第一章 疑惑 ~新人記者・桜子~
あらすじ
伊田俊介は病的に勝つことにこだわる、陸上選手。
不慮の事故で片足を失った伊田だったが、義足の陸上選手として事故の前よりもタイムを伸ばし、オリンピック出場候補の健常者選手よりタイムが早くなっていた。
やがて、義足選手としてオリンピックに出場するという前代未聞の報道も飛び交うように。
そんな伊田のスキャンダルをとってこいと命を受けた週刊ワイドスパの記者・鮫島は、伊田が義足になるために偽装事故を仕組んだのではないかと考え始める。
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登場人物
鮫島郁夫(34)『週刊ワイドスパ』記者
伊田俊介(21)(7)(14)(17)スプリンター
真野桜子(22)『週刊ワイドスパ』記者・鮫島の後輩
川畑春樹(21)スプリンター
桑原信之(20代)テクニカル・スポーツ社員
上妻夏海(19)伊田の彼女・読者モデル
棚橋昌哉(17)伊田の高校時代の同級生
伊田孝明(42)(30)(31)(38)伊田の父親
伊田芳江(44)(29)伊田の母親
坂上竜哉(53)『週刊ワイドスパ』編集長
谷口慶介(20)伊田の部活仲間
時本翼(21)伊田の部活仲間
堀越巧(35)伊田の高校時代の部活顧問
栗原愛(24)キャバクラ嬢
私――真野桜子は、新幹線で大阪へ向かっていた。
車窓から見える風景は、もうしばらく、同じ画家が描いたような変わり映えのない田圃ばかりが続いている。
久しぶりの遠出に、少し気合いを入れ過ぎてしまった。
読んでいる手元のジャーナリズム論の文庫本から、さらに視線を落とし、自分の高めのヒールをチラリと見る。
最終目的地は奈良だが、新幹線は停まらないので、新大阪で降りて乗り継がなければならない。
どうして奈良には新幹線が停まらないのだろう? ふと、そんな疑問が浮かぶ。
私は奈良が好きだ。中学の頃の修学旅行で一度、行ったきりなのだけれど。
日本有数の観光地なのに、どこかのどかで、奈良だけでしか感じられない時間が確かに流れていた。
良く言えば、落ち着きがある、悪く言えば地味な奈良の街並みや風景に、どこか自分を重ねていたのかもしれない。
久々に訪れる場所は、一種のタイム・カプセルだと思う。
奈良に行けば、修学旅行で奈良を訪れていた遠い昔の自分に、もう一度、会えるような気がしている。
普段は地味な私が、いつもよりオシャレに気を遣った理由も、昔の自分にちょっぴり見栄を張りたかったからかも。
社会人になり、仕事として、また奈良の地を訪れた自分を、まだ何者でもなかった過去の自分に見せびらかしてやりたかったのだろうか。
大人気ない自分に心底、呆れてしまう。
ぼうっと眺めていた田圃の風景が突如、遮断され、砂嵐の代わりに真っ黒な無の闇が現れる。どうやらトンネルに入ったようだ。トンネルの中特有のゴウゴウと、鈍い音がする。
真っ黒な闇のおかげで車窓に映し出された不意打ちの自分の顔は、やはりまだ大人になりきれていない。車窓に映る過去の自分に、もっと大人になりなよ、なんて嘲笑された気がした。
生意気な過去の自分に反論しようとしたのに、車窓はまた突如、田圃の風景に切り替わった。
「ありがとう」
隣の鮫島は爽やかな笑顔で、パーサーから購入したお茶を受け取っている。
几帳面にスーツを着こなす鮫島の様は、いかにもなサラリーマンだ。その分、個性的な色使いで目を引くネクタイは、品のあるセンスを感じさせ、適度に遊び心を演出している。
だが、見た目ほどまともな男ではない事実を、同伴者の私は、よく知っている。
どことなくチャライし、軽いし、いい加減で、何よりジャーナリストのクセにジャーナリズム精神の欠片もない。
「小学校の教科書よりレベル低そうな本を読んでるな。何の飯の種にもならなそうだが、そんなもん、面白いのか?」
鮫島が、私の手元にあるジャーナリズム論の本に焦点を合わせている。
小学校の教科書? これは私のバイブルなのに。
「鮫島さんに侮辱される筋合いありません。大体、どんな本読もうが私の勝手ですよね?」
自分で話を振っておいて、鮫島は興味なさそうにスマホに視線を落とす。
いったいなんなの、この男は?
すぐに鮫島よりもいいネタを撮って、こんなやつの部下なんて卒業してやる。
「あの、鮫島さんって、なんでジャーナリストになったんですか? 適性ゼロの欠格者にしか見えないんですけど」
苛々した口調で、ずっと気になっていた疑問をぶつけてみた。
鮫島はあからさまに嫌そうな顔をする。
「失礼な奴だな。別に俺ジャーナリストじゃねぇし。でもまぁ、こんな仕事やってんのは、人の不幸が好きだからだろうな」
鮫島は、にんまりと笑う。私にはとても下品な笑顔に見えた。
「やっぱり適性ゼロですね」
鮫島なんかに聞いたのが間違いだった。
「正義って、あると思うか?」
呆れ返る私に、鮫島は唐突に妙な話を振ってくる。
少し面喰らいながら、私は鮫島に食らいつくように言葉を浴びせた。
「当然です。正義こそがジャーナリズムの目的なんですから」
そう、正義を実現する行為こそがジャーナリズムだ。私は何があろうと、正義を実現する。正義のためなら、それ以外の何かは全て切り捨てていい。
それが、真のジャーナリズムだし、ジャーナリストのあるべき姿だと思う。
「その正義が誰も不幸にしないって、言い切れるのか?」
「もちろんです。正義は皆を幸せにするために存在してるんですから」
正義が誰も不幸にしないなんて、当たり前だろう。だから、正義は正義なのだ。
正しいことは正しい。間違っていることは間違っている。
これほどわかりやすいことが、これ以上あるだろうか?
「誰かの不幸が俺たちの飯の種なんだよ」
鮫島の発言は、全くもって、私には理解できない。
鮫島と話していると、こっちまでおかしくなりそうだ。
正義は私が証明して見せる。
私が正しいのだと、このいい加減男の鮫島にわからせてやらねば。
「正義は、あります」
これは、鮫島への宣戦布告だ。
まもなくの新大阪到着を知らせるアナウンスが流れる。
場の空気が一気に溶け出し、周囲の客たちがいそいそと降りる準備を始めた。
私の宣戦布告など興味なさそうに、鮫島も荷物を纏めている。
「とにかく、実戦あるのみだ」
実戦? 何を偉そうに。
「戦いながら、自分なりの戦い方を身につけることだな。今のお前は丸腰だ。自分は正しいんだって大声で叫びながら銃撃戦に飛びこんで行っても即死する。自分が本当に正しいと思うなら、それを証明する強さ、つまり武器が必要だ」
偉そうな鮫島に辟易としながらも確かにそうかもしれないと思っている自分がいる。
でも、私の武器って何?
「今のお前の武器は、これだけだ」
鮫島は、鞄から取り出した一眼レフカメラを私に押しつける。
カメラはずしりと重かった。
真っ黒な液晶画面に映る困惑した顔は、過去と現在、どちらの自分だろう?