第一章 疑惑 ~週刊記者・鮫島~
あらすじ
伊田俊介は病的に勝つことにこだわる、陸上選手。
不慮の事故で片足を失った伊田だったが、義足の陸上選手として事故の前よりもタイムを伸ばし、オリンピック出場候補の健常者選手よりタイムが早くなっていた。
やがて、義足選手としてオリンピックに出場するという前代未聞の報道も飛び交うように。
そんな伊田のスキャンダルをとってこいと命を受けた週刊ワイドスパの記者・鮫島は、伊田が義足になるために偽装事故を仕組んだのではないかと考え始める。
東京からこんなところまでわざわざ出向いたのに、俺は陸上トラック脇の窮屈な取材スペースに押し込められていた。
目の前のだだっ広い陸上トラックでは、陸上部員たちがハードル、走り幅跳び、砲丸投げなど、各種目の練習で自由に動き回っている。
しかし、俺がいる取材スペースに自由はない。狭い割に人口密度が高過ぎる。
さっきからずっと、背後に立つ中年オヤジ記者の荒い息が俺の首筋に噴き掛かってくるのも不愉快だった。
目の前で動き回るのが筋肉隆々の男臭い男たちばかりという事実にもげんなりとしてしまう。
こんなところまで来て、俺はいったい何を見せられてるんだろう。
せめて、太腿をガッツリ出した女子大生ランナーでもいてくれれば、こっちのモチベーションも上がるのに。
女子部員も、いるにはいた。
だが、全員マネージャーのようで、服装はご丁寧に上下長袖のジャージで統一されていた。
ああ、帰りたい。
だが、取材スペースで隔離されている俺たちは身動きを取ることすらままならなかった。
なんという不条理。俺たちは檻に入れられた家畜かよ。
家畜を管理するかのように、俺たち記者は全員、黄色いプレス用の腕章着用を義務付けられている。あとは、出荷の時を待つだけだ。
同じく出荷の時を待つように、トラックのスタート地点に横一線でズラリと並ぶスプリンターたち。
その中に、いる。
伊田俊介だ。
伊田はアルファベットのJのように曲がったカーボン製義足を右脚の大腿部から装着し、他の健常者選手たちと共にスタートの瞬間を待っている。
睨むようにゴールを見る伊田の姿は、スプリンターそのものだった。
ピンと音がしそうなくらい、周りの空気は張り詰めている。
位置に着いてから合図までの時間は、短くて、長い。
笛の音が鳴った。スプリンターたちは一斉に走り出す。
ゴールに向かって銃弾のように走り抜けていく。
伊田は自分の脚のように軽やかに義足を使いこなし、トップを走っていた。
他の選手と僅差ではあるものの、ゴールまでに伊田との差を埋めることは誰もできないのだろうと素人目でも理解できた。
やはり、伊田は速い。
結局、そのままトップでゴールした。
取材スペースで犇めく周囲の記者たちが、シャッター・チャンスと言わんばかりに、これでもかと一斉にカメラのシャッターを切り始めた。
伊田はそんな必死な大人たちの対局にあるような涼しい顔で、まんざらでもない笑顔をカメラに向けている。
アイドルかよ。
生理的に何かが受け付けなかった。
俺は、今朝コンビニで買った週刊誌に視線を落とす。
伊田に関する情報はほとんど、週刊誌に載っている記事の受け売りだ。
気付いた時には、様々な週刊誌のおかげで、なんとなく鼻につく程度には伊田の予備知識が身に付いていた。
手元の週刊誌の誌面には、輝かしい経歴と共にデカデカと伊田の写真が載っていて、やっぱりまんざらでもなさそうに、アイドル気取りで笑っている。
この雑誌、大学構内でこれ見よがしに捨ててやろう。
週刊誌を睨みつけながら、強く心に決めた。
緑、緑、緑。
山、山、山。
素晴らしいくらい、大学の周りには見事に自然しかない。田舎臭い。
田舎嫌いなはずの俺が、伊田のために、こんなところまで来てしまった。
奈良も良く知らないが、三郷は、もっと知らない。
あと、この三郷国際大学。名前からしてダサイし、臭い。
ド田舎のくせして、『国際』なんてワードを付けるセンスも田舎者特有だ。
さぞ大自然に囲まれた豊かで、大自然しかない素敵な田舎なのだろう。
田舎に来ると、俺のずば抜けて都会的な私服センスが浮くので困る。
オシャレと勘違いしている田舎のヤンキーとはわけが違うのだから。
そんな俺が、この田舎の中心のような大学内の陸上トラック脇に用意された取材スペースに行儀よく収まっている姿は滑稽に違いない。
俺は、少しでもこんな何もない田舎に来ている事実から目を逸らそうと、セブンスターに火を付けた。いつも通りの味に少しほっとして、なんとか気分が安定してくる。
隣にいる桜子は、華奢な体つきに似合わないゴツイ一眼レフカメラを両手で持ち、新人記者のくせに、煙草を喫う大先輩の俺を煙たそうに見ている。
煙草は体に悪い、らしい。
お前は俺の母親か。
こんな面倒くさそうな女を押しつけてくる坂上もひどいが、俺の下につくことに対して最初から不満気だったこいつも、同罪だろう。
このガキが俺を微塵も尊敬していないことくらい、わかっている。
だが、俺は大人だ。ガキと違って、ガキに自分から歩み寄る寛大さを持っている。
「真野ちゃん、調子どうよ? いい写真、撮れそう?」
俺は桜子にかなりポップに、かつ優しく語り掛ける。
「鮫島さんの下にいる限り、無理ですね」
前言撤回。
にこりともせず即答しやがって。
こんなガキに歩み寄ろうなどと二度と考えるものか。
できる男は軌道修正も早い。
俺は顔をしかめ、意地悪く言ってやった。
「いつになったらできるようになんだよ」
「鮫島さんこそ、いつになったら真面目に取材するんですか?」
なんて失礼な奴だ。
俺の顔すら見ずに、ずっとカメラいじってるし。
「真面目にやってたから、この前だって、アイドルのホテルでの密会が撮れたんだぞ」
少し意地になってしまった。落ちつけ俺。
「本当にそんなことで、いいと思ってるんですか?」
やっと俺を見た桜子の顔は、険しい。
もはや面倒くさくなってきた俺に、桜子はもの凄い剣幕で責め立てた。
「ジャーナリストとして、恥ずかしくないんですか!」
お前ごときがジャーナリストの何を知ってんだよ。
てか、俺、別にジャーナリストだと思ってねぇし。
呆れ果てる俺に構わず、桜子は続ける。
「私は不条理な社会の真実を追求したいんです! ジャーナリストとして!」
声がデカいんだよ。
ほら、近くの記者も驚いてるだろ。
「アイドルの性癖の追求とかじゃ、ダメなの?」
「ダメに決まってるでしょうが!」
茶化して鎮めようにも、しかめ面で大真面目に即答する真野を見る限り、熱血ジャーナリスト・モードは収まってくれそうにない。
「愛の真実を追うってのも、いいもんだぞ」
「性愛の真実の間違いですよね?」
最終的にやはり歩み寄ろうとした俺の大人の男としての努力は、空気の読めない鉄人女の前で儚く砕け散った。
真のジャーナリズムとやらを追い求めるためにうちに入社した桜子は、ジャーナリズム精神の欠片もない俺に嫌悪感を抱いているらしい。
何がジャーナリズムだ。笑わせるな。
女でも男でも、自分の正義を押しつけてくる奴は面倒くさい。
芸能人の不倫スキャンダルばかり追いかけていると、しばしば自分の正義を過信する馬鹿に出会う。馬鹿同士で己のツギハギの正義を主張し合い、みみっちい陣取り合戦を繰り返す姿は痛々しいものだ。
自分だけの正義が万国共通の正義だなんて烏滸がましいことを何の疑いもなく信じられるそいつらや、桜子が羨ましいとすら思う。
正義なんていつでも逆転するし、真実は一つじゃない。誰かにとって都合のいい物語の中で、いつ何時も作り変えられるものが正義であり、真実なのだから。
この伊田の一件だって、真実を追求するのが仕事じゃない。
編集長や俺にとって、都合のいい真実を捏造することと捏造するために必要な材料を掻き集めることこそが俺の仕事だ。
そうすりゃ、確実に金が入る。この世で信じていいのは正義じゃない。金だ。
青臭いガキの桜子には、まだこの社会のシステムがわかってない。
俺たちは、ジャーナリストである前に、サラリーマンなんだよ。
サラリーマンだからこそ、俺たちは今ここにいるわけで。
伊田は、誇らしげに報道陣の前に立っている。
奴のこういうところが、俺は嫌いなのかもしれない。
「次回のパラリンピックで優勝は間違いなしの呼び声が高いですが、ご自身としては、いかがでしょうか?」
いかにもスポーツ誌で記事を書いていそうな、爽やかでシュッとした記者が、伊田に質問を投げ掛ける。
「どうでもいいっすね。俺、オリンピックしか目指してないんで」
スパッと音が聞こえてきそうなくらい切れ味抜群で迷いのない伊田の返答に、驚嘆のどよめきが上がる。
記者たちは嬉々として狂ったようにカメラのシャッターを切りまくった。
「義足でオリンピック出場を果たしたオスカー・ピストリウス選手って前例もありますし、金メダルを獲る自信だってありますよ」
伊田は、聞いてもいないのにベラベラと続けた。
こいつの自信は、いったいどこから来るのだろうか。
そもそも義足でオリンピックなんて、現実的な話なのか? 義足選手がオリンピックに出るなんて、想像もつかない。
てか、オスカー・ピストリウスって、誰だよ?
カシャカシャうるさい。シャッター切るな。馬鹿な記者ども。
そんな記者どもの先陣を切るのは、桜子だ。
隣で忙しなくシャッターを切っている。
なんだよこいつ、カメラ使いこなしてるじゃねぇか。
だが、今の俺にとっては騒音でしかない。うるさいので止めさせようと桜子のレンズの前で中指を立てる。
案の定、桜子は、あからさまに嫌そうな顔で俺を睨む。
「鮫島さん、お願いですから、仕事してください」
俺は、面倒になって視線を手元の週刊誌に移した。
適当に開いた誌面では、人気イケメン俳優Sと若手女優Nのお泊りデートを報じている。
忘れかけていた自分の得意分野を思い出し、ハッとした。
スキャンダルの糸口は、いつも〝女〟だ。