序章02 牽強付会 ③
不意に風が吹き抜ける。
空間は桜色に包まれた。
昇降口棟の窓側から薄桃色の螺旋が流れ込んでくる。
それらは壁に扉に床に殺到をし、行き場を失くして――やがて天へと舞い上がる。
だがそれらはすぐに天井に行く手を阻まれ視界一面の左右へ拡がり、弥堂しか居ないこの空間をその色に染め上げた。
窓の外は正門へと続く桜並木だ。
ここ美景市の地形は南側が海、北側は山になっている。日中は海側からの風が吹き込み、夜は山からの風が吹き下ろすのだ。
現在は学園始業前の午前8時36分。
南側に位置する正門より敷地内に風を招き入れ、その風は桜並木を通り抜けてからその先を塞ぐ昇降口棟へと辿り着く。
窓側に視線を向ければ前方の窓が一つ開け放たれていた。
朝のHRの開始は午前8時40分からだ。
今朝の春風は、始業前ぎりぎりのこの時間に正門をくぐり桜並木を勢いよく走って慌てて登校してきたのか――
校舎前で学園の生徒を迎えるために待っていた桜の木から散った花びら達まで、通り掛かりに一緒にここまで連れて来てしまったのだろう。
一か所だけ開かれた窓から這入ってくる桜色の帯が螺旋の渦を巻く。
その螺旋が弥堂の向かう先の朝陽の方角から差し込む陽光を反射させ、その道を煌めかせる粒子となった。
それは一見して優美な女性がこの先の未来を祝福してくれているように見える。
しかしその一方で、螺旋――メビウスの帯――はどこまで歩いてもどこにも行けず、永遠に回り廻り続く。
そんな迷宮の回廊に迷い込んだようにも見えた。
そしてそれは、弥堂 優輝という男のこれまでとこれからを示唆しているようでもあった。
この先は目の前の桜色達のように遍くものに阻まれ、その内にやがては足場が崩れこの世界に拠り所を喪ってしまう――
そんな時が来るだけなのだと、それまで只管同じ道を廻り続けるだけなのだと――
まるでそう占っているように感じられた。
また或いは自ら――
そこまでを思い浮かべた所で、実にくだらないこじつけだと――
弥堂はその感傷を切って捨てた。
弥堂 優輝は高校生だ。
日本という国で生まれ、その出生が記録されてから16年が経過している。
彼の両親に課された義務教育は中等教育で終了していることになってはいるが、この国の他の同年代の子供達の殆どがそうであるように、16歳は高校生であることが求められる。
それが当然のことでありそれが“普通”ということだ。
だから弥堂は高校へと進学した。
それが己の役割だと。
その先の目的も持たぬままに――
部活動は楽だった。
目的を示され、その為の役割を与えられ、それを熟す。
たったそれだけでよかった。
それがどんなことであれ――
弥堂は目的の為ならばあらゆる手段を用いて一定以上の成果を出す自信があった。
ただ、それがどんなことであれ――
その『目的』というものを自分自身で自力で見出すことが弥堂には出来なかった。
それが、いついかなる時も――
何処に居ようとも――
どんなことがあれども――
――どうしようもなく弥堂 優輝という人間の性質であった。
廻夜 朝次は弥堂 優輝の物語が始まったと云った。
だが、そうではない。
弥堂 優輝の物語はもうすでに終わっているのだ。
結末を見ることなく中から断たれ、そしてその続きが語られることはもう永遠にないだろう。
一年間高校生として過ごしてきて、現在高校二年生となった今でも、ここでこうしていることの意義とその先の目的を見出すことは出来ないでいた。
だが、もう終わった身の上であるとはいえ、たとえ自身が望んだ訳でなくとも――
この社会に所属する以上は己の役割となる学生を続け、いずれは学生を終え、その上でこの社会の中で“何者”かには為らなくてはならない。
だから今ここで答えが出ようと出まいと、結局はやることは変わらないのだ。
夢を持てと大人は謂った。
夢があると少年は云った。
夢など幻想だと女は斬って捨てた。
そして今この瞳に幻想は映らなかった。
また窓から風が吹き込み、桜の花びらが棟内に入り込んだ。
春。
今までが終わってこれからが始まる。
誰かと別れ誰かと出会う。
春の風は誰しもに何かを運んで来て、そして誰しもに何処かへと進めと、背後から耳元にそう囁くのだ。
暖かくて優しいと謳われるその春の風は、たとえ何も準備など出来ていなくとも、たとえ何も覚悟など持っていなくとも――
誰かから誰かを連れ去り、それでも誰しもを強制的に次へと進ませようと背を押す――
――そんな残酷な風であった。
棟内に流れた花びらがまた舞い落ちてくる。
それは、或いは幻想的な光景なのだろう。
視界いっぱいに桜の花びらが舞い落ちて降り注ぐ。
これを見て喜ぶ者も多いのだろう。
美しく素晴らしいものだと多くの者達が評するのだろう。
なのに。
だけど。
人間の社会は人が幻想に浸り続けることを決して許しはしない。
たとえ『世界』が許そうとも、人と人との間で生まれた人間が創った人間を閉じ込める為の社会がそれを許さなかった。
夢からは必ず醒めて、幻想は消える。
地に堕ちて朽ちて踏みつけられていくのだ。
前髪に縋りついていた花びらを指で摘まみあげ、日の目に晒す。
白い花びらに薄桃色が差したこの国ではよくある桜の花びらだった。
右手で摘まみ上げたその花びらの表面に左手の人差し指をスッと一度滑らせた。
満開となるこの季節に咲き乱れ散り乱れ死に乱れるその花の弁は、まるで白い肌に健康的な血色を浮かばせた少女の柔肌のようであった。
花びらを挟んでいた親指と人差し指を離す。
弥堂は床へと落ちていく花びらを目で追う。
くるりくるりと舞いながら落ちる薄桃色はやがて床へと辿り着く。
すると、途端に他の花びらへと混ざり溶け込み、床に流れるその生命の血流の一滴、もしくは肉の一摘まみへと成れ果てた。
どんなに美しく成ろうとも、こうして地に果ててしまえば――
――これらはただのゴミにすぎなかった。
弥堂はそれらを見下ろし、そしてそれに何も思わなかった。
開け放たれている窓枠へと歩き出す。
死に乱れた桜色の骸の上を。
窓へと手を伸ばす。
外からはまた桜色の帯が流れてくるのが見えた。
僅かに目を細める。
花びらが風に乗り、建物に阻まれ、行き場を求めるように唯一の抜け道であるこの窓へと収束し渦を巻き、桜色の螺旋となって迫るのがゆっくりと視えた。
それらが屋内へと侵入する前に、彼女らと擦れ違う前に、袖が擦り合うその前に――
――弥堂 優輝は窓を閉めた。
感傷を断ったのではない。
この通路の窓はこの季節は開放禁止となっており、風紀委員に所属する自分は開放禁止のはずの窓が開いてることに気付いたのならば、職務上それを閉める必要性があるからだ。
やるべき『仕事』をただ熟した。
後で清掃員にこの廊下の有様を報告しておけば、一限目が終了した後の休み時間には全てが無かったことになっているだろう。
死体などなかったことにされる。
拒絶され捨てられた幻想は階下の出入り口へと降り注いだ。
まだ所属する教室へ辿りついていなかったのだろう、昇降口棟の出入口には登校してきた生徒が数名居たようだ。
望外の色めいた通り雨に燥ぐ女生徒達の歓声が聞こえてくる。
弥堂はそれには興味を示さず二年生校舎へと歩き出した。
輝かしい高校生活を送るべく桜色の絨毯を踏みつけ歩いていった。
コッコッコッ――と、不変の拍子で残響音を置く。
死に別れた者を踏み越えた先には恐らく誰もいない。
残されたのは幻想の骸――
その美しかった薄桃色は踏み躙られ穢され純潔であることを喪った。