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『若様はとてもお優しくていらっしゃる。きっと良き当主様になられることでしょうね』

 いつだったか、乳母がそう父に話しているのを聞いた。

 幼い私は舞い上がっていた。ただの世間知らずの少年だった。何も知らず、何も恐れず、ただ父の後を継いで伯爵家を支えていくのだと疑いもせず未来に夢を描いていた。

 優しい乳母に、不器用ながらも愛してくれる父、そして気を許せる友に囲まれて、何の不自由もなく大人になるのだと。

『若様!』

 八才の頃に、従者であり乳兄弟でもある唯一の友を目の前で失ったあの日に、夢は粉々に砕け散った。

 彼が殺される瞬間、私は無力だった。何もできなかった。崩れゆく彼を受け止めながら、その体から魂と共に流れ出す血が私の服を汚していくのを呆然と見つめるしかなかった。

 友を殺した男は、こちらに気が付いた護衛によって斬り伏せられた。

 私はたまたま生き残った。

『ご無事でようございました』

 全てが終わった後、友の仇を取った若い護衛はぎこちない笑みを浮かべていた。

 その笑顔に、私は叫びたくなった。

 無事な訳があるか。

 なぜ友を助けてくれなかったのだ。

 しかしその護衛が決して浅くない傷を負っているのを見て、泣き叫ぶ気力を失った。

 混戦状態だったのだ。馬車で山中の街道を通り抜けていた最中に奇襲を受けた。生き延びただけでなく、御曹司を守り抜いたその護衛は間違いなく自分の職務を全うしたのだ。

 それに引き換え、自分はどうだ。

 恐怖に身が竦んで、馬者の中で動けなかった。いち早く異変に気がついた乳母が様子を見てくると馬車の外へ出たのも止められなかった。

 武器を持った男が馬車へと入ってきた時、自分は腰が抜けていたのに、友は自分を庇うために前に出た。

 自分の弱さが、友を殺したのだ。

 あの日の無力感は、私の心に深い傷を残し、それ以来、私は決して同じ過ちを繰り返さないと誓った。

 伯爵家の次期当主というだけで命を狙われる。次期当主を守るために多くの者が傷付き命を投げ打つ。

 権威とは諸刃の剣だと知った。

 ならば、強くならなければならない。

 自分の身は自分で守れるように。

 他の誰かに守られることで、誰かを傷付けてしまわないように。

 それ以来、私は自分の弱さを殺すことにばかり腐心した。

 才がないからと嫌厭していた剣の指導を真面目に受けた。父に貴族としての戦い方について教えを乞うた。

 優しさを美徳だなどと、甘い考えは捨ててしまった。

 だがおかげで父が早くに病で死んだ後、円滑に引き継ぎを済ませることができた。親類やとうに縁が切れたはずの母方の家から煩わしい声が聞こえてきたが全て追い散らした。

 私は冷酷で厳格な当主になることで、家を守ろうとした。周囲から怖がられ、敬遠されるようになったが構わない。再び大切な人を失う恐怖を思えば大したことではない。

 頻繁に夢の中で友の最期の姿を見る。倒れる寸前、最後の力を振り絞った友の掠れた言葉が耳に引っかかって残っていた。

『どうか……お幸せに』

 目を覚ますたびにその言葉が心に突き刺さった。

 お前がいないのに、なぜ私が幸せになれるというのだ。

 たった一人取り残されて、生を噛み締めるたびに後ろめたさを感じる毎日をどうして幸せだと言える?

 友の最期の願いすら叶えてやれない自分がまた不甲斐なく、そして友を恨めしくさえ思った。

 同時にそれは、私にとって唯一の救いでもあった。生きてもいいのか。お前を殺した私を、お前ならば許してくれるのか。答えは出ない。友は死んだのだ。許しを得ることもできずに、日々の仕事に追われ、自分の心を閉ざすことで、その痛みから逃れようとした。だが、痛みは決して消えることなく、私を蝕んでいった。

 今の私には泣く資格すらない。


「『君のそうやって強がるところ、ちっとも変わってないな、アズビー?』」


 そんなある日、唐突に発された使用人の言葉が、私の心の奥底に封じ込めていた記憶を呼び覚ました。

 一介の使用人が主人に対して投げかけるには不敬すぎる口調。

 だというのに懐かしさに叱責するのも忘れた。


「『つまんない顔しやがって。心配になっちゃうだろ』」


「『ぼくは、君が幸せになってくれるのを願っているのにさ』」


 そう言ってくれるのか。

 私はお前を救えなかったのに。

 クラリスという名の使用人は、かつての友と同じ表情で笑っていた。



●●●



 それは不意にやってきた。


「ノーマンは、女性とお付き合いをした経験はあるのか」


 思いがけない質問にノーマンは固まった。

 手にしていた書類を思わず床に落としてぶちまけてしまう。

 今何と言った?

 いくつもの縁談を蹴り女性からのアプローチを何度も黙殺してきた氷伯爵が?

「えっ……と。ないこともないですが」

「あるのかないのか、どっちだ」

「親の決めた婚約者ならばおります」

 そうか、とアズベルトが答える。その顔は窓に向けられたままだ。

 書類を拾い集めながら、ノーマンは必死で動揺を落ち着かせようとする。

 こうもアズベルトが気にかける女性など、ノーマンには一人しか思いつかない。

 クラリス・オラリア。

 入館したのは二年ほど前だが、これまで一切不祥事を起こしたことはない。たくさんいる使用人の中の一人に過ぎなかった。

 最近になってアズベルトに重用されるようになるまでは。

 しかしまさか自分に色恋の相談を振られるとは思わなかった。

 深い深いため息をアズベルトがつけば、それが思いの外深刻な状況なのだと知る。

「……昔、自分の過ちで深く傷を付けた相手がいたとする。ずっとその過ちを悔いていたのだが、実は最近その相手が自分の身近な所にいたことを知ったんだ。しかもそれを相手は気付いていて、自分は全く知らなかった」

「それは……」

 色々とアウトだ。

 柄にもなく凹んでいると思ったら、そういうことだったらしい。

「分かっている、悪いのは全面的に私だ。だからこそ、今からでも償いたい。許されはしないだろうが、少しでも報いたいのだ」

 真摯にそう呟く旦那様にノーマンは感動した。感情を凍らせてしまったのかと心配していた青年の口から、そのような殊勝な言葉が出てくるとは。

 やはり、アズベルトにとってクラリス・オラリアは特別な存在なのだ。彼女は関係を否定していたが、クラリスならばこれまで誰もなし得なかった伯爵の氷を溶かすことができるのかもしれない。

「では、まずは謝罪をされてみては?」

「二人で会う気はないと言われた」

(拗れている……!)

 早速、関係が悪化していた。

 アズベルトはいつもの毅然とした態度から想像もつかぬほど悄然とし、肩を落としている。

「どうすれば良いか分からないのだ。詫びの品を送ろうにも、何を送れば良いかも見当がつかない。それに、奴は何を送っても喜びはしない気がしてな」

 ノーマンは困り果てた。

 自分自身も女性経験がそうある訳ではない。花を送ればいいのではとも思ったが、それは根本解決ではないだろうと提言を憚られた。

 自分と婚約者の場合ならばどうだろう?剛毅な彼女ならば気にするなと大抵のことを一笑に付してしまいそうな気がするが。

「お手紙を書いてみられてはいかがでしょう?今の貴方のお気持ちを文にしたためるのです。口で伝えるよりも率直に想いが伝わるやもしれません」

 誕生日の祝いの言葉や日頃の感謝は口では伝えづらいことだが、手紙ならば面と向かって伝えるより羞恥がいくぶんか和らぐものだ。

「手紙……そうか、手紙か」

 暗く沈んでいたアズベルトの顔に光明が差す。

 日頃から顔を合わせる距離感であるがゆえに思いつかなかったのかもしれない。

「試してみよう」

「それがよろしいかと」

 思いついたらすぐに実行に移す御人だ。

 どんな言葉をしたためようかとさっそくソワソワし始めたアズベルトに年相応のものを感じ、ノーマンは笑みをこぼした。

 自分は早めに退室した方がいいだろう。

 背を向けかけたノーマンは「あれは……」と声を上げるアズベルトの声に足を止める。

 窓の下を覗き込んでいるアズベルトの様子にただならぬ様子を感じ、慌ててノーマンも窓のそばに寄る。

「あいつ……!」

 執務室から見下ろせる庭、その壁で件の使用人の娘に言い寄るファルーロウの姿がよく見えた。

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