序章05 間接正犯 ②
幻影を振り払うように頭を軽く振って切り替えながら、聞き覚えだけはよくあるその声がした自身の左隣へと弥堂 優輝は顔を向ける。
いつも通り視線を遣ることで以って返事としようとしたのだが、声の主である彼女――水無瀬 愛苗の隣に立つ過保護な親猫が、獰猛な唸り声でも聞こえてきそうな威嚇の眼差しを浴びせかけてきているのも同時に視界に入り、嘆息混じりに相手の名前を呼ぶ。
「なんだ、水無瀬」
名前を呼ばれる。ただ、それだけのことがまるで特別なことのように、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。彼女にしては珍しく俊敏な動作でシュバっと右手を上げ
「はいっ、水無瀬 愛苗ですっ!」
「知ってんだよ」
元気いっぱいにお返事をする水無瀬が理解不能すぎて、つい無駄な口をきいてしまったことを弥堂は強く悔いた。用件を言うように視線で水無瀬を促したが、目が合った彼女はふにゃりと相好を崩して「えへへー」と笑うばかりで、埒があかないと判断した弥堂は親猫へと視線を移した。
「あによ」
親猫――もとい希咲 七海は、弥堂の視線に気づくとそれだけ言ってプイっと顔を逸らした。どうやら子猫の代弁をしてくれるつもりはないようだ。
ふむ、と顎に手を当てて考える。
彼女が――希咲が水無瀬の席まで来ているということは、廻夜の冗長で矢継ぎ早な台詞を頭の中で復唱している間に、昼休みが始まってから少し時間が経過していたのだろう。周囲を見渡せば教室で食事をとる生徒以外はもう学食などへ向かったようで、大分教室内の人数は少なくなっていた。
視線を戻して再び水無瀬と希咲を見遣る。この二人はいつも昼休みを共に過ごしている。教室でだったり、校舎屋上でだったり、中庭でだったり。これまでのパターンだとそのいずれかの場所で食事を共にするはずだ。このタイミングで自分に声をかけてきたということは、その用件と為り得るものの選択肢はそういくつもない。
弥堂は素早く眼球を動かし脱出経路を探った。
間違いない。厄介事だ。
最有力は『一緒に食事をとろう』だ。
一年生時は何かにつけ『弥堂くん一緒にごはんたべよ!』と水無瀬に絡まれたものだが、二年生に進級してからは、彼女と行動を共にする希咲が自分を嫌ってくれているおかげでその頻度は大分減った。が、ゼロではない。ゼロにはならないのだ。
自分が油断をしていたとミスを素直に認め、弥堂は周囲の状況確認を終えると頭の中に広げた校内MAPと照らし合わせ、セーフポイントまでの逃走経路を組み上げていく。が、
「お昼やすみですっ、弥堂くんっ!」
再びシュバっと手を上げて水無瀬が手遅れだと伝えてくる。ニコニコと随分と楽しそうな様子だ。
その隣に目を遣れば、腕組みをしながら、逃走する素振りを見せれば即座に噛み殺すと、そう言わんばかりの眼光で睨みつけてくる希咲がいる。
すると、そんな様子の希咲を手を上げたポーズそのままの水無瀬がじーっと見上げた。希咲の態度を咎めたわけでも疑問に思ったわけでもない。ただ弥堂の目線の動きに釣られただけなのだろう。
何を思うでも含みを持たせるでもなく、ただ自分をじーっと見つめてくる純真な眼差しに希咲は「ゔっ⁉」と怯んだように呻くと、やや逡巡しつつ、
「お、お昼休みよっ!」
シュバっと片手を上げて水無瀬と同じポーズをとった。そのお耳は真っ赤だ。
水無瀬さんはニッコリした。周囲の生徒さん達もニッコリした。弥堂はこれまでのデータにはない行動をとった実験動物を注意深く観察するように慎重に希咲を視た。
彼女はその大きな猫目をグルグルと回しながらしばしそのままのポーズでいたが、段々と押し寄せる羞恥に耐えられなくなる。「うぅっ」と情けない声を漏らしてからヘナヘナと萎れるように脱力をし、七海ちゃんはその場にしゃがみこんで膝を抱えてしまった。
それでも、弥堂に背を向けて窓側の壁を向き、決して安易に男の子に下着は見せないという意志だけは健在だった。
水無瀬はそんな親友の挙動をじっと見守ってから、「お昼やすみだよっ、弥堂くん!」と繰り返した。使い物にならなくなった相棒は捨て置いて、自らの目的を遂げることにしたようだ。
弥堂はそんな彼女の精神性とその強度を見て、水無瀬 愛苗に関する評価と危険度を脳内で一つ上方修正し、同時に希咲 七海の評価を一つ下げた。先程より若干気安くなった水無瀬の口調に脳内で警報が鳴り響く。
「あ、あのね……」
弥堂の内心など露知らずの水無瀬は今度は突然胸の前で両手の指を絡ませて視線を俯けると身を捩り始めた。
弥堂は挙動不審な水無瀬の様子に警戒心をより一層高め、彼女が目線を外した隙に悟られぬよう軽く椅子を引き僅かに腰を浮かす。慎重に様子を見ながらも重心をつま先へと移し、いつでも席を立てるよう準備をした。
水無瀬は言葉を探すようにしばし自分の絡ませた指の動きを見つめ、やがて意を決したように口を開く。
「あの、ね? 弥堂くん、今日は学食の予定だったり、するのかな……?」
「…………」
弥堂は即答はせずに上目でこちらを見つめる水無瀬の様子を注意深く観察をした。
いつものように無視をしたわけではない。だが、真意が掴めないため受け答えは慎重にするべきだと判断した。わずかなヒントも逃さないよう、油断なく水無瀬の全身を視界に収めながら、出来るだけ多くの情報を集め脳内で整理していく。
(どういうつもりだ? 学食だったら何だと言うのか、学食でなかったら何だと言うのか……どちらにせよ、いつも通り目的は食事を共にすることか?)
今までの傾向から言って昼休みにこうして声をかけられる時の用件は二つだ。一つはくだらない世間話。もう一つは前述した食事を共にすること。いつも世間話を求められる時は希咲と合流する前に仕掛けられる。よって今日の様子から見ると後者だろう。もしくはそのどちらでもない特殊なパターンか。
抜本的な問題に目を向ける。
(何故俺に干渉する? こいつは、一体何が目的だ…… )
二年生となってからは頻度は減ったとはいえ彼女から食事に誘われることは、彼女と出会ってから今まで幾度もあり、そしてその誘いにこちらが乗ったことなど一度もなかった。いや、一度だけあった。
声をかけられ始めた一年生の時分で、席が元々隣同士なこともあって、自席で食事を摂るならば同じことだと了承をしたことがあった。だが、その一度だけでその後はすべての誘いを断っている。
それは普段の挨拶や雑談に関しても同様だ。最初は話しかけられても無視をしていた。事務的な受け答えはするが、必要のない馴れ合いには付き合わない。それが弥堂 優輝が全ての他人に対して引いている『線』であった。そしてそれは正しく機能していた。この目の前の水無瀬 愛苗以外の人間には。
通常、『普通』に考えて。それが弥堂でなかったとしてもだ。他人に冷たくされたり興味を持たれなければ、それでその人物とは距離を置くはずだ。水無瀬のように友好的に接触をしてきたのに、そういった気のない対応ばかりをされればそれはよりその公算を大とするであろう。逆に反感・怒りなどの悪感情を抱いたとしてもおかしくはない。
(だがこの女は、水無瀬 愛苗は違う)
どれだけ冷たくされようとも、無視をされたとしても変わらない。何も変わらない友愛のように見える感情でその大きな丸い瞳を輝かせたまま、何も変わらず呼び掛けてくる。それは――
それはとても『異常』なことだ。
水無瀬 愛苗の『異常性』を思い、弥堂は彼女の肘周辺へと目を向ける。紺色の制服のブレザーを着用しているためその下に隠された肌は見えない。
(夏服の時に確認はしたが薬物の注射痕などはなかった――が、)
視線を彼女の顔に移す。
(顔面はやや紅潮をし眼球は多少潤んではいる、が、瞳孔の動きなどは正常の範囲……暴徒や狂信者のような正気を失っている者特有の瞳の色はない、そのようには視える……)
しばし水無瀬の瞳孔の動きを観察する為に視線を合わせていると、彼女は内腿を擦り合わせるように身動ぎをした。弥堂は不審の目を強めた。
(む、なんだ? 今の動作は? ……何故重心を不安定に揺らす必要がある? 何かの予備動作か……?)
弥堂以外の人間が見れば、満場一致で恥じらう乙女の仕草にしか見えない、そんな様子の水無瀬の体勢から繰り出せる有効的な攻撃行動の予測を立てていく。弥堂はチラっと水無瀬の右隣へ視線を送った。
そこには未だこちらに背を向けて蹲ったままの希咲が居る。
(この女の運動能力は厄介だが、この盤面からならば先手をとれる)
自分が決定的に不利ではないことの確認をとりながら次は水無瀬の左側へと目を遣る。水無瀬の背後の窓は全て閉ざされていた。
(まずは希咲へ向けて机を倒す、その後水無瀬の左側面へと周り、運動神経皆無のこの女を希咲への盾としながら、そのまま背後の窓をぶち破り階下へと降りる。着地後すぐに一階の窓を破壊し再び校舎内へと入れば死角は作れる。向かう先は事務棟だ――)
学園の風紀を守るべき立場である風紀委員会所属のその男子生徒は、学園の備品である窓ガラスを破壊した後に、二階から飛び降りるという危険行為を行った挙句、あろうことかご休憩中の先生方のいらっしゃる職員室を避難場所とすることを即座に決断した。
机の上に置いていた腕をさりげなく移動させ天板の端を掴む。浮かべたプランを実行すべく机を持ち――




