1
ルドヴァント伯爵家は、非常に厳しい勤め先として有名であった。
屋敷に入るための身元確認、持ち込み品の検査。使用人や衛兵すら住み込みのみ。当然、仕事に失敗は許されない。
伯爵家に勤めたという経歴と給金は確かに魅力的だが、長く勤めている者が圧倒的に少ない。それほどに過酷な環境だ。
(私のような男爵家の庶子でもまともに雇ってくださるのはありがたいですけれど)
人手不足ですよねぇ、と遠い目をしたくなる。
原因は単純だ。
雇い主であるアズベルト・フォン・ルドヴァンスが極度の人間不信なのである。
幼い頃に母が出て行った。後から伯爵家に迎え入れられた優しそうな義母は、前妻の子であるアズベルトを始末しようと刺客を差し向けた。
そして、愛情深く育ててくれた乳母と、たった一人の友であった彼女の息子を目の前で殺害されたのである。
貴族の人間関係のどす黒さを目の当たりににした少年が、人を信じられなくなるに十分な経験だ。
襲撃事件の後、義母と連れ子は父の手によって処断されたそうだ。
その父も病で早くに亡くし、アズベルトは十五の若さでルドヴァンス家当主となる。伯爵家の威光と財産を求めて、さぞハイエナ共が群がったことだろう。その全てを切り捨てて現在の地位を確立した手腕は見事である。
代わりに眼光は鋭く澄まされ、整った顔から笑みが消えた。
人を人とも思わぬ冷徹非情の「氷伯爵」。隙を一切見せない完璧主義者。
(仕事に厳しい方だとは聞いていましたよ。そりゃあ耳にタコができるぐらい、先輩方から聞かされていましたとも)
旦那様の機嫌を損ねてはいけない。
あの恐ろしい御方は、厳しい折檻をなさるだろうから、と。
(だからって剣を持ち出すのはおかしくありません!?)
後ろには、入ってまだ三日の新人のメイドがぶるぶる震えている。
気持ちはわかる。
目の前には件の氷伯爵、アズベルトがその名の通りの冷たい眼光で見下ろしているのだ。
その手に握られているのは抜き身の細剣。
さっきまではメイドに今にも斬りかからんばかりに振りかぶっておられた。怯えて当然だ。死を覚悟する。
なんでこんなことになっているのか。
廊下を通りすがった際にそんな光景を見せられたこちらの身にもなってほしい。
思わず「お待ちください!」と割って入ってメイドを庇ったが、全く状況が分からない。
「そこを退け」
アズベルトが命じる。
伯爵家の使用人たるもの、主人の命令には即座に従わなければならない。
だが私は首を振った。
「いいえ。事情が分からない内は、退く訳にはまいりません」
アズベルトは鼻白んだ。まさか面と向かって拒否されるとは思わなかったようだ。
彼にとって自分はいくらでも替えのきく使用人の一人だ。
(これは死んだかも知れない)
すいません、お母様。私も早々にそちらに渡ってしまいそうです。
亡き母に内心で詫びを入れながら、アズベルトの顔を真っ直ぐ見据える。
整った顔だ。これで少しでもニコリとすれば社交界の貴公子になれるだろうに、残念ながら伯爵には婚約者すらいない。
一瞬困惑の色を浮かべたアズベルトは、すぐに感情を消した。
「そこのメイドは私の執務室へと無断で入り、私のデスクを開けようとした。それ以上の理由がいるか」
やらかしてるなぁ!
淑女らしからぬ舌打ちをしそうになった。危ない危ない。
しかし、主人の仕事の部屋は機密情報の多い場所。デスクなど古参の使用人たちですら触らない。
主人の許可もなく開けようとしたのなら、間諜を疑われても文句は言えないだろう。
「し、書類が、落ちかけていたので、直そうと……」
背後でガチガチ鳴る歯の間から新人が必死に弁明した。
だがアズベルトの目が一段と鋭くなっただけだった。
剣を握り込むのが目の端で見えた。
「……お馬鹿さん、リネン室は階が違うと前に教えたでしょう」
クラリスの言葉にはっと新人が息を飲んだ。
振り返らない。そんな余裕はない。
アズベルトから視線を逸さぬように牽制しながら、私は静かに言った。
「お行きなさい。もう部屋を間違えてはダメよ」
「は、はいっ」
「待て、まだ話は……」
「お話は私がお聞きしますわ、旦那様」
追いかけそうな主人の行手を阻む。
バタバタと後ろで新人が飛び出していく。よほど恐ろしかったのだろう。もしかしたら屋敷を飛び出してもう戻ってこないかも知れない。
アズベルトの苦虫を噛み潰したような顔に真っ向から対峙した。
「なぜあの者を庇う。お前も奴の仲間か?」
「あの者の教育係は私です。罰を与えるならば私に」
「そうか」
それだけだった。
すとんと感情が消える。蒼碧の瞳ばかりが昏く冴えてこちらを射抜く。
「では、どのような処分になろうとも文句はないな」
私は挑むように微笑んだ。
「ルドヴァンス家に雇われてから、私の命はすでに旦那様のもの。いかようにもなさいませ」
アズベルトの口元がわずかに歪んだのを見逃さなかった。
それはどこか苦しそうで。
だけど私は少しも不思議には思わなかった。やっぱりとさえ思った。
(あぁ、やはりこの人は変わっていない)
剣を抜いても、すぐには人を斬り払えない。
生来の優しい気質は、そう変わりはしない。
「私をお斬りになりますか?」
「……」
試しに尋ねてみれば、アズベルトは目を細める。
不快を示しているように見えるが、これは気まずい時の癖だ。ほら、目が泳いだ。
思わず笑ってしまいそうになった。
「不器用な方。それでは理解者も少ないでしょうに」
「なっ」
「もしかして友達いないです?」
「……いたに決まっているだろう」
そうだろうとも。アズベルト・フォン・ルドヴァンスにはかつて友がいた。
兄弟同然に育ち、従者としてずっと側に寄り添っていた、同い年の友が。
「『君のそうやって強がるところ、ちっとも変わってないな、アズビー?』」
アズビーとは、アズベルトがただ一人にだけ呼ぶことを許した愛称。
初めて、アズベルトの仮面が剥がれた。
驚愕に目を見開く。
「お前は……」
「『つまんない顔しやがって。心配になっちゃうだろ』」
「『ぼくは、君が幸せになってくれるのを願っているのにさ』」
心を許した唯一の親友は今はもう亡い。
私の生まれる前に死んだ少年の話だ。
いつだって仏頂面をしている友に、彼だけは一言物申したいだろう。庇って守った友が、可哀想なぐらいに気を張って眉間に皺を寄せて生きていると知れば。
これは、そんなもしもの話だ。