序章10 善意の洞 ②
(――なんなんだこいつは)
理解不能な存在と状況への苛立ちに弥堂 優輝は、ぐしゃっと自身の前髪を掴む。
普段はどんくさく、何事ももたもたとしてはドジを踏み、へらへらしている水無瀬 愛苗が。
この緊急時――とは彼女が勝手に思い込んでいるだけだが――に於いては、その普段の姿が嘘だったかのように状況をまとめあげていく。
擬態だったのか?――違う。
それともわざとこちらを追い込んでいるのか?――違う。
そのようには見えない。視えない。
これは善意なのだ。
100%、他の何一つをすら混入することのない、純血で純潔なる善たる意志を以て水無瀬 愛苗は行動しているのだ。
そうとしか見えない。
見えない。見えない。視ているのに視えない。
これまで数多の悪意と戦ってきた。
数多の悪意の中で生き抜いてきた。
そんな道を歩んできた弥堂 優輝を以てしても、純粋なる善意により窮地に追いやられるなどという状況は完全に想像の埒外だった。
このまま水無瀬を体育館に辿りつかせたらどうなる?
体操マットが収容されている体育倉庫は通常施錠されている。その鍵の管理をしているのは体育教師の箕輪という男性教員だ。奴はサバイバル部と風紀委員会を、その中でも特に弥堂を目の敵にしている。当然だ。彼が顧問をしていた空手部を潰してやったのは弥堂だからだ。
水無瀬が箕輪の元へ行き、倉庫の鍵を借りる為に事情を説明すれば、あの男は嬉々として水無瀬を手伝いこの現場にまで着いてくるであろう。
そうなってしまえば弥堂が今週中に提出しなければならない反省文が一つ増えるであろうことは考えるまでもないことだ。
そしてそれだけならばまだしも、弥堂個人だけでなくサバイバル部や風紀委員会への追及をする機会を与える口実にもなりかねない。さらにはもっと最悪、木の上で校舎へとカメラを向けていた弥堂の所持品を検められ、万が一スマホの中の『希咲 七海おぱんつ画像』が発見されれば――
当然それは許容を出来ることではない。
弥堂は手に持った望遠カメラの重さと感触を確かめた。
この色々と立派なカメラを、あそこにいる“前頭前野お花満開娘”の後頭部に直撃させれば奴を仕留めることが出来るであろうか。
(――NOだ。目撃者が多すぎる)
こうしている間にも、愛苗ちゃんの一所懸命ながんばりにより続々と野次馬が増えている。いくらなんでもこの人数の口を短時間で全て封じるのは不可能だ。
状況は予断を許さず刻一刻と着実に弥堂を破滅へと向かわせている。
弥堂は軽く両の瞼を閉じると天を仰いだ。
久しぶりの感覚であった。
久方振りの窮地。久方振りの絶望。
圧倒的に不利な状況下で孤立無援。
しかしそんな戦況の中に於いて、むしろそんな環境の中でこそ弥堂の心の置き場所は定まる。
例え生存までの道筋が一筋たりとて見えなかろうとも、思考を止めることも、行動を止めることもありえない。
弥堂 優輝というモノはそのようには出来てはいない。
弥堂 優輝は目を開ける。
目標を見定める。
下腹に威を籠め、今にも体育館へ向けて『よ~いどん』しそうな水無瀬の背に向けて発する。
「――水無瀬っっっ‼」
「ひゃいぃぃぃっ‼」
元気いっぱいに走り出そうとしていた水無瀬はピシっと気を付けをして直立不動の姿勢となる。周囲の野次馬たちの騒めきも止んで、まるで大型獣に吠えられた獲物のように誰もが硬直していた。
低い音、低い声音。
怒鳴りたてるわけではなくただ適確に空間を振動させ対象に威を徹す。
やったことと謂えば単純に大声で驚かせただけだ。少しだけ特殊な呼吸の仕方と発声の仕方が必要とはなるが、相手を所謂『気に当てられる』という状態にする技法だ。
弥堂に『これ』を仕込んだ女は戦闘中に於いても相手を硬直させ崩しに使うほどの“業”にまで昇華させていたが、弥堂にはそこまでの習得は出来なかった。しかし、何かしらの訓練を受けているわけでもない一般人を短時間無力化する程度の芸当は彼にも出来た。気の弱い金子さんなどは腰を抜かしてしまっている。
弥堂 優輝にとっては師とも云えるような存在でもあったその女に云わせれば、弥堂には決定的に才能が足りなく、一つとして業を極めることは出来ないであろうが、しかし長年修練を積めば彼女に近いレベルに達することも或いは可能ではあるかもしれないとのことであった。
つまり見込みなしという意味なのだが、ついぞ弥堂を見限ることが出来なかった彼女は、はっきりそうとは言ってくれなかった。
だが、いつ実用に足るようになるかわからないようなものに注力する気概は弥堂にはなく、もしも現在の弥堂が彼女と同じようなことがしたいと考えたのならば、気の遠くなる訓練をするよりもスタングレネードの入手ルートを捜すだろう。その方がはるかに効率がいい。
『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できる戦力以外には弥堂は価値を見出さない。以前にそれを伝えた時の彼女の大きく失望した顔が頭に過った。それでも弥堂を見限れなかったことが彼女の数少ない欠点であり、そして最大の過ちであったように今では思えた。
弥堂は意識して女のことを頭から振り払った。
続けてこれもまた彼女に教わった技術を行使するべく、いまだ硬直したままの水無瀬の背に声をかける。
「水無瀬」
「は、はいっ!」
萎縮し、硬直したままの彼女に努めて穏やかにゆっくりと話しかける。
「ゆっくりでいい。俺の言葉を落ち着いて聞け。まずは何も考えずにゆっくりと浅く息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出すんだ。それを3回繰り返せ。ゆっくりだぞ?」
「すぅーはぁー、すぅーはぁー、すぅーはぁー」
素直なよいこの愛苗ちゃんはとりあえず言う通りにした。
「よし。よく出来たな。えらいぞ。そうしたら今度は深く息を吸って吐きながらこっちを向け。これもゆっくりだぞ。できるな?」
「――えらい……わたし、えらい……すぅーーーー」
弥堂らしからぬ丁寧な口調で褒められてよくわからないけど嬉しくなった愛苗ちゃんは追従する。
「――よーし、上手に振り向けたな、いいぞ。呼吸も上手にできていい子だ。そのまま呼吸を繰り返しながら次は俺の手を見るんだ。左手だ。そう。見えたな。えらいぞ。指が何本見える?……そう5本だ。よくわかったじゃないか。キミはすごいな」
「……すぅーーはぁーー、すぅーーはぁーー……」
弥堂は目を細め、注意深く被験者の様子を見定めながら工程を進めた。
「水無瀬。そのまま俺の手を見ていろ。おっと、呼吸を忘れるな? うむ、えらいぞ。では指を減らしていくぞ……今俺の指は何本立っている?……すごいぞ、正解だ。1本だ。キミは賢いな。よし、この1本の指の先端から目を離すなよ。水無瀬はいい子だな。とても上手だ」
「……えらい……わたし……すごい……わたし……かしこい……わたし……いいこ……わたし……じょうず……」
順調に受け答えがおかしくなっていく水無瀬の様子に、弥堂によって硬直させられてから多少正常を取り戻してきた野次馬たちが騒めく。
「お、おい……なんだ? これ、なんだ? 俺たちは何を見せられてるんだ?」
「なぁ……俺こんな胡散臭いもの初めて見たんだけど……え? まさか催眠術とかじゃないよな? そんなわけないよな?」
「ね、ねぇ……あの子なんか目がとろんってなってきてない? 大丈夫なのこれ?」
「絶対やばいよ……警備員さんか風紀委員呼んできた方がよくない?」
今まさに木の上に登りながら怪しげな儀式を学園の玄関口たる正門前で行っているこの者こそが、残念ながらこの美景台学園の風紀を守るべく活動を行う風紀委員なのだが、目の前のやばすぎる絵面が彼ら彼女らにその事実を失念させた。
「いい調子だ。卓越したパフォーマンスだぞ。次は上下だ……いいぞ水無瀬、キミはスーパーだ」
「……みぎぃ~ひだりぃ~……すぅ~はぁ~……わたし~すぅ~ぱぁ~……うえぇ~したぁ~……すぅ~ぱぁ~……」
左右に上下にとゆっくり動かされる弥堂の指先を見つめ、彼に言われた通りに深呼吸を繰り返しながらその動きに合わせて首を動かす。そんな水無瀬の様子に頃合いと診て弥堂は段階を進めた。
「よし、いいぞ。では呼吸は続けたまま今度は俺の言葉を復唱するんだ。復唱とは確認のために言われた内容を自分も繰り返して唱えることだ。わかるか?……そうか、わかるのか。キミは天才なんじゃないのか」
「……てんさい……すぅ~ぱぁ~……わたし……すぅ~ぱぁ~てんさい……」
どうやら愛苗ちゃんは『スーパー』がお気に召したようで、息を吸って吐く動作とともに発せられるスーパー天才・水無瀬 愛苗の呼吸音がスーパーになった。
虚ろな目で『すぅ~ぱぁ~』『すぅ~ぱぁ~』している水無瀬に弥堂は続けた。
「私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「わたしはみなせまなです。ななみちゃんではありません」
「復唱は正確に行え。私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「ふくしょうはせいかくに……わたしはみなせまなです。きさきななみではありません」
「よしいい子だ」
虚ろな目で棒読み口調で自分の言葉を反芻するクラスメイトの女子の様子に弥堂は満足げに頷いた。
「どうすんだよこれ。一気に犯罪臭さが加速したぞ」
「え? さすがにネタでしょ?……こんなことってある?」
「ねぇ、大人のひと呼んで来ようよ……」
「いや待て。この後どうなるのか若干興味がある。もう少し様子見ようぜ」
周囲の皆さんの戸惑いを他所に状況は進んでいく。
「よしいいこだ」
「おい、それは復唱しなくていい」
「おい、それはふくしょーしなくていい」
「聞けよてめぇ」
「きけよてめー」
「どういうことだ」
「どーいうことだ」
想定していたものとは違う挙動を見せる実験動物を弥堂は訝しんだ。
「おい! 本当に大丈夫か!? このまま様子見てていいのかこれ」
「私いやよ! 犯罪発生の現場に立ち会うとか!」
「でもよ……へへっ、なんかいいな……あの水無瀬さんの口から汚い言葉が聞けるなんて……」
「は? きもいんだけど」
騒然となっていく周囲の様子を鑑みて、多少想定とは違うものの、時間がないと判断し弥堂はこのまま進めることを選んだ。
「私、水無瀬 愛苗は放課後に弥堂 優輝には会いませんでした」
「わたし、みなせまなはほーかごにびとーゆーきにはあいませんでした」
「よし」
「よし」
概ね目論み通りに暗示がかかっていると判断して弥堂は手応えを感じた。
元々は特殊な環境で特殊な薬品の使用を伴って行うものであったが、これを教えてくれた“彼女”曰く、『通常では考えられないくらい単純で思い込みが激しい者ならば条件不充分でも掛かるかもしれない』とのことであったが、どうやら今回は対象がちょっと考えられないくらいの者であったようで、期待通りに事が進みそうだ。多少思っていたのとは違う挙動も見せてはいるが弥堂はそれには目を瞑った。
「私、水無瀬 愛苗は体育館には行きません」
こちらにとって最も致命傷と成り得る行動を止めるべく進める。――が、しかし
「わたし、みなせまなはたいいく……かん……いき…………」
「む?」
少なくともここまで、余計なものまで含めて言葉を繰り返すことだけは完璧であった水無瀬の様子が変わる。
「……たい、いく……かん……いきま……いく……かん……いきまかん……」
「おい、水無瀬?」
「……いく……いく……いくかんいく……いきまなんみないくかんいくかん……」
「違う、行きませんだ。ちゃんと復唱しろ。私は体育館に行かない」
不穏を感じて弥堂は語気を強めた。
「……た、いいく、かん……いかな、いく……いくいくかんいく……いきたい……」
「ダメだ、行くな。それは許可出来ない。行かないと言え」
「たいいく、だめ……いく、だめ……いかない……やだ、だめ……いく……だめ、いくいくいく……」
「くっ……なんてことだ……」
虚ろな目で「いくいく」を連呼するマシーンと化した水無瀬を制御することが出来ずに弥堂は己の未熟を恥じた。当然周囲のみなさんはどん引きだ。
「おいこら弥堂‼ 水無瀬さんになんてこと言わせてんだてめぇっありがとうございますっ‼」
「このクソ野郎、公共の場所で突然特殊なプレイおっぱじめやがってどうもありがとうございますねェェっ⁉」
「おいこら男子ども、本音出てるぞ」
義憤に燃える男子生徒達は激昂し、女子生徒達からの見る目は冷たい。周囲の状況は混沌となってきた。
「ふむ」
しかし、そんな状況でも弥堂は特に気にした様子もなく、落ち着いて顎に手を当てしばし思考すると
「どうやら失敗のようだな」
別段、固執することもなく即座に作戦の失敗を認めた。弥堂は『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できるものにしか価値を見出さないのだ。




