序章10 善意の洞 ④
弥堂は暫く水無瀬の様子を見守っていたが、信じ難いことではあるがどうやら本当に回復しているようで、施術者としてはそうなる理由は一つたりとも思いつかなかったが、だがしかし、いくら理屈を後付けしたところで今目の前で起こっている事象以上の説得力を持たせることは不可能であるし、それを超え覆すような理論を考えることも不毛だ。弥堂はこれはもうそういうものなのだと割り切った。
「水無瀬」
「え――あ! 弥堂くんっ!――そうだ……私すぐに――」
「それはもういい。動くな、喋るな、考えるな。そっちのお姉ちゃんの所に行っていろ」
弥堂に気が付き、水無瀬は自分が何をしようとしていたのか思い出したのだろう、すぐにまた慌てだしそうになるが、弥堂は機先を制しそれを止めた。
「で、でも……ど、どうしたら……」
「どうもこうもない。飛び降りる」
「飛び降りって……え⁉」
弥堂が現在居る木の枝は校舎二階フロアに相当する高さだ。本人は簡単に言ってはいるが飛び降りるとなるとそれなりに危険を伴う高さとなる。
水無瀬は「あわわわわ……どうしようどうしよう」と焦って辺りを見回すと「水無瀬ちゃんおいでー」と両手を拡げて呼びかける上級生のお姉さんが目に入った。それに何か閃きを得たのだろう、彼女が何か思いついた時に周囲の者に幻視させるお花をピコンっと頭に一本咲かせた。
「ど、どうぞっ‼」
木の上の弥堂に向って両腕を拡げて伸ばすとぎゅっと目を瞑った。
「……何の真似だ……」
またしても理解不能な仕草を見せた被験者に弥堂は再度不審な視線を送った。
「うっ、受け止めますっ! どうぞ‼」
「どうぞじゃないが?」
目は瞑ったままでしかし、気概は十分だというアピールで水無瀬は再度その短い両腕をバっと拡げた。
「……受け止めるって……お前な……」
弥堂は身長178㎝、体重は70㎏近くある。対して受け止める側の水無瀬は小柄で、150㎝にも満たない身長に体重もどう見ても50㎏はない。せいぜい40㎏あればいい方であろう。
男子の中でも高身長な部類の弥堂を女子の中でも小柄な水無瀬が受け止める。誰がどう考えても無理だった。
「私こう見えてもけっこう力もちだから遠慮しないでっ、どうぞっ!」
弥堂の疑心を掃うように水無瀬は「ふんっふんっ」と鼻息荒く気合を見せた。
弥堂はそれに「はぁ――」と溜め息を一つ。
そもそも水無瀬の立ち位置は弥堂の居る桜の木から5mほど離れている。助走もなしにそこまで飛べというのかと呆れを滲ませつつ、しかしその方が今は都合がいいと「いいか? 絶対に動くなよ」と短く警告を発し、何の予備動作も覚悟もなく落下した。
急速に高度の変わる視界の中で、「ひょわあぁっ」と奇声をあげる水無瀬が自身の着地点に突っ込んでくるようなことがないと確認し、特に何事もなく両の足で着地をした。
着地の瞬間『タタッタタッタタッターン』と高速で乾いた音が鳴る。
その音に周囲の者達は驚き、また水無瀬も、彼女の鈍い反射神経と運動能力なりに遅れて弥堂を受け止めるべく一歩だけ踏み出していた体勢で固まった。
口をぽかーんと開きながらその大きく丸い目で茫然と弥堂を見ていたが、数瞬で我を取り戻すとわたわたと弥堂に走り寄り、目の前でしゃがみこんだ。
それを訝しんだ弥堂は、害はないだろうとは思うがしかし、何かおかしな動きを見せれば即座に膝蹴りを叩き込めるよう重心を調整し様子を見る。すると水無瀬は人差し指で恐る恐る弥堂の膝をチョンチョンっとつつき、次いで脹脛や腿をペタペタと触わると、遂には何やら揉み解し始めた。
「…………何をしている?」
弥堂は努めて冷静に尋ねた。
「だ、だいじょうぶ? 足じぃーーんってなってない?」
心底から案じているのだろうとわかるほどに、瞳に心配の色を滲ませこちらを見上げてくる彼女に頭を抱えたくなる。
弥堂からしてみればバカにしているのかと感じられるが、しかし先程までと同様にこれもまた総て彼女の善意なのだろう。
疲労感を吐き出すように弥堂は短く息を吐き、未だ自分の足に謎のマッサージを施す水無瀬の眼前に左手を差し出した。
目の前に差し出された手の意図がわからず、水無瀬は首をかしげ少しだけ考えると、弥堂のその手を両手でハシっと捕まえ、なにやらにぎにぎし始めた。
別に手をマッサージしろという意図を込めたつもりのない弥堂が彼女に「違う。両手でしっかり摑まっていろ」と伝えると、水無瀬はようやく意図を察し、その大きな両の瞳をキラキラと輝かさせると彼の左手を両手でしっかりと握った。
それを確認した弥堂は――出来れば安全の為に彼女の手首を握りたかったので掌を握るのはやめて欲しかったのだが――特に力を入れることもなく彼女の軽い身体を引っ張り上げた。
それほど強く引っ張ったつもりは弥堂にはなかったが、運動神経の乏しい水無瀬は立ち上がった瞬間にトトっとバランスを崩してよろけると弥堂の方へ倒れこみそうになる。
それを弥堂は彼女の肩を右手で軽く抑えることで支えてやる。
「えへへ……ありがとう」と照れ隠しに笑いながら礼を言う彼女がしっかりと立っていることを確認すると、弥堂はすぐに彼女から両手を離した。
それでも、何が楽しいのかわからないがそのままニコニコとしながら自分に顔を向け続けている彼女の――水無瀬 愛苗の顏を見ていると、彼は――弥堂 優輝は何か言い知れない不思議な感覚に囚われた。
先程までここで起きていた騒動は事態が収拾したのかどうかさえ、もはやよくわからなかった。そもそも自分はここで何をしていて、何をしに来ていたのかさえ忘れそうになる。締まりが悪く、締まりがなく、全くを以て冗長が極まって、段取りもなければ結もない。要はグダグダすぎた。
彼女に付き合っているとしばしば、こういった不思議な脱力感に苛まれる。弥堂があまり経験のしたことのない、彼には言語化の出来ない徒労感や諦観に似たナニカ。
弥堂にはそれが何なのかわからなかった。
そして、こういった無駄を最も嫌うはずの自分がそれほどには不快になっていないことに、弥堂 優輝は気が付いてはいなかった。




