獅子を夢見た豚は、あの子の夢を叶えたい
「成り上がり男爵令嬢は金貨がお好き」のヒーローレオン視点のお話。「成り上がり〜」を読んでいないと内容が分かりづらいかと思います。併せてお読み頂けると嬉しいです。
成り上がり男爵令嬢は金貨がお好き↓
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どうぞよろしくお願いします。
この虚しさを。
どう言葉にすればわかってもらえるのだろう。
そんな事ばかり考えて生きていた。
***
私はフォルティスタ公爵家の五男として生を受けた。
生まれつき体が弱く、物心ついた頃の記憶は殆どベッドの上しかない。
「ほら、可愛いレオン。旦那様がお見舞いに来てくれましたよ」
母は可愛らしい人だった。
侯爵家の出身で、労働を知らず、箱庭で育ち、嫁入りまで大切にお手入れされた、お人形の様な人だった。
「おとー、さま」
「レオン、また寝込んだと聞いたよ。今日はレオンの好きなフルーツを沢山持ってきたからね。少しずつ出してもらいなさい」
「ありがとうございます」
父はいつも私の頭を優しく撫でて、絵本を一冊読んでくれる。とても忙しいのに、週2回は顔を出してそうしてくれる時間が大好きだった。
「レオン、良かったわね」
母も父が大好きで、父が来た日はご機嫌だった。
***
私が少し大きくなると、段々と起きていられる時間が長くなった。
医者から許可をもらい、初めて外へ出た時は嬉しくて嬉しくて転げ回った。メイドも「良かったですね」って涙ぐみながら見守ってくれた。全身草だらけになってしまって、でも我慢なんて出来なくって。
そうして母を見たんだ。
「っ…」
母は、無表情で私を見ていた。その目は澱み濁り、昏い。
自分の姿を見下ろして(汚れているのが嫌なんだ、きっと)と、草を払った。
妙に不安でドキドキする胸を押さえて母に声をかけると、いつもの微笑みで手を振り返してくれて、私は安堵した。
その日は、はしゃぎすぎたのか再び熱を出して寝込んでしまった。
「お母さまごめんなさい。せっかく元気になってきたのに」
「いいのですよ。母はレオンのお世話が出来ることがとても嬉しいの」
母は慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべる。
不甲斐ない。自分が不甲斐なくて悔しい。
「大きくなったらお兄様達みたいに立派になって、きっと私がお母さまを守りますから」
「ええ。ファルコの様に逞しくおなりなさい」
レオンの髪を撫でて母は目を細めた。
母は決してファルコ兄上以外の兄妹の名を呼ばなかった。
***
父には3人の妻がいた。
1番目の奥さんは、隣の国のお姫様らしい。父は王弟だから、友好の証に結婚したんだって。
2番目が私の母。これは国内派閥の調和の為に娶った、と聞いた。
3番目は…好きになったから。好きになったから頼んでお嫁に来てもらったって。誰も教えてくれなかった。偶々メイドの噂を聞いてしまったんだ。
ファルコ兄上以外の兄妹は別の奥さんの子供だから、母は好きじゃないと言う。
私も後に知る。
父は3番目の奥さんと子供が1番好き、と。
その事は少なからずショックだった。
だけど父は自分の事もちゃんと考えてお見舞いに来てくれている。好きな食べ物、好きな絵本、ちゃんと知ってくれている。そう思うと辛い気持ちが慰められた。
ファルコ兄上も私には一等優しかった。
一日1回は顔を出して、元気な日には抱っこして外へ連れ出してくれる事もあった。
時折母も一緒に庭に出て、3人でランチを食べた。
私は幸せな時間だと思っていたが、そういう時の母は必ず虚ろな目をしていた。
(お母さまはお外が好きではないんだ)
私は元気な日でも外へ出る事を控える様になった。
***
他の兄妹は家庭教師をつけて勉強していると知り、私も起きていられる時は勉強をする様になった。
ファルコ兄上が将来騎士になる、と言っていたが自分にはきっと無理だろうと思っての事だった。
父にお願いして、時々教師に来てもらって質問を沢山した。先生に褒められると嬉しく、私は積極的に勉強した。
だが同時に、段々と体調が悪い日が増えていった。
「レオン様、お身体が冷えておりますね。浮腫もありますので少しおみ足をお揉しましょうね」
「…うん」
体に水を注ぎ込まれたのではないか、というくらい皮膚が突っ張って痛い。頭痛もして、震える程に寒いのに、汗が止まらない。
メイドが作ってくれる湯たんぽを抱きしめて泣く事しか出来ない。
体調を崩した私の元に父が駆け込んできた。
「レオン!」
「…おとーさま。ぐすっ、い…いたい。いたいよぅ…」
浮腫んでぱんぱんになった手を父が優しく擦る。
「よしよし」
「おとうさま、あったかい…」
視界は涙が滲みよく見えなかった。
父がどんな表情をしていたかなんて。
***
痛みや寒気に苦しみ、再び歩ける様になるまでひと月近くかかってしまった。
その間にファルコ兄上は貴族学園へと入学し、あまり姿を見る事が無くなった。それに。
「最近お母さまが来てくれないんだけど、どうして?」
あんなにずっと付き添って看病してくれていた母がちっとも来なくなった。
始めは痛みで来たことに気づかなかったのか、とか寝ているタイミングで来てくれてたのかも、とか考えていたが、元気になっても見かけないのだ。
尋ねられたメイドはぴくりと肩を震わせて、目を伏せた。
「申し訳ございません。私共はその事に対して答える権限を持ち合わせておりません。公爵様が直々にお答えになられますので、どうかそれまでお待ち下さい」
「?一体どう言う事?」
「申し訳ございません。お許しください」
後日、部屋に来た父に私が聞かされた話は、到底信じたくないものだった。
「…母…が、毒?」
「そうだ。レオンに、毒を盛っていた。その、私の来訪を待ち侘びての事らしい。すまない。私の至らなさがお前を苦しめた」
母は私を身籠った頃、新しく嫁いできた若く美しい娘に嫉妬していたという。
それでもこの子が産まれれば…そう思っていたが、新しい嫁も直ぐに身籠り、しかも兄弟唯一の女の子だった。
一時期父は3番目の妻の元にばかり通い、母はなんとか気を引きたく、私のミルクに毒を混ぜはじめたという。
体の弱い息子の様子を見にきてくれる、と止められなくなってしまったのだ。
「お前は生まれてからずっと…本当にすまない」
足元が渦を巻いて、飲み込まれてしまいそうだ。
生まれついて、体が弱くて。兄上みたいに騎士にもなれない。不甲斐ない自分が、悔しい。
ずっとそう、思っていた。
私が外で遊ぶたびに、母の目は翳ってゆく。
それはつまり、元気になってはいけなかったと言う事?
「は、母は…どうなるのでしょう」
「レオンは順位は低いとは言え王位継承権を持っているだろう?継承権を持つ者へ害を与える事は死刑だ。だが、陛下と話し合い穏便に処理することとなり、彼女は生涯幽閉となった」
「幽閉…」
「だが、もしお前が許せぬというのなら…」
「いえ!…いいえ」
混乱で、涙が溢れた。
息が上手く吸えず蹲る私を、父が慌ててベッドへ運んでくれた。
目を覚ますと、夜中だった。
カーテンをめくり、闇に沈んだ庭を見下ろした。
元気になり母を守るなど、幻想だった。父の愛を得たい母もそんな事に本当は興味無かったのだろう。
自分はなんの為に生きているのだろう。
部屋からも出られず、庭を眺め。
健康すら望まれていなかった自分は。
***
数日後、兄上が自分の元を訪れた。
「レオン、私は留学する事にした」
「え?」
箝口令を敷いたにも関わらず、既に学園で噂になっているらしい。公爵家の第二夫人が毒を盛った、と。
しかもあろう事か盛られた相手は第三夫人では?と歪んだ憶測が出始めていると兄上は言った。
「もう好奇の目に耐えられそうにない。すまない、レオン。お前ひとり残して逃げる兄を許してくれ。もうこの国には帰らない。もしお前も大きくなり留学する時は力を貸そう」
すまない、すまないと何度も謝り兄上は部屋を出て行った。
出て行ってしまった。
母も居なくなり、最近は忙しいのか父すら会わなくなった。
何度か遠目に第三夫人とその娘を見かけた。向こうも私に気がつくと、まるで私が加害者であるかのような顔で見て逃げて行く。
「やぁ、レオン様。今日のご機嫌はどうですか?」
近頃、まともに私に話しかけてくるのは主治医のシュメロンだけ。始終穏やかな顔をした茶髪の中年男だ。
「まあまあだ」
「左様ですか。悪くないのであればよろしいでしょう」
和やかに脈を測ったり、熱を測ったりする。
シュメロンは主治医だが、時々家庭教師の真似事をしてくれる。医者だけあり頭が良い。
「こんなに私に構っても良い事はないだろう?」
「それがすっごいお給金が良いんですよ」
あっはっは、と冗談めかして言う。
この男は貴族の出だと聞いていたが、噂は気にならないのだろうか?
「しかし、柔らかく煮た野菜ばかり食べているのに、なんだってこの体は太るのだ。足が鈍くてかなわん」
母が私に盛っていた薬は少しだけ代謝を落とす物らしい。命に関わる物ではないものの成長期に長い間盛られた為、後遺症として貧血と太りやすさが残ってしまった。
「こればかりは仕方ありません。きちんと体を温めてちょっとずつ代謝を上げていけるように頑張りましょう。完全には治らなくても、今よりは確実に良くなるはずです」
「良くなる…か」
良くなったところで、一体自分に何が出来るのか。
がむしゃらに勉強している時はまだいい。
だが眠る前、闇夜に思い出すのは母の虚ろな目。兄の申し訳ない顔。
この場所から一歩も出ていけない自分。
(生涯、このままなのだろうか?だとしたら)
虚しい。空っぽだ。己も未来も。
***
「最近大分体調が落ち着いてきましたね。これなら来年から学園に行けそうです」
それは15歳の時だった。シュメロンに言われるまで学園の存在など全く思い至らなかった。
「学園…行かないと駄目なのか?」
「まあ行かなくても大丈夫ですけどね。行っとくとこの先事業をしたり、領地が困ったり…なんて時に助けてくれる知り合いとか作っておけるわけですよ。ほらレオン様お友達いらっしゃらないでしょう?」
「友達か…」
友達どころか生まれてこの方屋敷から出た事すらない。父とももう3年は会っていないし、普段話すのはシュメロンだけ。
何か変わる事を期待して学園へ行ってみる事にした。
本来15歳で入園だが、体が調わず一年遅れで入園した。第三夫人の娘は同い年なので、学年がズレるというのも自分的にホッとした。
入園式は体調に不安があるので欠席し、初めての授業の日を迎える。
シュメロンは学校までついてきて、普段は医務室に待機する事になる。
「レオン様、緊張されてますね。落ち着いて下さい。少々心音が乱れております。これでは直ぐ倒れておしまいになりますよ」
「む。わかっておるのだが…難しいな」
シュメロンは苦笑した。
「今日は一授業受ける事を目標といたしましょう」
「うむ。行ってくる」
医務室を出て教室へ向かう。
なんとなく、ちらちら見られている様な気がする。気のせいかもしれない。何せ屋敷から出るのは初めてなのだ。
ドキドキと緊張を抑えきれず教室のドアを開けると、中の人達が一斉にこちらを見た。
反射的にビクリと肩が上がる。
だがそれも一瞬の事で、皆再び顔を戻し向かい合う友人達と談笑を始めていた。
(ドアが開いたから見ただけか、そうか)
一部屋にこんなに沢山の人が集まっているのを初めて見たせいか、緊張が増す。
その間を、そっと歩を進める。
確か、空いている席に好きに座っていいはすだ。
後ろの方は埋まっていたので、前の方へ移動する。人の横を移動する時、ボソリと話し声が聞こえた。
「あんな図体で前に座るわけ?教壇見えないじゃん」
「やめろって。あいつあれだろ。あの公爵家の毒の…」
「え、あいつなの?病弱さカケラもねぇ。つか名前レオ…とかだっけ?あれじゃピグだな」
クスクス…とさざなみの様に広がる笑い声に、どっと冷や汗が出た。
何も考えられない。
(こ、呼吸を。ゆっくり…心拍を落ち着けなければ)
カタカタと手が小さく震え出す。足元がゆらゆらと歪んで見える。
(う、駄目だ)
耐えきれず、そのまま教室を出て医務室にとんぼ返りした。
初日、私は椅子に座る事すらできなかった。
「不甲斐ない…」
「まあまあ、明日も頑張りましょう」
「明日…」
「…辞めますか?」
励ますように背中を撫でるシュメロンの手が止まる。優しい声は辞めても良いんですよ、とそう言う。
今辞めたら何にも変わらない。それはいけないと己が一番よくわかっていた。
「…辞めない」
次の日も教室へ向かった。
シュメロンに体調が悪くなった前後の話をしたら、「授業開始ギリギリに教室へ入ってはいかがでしょう?」と言われ、今日は開始のベルと同時に教室へ入った。既に席は埋まっており、仕方なく最前列の中央へ座る。
再びクスクス、と忍び笑いが耳に障る。
だがそれも先生が入ってきて直ぐに収まった。
授業中の教室は静かで、騒いでいた心臓は徐々に落ち着いた。授業の内容はさして難しくもなく、始まってしまえば呆気なく終わった。
終了のベルが鳴り先生が出ていくと、再びお喋りが始まる。
(この時間は、苦手だ)
私はそそくさと医務室へ戻った。
医務室ではシュメロンが笑顔で迎えてくれた。「よくやりました!」と褒められれば達成感が胸に込み上げる。こんな気持ちは初めて庭を駆け回った時以来だった。
***
貴族学園はひと学年3クラスある。伯爵以上の高位貴族子女クラスと、男・子爵子女の成績上位者クラスと下位者クラスだ。
(つまりこのクラスの者は皆、家でも高貴な教育を受けているらしいが)
「今日は豚様が一日中いるな」
「相変わらず一番前だぜ。目立ちたがりか」
そんな発言を聞いて女の子のクスクスとした忍び笑いが聞こえる。「おやめなさいよ」と言ってはいるが嘲笑を隠しきれていない。
(心までは高貴ではないのだな)
兄上が学園から逃げ出した理由が良くわかった。
自分も逃げ出せるものなら逃げ出したいが、シュメロンから離れて、一体自分がどれほど動けるのか。
私は振り返りクラスメイトをチラリと見た。
『レオン様、人を怖がる理由のひとつとして、相手をよく知らぬから、というものがあります。不明なモノには不安を抱きやすく、もし攻撃されたらと思うと恐怖や警戒心が起こります。レオン様の心拍を乱しているのは多分これでしょう。というわけでレオン様、貴族名鑑暗記しましょう!』
先日シュメロンに言われて、黙々と貴族名鑑を読んだ。まだ全て暗記はしていないが、上位貴族は大体覚えた。
それを覚えたらこれも覚えましょう、なんて名家の収支表まで渡された。どこから手に入れてきたのやら。
パチリとひとりの男子生徒と目が合う。
(伯爵家の…次男。名は確か…)
思い出す様に目を眇めると、男子生徒は慌てて目を逸らした。
「どうしたヨシュア」
「や…なんでもないよ」
(そうそう、ヨシュアだ。シュメロンの追加のメモ書きでは剣術が得意で妹を可愛がっている、とあったな)
ふむふむ、確かに相手がどういう人かわかると怖さも減ってくるかもしれない。隣の男子生徒を見るとまた目が合った。
む、と目を細めるとまた逸らされてしまう。
(えーと、あいつは…)
「どうした?」
「豚に睨まれた」
…別に睨んでないのだが。
私は肩を落として教室を出た。
***
2ヶ月も経つころには恐怖心も大分なくなった。だがやはり人の多い場所はそれだけで疲れて、一日中教室に居るのはとても難しかった。
だが帰りたいわけでもなく、校庭や中庭をふらふらと歩く日が増えた。
体に負担がない程度に運動することもシュメロンから勧められていたので丁度良かった。
人の少ない方、少ない方と歩いて行くと、車止め近くの厩まで来てしまった。
厩の裏は木が多く、木陰が気持ちいい。
私は木陰に腰を下ろし本を読んだ。
本に集中していたが車止めに人の気配がし始めて、顔を上げた。もう帰宅の時間らしい。
(もうこんな時間か。一度医務室へ行こう)
それから度々そこを訪れて、厩裏はお気に入りの場所になった。没頭していても、帰りの時間が直ぐわかるところも良い。
***
季節は初夏を迎えた。
人の集まる教室は暑くて気持ち悪くなってしまい、とても長時間居られなかった。
いつもの厩裏の木陰で本を広げる。
(友人は…無理そうだ)
そう思っていたのだが。
「あぁ、もう疲れるなぁ…」
とん、とその彼女は幹にもたれてきた。そしてそのまま視線を横にずらして、私と目が合った。同じ幹に背を預けていることに気付かなかったらしい。
彼女は慌ててキョロキョロしているが、私も心臓がドクドクと早鐘を打ち出した。
「何君、誰?」
動揺から思ったより冷たい声が出てしまった。そんなつもりじゃなかったので、余計に焦る。
「チェルシー……ヘッダ、です」
「……あぁ、ヘッダ男爵のトコの愛人の子だな。去年、貴族名簿に追加されてたな」
数年分遡って丸暗記して良かった…!
彼女は「そうです、その通りです!」と言いながら頬を上気させていく。
初めての反応に、恐怖心が再び湧き上がってくる。
「あの、お名前をお聞きしても?」
そう言われ、息が詰まった。
「…レオンだ。どうせ君も“獅子”より“豚がお似合いだと、そう…」
「そうですか!そうですか!!金色ですものね!なんて素敵でピッタリなお名前なんでしょう!」
頬を赤くして、上目遣いで見られたのは初めてだ。未知の反応をされて困り果てる。
彼女、チェルシーは変な女だった。
医務室に飛び込み、すぐさまシュメロンに話した。
「おや、とうとうレオン様にもハニートラップが来ましたか」
「はにーとらっぷ…」
そういえば世の中にはそんなものもあったな。自分には無縁過ぎて全然思い至らなかった。
「しかし…私に、か?」
「レオン様は立派に国王陛下の甥子ですよ。可能性は十分ありますよ」
そうか、トラップだったのか。また来るようなら気をつけなければ。と言っても私からむしり取れる物などないが。
チェルシーは思っていたより頻繁に来た。週2のペースで会いに来る。そして警戒してあまり喋らない…というか他愛無いおしゃべりと言うものを経験した事のない私に延々と話しかけるのだ。
「でね、なんかその4人の御令息達と仲良くしないとママと会わせてくれないんだって。お友達では駄目だと言われたのよ」
ヘッダ男爵の領地は確か小さい割に栄えていたような。4人の令息の名前を思い浮かべる。
(グリーズレットは同じクラスだったな。確か父親は外務省のトップだ。…いや待て、全員外務省の人間では…)
「ねーねー、レオン様は“仲良く”ってどこまでだと思う?やっぱベッドまで行かなきゃだめかな?」
「ごぶふっ!」
真面目に考え込んでいたので、思いっきりむせてしまった。
顔が熱い。なんて話題を振るんだ。もう、コイツ絶対ハニートラップなんかじゃない。明け透け過ぎる。
「そんな事を私に聞くな」
「そうね。自分で考えるわ」
会話が切れると、チェルシーはうっとりした顔で私を見つめる。
チェルシーは他の御令嬢の様に髪をセットしていない。茶色の髪をサラリと靡かせ、緑の瞳をとろんと蕩けさせて見つめられると、どうにも心臓が騒いでいけない。
「本当、レオン様は綺麗ね…」
(やっぱりハニートラップな気がしてきた…!)
「金貨みたい」
「き、きんか………金貨?」
金貨への熱弁を繰り出すチェルシーを呆気に取られて見つめた。
金貨に似ていると言われた。そんな話をシュメロンにすると腹を抱えて笑い出した。
「随分斬新な口説き文句……っ!!」
「私はまるくてキラキラなんだそうだ」
「ぐふっ」
辛そうに腹を捩るシュメロンにジト目を送る。しばらくまともに喋らなさそうだ。
***
夏期休暇前に定期試験というものがあるらしい。
まともに授業を受けられなかったから心配だったが、内容はいたく簡単なものだった。
一位を取れてしまったらしく、豚の不正疑惑が囁かれた。簡単だったではないか。
…もしかしてシュメロンの授業が難しいのではないだろうか。
秋が過ぎる頃にはシュメロンが「もう教える事がなくなった」と言った。やっぱりかなり前倒しで教えてくれていた様だ。
後教えられる事は…と、まさかの絵の描き方を教えてくれた。と言っても医者のシュメロンが描くのは人体図だが。基本は同じですよなんて言う。
試しに描いてみると意外と楽しく、厩裏に行く時たまに紙と紙に包んだ木炭を持って行き、虫や草を描いたりした。
「レオン様…実はかなり器用?上手すぎませんか」
「そうか?」
冬場、熱中しすぎて風邪をひいた時は反省した。
私の体はまだまだ、ままならぬ様だ。
***
風邪が治り久々に厩裏へ行くと、チェルシーも来た。新年のプレゼント、と言ってハンカチをくれた。
黄色い綿毛の様な刺繍を「金貨だ」と彼女は言った。つい「ヘタクソ」と言ってしまったが、彼女は可笑しそうにけらけら笑った。
「古着を直したり、リメイクしたりは出来るから。刺繍もできる気がしたの。でもアレね、絵心ってヤツがないのね」
成程、シュメロンが言った通り私は意外と絵心あるらしい。
チェルシーが校舎に帰って行くのを見送る。その後ろ姿を見ながら、忘れないうちに彼女の笑顔を描き留めた。
新年の贈り物にはお返しを用意するものだと、シュメロンが教えてくれた。
「プレゼントを贈ったことなどないのだが…」
「聞く限りあちらもお返しを期待しているわけではなさそうですね。納得できるまで悩んでみてはいかがですか?」
「…そうだな」
チェルシーの、喜ぶ物をあげたい。
***
春になり学年がひとつ上がった。
新学年の始まりには学園理事の挨拶があるらしく、全員が大講堂に集まる。気分が悪くならないか心配しながら移動する人波に混ざろうとした時、周囲の人々が距離を置く場違いな集団が近づいて来た。
咄嗟に廊下の角に隠れる。
「チェルシー、ねぇいいだろう?今日はカフェに行こうよ」
「ダメダメ、僕とお出かけしよう?素敵なネックレスを買ってあげたいな」
「ヴァンディス、卒業したんじゃなかったの?」
「冷たいなぁ、チェルシーに会いに来たのに。帰りも遊びにくるからいい子で待っててね」
「来なくていいよ。チェルシーは僕達と遊ぶから」
それはチェルシーと4人の男達だった。
本人達はきゃっきゃっと楽しそうだが、距離を置いた周りからはヒソヒソと批難する声が聞こえる。「娼婦の娘だから」「はしたない」「ふしだら」「遊ばれてるだけ」全てチェルシーに向けた批難だ。
『ママがいなくてさみしいの』
ぽつりと、チェルシーはそんな事を言っていた。
彼女が頑張る理由も、どうしてこんな事をしているのか、誰も考えようとしない。
それを思うと胸が締め付けられる。
チェルシー達が通り過ぎるのを見送ってると、ひとりがチェルシーの頬にキスをして離れて行った。
(キス…した)
苦しかった胸に、焦燥と苛つきがじわりと広がる。私は医務室へととって返した。
シュメロンに診てもらったが、何故かニヤニヤされた。
***
「そうそう、ヘッダ男爵の動きがわかってきましたよ」
ある日シュメロンに言われた。
どうやらヘッダ領内を流れる川で、かなり前から砂金が出ているらしい。
この国で金の税金は5割とかなり高い。貨幣にも使われる鉱物なので、容易く流出されない様になっている為だ。
裏で取引すると、安く仕入れられ儲けが大きい。お互い利益がある為裏売買は尽きない。
「国内はリスクが高い為、国外に流している様です。が、そちらもだんだん危なくなってきたんでしょうね」
「それで外務省の伝手を欲しがってるわけか。しかも、裏まで手の回るヤツを…。しかしシュメロンはなんでそんなに情報を仕入れられるんだ」
「貴族では普通伝手や情報網はある程度確保しておくものです。…次の授業はそれにしましょうか。レオン様も直に必要になるでしょうが、家族は教えてくれなさそうですから」
「なぜシュメロンはこんなに良くしてくれるんだ?」
不思議に思い聞けば、シュメロンは悪戯っぽく笑った。
「老後まで長く雇ってもらう為ですよ。私を雇えるくらい、レオン様には稼いで頂かないと」
「ふ、そうか」
期待は重いが、悪くはない。
自分はいつかこの家を出るのだろう。シュメロンはもう、その時の事を考えてくれてるんだ。
「ありがとう」
***
しばらくは変わらない日々を過ごした。
新しい学年になっても面子が変わるわけではない。同級生と馴染めず、授業も全て受けられるわけではない。
厩裏で週二回、チェルシーと会えるのが楽しみ。
だけどチェルシーは、私が思った以上に敏感に周りの気配を感じ取っていたようだ。
秋の始まりに、彼女は厩裏でアクセサリーを埋めた。
先の事がわからないから。この先どうなるのかわからないから埋めておくのだと。そう言って。
話を聞いて、ぐらりと地面が傾いだ気がした。
母が毒を盛っていた、そう聞いた時と同じ様な衝撃を受けた。
母が居なくなってから。いや、きっとその前から。私は胸に虚無を抱えていたのだ。
兄に置いて行かれて、父が会いに来なくなって。その虚無が広がっていった。
幸いに私にはシュメロンがいてくれた。
それでも時々、落とし穴に置いて行かれた様なこの孤独感を、どうせ誰にもわかってもらえない。そんな事を考えている日もあった。
初めて出来た友人、だと思う。
彼女はよく喋ってよく笑った。
ママと金貨が大好きで、笑った顔がとても可愛い。
彼女も同じ、ひとりで孤独を抱えていた。
だけど私とは違う。大好きな物を信じて、ひとりで走って行ける強さを持っていた。
眩しいけど、ずっと見ていたい。
この鈍い足でも、もしかしたらあの陽だまりまで走れるかもしれない。
そう思わせてくれた、チェルシーが居なくなる?
「私は、どうしたらいいんだ」
落ち込む私に、シュメロンは盛大な溜め息をついた。
「どうやら私の教育は失敗してしまった様です。レオン様はとんだ頭でっかちにおなりだ」
「どういう意味なんだ」
「あなたはもう心のままに走り出せます」
「私は…走れない」
本当に?
シュメロンが瞳で問いかける。
「行きたい場所に行ける知恵を沢山勉強してきたでしょう?好きな人が飛んで行ってしまうなら、走って追いかけなさい」
すきなひと。
じわじわと高揚感が胸に広がって。だけど締め付けられて。息をするのが難しくて。言葉が上手に紡げない。
胸の穴なんて押しやって、いっぱいいっぱいに広がったこの気持ち。
(これが…すき)
それから私は、チェルシーへのプレゼントのデザインをした。彼女が大好きな金貨をずっと身に着けていられる様に。
他にも彼女に似合うデザインを、ドレスを、アクセサリーを、靴を。去年プレゼントされたと言って厩裏に埋めた、あれらよりずっとずっと似合う物を贈りたくて。彼女の笑顔を何度も描いたし、似合う物も沢山描いた。
そんな冬の終わり、彼女は死にかけた。
医務室に「階段下に女生徒が倒れている」と生徒が報せに来た。学園の養護教諭に運ばれて医務室に来たチェルシーを見て、息が止まるかと思った。びしょ濡れで、硬く閉じられた瞳で、私は実際上手く息を吸えなくなって一緒に寝込んでしまいそうだった。
ベッドに横たわる青白い顔を見て、酷く後悔した。
ヘッダ男爵の逮捕は秒読みまで迫っている。
他の貴族からの弾圧もあり速いペースで外堀が埋められている状態だ。そのペースを加速させたのはチェルシーと言っていいだろう。
男爵は自分で自分の首を絞めたのだ。
チェルシーの母が人質に取られている以上、チェルシーは情状酌量が出ると見ている。
折を見て、彼女に気持ちを伝えて、逃すつもりだった。
(まさかその前にこんな事になるとは)
目撃者の証言で御令嬢達の暴走だと判明している。だが、元の原因はチェルシーと男爵だ。
御令嬢達の親は子を庇うために男爵逮捕を早めるだろう。
彼女の家に使いを出したが、そのまま帰せとクソみたいな返事が来た。そんな家に彼女は返さない。
彼女が目覚めた時、初めて神様というものに感謝した。カーテンの裏でこっそり泣いて、彼女が治るまで自分も医務室に泊まり込んだ。
そのせいで情報の伝達が遅れたのは失敗した。
元気になりチェルシーが帰るのを見送って自分も帰ると、既に男爵逮捕の動きがあった後だと言う。
(厩裏のアクセサリー、取りに来るか!?)
出来上がっていたプレゼントを手に、走った。馬車に乗り、車止めから厩裏までといえど、過去で一番走った。
不安でとても足を止められなかった。
チェルシーと想いを伝え合う時間は幸せだった。
熱くて、脳が蕩けそうで。ふたりで泣いていた気がする。
そうして起きて、自分はまたついて行けなかったことを知る。
それでも前と違うのは、伝手を使い足取りを追えるというとこだろう。
チェルシーの故郷はヘッダ領。しかもそこ以外には行った事がないと言っていた。
王都からの査察団や、他の貴族の偵察も多く出ているらしく、私の偵察も容易に紛れ込め情報を入手した。
学園も新学期の開始が1週間程遅れ、何某かの調査や情報提供があったとみえる。
だが学園では所詮平民上がりの売女が掻き回しただけ、と落ち着きを取り戻した。例の令息達もまるでペットが居なくなった程度のことと、すぐに立ち直った。
なんの意味もない。
ここに本当のチェルシーを知る人は居ないし、知りたい人も居ないだろう。
再び胸を占める喪失感のままに彼女の元へ行ってしまいたい。だけど、ひとりでまともに暮らせない私が押しかけたところで彼女の重荷になるだけだ。
チェルシーは嫌な顔はしないと思う。でも甘えたままでは本当のチェルシーを守れない。
こまめに人をやりチェルシーの安否を確認していた。
だがある日突然、チェルシーは姿を消した。
偵察からの報告では「南方へ向かう目撃情報はあるが、正確な場所はわからない」とあった。
手が震える。チェルシーが手の届かないところへ行ってしまった。
蒼白になる私にシュメロンは言う。
「どうしますか?学園を辞めて、中途半端なままで彼女を探しに行きますか?」
行けない。行けるわけがない。
「シュメロン、どうか教えてくれ」
「私の知る事でしたら」
前に進む方法を。
それから私はチェルシーをモデルにした、服や靴、アクセサリーのデザインを描きまくった。
それらを形にしてくれる、宝飾師、服飾師、靴職人をヘッドハントしたり、専属契約したりした。
それまでたいして交流してこなかった学園でも、積極的に人脈を広げた。上位貴族はこちらを見下してくるので相手にせず、商業を営む下級貴族を中心に多くの知り合いを作る事に成功した。
チェルシーを想うと、人と話す緊張を大分緩和してくれた。
学園を卒業する頃には、裕福な平民から下位貴族の女性をターゲットにした服飾トータルコーディネートの商会を立ち上げるまでに漕ぎ着けた。意外にも父と長兄が後援してくれたのが大きい。
学園卒業後、ふたりにはお礼と共に、王位継承権の放棄と貴族籍の除籍を求めた。
正直、反対はされると思っていなかった。むしろこの先も公爵家に居座られる心配もなくなり、厄介払い出来てウィンウィンなのでは?なんて思っていた。
だがふたりはもっと前向きに、承諾を告げてきた。
「レオンの独立をお祝いする。おめでとう。だが、困った時はいつでも頼っていい」
「兄上とはまともに話した事はないと思いますが…何故?」
兄上は苦笑して、横目で父を見た。父はバツの悪そうな顔で眉間に皺を寄せる。
「母上も第二夫人と同じ憂いを抱えていたと言う事さ。勿論、事に及んではいないし、何より第一夫人は公の場では優先させるからね。第二夫人程鬱屈した心を抱えることはなかったが。…母上は君たちに同情的だったよ」
ファルコ兄上の進路希望の後押しも長兄がしていたと、今更ながらに知った。
自分は穴倉の中で、本当に自分のことしか見えていなかったのだと。
「君は子供だった。そして被害者だった。それなのによく立ち上がった」
その日初めて、3人でワインを飲み交わした。
こればかりはシュメロンも飲酒を許可してくれた。
初めての酒は、正直しょっぱかった記憶しかない。だけど、忘れないだろう。
***
その後必死に働き、商会を軌道に乗せ、学園で出来た伝手を使い支店も増やせた。ある程度人任せに出来る部分も増え、自由な時間が増えた。
シュメロンは未だに父から給金を貰っているらしく、私からのお金は受け取らない。診察も週一から月一へと回数が減り、人並みに動けるようになったと思う。
そうして学園を卒業して3年後、私はやっとヘッダ領へと足を踏み入れた。
チェルシーに聞いていた町並み。チェルシーが働いていたレストラン。町の西側は娼婦が多くて、その近くは貧民の安アパートが集まる。彼女の家はそこにある。
町の中心には教会があって、そこのシスターは厳しいけど、お手伝いするとちゃんとスープをくれる。
『毎日通ったわ』
懐かしい声が耳によみがえる。
「こら!待ちなさい!お手伝いが終わってないわよ!」
懐かしい、声がする。
振り返るとシスターが子供の首根っこを掴んで教会へと向かっていた。
その少し丸い肩、背丈の高さに反射的に走ってしまった。
「チェルシー!!」
シスターの肩を思い切り掴む。シスターは目を見開いて振り返った。
その瞳は茶色で、目と目が合い別人だと気がつく。40代くらいの女性だった。だが似ている。
「貴女は…」
まさかチェルシーのママ?と聞く前に、シスターに胸倉を掴み上げられた。
「ぅえっ!?」
「あんた、今チェルシーって言った?」
上から下までジロジロ見てから、彼女は空いた方の手を拳にして掲げる。
「見たとこ、金持ちっぽいけど……まさかあの子を買って忘れられない、なんて言うつもりじゃないでしょうね!?」
「買っ…!?」
ここでチェルシーを思い出して赤くなってしまったのがいけなかった。
彼女はその華奢な拳で思いっきり殴りつけてきた。
「ふざけんな!!あたしと違ってあの子の肌はそんなことの為にあるんじゃないんだよ!!」
シスターは倒れた私に馬乗りになり、再び拳を上げる。
「ま、待てくれ!誤解が」
「うるさい!顔を赤くして何が誤解か!このエロ豚野郎!!」
「きゃー!!シスターケイティ、おやめなさーい!!」
遠くから別のシスターが駆けてきて、止めに入ってくれた。
正直エロ豚野郎の暴言は拳よりダメージが大きかった…。
その後誤解は解け、一応私をこ…恋人だったと認めてくれた。寄付金の力は偉大だった。
「あたしもここで待ってるの。チェルシーが帰ってくるの」
どこにいっちゃったんだか、なんて寂しそうに笑う顔はチェルシーとそっくりで、放ってはおけなかった。
それからは情報を集めながら、王都の自宅とヘッダ領を往復する日が増えた。
***
ヘッダ領を最初に訪れてから半年が経ち、冬が来た。
雪に捕まり王都へ帰れずしばらくヘッダ領の宿暮らしをしながら教会へと通った。
「シスター寒いよー!!」
「今年はレオン様が随分セーターを寄付してくれてあったかいはずだよ」
集まってきた子供達が「ありがとう」と口々に声をかけてくれる。
「よーし、寒い子はみんなくっつきなさい」
集まってきた子供達は私にもくっついてくれて、笑みがこぼれる。みんなできゃあきゃあ笑い合ってると、シスターケイティがふと笑みを深めた。
「そう言えば昔、チェルシーと話した事があったっけ」
「何をですか?」
「冬もあったかい場所に行ってみたいね、って。懐かしい。確か…ベリーズ海岸、だったかな。いつだったか客のオヤジから聞いたのよね」
「ああ、隣国の南部にある観光地ですね」
「そうそう。遠すぎておとぎ話みたいよね」
ふふ、と目を細めたシスターケイティは集まった子供達にも冬のない国の話をする。
うそだー、だまされないぞーなんて言ってる子もいるなか、ふと思った。
(南部方面は結構探したが…ザビはまだだな)
そうして私は偵察を派遣し、チェルシーの居所を突き止めた。
***
「ここ、か」
緑の屋根の可愛らしい家の前で私は佇んだ。
胸が期待と恐怖でドコンドコンと大きな音を立てる。
偵察の報告書に“子供がいる”の文字を見た時、会いにくるかためらった。夫や付き合っている人は居ないようだが、振られるにしても会わなければ、とやってきた。
(もう5年も経ってしまったし…。もしかして私はしつこくて気持ち悪い男なのでは…)
他人の家の前で思考が下降していったものだ。
再会すれば一目でわかった。
彼女の子は自分の子なのだと。チェルシーとシスターケイティがそっくりで不思議に思っていたものだが、それは自分にも当てはまったようだ。
子供が自分の子である喜びと、チェルシーにだけ責任を負わせてしまった事実に、涙が溢れた。
それでも「幸せだ」といってくれた彼女と、今度こそ離れたくない。
私は彼女にプロポーズをし、これからの未来を共に在りたいと強く思った。
***
再会した日の夜、ルドを寝かせてからふたりで家の前に出た。月明かりの下、波音が届く。
ルドの前ではなんとか普通に話せていたが、2人きりになった途端、緊張し始めた。
チェルシーは隣に立ち、そっと手を握ってくれる。僕も握りかえすと嬉しそうに微笑んでくれて。
5年ぶりに会ったチェルシーは可愛さを残しつつも、大人の女性としてのしなやかさも身につけていた。ずっと焦がれ想い続けていた身としては、少々刺激が強い。
惹きつけられて、頬に手を添えた。見つめ合い、口付ける。
一度、二度。
深く求めた三度目でお互い息が乱れて、僕は自制をかける。
「あの、ごめん」
「何のこと?」
頬を上気させるチェルシーが可愛いすぎて直視出来ない。
「はじめて、のとき…必死で。場所とか、気が回らず…。事後、も色々とごめん」
一瞬きょとんとしてから、チェルシーはふふっと笑い出す。
「そうね、私も同じ。必死だったわ。私は何にも持っていないから。さよならの前にどうしても繋がりたくて。あの日の気持ちも思い出も、忘れたことなんてない」
そうして照れた上目遣いで、きゅっと指を握られる。僕は空いている方の手で顔を隠す。これ以上見ていると、キスだけでは済まなくなってしまいそうだ。
「あの、結婚式を挙げよう。それで素敵なホテルの部屋を予約するから…だから、二度目も……」
それ以上は言えなかった。して欲しい、なんてどう贔屓目に見ても僕は気持ち悪い男な気がしてきた。
シスターケイティの「エロ豚野郎」の暴言が脳内に響く。
チェルシーに握られた指を引き抜いて、両手で顔を隠そうとしたが、逆にチェルシーに両手を取られてしまった。
「ねえレオン様。銅貨を通り越して、溶けた鉄みたいなそのお顔をよく見せて?もっと近くで」
「君は…相変わらずだ」
あなたも変わらずかわいいわ。
小さく囁かれて、口付けられた。
夜中じゃなければ、チェルシーが好きだと海に叫んでいた事だろう。
***
それからチェルシーの引越しを手伝った。
ルドは環境が変わることを喜んで受け入れてくれた。パパと暮らせるの嬉しい、なんて言われたら張り切ってしまうではないか。先に使用人宛に手紙を出し、部屋を作っておいてもらうとしよう。
チェルシーが働いていた食堂への挨拶も一緒に行った。キッチン担当の若い男がやたらとチェルシーに馴れ馴れしく、睨んでしまった。チェルシーは随分とモテていたようで、嫉妬してしまったのは許して欲しい。
王都の自宅へと到着した次の日、僕は早速チェルシーを王都の自分の店へと連れて行った。
ルドは使用人とお留守番していてくれるらしく、「デートなんでしょ?パパ頑張って」と笑顔で送り出してくれた。
店に着くと、チェルシーは粗末な服だからと入ることを躊躇ったが、僕は構わずチェルシーを招き入れた。今日は貸し切りにしたから、何も問題はない。
「レオン様、わたし何にも買えないわよ?」
「何言ってるんだい?ここは僕の店だからお金なんて気にしなくていい。それより君は叶えたい夢があったんだろう?」
彼女は小首を傾げた。
僕は忘れていない。厩裏で聞いた色々な話を。
「さぁ、お嬢様。どこからどこまでご所望ですか?なんでもどれでも望むだけ。なんなら店ごと包みましょうか?」
『ここからここまで!ぜーんぶください!』
いつか言ってみたいって笑った君は、無垢な少女みたいでとても素敵だったよ。だから。
「ねえ、泣かないで?」
「どうしていっつも、そんなに覚えててくれるのよ…」
チェルシーは僕の、腕が周りきらないお腹に抱きつく。そこでスーハーするのはやめて欲しい。臭くないか非常にソワソワする。
「もう、だいすき」
その言葉だけで、僕の胸は甘く満たされる。
この先もいっぱい甘やかして、君の望みを全て叶えるのは僕でありたい。
「僕も君を愛してる」
彼女は満面の笑みで言った。
「じゃあ、貴方にリボンをかけて持ち帰るわ!私がいちばんだいすきな、金色の貴方をね!!」
〈終〉
ありがとうございました。