序章03 白鍵上の短二度 ①
「おはよう」という声に「おはよう」という声が返る。
そして木霊するように「おはよう」「おはよう」「おはよう」……と、朝の挨拶が拡がっていく。
どこの学校にでもあるありふれた朝の教室の光景だ。
ここ私立美景台学園高等学校の2年B組でも例に漏れず、続々と登校してくる生徒達の声が途切れることなく教室内を廻っていた。
朝のHRの開始まではあと数分。
まだ教室に顔を見せていない生徒もあと僅かなばかりな様子だ。
すでに登校を終えた生徒達は自身の席に荷物を置くと、仲の良い友人達で集まるか、または自分の席に近い者達と向き合い談笑をしている。
二年生へと進級をした際にクラス替えがあった。
この美景台学園は1学年は大体5~7クラス程で、1クラスにつき多くても30名ほどの生徒しかいない。
その為、学園内は狭い社会となっており、今学期から初めて同じクラスとなった者同士であっても、大体は進級までの1年間の中で、校内のどこかではお互いに見かけたことのある――既にそんな顔見知り同士が多かった。
そういった背景もあり、極端に社交性のない者でもない限りは新クラスとなってまだ1週間程ではあるが、挨拶や世間話程度は誰とでも出来る関係性を殆どの生徒が築くことが出来ていた。
今期のこの新2年B組に関しても現在のところ、『極一部』を除いて問題のある生徒はそれほどは居ない。
また生徒同士の関係もその『極一部』を除けば概ね良好である。
このクラスの生徒たち自身は、そんな風に感じていた。
教室の至る所で思い思いの話題が犇めいている。
昨日の夕飯が――
今日の朝食が――
昨日のTVが ――
今日の朝練が――
昨日の放課後が ――
今日の放課後は――
勉強にスポーツに習い事に色事に家族に友人に遊びに揉め事に恋に愛に思い出に将来に――
同じようで似たようでそれぞれ違う。
共感性を重んじるはずの思春期の少年少女達にありがちの、四分五裂な自己主張は不協和な喧噪となって教室を彩っていた。
HR開始の時間までに自分の話したいことを全て言いきってしまいたいのか――幾人かの生徒達はその声を高め、速めていく。
その時、ガラリと教室の扉が開いた。
2年B組の担任教師である木ノ下 遥香は、毎回HR開始を知らせる時計台の鐘の音が鳴り終わってから入室してくる。
それが、この新学期が始まってからの通例となっていた。
それ故、今教室へ入って来たのはまだ登校していなかったクラスメイトであろうことが予想される。
談笑していた生徒の幾人かは、ギリギリの時間に登校してきた級友を迎える声をかけるべく、出入口の方へと顔を向けた。
しかし、再び挨拶の声を上げようと口を開き構えた生徒たちは、廊下から現れた者の姿を確認して次々と固まる。
先ほどのような挨拶の山彦とは真逆に、今度は教室中で上がっていた声が不揃いに止んでいく。
各所を無音が連鎖していき、喧噪から一転――裏返って静寂となった。
色を失った教室に現れたのは『極一部』であった。
つまり、弥堂 優輝である。
弥堂は教室内へと踏み入る直前で、右から左へとスッと視線を流した。
喧噪が止んだことに戸惑ったわけではない。
室内に立ち入る際に異常や異物が存在しないかを確認をするのは、ただの癖であり習慣であった。
そして、特に問題は認められなかったので弥堂は室内へと足を踏み入れる。
続いて淀みない動作で扉を閉めると、自身の席へと迷わず歩き出した。
進級をしクラス替えが行われたばかりの今時分、各教室の生徒達の席の配置は出席番号順に並べられていた。
教壇のある位置を“前”とすると――
教室内右側にあたる廊下側先頭から出席番号1番、つまり『あ』行の生徒から縦に順番に並べられていた。
縦の列は男女各3列、つまり合計6列となる。
廊下側の列は教室の前後に出入口が設置されている関係で3席、真ん中の教壇正面の列は5席、窓側の列も5席という配置になっており――
つまりこの2年B組は、男女各13名、合計で26名の生徒が所属していることになる。
『は』行の男子生徒である弥堂の席は窓側から2番目の列だ。
教壇を通り抜け自席の方へと向かうルートへ進む。
教壇周辺を陣取り談笑をしていた生徒のグループがあった。
弥堂が接近してくるのを察知すると彼らはスッと道を空ける。
級友が通行し易いようにとの親切心からではない。
彼らの瞳に浮かぶ感情の色は、いずれも澱み濁ったものであった。
弥堂とて自身が教室に現れたことによってクラスメイトたちの談笑が止んだことも、彼ら彼女らから向けられる視線の意味も、そしてその奥にある感情にも、気が付いていないわけではなかった。
だが、それに何も思わなかった。
弥堂が歩きだすとともに、ゆっくりと蛇口を捻ったように教室内の静寂から音が漏れ出していく。
その殆どは囁き声だ。
各所から弥堂へ様々な視線が向けられる。
特に見渡さなくとも、進行方向に並ぶ貌たちは自然と弥堂の眼に入った。
恐れ、怯え、嫌悪、軽蔑、嘲り、敵意――だけでなく、無関心な者も当然いる。
だがそれを加味しても、好意的なものは一つもなかった。
しかしこれらのものは、弥堂にとっては何の痛痒にもならない。
血走った目で罵詈雑言を喚き散らかされるでも、石を投げつけられるでもなく――
時には正面から直接的な武力を以って襲撃をされたり、死角から不意に刃物を突き立てられるわけでもないのだ。
それらを鑑みれば極めて良好な人間関係を築けているとさえ言ってしまってもいいだろう。
実害が完全にゼロというわけではないが、それでも今の所は十分に許容範囲内であると弥堂は判断していた。
とはいえ――
このようなことになった原因には、当然だが弥堂にも心当たりが無いわけではない。
まず一つは、先刻この教室に来るまでの道中で思い浮かべたこの半年間の活動であろう。
風紀委員としての『業務』を行ったことで――もちろん証拠を残すような下手は打っていないが――“結果として”、弥堂の所属する部活動が利益を得ることになったのは隠しようがない。
だから、“結果として”不利益を被った者たち――特に他の運動部の者たちからは不興を買ってしまうのも当然であろう。
その運動部に所属する生徒達から漏れた話は噂となり、校内を駆け巡り、弥堂たちと面識がないような者達にまで広まり――“結果として”学園中で周知されるような悪評となるのも自明の理であった。
現状、この美景台学園の全運動部の生徒や担当教職員達の中では、『弥堂 優輝』『廻夜 朝次』の名を知らぬ者はほぼいなくなった。
当然悪名だ。
同じく『サバイバル部』と『風紀委員会』もまた、激しい憎悪と畏怖の対象となっている。