第8話 惨劇からの祝福
「ハァッ…ハァッ…!」
息遣いが荒れ、肺に冷たい空気が刺さる。
濡れた落ち葉が靴底にまとわりつきながらも、俺たちはただ全力で走り続けた。
振り返る余裕なんてない。
ただ背後から響く土を蹴るひづめの音が、どんどん近づいてきているのを感じる。
その音は”死”が近づいてくると思わせるほど重く、深い恐ろしい響きだった。
息が切れるたびに胸が焼けるように痛む。
ただそれでも、俺たちは胸が焼け付く痛みと恐怖を押し殺し、必死に走り続けた。
もし立ち止ればその瞬間に―――
「くっ…!」
突然、自分の体が自分の体で無いような感覚に襲われた。
そして、体勢を崩した俺は地面へと倒れ込んでしまった。
土が手のひらに冷たくまとわりつき、膝にも鋭い痛みが走る。
まずい、これじゃあ走れな―――
「ズドォンッ!!」
転んだ瞬間、巨大なヘラジカが猛然と突進してきて、その大きな頭が俺の頭上をかすめ、前方の木の幹に轟音と共に衝突した。
木は激しく揺れ、葉が舞い落ちる。
幹には深い傷が刻まれ、その重い衝撃は体の内側が揺れるほどだった。
ヘラジカは一瞬止まり、荒い息を吐きながらゆっくりと頭を持ち上げた。
直感的に分かる。
―――当たったら死ぬ。
走れないんじゃない。
走るしかない。
じゃないと死ぬ!
俺は体に付いた泥も、痛む膝のことも無視して、必死に走り続けた。
周りに少年の姿は無い。
俺がベルクに襲われている間に逃げたらしい。
生きて帰ったら絶対に殺してやる……。
気がつけば、少年と出会った小屋が視界に飛び込んできた。
幸いにも、森を駆けている間に弱ったのか、ベルクとの距離はわずかにだが広がっていた。
しかし俺の体力もとうに限界で、今にも崩れ落ちそうになる足を無理やり動かし、小屋の前まで辿り着いた。
扉には鍵がかかっていてびくともしない。
「くそっ……!」
焦りで手汗がにじむ中、背後から迫る蹄の音がはっきりと聞こえ始めた。
俺は咄嗟に小屋の脇に積まれていた丸太に目を向け、迷う暇もなくその山をよじ登った。
足元が滑りそうになるのを必死に堪えながら、なんとか屋根に登った俺は、荒く息を吐きながら逃げてきた方へと目を向けた。
そこに見えたのは、激しい息遣いをしながらすぐそこまで迫るベルクの姿。
鼻息が白い霧となって消え、鋭い眼光で屋根の上の俺を睨みつけながら近づいてきている。
まだ大腿部には少年が打った矢が突き刺さっていて、そこからは地面に垂れるほどの血が出ている。
俺は震える手で屋根にしがみつきながら、さらに必死に這い上がった。
考えたくもないが、もしベルクが屋根まで上がってきたら……
そんな最悪の想像が頭をよぎる。
その間に、ベルクはもう屋根の下まで来ていた。
目を見開いて見下ろすと、奴は俺と同じように丸太を利用して屋根へ登ろうとしている。
それも、自分の巨体をまるで意に介さないような荒々しい動きで。
頼む、崩れてくれ……。
そう心の中で願った瞬間、ベルクの重さに耐えきれず、丸太の山が大きな音を立てて崩れた。
しかし、諦める様子など微塵も見せず、ベルクは何度も崩れた丸太を踏み台に屋根へ迫ろうとする。
丸太にはベルクの血が生々しく垂れ、それが奴の執念を物語っていた。
結局、ベルクは登ることを断念した。
小屋の周りを荒々しく歩き回る音が聞こえる中、奴がついに離れていったのを感じ、俺はようやく浅い息を吐き出した。
なんとか…なった……。
安堵が胸をなでおろしたその時、遠くで地面を蹴る音がした。
慌てて視線を向けると、ベルクは地面を蹴りながら助走をつけてこちらに向かってきている。
まさか、飛んでくるのか!?
それとも、このまま小屋に突進するつもりか!?
どっちにしろ、逃げ場なんてない。
俺は何も出来ずに身を縮め、ただ震える手で屋根の端にしがみついていた。
その時、
「ムゥォォオン――!」
再び森全体を震わせるような恐ろしい声が響き渡った。
その声に圧倒されてしまい、俺の体は恐怖に縛られ一瞬動かなくなった。
しかし、ベルクの足音が近づいてこないことに気付き、不安を抱えながらも声の方向に視線を向けた。
するとそこには、膝をつき崩れかけたベルクがいた。
奴は何とか立ち上がろうとしていて、周囲の草むらには鮮血が飛び散り、その腹には、さっきまで無かった矢が深々と刺さっている。
とっさに周囲に目を向けると、少し離れた場所に、途中ではぐれた少年が弓を構える姿が見えた。
彼は矢筒から新しい矢を取り出し、それを弓に番えようとしている。
しかし、ベルクも執念深い。
荒々しい鼻息を吹き散らしながら、その巨体を起こして少年の方へ疾走していく。
あれほど血を流しているにもかかわらず、矢を放つ隙もないほどの圧倒的な速さで少年との距離を縮めた。
だが、彼はその動きを予測していたのか、素早く右に身を翻し、ベルクは勢いそのままに後ろの幹に突っ込み、頭を激しくぶつけた。
そして、幹に頭をぶつけて怯んでいるベルクの横腹に向け、少年はすかさず一発の矢を放った。
矢は一直線に飛び、ベルクの体に命中したかに思われた。
しかし、その時―――
「チリーン」
澄んだ鈴の音が、静かに辺り一帯に響き渡る。
その音に反応するように、ベルクから透明な波動のようなものが素早く球状に広がり、飛んできた矢に触れると、矢は僅かに空中で制止し、そのまま力を失ったように地面に落下した。
周囲に広がった波動は、鈴の音の余韻と共に霧のように消えていく。
ベルクのスキル『鈴唱』
ほんの一瞬だが、自身に向けられた周囲2メートル以内の遠距離物理攻撃を完全無効にすることができる。
一日に一回しか使えない、ベルクの切り札だ。
「くそッ!」
矢を当てられなかった少年は咄嗟に逃げようとしたが、ベルクがその隙を逃がすはずもなく、まっすぐ彼に向かって突進した。
少年の体はその勢いのまま引きずられ、木の幹に叩きつけられる。
木とベルクの間に挟まれた少年は、息が詰まるような苦痛に顔を歪めながらも、なんとか抵抗しようと震える拳を何度もベルクの顔に叩きつけている。
ベルクと少年との戦いをただ見ていることしか出来なかった俺は、やっと我に返り、急いで屋根を降りようとした。
しかし、丸太が崩れてしまっていて足場がない。
どう降りるか考えている間にも、ベルクは彼を押し潰そうとし、その力は押し付けている幹が音を出して軋むほどだった。
彼の顔は更に苦痛に歪み、もはや拳を振るう力も残っていない。
意を決して俺は屋根から飛び降りた。
その衝撃に膝は激しく震え、長時間の逃走と転倒による傷がさらに痛み出す。
それでも膝を叩きながら何とか立ち上がり、気合いを振り絞ってベルクへ向かって走り出した。
走る途中、ポーチからナイフを引き抜く。
そしてベルクの後ろから矢の刺さっていない大腿部に向けて、そのナイフを思いっきり突き立てた。
「ッ―――!?」
次の瞬間、左肩に強烈な衝撃が走り、気付けば遥か後方に吹き飛ばされていた。
ナイフはベルクに突き刺さることなく、わずかな切り傷だけを残し、無情にも地面に転がっている。
何が…起こった……?
痛みは無い。
ただ左腕が……動かない?
もしかして……攻撃…されたのか………えっ?
目に見えないほどの一撃で吹っ飛んだ俺は、衝撃と恐怖に呆然としながらも、目の前の光景に意識を引き戻された。
ナイフを刺したベルクの足が痙攣しだし、奴はそんな自分の足の様子に困惑している。
その間に、ベルクの執拗な力から解放された少年が、地面に倒れ込み肩を震わせながら必死に呼吸を整えていた。
麻痺……?
なんで……。
いや、そんなこと考えている暇はない。
やるなら、
―――今しかない。
辺りを見回すと、近くの切り株に刺さった斧が目に飛び込んできた。
俺は迷うことなく駆け寄り、右手でそれを掴む。
左腕は動かない。
だが、痛くもないし不思議とそれ以外の体はさっきの疲労が嘘のように軽い。
斧は片手で持つには重く、今の俺には引きずることしか出来ない。
それでも、俺は全力でベルクの元へ駆け出した。
ベルクの痙攣は既に弱まっている。
やるならこれがラストチャンスだ。
俺は歯を食いしばり、勢いのまま持てるすべての力を込めて、斧をベルクの横っ腹に叩きつけた。
鈍い音が空気を裂き、斧の刃が厚い皮膚と硬い筋肉を突き破る感触が手元に伝わってきた。
その重みには確かな実感があった。
俺の攻撃は、コイツに致命的な一撃を与えた、という実感が。
巨大な体がその場で一瞬硬直し、揺れながら足を踏みしめる。
だが、斧が抜け落ちた途端、そこからは想像以上の血が噴き出した。
鮮血が空中に舞い、俺の顔に容赦なく降り注ぐ。
鉄のような濃い匂いと、獣の臭いが鼻を満たし、呼吸すらままならない。
視界が一瞬で赤色に染め上げられ、混乱と恐怖が頭を支配された俺は、思わず腰を抜かして地面に座り込んだ。
震える手で目元を袖で拭い、なんとか視界を取り戻すと、そこには深紅の血だまりが広がり、森の奥へと続く血の跡だけが残っていた。
獣臭と鉄臭さが漂うその惨状には、ヘラジカの恐ろしい気配だけが残っている。
「ハァ…ハァ…ハァ……」
俺はそのまま地面に倒れ込んだ。
ふと少年の方を見ると、まだ息を整えているが大事ではなさそうだ。
緊張が一気に抜け、安心が胸を撫でおろした。
その時、
「ガサガサ」
森の方から草を踏み歩く音が聞こえた。
嘘だろ、また―――
そう思い、素早く体を起こし、音の方を見ると、
「なにやってるんだ?お前」
そこに居るのはラフタスさんだった。
「………」
俺は全身の気が抜けたように、再び地面に倒れ込んだ。
「おいおい、大丈夫か」
「……大丈夫そうに見えますか?」
「まぁ…それなりに?」
「……」
この人は頭のねじが何本か外れてるらしい。
「ヘラジカに…襲われたんだよ」
少年は腹部と口元を抑えながら、俺たちに近づいてきてそう言った。
「襲われたというか、お前が先に襲ったんだけどな」
「うるさいな。たまたまだったんだよ……」
実際、彼が矢を当ててなかったら俺たちを襲ってくることもなかっただろうからな。
そういう意味では、あのベルクは被害者と言えるかもしれない。
俺は体を起きあげると、その惨状へと目を向けた。
にしても、これだけ血を流しておいて倒れないとか、どれだけタフなんだよ。
格上とはいえ、さすがに強すぎるな……。
「とりあえず村に帰るか。早めに手当てした方がいいだろしな。特にお前は……」
そう言いながら、ラフタスさんは俺を見た。
「あ、この血は全部ベルクの血なんですよ。なので意外と俺は大丈夫です。体も左腕以外は全然動かせますし」
そう言って、俺は右腕を回して見せた。
むしろ、体が軽くて調子が良いくらいだ。
「そうか……。だったら早めに帰るぞ。動けなくなる前にな」
「?」
動けなくなるって……アイツのことか?
確かに、歩くのが辛そうではある。
俺は立ち上がると、地面に落ちていたナイフを拾い、軽く汚れを落としてポーチにしまった。
「スティグは大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ……」
「コウタもいいか?」
「はい、だいじょう……ぶ」
「ん?どうした」
――― Expを獲得しました ―――
572Exp
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――― 以下のスキルを『捕食』により獲得しました ―――
『鈴唱』1/10
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「………何でもないです」




