第24話
「うん、白血球も炎症反応の値も問題ないね。それじゃあ、これで一時退院です。ふう、予約してもらった航空券が無駄にならなくて良かった」
初期治療で症状が落ち着いていたため、東京への転院は普通の飛行機で向かうことになっていた。母が迎えに来ており、そのまま一緒に飛行機で自宅へと向かう予定だ。そうして入院の準備を終えたら、また東京の病院に再入院して、全身化学療法の開始である。
「さ、早く行きましょう、彩香。空港でお土産買っていくんでしょ」
迎えに来た母が彩香を急かす。家族に、友達に、バイト先の同僚たちに。「あや恋」で彩香が倒れるシーンはカットされることなく放送されていて、随分と心配をかけてしまった。やたら危機感を煽る壮大なBGMまで付けられていた。
だから心配をかけた相手には、沖縄土産くらい自分の手で配りたいのだ。
空港では定番のサーターアンダギーを沢山買い込み、無事に搭乗を終える。
空の上から見る沖縄の島々を、往路とは異なる気持ちで眺めた。沖縄まで来る時は、不安とそれを上回る期待でいっぱいだった。
今は、静かな決意が彩香を満たしている。これから始まる抗がん剤治療への不安や恐怖はもちろんあるけれど、それでも生き抜きたいという思いが強い。せっかく、夢が叶う一歩手前まで来ているのだ。
久々に吸う東京の空気は少し猥雑で、あんまりいいにおいではなかったけれど、懐かしさと共に「帰ってきたんだ」という実感が湧いてきた。
「おねえー! もう、お姉のばかばかばか!」
自宅に帰ると、二階から駆け降りてきた律香が胸に飛び込んできた。
「な、なんで私は罵倒されてるの?」
「なんでも何もないの! また、また倒れちゃうなんて! ……うぅ」
彩香の襟は、あっという間に律香の涙でぐしゃぐしゃになった。
「うん。律香、まただよ。心配かけるね。でも、お姉ちゃんも頑張るからさ、応援してよ」
「応援なんて、当たり前だよぉ!」
ぎゅうぎゅうと律香が抱きついてくる。この暖かな感触も、抗がん剤の治療が始まってしまえば感じることはできなくなる。免疫細胞が薬の影響で減少し、無菌室に隔離されてしまうからだ。
本当は拓海にももう一度会いたかったけれど、彼はまだ沖縄だ。拓海もまた東京の大学に通う大学生なので、そう遠くないうちに戻ってくるだろうけれど、彩香と会うことは、面会の制限を考えれば厳しいだろう。
「さあ、入院の準備をしなくちゃ」
色々なものを無理やり割り切るようにして、彩香は務めて明るく声を上げた。
久々に帰った自宅で家族団欒の時間を過ごし、入院の準備を終えた。たいして休む暇もなく、東京湾を臨むかかりつけの病院へと赴く。
懐かしい場所。近頃は年に一度の定期診察の折でしか通うことのなかった場所へ、再び戻ってきた。
その建物の威容にはいつ来ても圧倒される。こんな大きい病院でなければ治療が出来ない病気だと思い知らされるようで、訪れるたびに少し重たい気分になる。
平日なのに、病院の受付は人で溢れかえっていた。
ざわつくホールに、車椅子姿の人やマスクをして咳き込んでいる人、スタスタと歩いている人。様々な人が行き交っている。
「また、入院かぁ」
「面会できるうちは頻繁に面会に行くから……」
少し憂鬱になって彩香が呟くと、母が気遣うように背中を撫でた。まだ子供扱いをされているようで少し恥ずかしいけれど、その手の温もりも今しか得られないものだと思えば尊く感じられる。
入院手続きを終えて、書くべき書類を書き終えたら、母は帰宅することになった。
ここから先は、だいぶ孤独な戦いとなる。
ベッドテーブルの上に、ドキュメンタリー制作スタッフに渡されたアンケート用紙と、『拓海への手紙』を書くための可愛らしい便箋を広げた。彩香は「さあ、仕事仕事!」と自分に気合を入れる。
最初、ドキュメンタリー撮影が入ることに対して不安もあったが、こうなってくるとむしろ気が紛れていいとも感じられた。抗がん剤の治療は本当に苦しいことの連続なのだ。その訪れを何もせずにただ座して待つ時間ともなれば、きっと耐え難かっただろう。
「やるべきことがあるのはいい事だよね。うん」
アンケート用紙に記載された、『再発を知った時の気持ちは?』や『治療を前にして不安な事』などの容赦のない質問事項へ、赤裸々に回答を記入しながら、彩香はこの先自分の身に起きるであろうことへ思いを馳せた。