第一章 疑惑 ~陸上選手・伊田~
あらすじ
伊田俊介は病的に勝つことにこだわる、陸上選手。
不慮の事故で片足を失った伊田だったが、義足の陸上選手として事故の前よりもタイムを伸ばし、オリンピック出場候補の健常者選手よりタイムが早くなっていた。
やがて、義足選手としてオリンピックに出場するという前代未聞の報道も飛び交うように。
そんな伊田のスキャンダルをとってこいと命を受けた週刊ワイドスパの記者・鮫島は、伊田が義足になるために偽装事故を仕組んだのではないかと考え始める。
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登場人物
鮫島郁夫(34)『週刊ワイドスパ』記者
伊田俊介(21)(7)(14)(17)スプリンター
真野桜子(22)『週刊ワイドスパ』記者・鮫島の後輩
川畑春樹(21)スプリンター
桑原信之(20代)テクニカル・スポーツ社員
上妻夏海(19)伊田の彼女・読者モデル
棚橋昌哉(17)伊田の高校時代の同級生
伊田孝明(42)(30)(31)(38)伊田の父親
伊田芳江(44)(29)伊田の母親
坂上竜哉(53)『週刊ワイドスパ』編集長
谷口慶介(20)伊田の部活仲間
時本翼(21)伊田の部活仲間
堀越巧(35)伊田の高校時代の部活顧問
栗原愛(24)キャバクラ嬢
異様な光景だった。
周囲で練習に励む三郷国際大学の陸上部員たちには目もくれず、伊田は時本栄治と対峙していた。
時本とは、高校、大学と、ずっと一緒に陸上をやってきたわけだが、伊田は馬が合ったためしがない。
慣れ親しんだ陸上トラックで、時本と睨み合い、取っ組み合ったのも、一度や二度ではなかった。
対等な喧嘩と言うよりは、時本が異常に腹を立て、喧嘩を吹っ掛けてくる時のほうが多いし、どちらかと言えば被害者だ、とさえ思う。
伊田を睨む時本の醜く歪んだ口元は、「は?」とだけ、言葉を発した。
陸上の才能もないが、残念ながら理解力にも乏しいらしい時本に、仕方なく、懇切丁寧に説明してやる。
「だから、俺が今からそこで走るから、どいてくれる?」
自分より無能なスプリンターから練習の邪魔をされるなど、もってのほかだ。
「見たら、わかるやろ? こっちだって今、練習してんねん。お前こそ、俺の練習の邪魔すんなよ。なんで俺がお前なんかのために……」
冷静を装おうとしているが、語尾や語調から明らかな怒りが感じ取れる。今にでも歯軋りを始めそうな、時本の険しい面持ちは般若を想起させた。
申し訳ないが、時本の話にも、怒りにも興味はない。
時間の無駄。用件は伝えた。早くどいてくれ。
「あのさ」と時本の脇が甘い無駄話のジャブを封じると、剥き出しの言葉たちがカウンターとなって、時本を殴った。
「速い奴優先で使わせてくれんじゃねぇの? こういうのって」
ワナワナと震え始める時本の顔を見て、また一発KOを出してしまったようだ、と理解する。
ここからは、また、お決まりのパターンだろう。
時本は伊田の胸倉を掴むと、「お前、いい加減にしろよ!」と凄んだ声を出す。
これで、威嚇しているつもりなんだろう。こいつは。
浅はかな時本の考えが、レントゲンで取るように正確に読み取れて、相変わらず退屈な男だ、と呆れた。
「俺を舐め腐りやがって!」
時本は必要以上に、声だけはでかい。
体育会の世界で生きていく上で、時本が身に付けた唯一の秘技なのだろう。
だが、やはり、秘技さえも、使いどころを間違えている。
時本の声に、周囲で練習していた部員たちが動きを止めている。
伊田だけでなく、他の部員たちの練習の邪魔もしたいらしい。
「義足のクセして、偉そうに!」
義足?
何を言い出すかと思えば。
伊田の頬が緩んだのを知ってか知らずか、時本は少し冷静になって、嘲笑うように続けた。
「お前、本気でオリンピックに出る気なん?」
「当たり前だろ。むしろ俺以外に誰が出るんだよ」
「お前なんか、無理に決まってるやろ!」
「負け惜しみは止めとけよ。見苦しいぞ」
「お前みたいな障害者には無理や、って言ってんねん!」
時本が吐き出した言葉に含まれた矛盾に、伊田は思わず鼻で笑った。
「じゃあ、その障害者の俺に、無残に圧倒的に負けてるお前って、いったい何なの? ゴミ? クズ? それ以下?」
時本は目を見開き、怒りで体が震えている。
「ギャーギャー喚くなよ。負け犬のクセに」
胸倉を掴む時本の手は一向に伊田を解放してくれそうにない。
それどころか、時本の手の力は増し、伊田の首をさらに絞め上げた。
「なんやと、この野郎!」
時本は鬼の形相で、言葉と共に、拳を伊田に向けて振り被った。
磁石のように、一斉に周囲の部員たちに取り囲まれた時本は、伊田から一気に引き離される。
少し遅れてきた磁石の如く、伊田と時本に慌てて駆け寄るのは、陸上部主将の川畑春樹だ。
川畑は短髪黒髪、健康的で大柄な体格の持ち主で、駆け寄る姿にも、主将の風格があった。
「お前ら、何やってんだよ!」
伊田と時本を見比べながら、川畑は険しい顔で怒鳴った。
また面倒な奴が絡んできたと、伊田は辟易とする。
怒りの収まらない時本は、羽交い絞めにされながらも、伊田に叫び続けている。
「どれだけ速くても、お前は障害者なんや!」
「障害者だろうが健常者だろうが、そんなことはどうでもいい。俺は誰よりも速いんだから」
そう、俺は速い。誰よりも。
誰が俺の速さを否定できる? 否、できない。
俺には、俺の絶対的な速さを証明してくれる、記録、という切り札がある。
この切り札がある限り、俺は、世界中のどこでも、誰とでも、戦える。
伊田に怖いものなど、何もなかった。
「遅い奴より、速い俺に練習場所を提供するのは、当然なんだよ、ノロマが」
「いい気になりやがって! ふざけんな!」
伊田に殴り懸かろうとする時本より先に手が出たのは、川畑だった。
「速けりゃ何でも許されると思うなよ!」
伊田の胸倉を掴んで怒鳴る川畑の顔は、紅潮していた。
「許されんだよ。勝つか、負けるか、俺たちは、そういう世界で生きてんだから」
「なんだと……」
至近距離で睨み合いながら、伊田は、川畑とも、一度たりとも馬が合ったことがない事実を思い出す。
時本は無能な馬鹿で苛々するが、アスリートの鑑のような顔をしている川畑にもヘドが出る。
主将としての立場がそうさせるのか、川畑は陸上選手としての実力より、部内での和や、伝統、礼儀などを部員たちに強く求めるきらいがあった。
俺たちスプリンターは、勝たなければ、存在意義さえない。
慣れ合いたいだけなら、俺の目に触れない所でやれ。伊田は心の底から思った。
怒りにも似た感情だった。
「勝つことが全て。そのために必要なのは、速さだけだ」
「違う」と鋭利な刃物で刺すように、川畑は即答する。
だが、直後に続いた言葉たちは、すっかり主将の威厳を取り戻していた。
「周りのサポートだよ。それありきのタイムであって、お前なんだ。だからこそ、周りがサポートしたくなる人間になる必要があるんじゃないか?」
やはり時間の無駄だったようだ。
最後まで話を聞き終えると、伊田は、川畑の耳元で嘲笑うように囁いた。
「お前が人間性を磨いてる間に、俺はもっと速くなる」