すでに日は暮れかけていた。びゅうびゅうと、冬の風が彩香の肌を切り裂いていった。あの夏から数ヶ月が経過し、季節はすでに冬となっていた。
「も、やだ……」
気がつけば、足は自宅ではなく駅の方へと向かっていた。拓海の住む家の最寄駅に向かう路線だ。
会いたい、今すぐに。そう思うものの、突然押しかけたら迷惑になるという考えも浮かんできた。
悩みつつ、駅のホームに立ち尽くしていると、不意に電話がかかってきた。
「あれ? 拓海くん? どうしたの?」
「うん、検査どうだったのかなと思って、ちょっと心配になっちゃって。もしよければ、病院まで迎えにいこうかと思って」
「そんな、大丈夫……。ううん、会いたいかも。今から会いに行ってもいい?」
「いいよ! もちろん!」
「じゃあ、今から拓海くんの家に向かうね!」
「えっ、家? わ、わかった! 待ってる……」
少し慌てたような声がした後、電話が切れた。
(……いきなり家は、流石に図々しかったかな?)
それまで拓海の家に向かおうと駅のホームにいたせいで、その発想しか無くなっていた。
ともあれ、訪問の約束は成立したのだ。
手土産に何かお菓子でも持って向かおうと、エキナカのお店で焼き菓子を買って、電車に乗り込んだ。
「けほ、けほっ」
電車の中で咳き込んでいると、マスクをしていても目立ってしまう。少し肩身の狭い思いをしながら、拓海の家の最寄駅まで着いた。
『西口改札で待っているから、そこで落ち合おう』
そんなメッセージが、拓海から送られてくる。わざわざ迎えに来てくれるらしい。
彩香は恋愛経験こそ乏しいものの、流石にここまで至れり尽くせりで気を遣ってくれる男性は珍しいのではないかと不思議に思う。あまりにも優しすぎて、逆に不安になることもあった。
(私じゃ、釣り合わないんじゃないかな)
体の調子があまり良くないせいか、気まで滅入ってくる。せめて拓海にこれ以上気を使わせないようにしないと、と彩香は自分に気合を入れて、改札口へと向かった。