第25話
深夜2時。
全身に広がる酷い悪寒で彩香は目が覚めた。
まだ夏の終わりかけだというのに、体の芯まで冷え切って、まるで北極にでもいるかのような気分になる。その寒気はただ苦痛なだけではなく、本能的に湧き上がってくる死の恐怖さえ呼び起こすものだった。
発熱性好中球減少症。
抗がん剤治療によって免疫細胞が減り、発熱を起こしている状態。それが今の彩香の状況だった。
中学生の頃の治療でも経験した事態だ。本当に死亡する危険性もある状態であり、腕の点滴からは抗生物質が流し込まれている。
(怖いし、体の節々は痛いし、苦しいし。あー、もうやだ。……頑張って生きるの、やめちゃいたい)
熱と体調不良で、気が弱っているだけだ。そうとはわかっていても、苛立ちを抑えられない。
ここ最近の彩香の体調は、酷いものだった。抗がん剤の副作用で吐き気は止まらず、食事もろくに喉を通らない。
抗がん剤の投与から一週間も経てば吐き気は治ると言われているのに、彩香は投与後10日たってもまだ嘔気に悩まされていた。発熱している影響だろうか。
ついには鼻から管を入れられて、無理やり胃に流動食を流し込まれているのだ。管の違和感はすごいし、ご飯の楽しみもない。
家族とは面会することもできず、感染対策で病室から出ることもできない。
「はあ、はあっ……。やばい、吐きそう」
看護師さんを呼ばなくては……。
倦怠感が強くろくに身動きも取れない体で、ベッドの柵に引っ掛けられたナースコールを押し、夜勤の看護師を呼ぶ。
「桂木さーん。どうされました?」
「吐き気が、酷くて……」
「あ、じゃあガーグルベースン持ってきますね」
看護師さんが持ってきた器の中に、我慢できず嘔吐する。胃液混じりの流動食がごぽりと喉から溢れ出した。
「ふっ……うえぇ……」
なぜか吐瀉物と一緒に、涙まで溢れてきた。看護師さんがそれに気づいて、背中を撫でてくれる。
「辛いですよね。もう少しの辛抱ですからね」
「うぅ、ごめんなさい」
心配かけてごめんなさいなのか、迷惑かけてごめんなさいなのか。何に対して謝っているかもわからず、ただ情けなさと苦しさで、涙はさらに勢いを増してしまった。
眠れない夜は更けていく。意識が遠のいては、体調の苦しさで目覚め、また意識が遠のく。
そんな日々をなんとか耐え抜いて、ようやく熱は下がってきた。
自力で立って歩けるようになった頃。歯磨きをするために鏡を見た彩香は、茫然自失となってしまった。
髪の抜け毛が増えているのはまだいい。覚悟していたことだ。
目は落ち窪んで、目の周りが茶色く色濃い隈に覆われている。唇はカサカサにひび割れて、血が滲んでいた。
まるで、一気に何十歳も老けてしまったかのよう。
(これで、ドキュメンタリーの撮影を受けるの……?)
熱が下がり、白血球が回復してきたら撮影を行うことになっていた。病室から出られるようになれば、拓海との再会シーンを撮る予定なのだ。
この姿で好きな人と会うだなんて、到底受け入れ難い。
ようやく胃管が抜けて、自力で食べられるようになったばかりだ。それもおかゆを一口、一口と少しずつ食べているような有様なのだ。
ここからどこまで見た目が回復するだろうか。
実際問題、表に出る仕事というシビアな世界に身を置き始めた彩香は、そのあたりの現実も知りつつあった。音楽業界での彩香に対する評価は「見た目は清楚系でいい、歌声も良し。話題性は最高。作曲能力は素人レベルだが、拓海のアレンジが良いため組ませたい」というものらしい。
実際問題彩香の夢が前に進み始めたのは、話題性と拓海のおかげでもある。見た目が重要になることも、よくよく承知していた。
これまで作曲に真面目に取り組んできたわけではない拓海に才能面で負けているのも、少しだけ劣等感はあった。だからこそ、それ以外の部分ではなんとか取り繕わないと、置いて行かれてしまいそうな恐怖もあった。
二人で一緒に活動していきたい、と伝えた以上、拓海の才能におんぶにだっこするつもりはなかった。それでは二人で一緒に歩むことにはならない。
病気の影響で、いろいろな活動が遅れをとっている以上、なおさらだ。
会いたい気持ちはある。早く病室から出たい気持ちも。
けれど、それ以上に自分のボロボロになった姿を晒す不安が大きかった。