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生死観 How to live ascetic?

作者: 向谷 明来

将来の夢を聞かれて「殺人犯になりたい」と屈託なく答える子供はまずいない

しかし、殺人は存在する。悔恨、金銭目当て、復讐、あらゆる事が動機となる

どんな理由にしろ、全く善意ではない。そして、加害者(初志としてはの場合含)被害者、

遺族に共通して言えることが「こんな事を望んだわけじゃない」だろう

事件にかかわった大抵の人間が、事件発生前の充実を味わうことはない

だが、それでも人は生きるしかない。悲痛や罪悪感を振りきって生きるしかない

その場合の人生は本当に「死ぬまでの暇つぶし」かもしれない

主観としてだが存在意義=暇つぶし はある程度空虚だと思う

生きている以上「私はこれを達成する為に生きている、人生懸ける」というものが欲しい

何処までのリスクが生じても其れに懸けられる、誇張に等しい存在意義が必要だ 

最も、此処まで必死に生きること自体、理想論ととる人間がいても何の反論もできないのだが

人間は成長過程で“適当”という言葉を覚える。まあいいか、と加減して、諦める

適当にやったことだったら結果が思わしくなかったとしても大して落胆はしないだろう



100から生きる過程で理想を失っていき、残った数字で構成された“妥当”な人生を生きろと誰が決めただろう。だが、多くの人間が“妥当”な道を、“無難”な橋を渡っている

しかし、“妥当”や“無難”のようないわゆる 普通。

これとは逆の状態(心理的又は状況的に)で凄絶な苦痛を感じる時、人間は現状維持を決して望まない



生きていて常に幸せ、人生で一度も落ち込んだことはない、そんな人間がいたら、

私は若干退く。そんな人生はユルい。軽い。そして危険だ。

挫折を知らないということだから折れやすいだろう。逆に異常に精神が屈強なのかもしれないが



人生に疲れて、絶望して、自殺した人間がいたとして「弱者」だというのは偏見だろう

死を選ばなければならない程の恐怖か絶望だったかもしれないし、

生に対する執着がなくなったのかもしれない。(後者だと理解される確率は減少するが)

しかし、自殺に妥当な理由などない。

事情を話して自殺を国が許可していたらもはや人命に重みはない。必死に生きる人間だって激減する

「此処まで生きれば死ぬ権利があります」というのは尊厳死くらいだろう



絶望し切った世界から希望を自力で掴むのはほぼ不可能だ

必ず第三者の手を借りることになる。その努力が献身的であればある程、生きようと思うだろうし、生きるべきだ。生きて他者に貢献するべきだ

ただ、生きる事は義務や権利ではないと思う

産まれたのだから生きなければならないというのは“仕方がない”というニュアンスだと思うし、

“権利”というとじゃあ“棄権”していいか?と思う

義務でも権利でもなければ何だ。ということになるのだが、 

敬意、尊厳、証明  私はこれらを足して3で割りたいのだが、

この場合の熟語が全く浮かばない。ただ、生=この世界に於いて拘束されること 

ではない以上極端に突っ込みたい 呼吸という動作自体に極力突っ込みたい



ただ、“照明”で私が主張したいのは「生きる照明は三大欲求ではない」だ

生きているということは誰かに必要とされ、貢献し、場合によっては対峙し、敵視され、認めさせるということだと思う

理想としては対峙と敵視はない方がいい。この2つ、軽く戦争の遠因ではないだろうか

貢献し、対峙し、敵視され、認めさせる。これらは闘争ではなくグループ討論の様なものだと考えてほしい。相手の発言に触発され、それ以上に説得力のある意見に行きつくかもしれないし、最良の答えを出すために自分が貢献しているのだという優越感、ある種の錯覚。対峙、敵視は相手側にではなく、荒んだ考え方に対して、自分がこれを変えてやる という暴挙に等しい目標



例えば「死刑は必要か」という例題だったとする



死刑がなければ犯罪は増加の一途を辿るが、人命を尊重する意見もあるだろう

しかし、大量殺戮犯が今も生きながらえている事に耐えられない遺族の心情も否めない

だが一方、冤罪の死刑囚がいればそれは謝罪で済む次元ではない

この矛盾し切った問題を「自分には関係ない」というのは非常に何も生まれない感情であり、考えだと思う。この法律自体を変える、最善の方法を考え、自分がこの国を改革するという人間がこの国にあふれていたらどうだ


無論、使命感や、責任の有無だけで人が動いているとは思わないし、そうだとしたら

まるでロボットだと思う。感情があり、迷いがあり、ある程度簡単に脱線する。そうやって生きている。人間同士、理解して、頼って、成長する。わかっていてもそういう人間に必ずある弱みという要素を認めたくない、負債に思う、時に孤独を望んだり、逃避したり、それもまた人間として当然なのかもしれない


人間はどこまで理想を追い続けても実現する保証はないし、最後は死ぬ

ただ、その理想を追える、ということ自体、人間としての特権だろうし、落ちるより、

上がる方が有意義だ。もっといえばその頂上で転落していく人間を引き上げる方が有意義だし、

それ自体、立派な存在意義だと思う


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