序章19 剥き出しの幻想に包まれし者たち ⑤
「いいだろう」
「は?」
気のせいかと思いたくなるような弥堂の了承の声が聞こえ、そんなバカなと頭がフリーズするが、次いで聞こえてきた『カチャカチャ』という異音に希咲 七海はすぐに再起動する。
その金属と金属が擦れるような音は希咲の顏のすぐ真横で聞こえてきた。いまだ床にお尻を着けて座り込んだままの姿勢の希咲はバッとその音の方向――弥堂 優輝の方へと慌てて首を回した。
「ちょちょちょちょーっとおぉっ! 弥堂あんた、嘘でしょっ⁉」
どう見てもベルトを外しているようにしか見えない弥堂の仕草にパニックになる。サイドのしっぽがぴーんと上に伸びた。
「あんたっ、ばかっ、やめなさ――あほおおおっ!」
慌てて彼を制止しようと声を上げるが、続けて聞こえてきた『ジッ』とファスナーを下ろすような音にびっくりしてもうまともな言葉も並べられない。完全に混乱した彼女はどうにかこの蛮行を止めなければとズボンを下ろそうとする弥堂の手を摑まえようと手を伸ばした。
ここまでの動作を白井はまばたき一つせずに目ん玉かっぴらいて焼き付けようとしていた。
しかし、希咲の努力むなしく、あえなく『ズルっ』と下着ごと弥堂の制服のスラックスは彼自身の手によってズリ下ろされた。
「ぎゃあああああぁぁぁぁっ」
「キャアアアアアァァァァッ」
複数の悲鳴が響く中でついに衣服によって包まれていなければならないモノが公共の場にてむきだされた。
弥堂を止めようと彼に向って半ば飛び掛かるように両手を伸ばした希咲だが、寸でのところで間に合わず、目の前でズボンが下ろされていくのがスローモーションで見えたような気がした。何とか決定的なモノだけは目に映さないようにと彼女は悲鳴を上げながら顏をバッと下に向ける。ちなみに「ぎゃあー」と叫んだ方が希咲だ。
勢いよく頭を動かしたために彼女の頭の左側で括ったそこそこ長さのあるサイドテールがぶんっと振り回される。
「いてっ――何すんだ希咲」
何故か弥堂が希咲へと抗議の声を挙げたが、希咲はもう何も考えられないくらいにテンパっていたので返答は不可能だった。
「キャアアアアっ、イヤアァァアっ、なにそれっ、なにそれえぇぇっ⁉ 知らないっ! そんなの知らないぃぃぃっ」
乙女のような悲鳴を上げて泡を食っているのは法廷院であった。自身の包まれたものとはあまりに形状の異なる、弥堂のむきだされしものを目にして彼はショックと恐怖のあまり泣きだしてしまった。
それは西野や本田も同じようで、男3人尻もちをつきながら身を寄せ合い身体を震わせながら金切り声を上げる。
「おい、これで満足か?」
弥堂が問いかけたのは白井だ。
「はい。大変結構なお手前でございました」
白井さんはまるで憑き物でも落ちたかのような清らかな微笑みで満足した旨を伝えると、深々と頭を下げた。最敬礼だ。自身の身体の両側に左右の手を指まで綺麗に揃えてそれぞれ真っ直ぐ伸ばし、背筋と首が曲がらないよう意識をしながら45度の角度で腰を折ることで、むきだされしご本尊へと最大限の敬意を払った。
「しまってよおぉぉっ。もうそれしまってよおおぉぉっ」
法廷院の方ももう十分だと涙ながらに訴えているようだったので、弥堂は下ろした下着とズボンを直した。
希咲 七海は床にぺたりと座り込んで、顔を上げないように視線を床へと縫い付けたまま完全にフリーズしていた。身体の動きは止まっていたが現在彼女の頭の中は絶賛大混乱中である。顔を下に向けているので他の誰にもその表情は見えなかったが、左手の甲に右手を重ねるようにして、口元を両手で隠して顔中を真っ赤に染め上げていた。
視線を下げることで視界に映っていた弥堂の足元から、彼の手が昇っていくのに連動して肌色が制服のズボンによって塗り替えられていく。頭の上からまた聞こえてきた『カチャカチャ』というベルトを弄る音にさらに追加で羞恥が湧き上がってきて何故か目に涙まで浮かんできた。
(見ちゃった見ちゃった見えちゃったっ! どうしてくれんの――いや違う、見てないあたしは何も見てない。見てないったら見てないもんっ‼)
緊急回避で顔を下に向ける直前。何やら今まで生きてきた中で、一度も目にしたことのない何かがボロンっとまろび出た一部始終が目に入ったような気がするが、気がしただけなのできっと気のせいだ。
ぶっちゃけ何かよくわからない黒いシルエットが見えただけ――どころの話ではなく、色々と詳細にはっきりくっきりと形状からその動きまで記憶に刻まれているが、見ていないものが記憶にあるわけはないので、絶対に気のせいなのだ。
床にお尻を着けて座っていたせいで目線の高さが度し難いほどに丁度よく、また彼の行動を阻止しようとほぼ正面から彼に向って身体を前のめりにしながら腕を伸ばしていたことで、距離感としても冒涜的なほどにアリーナ最前列席であったが、何が何でも気のせいったら気のせいなのだ。
希咲は自分の優秀すぎる動体視力を心の底から呪ったが気のせいなのでセーフだ。そう自分に強く言い聞かせていた。
問題はそれだけではない。
勢いよく頭を下げた際にサイドテールが派手にぶん回された。あの時の弥堂の『いてっ――何すんだ希咲』という台詞。
これはダメだ。絶対に深く考えてはいけない。禁忌に抵触する。あの時に振り回された髪の先の方で『ぺしっ』という何か肉を打つ手応えが感じられたような気がするが、真相にまで辿り着かなければそんな事実は存在しなかったことになるので、乙女の意地にかけて絶対に考えてはいけないのだ。
そうしなければ自分の乙女生命は終わってしまうという強い危機感があった。
(気のせい気のせい絶対に気のせいなんだからああぁぁぁっ)
混乱のあまり大声で叫びだしたくなる衝動を堪えるために、口元に当てた左手の人差し指をガジガジして気を紛らわせる。強い刺激を与えることで少し落ち着けたのだが思っていたよりも痛かったので、そのまま痛みの残る人差し指の基節部を唇で挟み込んで、歯形のついた皮膚を舌先で舐める。目をぎゅっと強く瞑って動悸の早まった胸の鼓動に必死に耐える。
(うぅぅぅっ、ばかっ、ばかっ、びとうのばかっ。なんでこんな日にこんな場所で初めて――いや違う、それは違うわよ七海っ。セーフ、セーフだから。だってあたしなんにも見てないもん、見てないったら見てない。だから全然だいじょ――)
思考の中で言い訳を羅列していたら、ハッとあることに気付き――気付いてはいけなかったことに気付いてしまい、そろーっと恐る恐る自身の口元へと目だけを動かす。今、現在進行形で唇ではむはむしながら舌先をチロチロ当てている左手の人差し指を見る。
(えっ、えっ……ちょっと待って、この指ってさっきあいつが舐め――)
「――うにゃああああぁぁぁぁぁぁっっ‼‼」
本日一番の混乱に陥り本日一番の絶叫をあげた。
「おい、うるさいぞ希咲」
「うるさいばかっ! ばかばかばかっ! あほせくはらへんたいばかしねええぇぇぇっ‼‼」
希咲はとんでもないことをしてくれた不埒者に対してそこまで罵声を浴びせたところで、とうとう処理能力が限界を迎え『びえー』と泣き出してしまった。
完全無欠なギャン泣きであった。
弥堂は、いつも無表情で何があっても動じることのない彼にしては珍しく茫然とした。
今年高校二年生となり、いい年をしてと謂ってもいいような年頃の娘が、床に尻をつけて座り込みながら、まるで女児のように突然に脈絡もなく大声を上げて泣きだす様を見て驚いていた。
しかも弥堂から見ても割と大人びている少女だと思っていた希咲 七海がそのような痴態を演じているものだから、どうしたものかと呆気にとられてしまった。
弥堂はその偏った経験上、自身の目の前で女が泣き出した場合ほぼ9割自分が悪いということを知っていた。
以前に自身の保護者のような役回りをしていた大雑把な緋い髪の女はそもそも泣くようなことはなく、むしろ当時の弥堂の方が泣かされていたのだが、彼の師のような立場にいた別の女は、その強大な戦闘力に似合わず何かにつけてよく泣く女で、その度に彼女から口を酸っぱくして弥堂からしてみれば耳にタコどころか、鼓膜が拒否反応を起こすくらいにクドクドとしつこく弥堂が悪いと言い聞かされていた。
実際に、出会った頃は感情など持ち合わせていない冷血人形にしか見えなかったメイド服姿のその彼女が、自分と深く関わるようになってから時が経つにつれて、事あるごとにめそめそとよく泣くようになっていったのを継続的に見ていたものだから、弥堂はもう女が泣いたら自分が悪い、これはそういうものなのだと大雑把に認識していた。
反論したり否定したりを試みた時期もあったが、そうすると余計に泣かれるのでもう面倒だからそれでいいやと、大変不誠実な受け入れ方をしていた。
そんな姿勢でいるものだから、自分が悪いという風に認識をしてはいても、では具体的に何が悪かったのかという点においては弥堂に理解が出来たことは極めて稀で、今回もその例に漏れず自分の何が悪かったのかがさっぱりと不明で、どうしてこうなったと深く溜め息を吐いた。
他所を見てみれば法廷院たち3人も何故か泣いている。
弥堂は仕方なく白井 雅へと声をかけた。
「おい、これのどこが効率がいいんだ?」
無駄だとわかってはいたが、誰か他の者に責任を押し付けたくなったのだ。
しかしその問いに白井は言葉では応えず、黙って清らかで清楚な微笑みを浮かべた。
弥堂は天井を見上げた。
どうしていいかわからない。こんな風に思うのは一体何年ぶりであろうかと過去を想った。
その背中に夕陽が差し込む。
窓の外を見遣れば大分日が傾いてきており完全下校時刻が近づいてきているようであった。
オレンジ色に染まりつつあるその風景の先へと郷愁の念を込めて遠く目を向ける。
ただ一度その衣服という名のベールに包まれたものを剥きだしただけで、高校生4人を号泣させてしまったその男の背中には虚しさだけが残った。
しかしその背中に確かに漂っていた哀愁を、清らかな微笑みを浮かべた白井が満足気に見守っていた。




