第27話
ファンの女の子の登場により、彩香の闘病生活は鮮やかに色づいた。
少しでも多く食べられるようにと、時間を目一杯使って食事を摂る。体力が落ちていたため、病棟の廊下を毎日往復して、回復に努めた。
その一方で、思わぬトラブルもあった。
チャリティイベントへの出演を、母に大反対されたのである。
「こんなにボロボロになって、体力も落ちているのに、退院したら練習をしないといけないのでしょう? そんなこと心配でとても許可できないわよ!」
「そんな、お母さん! せっかく私の夢が叶いかけてるんだよ! 私、こんなことで諦めたくない」
「こんなことって、命に関わる病気なのよ」
その諍いを治めてくれたのは、意外にも壮治だった。
「私は彩香さんに是非出演していただきたいと思っています」
「それは、プロデューサーさんからしたらそうでしょうけど……」
「いえ、白血病で娘を亡くした父親として言っています」
壮治の厳しい声音に、母は息を呑んだ。
「彼女の夢と青春を見守ってきた人間として、後悔しないようにさせてやりたい。失礼ですが、ご両親はもしかして、本当に死ぬ可能性があると実感としては理解していないんじゃないんですか? 自分より遥かに若い子供が、親を置いて死ぬことは、本当に起こり得る現実なんですよ」
壮治の言葉は、桂木一家がうっすら目を逸らしていた現実を、真正面から叩きつけるものだった。
——後悔しないようにさせるべきだ。いつ死ぬかわからないのだから。
それは、紛れもない事実で、どうしようもない現実だった。
母はまるで横面を張られたような顔で、呆然としている。
「そう、ですよね。私、後悔したくない! ねえ、お願い。心配なのはわかるけど、お母さんにも応援して欲しいの」
「嫌な話をして申し訳ありません。ですが私は、親として後悔することが多かった。もっとああしてやれば、こうしてやればって、今でも思うことばかりです。最後に家族で遊園地に行きたいと願う娘に、もっと回復したら、今は感染リスクがあって危ないからと言い聞かせて、けれど回復することなくあっという間にっ……失礼。そんな風に、桂木さんにはなって欲しくないんです」
壮治が言葉を詰まらせながら語る言葉に、彩香は思わずもらい泣きをしそうになった。
病室の中が微妙な沈黙に支配される。母は天井を見上げ、何かを思案するように眉を寄せた後、ふうと長いため息をついた。
母は持参したペットボトルのお茶を一口飲み下すと、お茶と一緒に色々な感情も飲み込んだかのように、表情を穏やかなものへと変えた。
「私、ここ数年間彩香が元気で、油断していたかもしれません。将来のことを考えなさい、シンガーソングライターなんてやめなさいって言って。それでもし彩香が夢を諦めたまま再発していたら……」
「拓海くんとは出会えてなかったよね。それで多分、闘病生活の心の支えも、目標も薄かった」
母は少し涙ぐんで、彩香を抱きしめた。
「娘が亡くなるかもしれない、なんて。この怖さにどうしても向き合えなかったの。でも、そのせいで彩香が後悔するのはもっと嫌よね。お母さんも、頑張って向き合うから」
「ありがとう。心配ばっかりかけて、ごめんね」
母は両手でぐっと涙を拭うと、少し乱暴に彩香の頭を撫でた。
「本当にもう、この子は心配ばっかりかけて……。原口さん、どうかこの子をよろしくお願いします」
深々と母が頭を下げる。それに対して、壮治はまっすぐな瞳で向き合った。
「必ず彩香さんを安全に夢の舞台へと連れていきます。医師の判断を仰いで、しっかり健康のことも考えた上で対処します。ご両親の協力も必要不可欠ですから、こちらこそよろしくお願いします」
そうして、彩香の夢への道が始まった。
抗がん剤治療を1クール終えて、髄液からも白血病細胞は無くなった。これからは退院して外来で通院を継続しつつ、地固め療法をしていくことになる。
襟の高い服を着た彩香は、首元を気にしつつもついに訪れた退院の日を喜んでいた。抗がん剤治療では、首に太い点滴の管を入れなければならないため、その穴を縫った傷跡がまだ残っているのだ。
髪も抜けて、肌も荒れている。正直、外に出るのはまだ少し怖い。
でも、と手に持ったスマートフォンの画面を見る。
連絡先を交換した愛菜から、退院を祝う声が届いていた。番組で共演した時の、彼女の強さと誇り高さを思い出す。
恥じることは何もない。傷だって、ボロボロの体だって、彩香がこれまで戦ってきた証なのだ。
シャンと背筋を伸ばして、病院の正面ドアを出る。ロータリーの前では、車の横に母が立って待っていた。
「おかえり、彩香」
「えへへ。まだ病院の前だよ。気が早いんだから。……ただいま」