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時々夢を見る。
友に覆い被さり、見知らぬ大人に背中から剣で斬り殺される夢。
金属の冷たさと、友の目に一杯涙がたまっているのだけが妙に印象的だった。起きた後もしばらくは動けずうずくまってしまうほど鮮明で。
友は無事だろうか。
ちゃんと笑えているだろうか。
無責任にも目の前で死んでしまった自分を、きっと怒っているだろう。
考えて、いつもそこで我に返る。
所詮は夢の中のことだ。悩んでも仕方がない。私の人生には何の関わりもないことだ。
知らない。
知らない。
夢の中の友が大きくなって、似合わない鉄面皮をかぶっていたって。
知らない、はずなのに。
義兄の付き添いで訪れた社交界の場で、たまたま目に留まった青年の後ろ姿が、どこか寂しそうに見えたから。
あの夢の友と重なって見えてしまうと、どうにも放っておけなくなった。
重ねていう。ただの夢だ。
だから私とあの青年の間には一切の関わりはない。
それでも良かった。
気が付いたら、私はルドヴァンスの屋敷の扉を叩いていた。
アズベルトは剣を鞘に収めた。とりあえず首と胴体が離れる心配がなくなって良かった。
踵を返したアズベルトは窓際で平静を取り戻そうと深呼吸をしていた。
放置された私は執務室に視線を巡らせた。
使用人が滅多に出入りしないにも関わらず、執務室は思ったより片付いていた。壁際の書棚もぴしりと本が整列し、床には紙どこらか塵の一つも落ちていない。
(書類が落ちかけていた、ねぇ)
「そんな、馬鹿なことが……」
頭を掻きむしりながら、アズベルトが何かを呟いている。
こんなに動揺するとは思っていなかった。
なんてことはない戯言だ。一笑に付されるか、ふざけるなと怒り出すかと思っていた。
「え、嘘でしょう。信じました?」
信じてもらうつもりなどなかった。
ただ、言わずにはおれなかったのだ。
夢の中の自分なら、きっとそう言っただろうから。
アズベルトに物凄い勢いで睨まれた。
「お前の、その小馬鹿にした物言いが、奴にそっくりだ!」
吐き出すように叫ぶ。
こんなに大声をあげている旦那様を、使用人として勤めてから初めて見た。
「小馬鹿にしたとは人聞きの悪い。私は至って真面目ですよ」
肩をすくめて見せれば、アズベルトがガックリと頭を落とす。
完全無欠の氷伯爵の姿は見る影もない。
ざまあみろだ。
「私を殺しに来たのか」
絞り出すような声で問われた言葉に、今度は私の方が驚く。
アズベルトの顔には自嘲が浮かんでいた。
「奴は、私のせいで死んだ。奴の母親もだ。心底憎んだことだろう」
そんなことを何年も考えていたのだろうか。
たった一人で、暗い疑念を払ってくれる誰かもいないまま。
「お前には、私を憎む資格がある」
ふざけるなよ。
両手を握り込んだ。
「……正直なところ、今の今までお暇をいただくまでに一発殴ってやろうぐらいには考えておりました」
辛気臭い顔しやがって。
何のためにお前の友は命を張ったのか。
お前が幸せにならなければ、あの日死んだ彼らの魂が報われない。
「でも、やめておきます」
「……なぜだ?」
「なぜと問いますか。旦那様はもう少し他人に関心を持ってくださいませ。どうせ私の名前も覚えておられないのでしょう」
この頭でっかちを殴ったところで、自罰に拍車をかけるだけだろう。それは本意ではない。
うっと分かりやすく詰まるので、私はため息をついた。
「クラリス・オラリアと申します。ついでに、先ほど逃げていった新人はエミリーと言いますわ」
雇っている者の経歴ぐらいは調べ上げているだろうに、本当に人を紙面でしか見ていなかったのだなと呆れてしまう。
せいぜい害か無害か程度でしか判断していなかったのだろう。
「もう少し周囲に目を向けてくださいませ。でなければ本当に信頼できる人も味方にはなってくれませんよ」
「……貴族社会は、魔窟だ。人を信じれば裏切られる」
「だから懐に人を入れなければ失うことはない?情を持たない氷伯爵が、実はただの臆病者だと誰が思いますでしょうね」
反論はなかった。
これは重症だな、と思った。
一人の方が気が楽だと周囲を排斥し、失うことをひたすら恐れて誰にも心を開かず、アズベルトは生きてきたのだろう。
数年越しの心に傷は根が深い。
「ねえ、旦那様。エミリーは間諜ではありませんわ」
「なぜ分かる。この部屋には普段、鍵をかけているんだぞ」
ただの鍵ではない。
掛けた本人でないと開くことができない複雑な術式を織りあげた魔法錠だ。この部屋はアズベルトの許可がないと通常は入れない。
初めて聞いた時、どれほど身内を信用していないんだと憤慨したくなるほどだった。
「リネン室と間違えて入る訳がない。貴様も分かっているだろう」
「恐れ入りますが、鍵をかけ忘れたなどは?」
「あり得ない」
断言できるぐらいには神経質に管理していたようだ。
「あの者の教育係だと言ったな。いつからだ?」
「三日前からですわ」
「つまり三日前から鼠がうろついていた訳だ」
「リュイデスの町からの出稼ぎでいらしたそうですよ。病気の弟さんがいるそうですね」
弟の治療費のために金が必要なのだと話していた。リュイデスは東の辺境の町だ。領地の端から、馬車代も高いだろうにはるばる遠地まで稼ぎに出てきたのだという。
「彼女に魔法錠は解けませんよ。生まれつき魔力を持たないのですって」
「なんだと?」
「そもそもただの村娘に、旦那様のデスクを漁って何もメリットはございませんもの」
それだけで、アズベルトはこちらの言いたいことを察してくれた。
「手引きした者がいるということか」
「エミリーを推薦した者を当たってくださいませ。彼女は利用されたのでしょう」
平民の娘など、捨て駒同然だろう。
エミリーには間諜の片棒を担がされているという認識すらあったかも怪しい。
彼女に何をさせようとしたのかは分からないが、アズベルトに見つかっても構わない。バレなければ内偵を期せず得ることになる。
「リュイデスはハイデスト領に接していたな」
組んだ肘を指でトントンと叩きながら、アズベルトは思案する。
「おや、私を疑わないのですか?」
今の理論を通すなら、教育係でエミリーに最も接していたであろう私が一番怪しいことになる。
じろりとアズベルトはこちらを睨む
「お前が仕掛け人なら、あの者を庇いはしないだろう」
「あぁ、確かに。余計なことを喋る前に旦那様に始末してもらった方が都合がよろしいですものね」
「……お前、腹黒さに磨きがかかっていないか?」
「お前には言われたくねぇな?」
淑女の笑顔こそ崩さなかったが、思わず言葉が乱れた。
「旦那様こそ、市井でご自身が何で呼ばれているかご存知です? 人喰い伯爵ですよ、人喰い伯爵。生き血を毎朝飲んで、逆らう人間を生きたままバリバリ食べるんですって」
「私は化け物か!?」
「それぐらい恐ろしい存在ということですよ。昔バッタを触れなくて怯えていた泣き虫の御方と本当に同一人物かと、私最初聞いた時は耳を疑いましてよ」
「い、今はバッタぐらい触れる!」
ムキになって言い返すアズベルトに、私は肩をゆすって笑った。
「ねえ、旦那様。貴方はもう少し笑顔をお見せになるべきですわ」
「なっ」
「貴方の笑顔は存外可愛らしいのですもの。きっと見れば人喰い伯爵などと誰も噂したりはしませんとも」
可愛らしいなどと言われると思っていなかったのか、アズベルトは目を白黒させていてそれがなお可笑しい。
これからこの気難しい伯爵をからかう楽しみができたと頬に手を当てながら私は愉快な気持ちを抑えきれなかった。