序章08 嘘と誠実の硬貨 ③
――教室への扉を開ける。午後の授業開始まではあと14分といったところだろうか。
いつも通り室内の様子を確かめてから足を踏み入れ自分の席へと進む。教室内であちこちに散らばった生徒達の隙間を歩いていくと、水無瀬 愛苗と希咲 七海が俺の席で待ち受けていた。
予想はしていたが、もう少し時間を潰してから戻るべきだったかと面倒になる。だが、どうでもいい。
俺が椅子に座るのを阻むようにルートを塞いで立つ二人に目をくれる。
腕組みをし挑戦的な眼差しを向ける希咲とそわそわとした様子の水無瀬。どうせこいつらを避けることは不可能だ。それならばさっさと茶番を済ませよう。
コロコロと表情を変える水無瀬へと近づく。恐らくは、自分の作った弁当が美味かったかどうかを気にしているのだろう。
悪いな。食べていないからそれはわからないんだ。
期待するような顔と不安そうな顔とを、コインの裏表を連続でひっくり返すように繰り返している。真逆の『表』と『裏』。『成功』と『失敗』。『喜び』と……悲しみ、なのだろうか。
俺の感想という判決次第ではこの少女の感情と表情は180度変わるのだろう。
『弁当』を裏返したら『ゴミ』になったように。
近づくに連れ水無瀬の隣に立つ希咲の眼差しが威圧的なものに変わる。
この女はいつもこうだ。わかっている。『上手く』やれと言いたいのだろう? 約束通りにしてやる。
弁当袋を持った手を水無瀬へと伸ばそうとして、何か言うべきなのだろうと思いつく。
だが、特に言葉は見つからなかったので、無言で彼女のその小さな手の上に袋を置いて渡してやる。
「あ、あのね? ……おべんとう……その…………大丈夫だった?」
『美味しかった?』と聞かなかったのは『美味しくない』と言われたくないからだろうか。
何にせよこいつから口を開いてくれたのは都合がいい。
「あぁ。問題なかった」
返答しやすい質問の仕方をしてくれたことに不誠実な感謝を覚える。だが、それでは済ませてくれない者もいて、言葉を返そうと口を開きかけた水無瀬が声を発する前に、聡い親猫が鼻先を突っ込んでくる。
「あんたねぇ、もっとマシな感想ないわけ? なんなのよ、問題ないって」
「な、ななみちゃん……おいしくなかったとかじゃないなら私は、それで……」
高圧的な希咲を宥めつつも時折こちらに視線を送り、俺の顔色を窺っている。
歪な関係だと思った。
物怖じなどせずに自分をぶつけてくる割には、本当に望むものは明示せず手を伸ばさず。そしてそれをこうやって希咲が代わりに搔き集めてくるのだろう。希咲も希咲で水無瀬から何かを受け取っているのだろうが、この二人の『共犯関係』は俺にはよくわからなかった。
庇護下に置いて、庇護下に入って、それで『共犯』が成り立つのだろうか。
少なくとも、ルビアと俺とでは成立しなかった。
四分五裂に引き裂かれた。
希咲がこちらに指を突きつけてくる。
「あんたねぇ、もっと女の子に気を利かせなさいよ」
礼を逸した態度ではあるが不思議とそうは感じず、この女には何故かこういった仕草が似合っていると、丁寧に整えられた彼女の手の指の爪先を見てそう思った。
「ちょっと! 聞いてんの?」
「ああ」
面倒くさい。もういい。
「生憎と不慣れでな。こういう時にどう振舞ったらいいのかわからないんだ。よかったら俺に教えてくれないか?」
希咲は眉を顰め瞳に不審を映す。だが、お前はこう言うしかないだろう?
「……こういう時はね、嘘でもいいからまず、『美味しかったよ、ありがとう』って、そう言いなさいよっ」
「ああ。『ありがとう』」
許可をくれて。
「もし食べられないものとか口に合わないものとかあったら、その後でちゃんと言ってあげなさい」
全てだ。
「水無瀬」
希咲からはもう欲しいものは受け取った。続きの言葉を拒否するように身体ごと水無瀬へと向ける。
「は、はいっ」
妙に畏まったように緊張したように身を強張らせるこの少女に言ってやる。
俺に可能な限りの優しく聞こえそうな声で言ってやる。
「『美味しかったよ』、『ありがとう』」
自分の耳に届いた自分の声はいつも通りの平坦な声だった。だが結果は同じだった。
単純な少女だ。
この流れで発したこんな言葉に先ほどの焦燥など何処かへ行ったかのように、瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべる。俺にはない輝き。俺にはない感情。俺にはない存在する力の強さ。
「あんた……せめて少しは言葉を変えるくらいの努力をしなさいよ……」
俺もそう思うよ。だが、こう言えと言ったのはお前だ。そんなつもりはなかったんだろうが、これでお前は俺の『共犯者』だ。
「えへへー、ありがとうっ。あの……また作ってくるねっ!」
それは出来ればやめてくれ。だが言ってもどうせ聞かないのだろう?
それならば、また次も同じように言ってやる。『美味しかった』と。嘘でもよければな。
俺に笑いかける水無瀬 愛苗を見る。
こんな薄っぺらい言葉で解消される程度のことに何をあれほど大仰にも憂慮していたのだろうか。
こんな薄っぺらい言葉で成り立ってしまうような『楽しいこと』の価値とはどれ程なのだろうか。
俺にはわからなかった。
これで俺は水無瀬 愛苗の『共犯者』となった。
それならば水無瀬。
お前は一体俺に何をくれる?
――校舎棟の一階のラウンジに入る。
あの後、希咲に女の子にお弁当作って貰っておいてタダで済ますとは何事か、飲み物の一つでもお返しするべき、と言われて彼女達二人の飲み物を買いに俺は一階の自販機まで来ていた。
水無瀬自身は遠慮していたし、何故かついでにと希咲の分まで要求されたのだが、俺としてはたかだか小銭の数枚で面倒が済むのならば安いものだ。
制服のポケットから小銭入れを取り出しながら自販機へ歩く。
生憎と小銭を切らせていたようで、代わりにブレザーの内ポケットに直接入れている紙幣を取り出す。自販機の前に立ち千円札を投入しながらディスプレイに並べられた商品の中から目当ての物を探す。
水無瀬が缶のアイスココア、希咲がパックジュースの200円のレモンティー。それぞれの見本の下のボタンを押して購入し、取り出し口からそれらを回収しながら思う。
水無瀬 愛苗と希咲 七海。
廻夜部長の言った通りにもしも、いつか何年後か何十年後かに俺がこの二人に、彼女ら『共犯者』に再び会うことがあったとして、今日のことを三人で語らい笑い合ったとして、それに一体どんな意味があるのだろう。
こんなことで俺という人間の人生が『豊か』になるのだろうか。今までの『貧しさ』を差し引けるのだろうか。
だって本当はそんな事実はなかったのに。
嘘で成り立つ『人生』を『豊か』にする為の『思い出』を『捏造』する『共犯関係』。
それにどんな価値があるのだろうか。
そんなものをわざわざ自発的に作ることにどんな意味がある。
釣銭の回収レバーを操作し、落ちてくる小銭を回収する。
『誠実さ』とは一体なんだろうか。
この場合、水無瀬 愛苗が作った弁当を、弥堂 優輝が食べて、希咲 七海の言う通りに、
『美味しかったよ、ありがとう』
と、そう伝えることなのだろう。
だけどそれはこうやって『嘘』でも同じ結果が得られる。
そこに一体どんな差があるというのだ。
小銭入れに釣銭を落とし入れていく過程で500円玉硬貨が目に留まる。
例えばそう、この硬貨のように。
500円玉だけ摘まみ上げ表と裏を見る。
このまま俺が何も明かさなければ『誠実』のままで、真実を明かせば『嘘』になる。裏を明かす方が『誠実』なのに『嘘』のままの方が誰も傷を負わない。
同じ事象の『表』と『裏』に『誠実』と『嘘』がある。硬貨の表裏のように一体になって、一対となって。
同じ事柄の『表』と『裏』にずっと付き纏う。簡単に裏返ってしまうほどの酷く脆い『楽しかったこと』。
いつかの未来で――もしかしたらそれは今でもいいのかもしれない――もしも俺が硬貨を裏返したのならば。
ついさっきああして楽しそうに、幸せそうに笑い合っていた二人の少女はどうなってしまうのだろう。どんな顔をするのだろうか。
『楽しかったこと』がそうではないことに裏返ってしまったのなら。
全く別のものに生まれ直してしまったのなら。
それは一体何へと為り変わるのだろうか。
きっと誰もが物言わなくなってしまうのだろう。
『共犯関係』も罅割れて、バラバラに引き裂かれて、四つで分けて五つに引き裂かれて物言わなくなってしまうのだろう。
いつかのルビア=レッドルーツのように。
ルヴィはもう俺に何も教えてはくれない。
もう何も、俺には物を言ってはくれない。
だが、何も問題はない。
500円硬貨を親指で打ち上げる。
クルクルと回転をしながらそれは狙った通りに天井から1㎝下まで打ちあがり、そこで上昇をピタリと止めると、同じようにクルクルと回転をしながら落下してくる。
目を細めそれを視る。
『表』と『裏』と何度も回転し裏返り続けながらそれは手元に戻ってくる。
『表』。『裏』。『表』。『裏』。
『嘘』と『誠実』。
幾度も繰り返される裏返し。ゆっくりとそれが視える。
銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%のニッケル黄銅製のその硬貨は、『表』だろうが『裏』だろうが、その価値も7.0gの重さも変わらない。
どちらを上にしてその硬貨を差し出しても、金銭的価値500円というその力は変わらない。
落下してきた硬貨が、口を開いて手のひらに持っていた小銭入れの中へと落ちる。
着地の瞬間手を下げて衝撃を殺しそのまま小銭入れを閉じてポケットに突っ込む。
隠れた硬貨が『表』と『裏』、どちらだったのかは確認する必要がない。
どちらでも同じだからだ。
こんな思考にも意味がない。
要は『上手く』やればいい。
そうだろ? ルヴィ――
『誠実』に『嘘』を吐き続ける。
『嘘』とは。
『世界』がその身を分け与え、生まれ落ちた人間に許し能えた『加護』なのだから。
――教室へと戻り、待っていた二人に『お礼』をくれてやる。
希咲にパックを下手で放ってやり、水無瀬には缶を手渡す。喜びと感謝に喚く水無瀬と、危なげなくキャッチした割に文句を言ってくる希咲を無視して席に座る。
午後の授業で使う予定の教材を取り出しながら彼女らを視る。
缶を開けた水無瀬と紙パックにストローを刺した希咲。
缶の飲み口に水無瀬 愛苗の、刺したストローに希咲 七海の、それぞれの唇の肉が押し当てられ、少しだけ形を変えた彼女らのその下唇と上唇の隙間を通って、容器の内容物が咥内へと侵入し、その細く白い首の中を通る喉を流れ落ちて、嚥下したものは彼女らの体内の奥へと這入り込む。
それを視て俺は興味を失い、作業に戻る。
やはり、『違う』のだ。




